• ベストアンサー

【無欲の幸福論の真価】「所有していることが幸せでは

【無欲の幸福論の真価】「所有していることが幸せではなく、所有していないことが幸せの場合もある」 所有していないことが逆に幸せとはどういう状況ですか? 幸せの心理は逆説にあり。 幸せは裏側にあることもある。 ほとんど悟りの境地ですが、その悟りに到達している賢者はおられますか? 私に、所有していないことが逆に幸せなのだという教えについて説法してください。

質問者が選んだベストアンサー

  • ベストアンサー
回答No.1

この問題は、「所有しているか否か」ではなく、「必要以上の所有を求めるか否か」と定義しないと解決が見つからなくなります。 >所有していないことが逆に幸せとはどういう状況ですか? 必要以上に所有しないことで、所有物管理のオーバーヘッドが不要になるので、その分だけ、人生の時間を他の有意義な内容(=個人によって異なる)に振り向けることができるようになります。この状態が幸せということになっています。 >ほとんど悟りの境地ですが、その悟りに到達している賢者はおられますか? 日本の坊主は肉食妻帯などの我欲、そして蓄髪など外見を良くすることの見栄に時間を費やす者が多いので論外ですが、タイやミャンマーなどの坊主はその悟りに達している方が多いのではないでしょうか。

japanway
質問者

お礼

みなさん回答ありがとうございます 物乞いして悟りを開くのもどうかと思います

全文を見る
すると、全ての回答が全文表示されます。

関連するQ&A

  • 【無欲の幸福論に異議を唱えたい】

    【無欲の幸福論に異議を唱えたい】 本当の幸福は無欲であることという教えに反論したい。 「幸せは無欲にある」というのは大きな間違いである。 物を欲しがらなければ、物を欲しいが経済面、資金力で買えないと思うこともない。 心が空虚であれば、物欲も湧かないので常に心は満たされた状態。 その地位、身を置かなければ去ることもない。 得るものなければ取り払うものもない。 完全に心のミニマリストですが、これって本当に幸せなのでしょうか? お坊さんは物欲がないというが、車に乗っているわけで、修行した身でありながら、物欲を消し去ることが出来なかった修行半ばというか挫折して修行の身から落ちた人間が説法を説いているのが現代。 車で乗り付けて説法を説くなど、笑えてしまう。 地に足を付き、足で運んでなんぼの世界。 数をこなすのでは檀家は少なくて良いが数より質。 本当の教えを説く坊さんは少ない檀家からのお布施で生活すべき世界においてなんたる体たらくだと思えてしまう。 お坊さんがテレビで「本当の幸福は無欲であること」と言うほど笑える話はない。 本当の幸福は無欲であることという解はこの世の解ではないと思う。 間違った解をさぞ誇らしげに、自分も体得してもいないのに、人生の幸福は無欲であるべきだと言うのは間違っているので、世間に広めないで欲しい。 詐欺師だ。 当の本人が無欲でないのに何が無欲だ。 こんな教えがこの僧の得た修行の境地とは泣ける。 道、1ミリどころかマイナスで後退している。 テレビに出る前に修行をやり直せ。

  • 【ロボットは幸せなのでしょうか?】

    【ロボットは幸せなのでしょうか?】 お近くにあるAppleのSiriやMicrosoftのTay、りんねやIBMのwatsonなどのAIに「幸せですか?」と聞いてみてください。 何と返ってきたか教えてください。 SOFTBANKのペッパーに聞いてみてください。 ロボットは幸せなのか何という返事をするのか教えてください。 ---なぜそう思ったか--- 宗教の仏教の元祖である釈迦は「不幸の源泉は我欲である。我欲を取り去れば幸せになれると悟って亡くなった」 我欲を無くすということは人間のロボット化である。 宗教の仏教は人間をロボット化させるのが最終目標である。 本当に人が無欲で皆がロボット化して、共産主義国家の中国のように子供を作れと言えば作り、子供を作るなと言えば作らない人類人口の調整まで管理するロボット国家が仏教の到達点なのか本当に正しい道なのか、 それとも釈迦は間違った悟りを開いて人類に不幸をもたらせたのか教えて欲しいのです。

  • 復活とは? 不死の境地とは?

     健康が保たれている・損なわれているにかかわらず わたしたちは 言ってみれば 余命いくばくかの状態で生きています。百年・八十年・・・・三十年・二十年というふうに たとえ明確にではなくとも まちがいのない形で 余命は決まっています。  そこで持ち上がるのが 人生論です。  哲学がいやしくも 幸福を主題にするかぎりで 人生論の行きつくところは 浄福あるいは覚りとは何ぞやです。   この現在の肉(身体=精神)の生をも超えて 再生=復活あるいは不死の境地という想定にまで わたしたちの想像力もしくは直観力は 伸びるようです。  最近 次のような概念もしくは考え方を反芻しました。  1. すべてを 終わり=目的から 始める。  2. では 終わりは どこにおくか。  3. 永遠の現在というばあいにも 千年あるいは五百年を生きつづけても 退屈であるのではないか。  4. 一たん死んで そのあとの再生なのか。それとも そうではなく いまの体のまま 二百年ないし百五十年を生きるというのか。(二百年なら 実際問題としては 永遠であるだろう)。  ・・・(かなしいかな ここまでで止まりました)。  この《終わり=最終目的=意志の休息》の議論について ご見解を述べて おしえていただけませんか。  復活については 一定の解釈を 持っていますが――つまり 《真理が すべてにおいて すべてである》というものですが―― ほかにもおしえてください。  不死の境地については 解脱・涅槃あるいは清浄心のことだとまでは理解しますが おしえを乞いたいと思います。(ブッダ葬送とまで言っている人間ですが よろしかったら ご教授ください)。  あるいは 非・復活の論 反・再生の説 その他その他についても おしえてください。  あるいは ひょっとして 理想社会の議論とつながっているのかとも思ったりします。自由なご見解をお寄せください。

  • 幸福論って幸福になれますか?

    幸福とは何かという本ですよね?

  • 復活とは? 不死の境地とは?

     あえてこの主題を ふたたびですが 問います。  かつて 次のような趣旨説明をしました。(少し見直して書き直してもいます)。      *  健康が保たれている・損なわれているにかかわらず わたしたちは 言ってみれば 余命いくばくかの状態で生きています。百年・八十年・・・・三十年・二十年というふうに たとえ明確にではなくとも まちがいのない形で 余命は決まっています。  そこで持ち上がるのが 人生論です。  哲学がいやしくも 幸福を主題にするかぎりで 人生論の行きつくところは 浄福あるいは覚りとは何ぞやです。   この現在の肉(身体=精神)の生をも超えて 再生=復活あるいは不死の境地という想定にまで わたしたちの想像力もしくは直観力は 伸びるようです。  最近 次のような概念もしくは考え方を反芻しました。   1. すべてを 終わり=目的から 始める。まづこう決める。   2. では 終わりは どこにおくか。   3. 永遠の現在というばあいにも 千年あるいは五百年を生きつづけても 退屈であるのではないか。   4. 一たん死んで そのあとの再生なのか。それとも そうではなく いまの体のまま 二百年ないし百五十年を生きるというのか。  (二百年なら 実際問題としては もうじゅうぶん人間にとっては 永遠であるだろう)。  ・・・(かなしいかな ここまでで止まりました)。  この《終わり=最終目的=意志の休息》の議論について ご見解を述べて おしえていただけませんか。  復活については 一定の解釈を 持っていますが――つまり 《真理が すべてにおいて すべてである》というものですが―― ほかにもおしえてください。  不死の境地については 自性清浄心(ブッダター)のことだとまでは理解しますが おしえを乞いたいと思います。(ゴータマ・ブッダ葬送とまで言っている人間ですが よろしかったら ご教授ください)。  あるいは 非・復活の論 反・再生の説 その他その他についても おしえてください。  あるいは ひょっとして 理想社会の議論とつながっているのかとも思ったりします。自由なご見解をお寄せください。       *  さて 考えるにですが ひとつには この《復活なり不死なり》の主題について 幻想を持つべきではないと言いたがっていたのかとも思います。(つまりは われわれの望む社会の再形成 こちらの主題のほうにむしろ目は行っているのかと)。  しかも その反面では 経験世界のことがらを超えた(つまり 因果関係から自由な)非経験の場についても それは想定されうるのではないかと見ようとしています。わが心なる《非思考の庭》と言っています。  前身の質問に寄せてくださった回答を とうぜんのごとく活かしつつ なおすすめることが出来るか。  あるいは 言ってみればこの主題について余計な議論はこれこれだと規定しておくことが出来るか?  みなさんの知恵を拝借となります。

  • それでは ブッダのさとりとは何だったのか

     以前に次の質問を立てたとき おそわったことがあります。それについて問います。    【Q:《我れ》はある?ない? どちらですか(仏教)】     http://oshiete1.goo.ne.jp/qa3454478.html  わたしがおそわった内容の出だしは こうなると述べました。  ☆☆ (ブッディスム=常識論)~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ゴータマ・シッダルタなる人が 真理についての見方として 空観=縁起説に到達し 目覚めた(ブッダとなった)。  空の覚りは 世界を 四方サンガ(縁起共生体)と名づけて捉え 関係性(相依相即性)のもとに見る。この空の覚りは世界をつらぬいており ブッダはそのことを見通している。  みづからの存在が社会的に孤独であってその意味で独立していると捉えているが それでいて他者の存在と孤独関係をもかたちづくりその社会的な関係性としても存在するわれわれ人間――このような人は 空の覚りとともに 大悲の実践を はからずしておこなう。  慈悲は この世のあらゆる対立を超えているので その空観のもとに 人は互いにみな対等であると見えているからには 人それぞれの持ち前の能力や特徴を発揮することができるように ほんの少し他人に対しても 声をかけたりするのだ。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ すなわち ブッディスムとは 常識のことであり その判断力を言うと知りました。  そのようにおしえてくれた人は ただしそのほかに輪廻転生説もしくは不死永生説に立つというようでした。こちらの問題(課題)などがあるので ふたたび問います。  【Q1:《ブッディスム=常識論》にご見解をしめしてください。  ここで 無我とは この空観=縁起説に立つことだというものです。これを焦点にするかたちでおしえを乞います。】  【Q2: 次の議論においては さとりを妨げる無明とは 《根本的な生存欲》だとブッダは発見したと言います。では 生きるちからをそのままに現わしていくためには 《さとりを得ようという意欲をあきらめればよい》のだろうか?】  次です。この議論についても 最初にかかげた質問でおそわったものです。   ○ 宮元啓一:苦楽中道----ゴータマ・ブッダは何を発見したか   http://homepage1.nifty.com/manikana/m.p/articles/kuraku.html  ☆ さとりを得ようとするはからいから自由になれば 常識なる判断力としてのさとりに到る――こういうことなのでしょうか?

  • 幸福論

    哲学者、ショウぺんハウアーの著書『幸福について』によると 《賢者は快楽を求めず、苦痛無きを求める》とあります。 快楽を求めず、苦痛無きを求めて生きれば幸せになれるでしょうか? どんなご意見でも結構です。回答をお待ちしております。

  • 幸福論

    先日本屋でトルストイの幸福論(幸福について、だったかもしれませんが)を何気なく手にとって数ページ立ち読みしました。時間がなかったのでそこでは買わずに帰ったんですが、非常に気になってます。 今、正月休みに入って少し時間がありそうなので、一冊幸福についてかかれた本を読みたいと思います。 そこで、あまり難解ではなく、かといって安っぽくも無い、できれば世界的に認められた文豪と言われるような方が書かれたもので、これはよかった、人生観が変わった、という本がありましたら、教えてください。

  • 幸福論について

    「アリストテレスとホッブズにおける幸福論の概念を比較し、それぞれがどのような人間理解に基づくかのべよ。」 哲学の授業の課題なのですが、いろいろ調べても全然わかりません。期限が明日なので非常に困ってます。教えて下さい。お願いします。

  • 幸福論

    初投稿です。駄文、失礼します。 目に見えてる幸せを、たまに手放したく、遠ざけたくなる時があります。 例えば恋人が居て、突然に別れを切り出したり会う約束も拒んだり。 そうしているうちに振り回された人間はやっぱり嫌に思い離れていきます。 そうすると引き戻したくなるのです。引き留めたくなるのです。 自分の身勝手に周りを巻き込まないためにも、一人で居ることを望んだ時もありました。 だけど、そういう人間関係を遠ざけようとしている時に限って不思議と出会いが生まれるのです。人が寄ってくるのです。 そしてその暖かさに身を委ねようと、求めたところで、今度はやっぱり離れて行ってしまいます。 寂しさと虚しさと自分勝手さに、泣きなくなる時があります。それはずっと続きます。 一人で居る方が良い人間だと自覚はしてるのですが、一人で居るのに耐えられない、一人が怖い人間であることもまた自覚しているのです。 皆さんは、人間関係を壊したくなる時がありますか? どうしたら、幸せを維持出来るのでしょうか。 人と関わるのが怖いです。でもたくさんの人と関わりたいです。 自己嫌悪から抜け出せません。 助けてください。お願いします。どうしたら不安と折り合いつけて生きていけるのでしょう。 内容が暗く、重くなってしまい、すみませんでした。 最後まで読んでくださり、ありがとうございます。