- ベストアンサー
平和になり財政逼迫で、藩政上始末されるお土居下衆
テレビの時代劇ドラマでお土居下十七人衆というのがなかったでしょうか? お土居下衆って平安な時代になると常には任務としては全く何もない。 しかしそれにしても高禄であり、平和で財政が逼迫してくると、その高禄優遇に批判が出てくる。そして藩政上邪魔だという事で始末される。 という話だったと思います。 作者や正しいお話などをご存知のでしたら教えてください。
- みんなの回答 (1)
- 専門家の回答
質問者が選んだベストアンサー
こんにちは。 >>テレビの時代劇ドラマでお土居下十七人衆というのがなかったでしょうか? すでに貴殿もインターネット等でお探しされてのことと思いますが、 残念ながら、私にもそのようなドラマが放映されたことは知りませんでした。 私も、色々な検索ワードから探してみましたが、ヒットはしませんでした。 さて、貴殿も十分お分かりのこととは存じますが、 これはどこの藩だったのでしょうかねぇ。 有名なところでは、「御土居」は大阪城や名古屋城などにも造られています。 また、御土居に近い造りはその他の城にもある程度見受けられます。 名古屋城については、 尾張藩の「御土居下衆」は、築城当時は大阪城の豊臣家(秀頼)の襲撃に際しての備えとして、藩主の脱出用口として「土居」が設けられ、主にそこを警備する者たち、及び、もしも名古屋城が攻め落とされた時には藩主を安全に脱出させる任務でした。 しかし、その身分は低く足軽身分で7石2人扶持という軽輩でした。ただし、藩主を直々に守護するという役目から苗字、帯刀を許され士分の扱いを受けていました。 御土居下衆の厄介者扱いについてですが、 尾張藩に限って言えば、築城当時から財政も豊かで、幕府が倒れるまで四公六民を貫いた地でもありました。 そうした豊かな財政の中で7石2人扶持の軽輩の者が、例え17~18人いたとしても併せて100石余り。それほど財政を苦しめるとは少々考え辛いかと思います。 ただ言えることは、やはり泰平な世になれば、藩主の脱出もありませんし、単なる門番としてはかなりの高禄でしたから、リストラのトップを切って矢面に立たされたのかも知れません。 しかし、Wikiにもあるように、明治2年に忍駕籠を藩主に返還をしてその役目を終えた、とあるように、幕末まで存続したようですね。 お役に立てなくて申し訳ありません。
お礼
早速のお出まし、ありがとうございました。 そうなんです。周五郎あたりが題材にしそうな主題ですね。 財政逼迫の藩では何もしていない御土居下衆に禄を給することの無駄を云々する見解が出て、城代が指揮を取り多勢(おおぜい)で彼らを家族の前で始末するんですね。そんなストーリと記憶しております。 今になって思い出し忘れることができないのは、同じように先生にご回答いただいた境事件ですね。 あれも切腹をさせられた武士は決して悪いことはしていない。間違いも犯してはいない。ただ藩と国の体外関係という中で切腹させられる。 まぁ長いものには巻かれろとか、わしらの関係ないことだとか、流れに逆らわないという日本民衆の属性からの受け入れだったのでしょうかね。 そんなことを考えていて、次にそういう観点から質問しようと思っています。ありがとうございました。