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牟田口廉也が無能なところはどういうところですか?
逃げるところですか?
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無能だけではなく、無責任・・・・・ 師団長として、天皇陛下に任命されているので、誰からも処罰されないことを いいことに、強気で無責任なことをゴリ押しして、うまく行かないと黙って逃げる・・・・ いつでも始めは威勢がよく、、、ダメになるとスーッと静かに逃げる。 参謀たちが、ジャングルの中は補給がないと続かない、と言っているにも関わらず、 「何とかなる」でゴリ押し 「牛に荷物を背負わせて、途中で牛を食べれば一石二鳥」といったが、農耕牛は 早々にへたばってしまい、何にもならなかった。 捕虜虐待をすれば戦犯として刑を受けますが、牟田口のせいで、戦は負け続きですから 捕虜はいません。その結果、牟田口は罰せられることもなし。 最前線まで芸者をつれてきて、ジャングルの中に家と青畳を用意させては、その部屋で 芸者とイチャイチャ・・・・・。 ジャングルの中でも、刺身を用意させたので、食料調達係りが川魚を獲りに行くのが大変。 梅干しが大好きだったのでどこに行くにも、牟田口師団長用の「梅干し樽」を運ぶのが 重くて大変。 武器ではなく、梅干し樽が重い・・・ 3師団を餓死させたことは甚大な被害ですが、味方を殺しても、刑罰はありません。 出身は佐賀県。九州男児のはずなんですけどね。
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- mm058114
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誤字脱字があって意味が通じなくなってしまったので書き直します。 インパール作戦の失敗にについては、 戦後しばらくは、無能な罷免された3人の師団長(佐藤幸徳、柳田元三、山内正文)が悪者とされていました。 現在では牟田口廉也軍司令官が悪者となっています。 そして、独断撤退した佐藤幸徳第31師団師団長が英雄のようになっています。 この東部インド方面への進行作戦は、昭和17年に南方軍が作戦準備を発令しています。 この時第18師団長だった牟田口廉也中将は、兵站困難の為反対しています。 その後は、ガダルカナル、ニューギニア線があり、保留となっていた。 その後、ビルマ周囲に英軍、中国軍が兵力増強してきたため、日本軍も対抗して師団を追加。 第15軍の一軍だけでは手に追えなくなるため為、上部司令部のビルマ方面軍を新設。 同時に大きな人事異動が行われ、この時、牟田口は第15軍司令官に昇進した。 牟田口は師団長時代とは違い、今度はこの作戦を進行させる立場になった。 この異動で、西ビルマ方面の敵状地理地勢に通じているのは、牟田口軍司令官のみとなる。 その為、参謀達を一般論として受け付けず、自ら作戦計画書を加筆したとも伝わる。 牟田口廉也は、陸士、陸大で恩賜には入らなかったものの、省部勤務が長く、部隊勤務も近衛を経験し、かなりプライドが高かった。 だから、とくに歩兵科出身者にありがちな皇軍精神論の持ち主でもあった。 だから、気合と根性で人を判断し、人事をないがしろする一面があったようだ。 その結果は、一介の軍司令官が前代未聞の親補職の師団長解任を3人も行なったことが発生している。 また、支那事変は自分が始めたので、何か自分でカタをつけなければ、という思いがあった。 だから、牟田口はビルマ方面軍、南方軍、大本営に、インパール作戦の実行を強く要望している。 牟田口には、全体像の日本国、全体像の陸軍の情報がなく、自分の担当範囲のビルマ、インドが全てであって、そこに猛進していた。 それで、カタをつけた事になると思っていた。 また、大本営の思惑としては、南東方面、中部太平洋方面が押されているので、 絶対国防圏外郭で作戦成功の戦果を上げ、戦果を上げたという自負と国民の戦意高揚を欲していた一面がある。 これは、大陸打通作戦にも副次的に期待されているものでもあった。 インパール作戦は、日本陸軍が大好きな、攻勢防御。 と言うか、陸軍大学でそういう教育をしている。 日本軍勢力下の外郭要地を望むのは、当たり前のことである。 現在の牟田口廉也像は、生き残った、作戦に反対派だった参謀、部隊長達が、一部の牟田口の言動をとらえたり、生還した士官に皇軍士官としての敬礼、軍装品の不備を叱責されたことを恨めしく思った一部の極端な一面のようだ。 実際問題として、作戦中の3個師団の司令部の報告、命令、事務を一人の人間が行うことは不可能だ。 また牟田口は作戦にあたり、自動車中隊、輜重兵中隊、合わせて300コを南方軍に要求している。 その数は、全陸軍が保有する中隊数を超える数であった。 要求数は、ビルマ方面軍により減らされ、減らされたその数も南方軍の手持ち数を超えており、 南方軍の答申は要求数の2割りだった。 しかし、この兵站部隊が減らされたのに、作戦計画は決済された。 ここは、牟田口の責任ではなく、ビルマ方面軍、南方軍の責任である。 牟田口は、持ち駒が、兵站が2割りになってしまったが、作戦は実行しなければならない立場になった。 苦悩の末、参謀のアイデアを採用して、物資を水牛に駄載運搬、必要時に食料に使う 一石二鳥のジンギスカン作戦を採用する。 結果はこの地方で徴発した動物は、物資運搬には適さず、アイデアは成功しない。 良く誤解されるが、上級司令部の作戦命令に、第15軍には兵站の不足の状況があったが、 命令を達成するために採用したアイデアである。 牟田口廉也が個人的に先走った作戦ではない。 作られた作戦計画は、短期奇襲、前線の敵地を抜き、敵根拠地で食料を得るという、日本陸軍の通例の作戦だった。 特に牟田口だけが採用した特種な作戦ではない。 結果の敗戦は、牟田口廉也が軍司令官でなくても、大同小異。 たまたま、そこに牟田口廉也が居ただけ。 特に牟田口廉也だけ能力が劣っていたわけではない。 第15軍司令官という職責がそうさせた。 牟田口自身は、後年作戦失敗を、天皇に詫びる気持ちと、戦死戦病死した将兵に詫びたい気持ちだったようだ。 ただ、戦後に英軍が危機だったことを聞き、自分の作戦は正しかった事の主張が多くなった。 これが嫌悪感を高めているようだ。 ただ、出身の北九州では兵を可愛がる良い将軍とされ人気がある。 牟田口廉也は、司令部に家を建て、芸者を呼んで宴会をしていた。 これが戦場帰りには不快に感じられたようだ。 命令違反退却して英雄視されている佐藤幸徳第31師団長は、 食料不足で苦しんでいるときに、前線に慰安所を設置しようとしたり、 兵達がテントを過ごしている中、師団長の為の豪華な家を建てさせている。 軍司令官、師団長という親任官は、感覚がズレていた。 たとえ戦場においても、そういうものだった。 特におかしいものではない。 兵隊と同じ兵食を食べていたり、量が違ったりすること等、庶民の兵隊と同じ生活をしていること自体、おかしいと考えられていた。 上官ほど良いものを食べて、良い生活するのは、高等官は当たり前の事。 特に親任官は、戦場においても、それだけの格式、優雅な生活をしていなければならなかった。 これは、現在の官僚体質や、国会議員と同じと言えるかもしれない。 刺身や梅干の事を書かれている方もいるが、 この戦場の生活スタイルは、当時は当たり前のものである。 平等という考えは存在しなかった。 軍司令官、師団長は親補職であるから、兵にとっては天皇と同じ。 兵と一緒にとか、同じなんていうのは、映画で作られた虚像。 ただ、100%そっだったかと言うと、一部にはそういう考えの人もいたのは事実。 でも内容は違った。 感覚はズレている。 本当には、兵の生活を理解している人は居たかどうか…。 少尉だって、学校出ただけで奏任官であって、それだけの待遇があって当たり前。 戦時国際法でも、捕虜の兵は使役に使っても良いが、少尉の士官は免除された。 これが当たり前。 まして、軍司令官、師団長の中将なら、当たり前。 捕虜になっても、軍司令官、師団長の中将は、その格式の食事、給養がされる。 捕虜収容所の所長が中将より階級が下であったら、 所長から先に敬礼しなくてはならない。 話しがそれたが、 参謀は、作戦に反対意見を述べることはできるが、採用するかどうかどうかは、軍司令官の判断。 実際米軍と違い、日本軍の主義として、司令官が直接イニシアティブを取らず、参謀長が決定するのが通例。 これは師団長も同様。 司令官が自ら決済しなければならないのは、参謀長をもたない旅団長まで。 軍司令官により決心された作戦を、細部の作戦計画を立案するのは参謀の仕事。 これも師団長も同じ。 決定に逆らった参謀は罷免、更迭されるのは当然。 同じく、決定、命令に従わない師団長が罷免、更迭されるのも当然。 また、部下は意見具申はできるが、決定事項に従うのは当然。 米軍なんかは、作戦が予定通り進まないから戦意が無いと理由をつけて、師団長解任が行われている。 日本の場合は、師団長が親補職だから、現代に至るまで問題とされ、大きく注目されている。 実際、本当に、牟田口司令官個人から発せられた解任かどうか不明。 日本軍は、米軍と違い、参謀、参謀長を無視して軍司令官が直接命令を発する事は不可能である。 結局、慌てた南方軍が、解任された佐藤師団長は精神異常として処理、予備役編入されている。 同じく、牟田口廉也も作戦失敗の責任を取らせる形で予備役編入されている。 ただ、直ぐに召集されて予科士官学校長になっている。 また、佐藤幸徳もすぐに予備役召集されている。 陸軍の評価としては、作戦失敗の責任で予備役編入しているが、それ以上のおとがめなしとして、すぐに召集している。 これは、親補職であったからであったと言われる。 牟田口の予科士官学校長は、軍司令官経験者としては格下であるので、かなり責任を取らされた格好ではある。 戦後の評価は、佐藤ら3師団長だったが、現在は牟田口軍司令官に変化している。 しかし、牟田口廉也が無能で、佐藤幸徳が有能とは一概に言えない。 失敗はイコール最終的な作戦立案した参謀の問題。 第15軍のインパール作戦失敗は結果論。 更に言えば、一番の問題は、作戦開始を命令し作戦中止命令の遅れた上部司令部のビルマ方面軍司令部。 個人を特定するならビルマ方面軍司令官の河辺正三大将。 だから、牟田口廉也個人を無能とするには当たらない。 誰が司令官でも、結果は大同小異。 内容はガダルカナルやニューギニアと同じ。 問題は、3人の親補職の師団長が作戦中に解任になったこと。 親補職であることが問題。 ガダルカナルでも、川口清武旅団長が戦場で解任になっている。 親補職でない少将なので、全然問題になっていない。 牟田口廉也無能論は、戦後随分たってから発生した結果論。 当時の一般的な軍司令官。 中将で師団長のあとに予備役にならず、軍司令官に昇進できただけで大したもの。 結局、日本の軍司令官の資質ってこんなもん。 そういう教育しか受けていない。 牟田口廉也個人を無能とするには当たらない。 この私の記載にマイナスをつける人は本当の日本陸軍を知らない人。 良く調べて下さい
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どうもありがとうございました。
- ayeaye(@heriotoro-pu)
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昭和の日本人(軍人)の名前もナカナカ・・失礼しました。 訂正します・・・ナカナカではなく・・立派です。素晴らしいです。 軍人に限りませんが、戦前につけられた名前は感性が秀逸です。 女の人の名前にも、見とれてしまうことがあります。
お礼
どうもありがとうございました。
- ayeaye(@heriotoro-pu)
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過去に学ぶべきは、 拙劣な指揮による損耗が大きいときは、軍法会議にかけて、指揮官をとりかえる ようなシステムがなかったことです。(アメリカ軍にはありました。) 今でも。日本の会社は、隠蔽体質や幹部クラスが保身に走ることは多々あります。 一度、偉くなった人を下ろすのは、名誉に傷がつくから、、となかなか降格に 熱心ではありません。なぜならば、上の人たちは、自分が同じ立場になったときの ことを考えるため、厳格なルールをつくりたがらないからです。 一方、質問者さまだって、会社の中にいたら、社長や部長に、簡単に意見はできない でしょう。 戦地の状況と同じです。 雲の上に等しい上官や指揮官がズラリいますからね。 いくつかの業界においては、権威傾斜問題といって、たとえ上位の人でも、 明らかに間違っているときは、部下が意見を言っていいし、上司も素直にその意見を きくという教育が進んでいるところもあります。(航空業界) 過去は将来のためにあるものだとして、日本の体質を考えながら、将来をみてください。 余談ですが、牟田口の使っていた公用車は、天皇陛下と同じあずき色でした。 また、大西ときくと、宇垣纒の名前を思いだしました。 五十六、瀧次郎、纒(まとめ)・・・ 昭和の日本人(軍人)の名前もナカナカです。
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どうもありがとうございました。
- mm058114
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一言足りませんでした。 追加します。 インパール作戦は、日本陸軍が大好きな、攻勢防御。 と言うか、陸軍大学でそういう教育をしている。 日本軍勢力下の外郭要地を望むのは、当たり前。 牟田口廉也が軍司令官でなくても、大同小異。 たまたま、そこに牟田口廉也が居ただけ。 特に牟田口廉也だけ能力が劣っていたわけではない。 第15軍司令官という職責がそうさせた。
お礼
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- mm058114
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インパール作戦の失敗にについては、 戦後しばらくは、無能な罷免された3人の師団長(佐藤幸徳、柳田元三、山内正文)が悪者とされていました。 現在では、牟田口廉也軍司令官が悪者となっています。 そして、独断撤退した、佐藤幸徳第31師団師団長が英雄のようになっています。 この東部インド方面への進行作戦は、昭和17年に南方軍が作戦準備を発令しています。 この時、第18師団長だった牟田口廉也中将は、兵站困難の為反対しています。 その後は、ガダルカナル、ニューギニア線があり、保留となっていた。 その後、ビルマ周囲に英軍、中国軍が兵力増強してきたため、日本軍も対抗して師団を追加。 第15軍の一軍だけでは手追えなくなるため為、上部司令部のビルマ方面軍を新設。 同時に大きな人事異動が行われ、この時、牟田口は第15軍司令官に昇進した。 牟田口は師団長時代とは違い、今度はこの作戦を進行させる立場になった。 この異動で、西ビルマ方面の敵状地理地勢に通じているのは、牟田口軍司令官のみとなる。 その為、参謀達を一般論として受け付けず、自ら作戦計画書を書くこともあった。 牟田口廉也は、陸士、陸大で恩賜には入らなかったものの、省部勤務が長く、部隊勤務も近衛を経験し、かなりプライドが高かった。 だから、とくに歩兵科出身者にありがちな、皇軍精神論の持ち主でもあった。 だから、気合と根性で人を判断し、人事をないがしろする一面があったようだ。 その結果は、一介の軍司令官が前代未聞の親補職の師団長解任を3人も行なったことが発生している。 また、支那事変は自分が始めたので、何か自分でカタをつけなければ、という思いがあった。 だから、牟田口はビルマ方面軍、南方軍、大本営に、インパール作戦の実行を強く要望している。 牟田口には、全体像の日本国、全体像の陸軍の情報がなく、自分の担当範囲のビルマ、インドが全てであって、そこに猛進していた。 それで、カタをつけた事になると思っていた。 また、大本営の思惑としては、南東方面、中部太平洋方面が押されているので、 絶対国防圏内外で作戦成功の戦果を上げ、国民の戦意高揚を欲していた一面もある。 これは、大陸打通作戦にも副次的に期待されているものでもあった。 現在の牟田口廉也像は、生き残った、作戦に反対派だった参謀、部隊長達が、一部の牟田口の言動をとらえたり、生還した士官に皇軍士官としての敬礼、軍装品の不備を叱責されたことを恨めしく思った一部の極端な一面のようだ。 実際問題として、作戦中の3個師団の司令部の報告、命令、事務を一人の人間が行うことは不可能だ。 また牟田口は、作戦にあたり、自動車中隊、輜重兵中隊、合わせて300コを南方軍に要求している。 その数は、全陸軍が保有する中隊数を超える数であった。 要求数は、ビルマ方面により減らされ、その数も南方軍の手持ち数を超えており、 答申は要求数の2割りだった。 しかし、この兵站部隊が減らされたのに、作戦計画は認可された。 ここは、牟田口の責任ではなく、ビルマ方面軍、南方軍の責任である。 牟田口は、作戦は実行するが、兵站が2割りになっため、苦悩の末、 参謀の意見を入れて、水牛を駄載、食料に使う一石二鳥のジンギスカン作戦を採用する。 作戦は、短期奇襲、前線の敵地を抜き、敵根拠地で食料を得るという、日本陸軍の通例の作戦だった。 特に牟田口だけが採用した特種な作戦ではない。 牟田口自身は、後年作戦失敗を、天皇に詫びる気持ちと、戦死戦病死した将兵に詫びたい気持ちだったようだ。 ただ、戦後に英軍が危機だったことを聞き、自分の作戦は正しかった事の主張が多くなった。 これが、嫌悪感を高めているようだ。 ただ、出身の北九州では、兵を可愛がる良い将軍とされ人気がある。 命令違反退却して英雄視されている佐藤幸徳第31師団長は、 食料不足で苦しんでいるときに、前線に慰安所を設置しようとしたり、 兵達がテントを過ごしている中、師団長の為の豪華な家を建てさせている。 牟田口廉也が無能で、佐藤幸徳が有能とは一概に言えない。 、
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- 4237438
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訂正です。字を間違えました。 大西滝次郎→大西 瀧治郎
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- 4237438
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>牟田口廉也が無能なところはどういうところですか? リーダーが馬鹿であってはならないという見本のような話です。 お隣の韓国ではパククネさんが日本との関係で大チョンボをやり、大切な日本と仲が悪くなり貿易、観光、共同事業、いろんな面で損をしました。その結果日本からせしめたのは10億円で損したのは一兆円くらいになるでしょう。リーダーは馬鹿であってはなりません。 軍人の場合は即刻生死に関わってきますから特に大事です。 兵隊の命を考えず、出世欲ばかり強い将軍の下ではたいへんです。 インパール作戦なんてのは最悪の作戦だったと思います。 牟田口は最後まで弁解を続けたそうですが、潔く切腹すべきでした。臆病者ですから切腹は怖くてできなかったでしょうが、拳銃で頭を撃つくらいは出来た筈です。 生き恥をさらしました。せめて自害していたら遺族を守ることができました。 特攻の発案者である大西滝次郎将軍も最後は一人でゼロ戦に乗り海に突っ込んで死に、名誉を守りました。
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- ayeaye(@heriotoro-pu)
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歴史の証言(日本の正式な記録)において、 戦後、牟田口は 「私は正しかった。私は間違っていなかった。」と証言。 肉声テープが残っています。 リーダーの資質というものがありません。自己保身のみです。
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- ithi
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nyoqpdipaさん、こんばんは。 どうやら、実戦向きの将軍ではないようです。戦闘に関しては師団以下の小部隊に関しては豊富な方ですが、 あまり、軍司令官として必要な手配り、特に補給に関しては他の将軍が担当すべきでした。それから部下の意見を軽く見る傾向があったようです。 彼はインパール作戦をさいごまで自己弁護したみたいですが、準備不足から自分の部隊が瓦解したという責任を免れることはできませんよ。 牟田口廉也 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%89%9F%E7%94%B0%E5%8F%A3%E5%BB%89%E4%B9%9F
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