カニバリズムについて

このQ&Aのポイント
  • カニバリズム(人肉食)に関する倫理的な問題を考えます。飛行機事故や戦争で生き残った人々が食料尽きた場合、人の肉を食べることは許されるべきか検討します。
  • カニバリズムの倫理的な問題について、仲間であるかどうかや近しい関係にあるかどうかに関係なく、他の人の肉を食べることで生き延びることは許されるべきか考えます。
  • カニバリズムの抵抗感や嫌悪感について考えます。豚や牛の肉を食べることは普通だが、人の肉を食べることは異常とされるのはなぜか疑問を投げかけます。
回答を見る
  • ベストアンサー

カニバリズム(人肉食)について

例えば、飛行機の墜落事故で、奇蹟的に生き残り、アンデス、或いはヒマラヤのような山中で、助けを待つ人たち。 或いは自分の属している部隊がほぼ全滅し、生き残った数名。 最早食料も尽きた、という場合、人の「屍」の「肉」を喰うことは尚「悪いこと」でしょうか? 個人的なことを言えば、彼らが「仲間」であれ、或いは偶然同じ飛行機に乗り合わせた見知らぬ人々であれ、「自分の肉」を喰らうことによって、少しでも彼らが生き延びることが出来るなら、わたしは自分の屍が食われることに抵抗は感じません。 わたしの好きな言葉があります。 「某(それがし)閉眼せば,賀茂川にいれて魚に与ふべし」 親鸞  「わが体焼くな埋むな野に捨てて 痩せたる犬の腹を肥やせよ」 一休 またわたしの屍の扱いについては、火葬よりは土葬、 土葬よりは風葬 風葬よりは鳥葬 が望ましいとも思っています。 つまり人間も含めて、他の生物の食物・養分となりたい、またそのものたちの排泄物として、土に戻り、大地の肥やしになりたいと願います。 カニバリズムのどこに抵抗があるのか? 餓死した、或いは凍死した人間の、外傷のない身体に、刃物を突き立てる、という行為、その時点での「抵抗」「嫌悪感」でしょうか?では、我々が豚や牛、鶏の屠殺現場を見ることなく、その肉を食べているように、誰か別の人が「焼いてくれた」或いは「切り取ってくれた」肉であれば大丈夫か? 勿論、「ひとが人の肉を食うこと自体が畜生道である」という意見もあるでしょう。 でも人間(ヒト)だって、一個の動物ではありませんか? 人間だけが高等で、他の生き物(動物や虫)とは比較にならないという考えは何処から来るのでしょう? 勿論「俺は人の肉を食ってまで生き延びたくはない」という意見は最大限に尊重されるべきですが、同様に「死体の肉を食ってでも生きたい」という主張も正当性を持ちうるのではないでしょうか? たとえ、数名の肉を喰らっても、数日のうちに救助が来なければいずれ死ぬ命であるとしても・・・ ご意見お聞かせください。

noname#226970
noname#226970

質問者が選んだベストアンサー

  • ベストアンサー
回答No.14

#6です。 「佐川君からの手紙」ではなくて、通称「ひかりごけ事件」です。 戦時中北海道知床羅臼にて実際にあった遭難時の食人事件で、生き延びた船長が餓死した船員(19歳)の遺体を解体して食べました。 遺族からは「息子の肉を食って生き延びるくらいなら死んだ方が良かった」と言ったかどうかは分かりませんが、それに近い感情で船長とは死ぬまで絶対許すことなく対面もしなかったそうです。 また社会も羅臼食人事件の正確な情報が伝わらないまま「人肉食べて生き延びるくらいなら船長は死ぬべきだった」と考える人が多かったそうです。 ・・・戦時中から戦後の混乱期でしたから。 船長自身も後悔の念から死刑などの重刑を望むも懲役1年。網走刑務所に収監され自殺の恐れがあるため監視付きだったそうです。 出所後自殺未遂未遂もしましたが、一命をとりとめ生き延びてしまった自分を恨んだそうです。 また社会の目よりも自責の念が強く、食べた船員が殺しに来る夢や閻魔に裁かれ地獄に落ちるなどの悪夢をよく見たそうです。 結局船長は平成元年76歳で死去されました。 船長は食人した事は覚えているが、何故食べようかと思ったかは自分でも理解できなかったそうです。 佐川の事例とは全く違うもので、船長は通常は人肉食に全く興味は無く、むしろ嫌悪感があった。 食人してしまったのも極限な飢餓状態が続いての心神耗弱であったのでしょう。 #6で答えた通りそういった極限状態での人肉食は仕方が無いですが、自分はしたくないですね。 やはり他人の目より自責の念です。 食べて助かった後で絶対自殺すると思います。 自分の死後食べられることになっても食べた人物は元からのサイコパスでは無い限り他人の目はもちろん自身の倫理観に耐えることはできるのか?が心配です。 ドイツのある村では人肉が食肉店にて売られ、知らずに村人が食べてしまう事件があり、その後その村の住民はほとんどベジタリアンになってしまった事例があるそうです。 ほぼフィクションだと思いますが、古代中国で王に息子を殺されその肉を食べるよう強要され、その後自責の念から拒食症になってしまい・・・というようなことが史記などに書かれています。 ・・・でも古代中国などでは宗教的な倫理観では人肉食べる(親が子の肉を食べる)事なんて当たり前なことですが・・・ 王朝側の民族と食人を強要され次の王朝となった民族とは倫理観が異なっていたのかも知れませんけど。 ですが、現代日本では食人に対して嫌悪感をおぼえ許さない倫理観が主流だと思います。 食人を許容する倫理観でしたら食人事件はもっとあるでしょうし、報道も大げさにはしないでしょうし、小説化や映画化など喜んでやらないでしょう。 私自身正直いうと食べることはもちろん食べられるのも気持ち悪いです。 昔は死後の臓器提供と同じように考えていましたが、臓器提供と同種食はやはり違うかと・・・ 現代社会で生きていて現代社会の倫理観に染まったのかもしれません。

noname#226970
質問者

お礼

わたしはこの「ひかりごけ事件」というものを知りませんでした。 とても興味深いお話ですね。 >昔は死後の臓器提供と同じように考えていましたが、臓器提供と同種食はやはり違うかと・・・ わたしもやはり「献体」とどこが違うのだろうと思ってしまいます。 この質問は基本的にわたし自身が、死んだあと、焼かれて灰になるくらいなら、一休や親鸞の言葉のように、他の生き物の餌になる方がいいと考えているので、「極限の飢餓状態なら人の屍の肉を食って生きるべき」とも言いませんし。「喰わないのは偽善だ」とも思いません。「喰いたくないから餓死する方を選ぶ」それも一つの選択肢でしょう。 ただ、それが「邪悪なこと」であり「裁かれるべき」なのか?というと、やはり大きな疑問が残ります。 再度のご感想をありがとうございました。 「ひかりごけ事件」のこと、とても参考になりました。

noname#226970
質問者

補足

みなさん、いろいろなご意見を聞かせていただきありがとうございました。 ベストアンサーは、エロエロさん、「ミラーニューロン」に関してのお話しなど迷いましたが、 ご自分の心情を交えつつ、興味深いお話をしてくれたmiku-chiさんに。 皆さんのご意見、ひとつひとつ参考になりました。 改めて、どうもありがとうございました。

その他の回答 (13)

  • 441moe
  • ベストアンサー率16% (75/449)
回答No.13

中国では、清末の記録に人肉の保存法あります。文化大革命時に記録有ります。 昔は赤ん坊を交換して食べたそうです。 日本では、過去多くの人肉食、販売の絵が残っています。満蒙開拓団引き上げ時食べたと言う人いました。 キリスト教では人肉をパン、人血をワインに代えたとの説有ります。 中国、日本では背に腹代えられないので、食べたようです。 宗教特にキリスト教が嫌ったのが広まったのではないかと思います。 個人的には背に腹代えられない時は致し方ないと思います。 考えようによれば、移植も同じと思います。

noname#226970
質問者

お礼

こんにちは。 >中国では、清末の記録に人肉の保存法あります。 中国の歴史を探れば人間に関するありとあらゆる資料が出てきそうです。 >日本では、過去多くの人肉食、販売の絵が残っています。満蒙開拓団引き上げ時食べたと言う人いました。 地獄絵などで、餓鬼が人の屍に群がっているという図があったような気がします。 満州からの引き揚げ時にはそういうこともあったかもしれませんね。 >宗教特にキリスト教が嫌ったのが広まったのではないかと思います。 やはり宗教に基づく倫理観のちがいでしょうか。 >個人的には背に腹代えられない時は致し方ないと思います。 考えようによれば、移植も同じと思います。 ええ、わたしもそんな風にも思うのです。 献体とどこが違うのだろう?と。 ご意見をありがとうございました。

回答No.12

>ミラーニューロンという言葉は初めて知りました、いわば共感共苦の感情ですね。 >だとすれば、たとえば話は飛びますが、「いじめ」などはどのように説明されるで >しょうか? (反論ではなく疑問です) コメント欄での質問/回答になりますのでこれ限りにさせていただきますが、以下のように考えます。 他人の苦痛を見て、素直に自分の苦痛と感じるかどうかは様々です。 私は、単に転んで動画を見ただけで間違いなく苦しみを感じますが、一方で、アフリカの子供が飢餓で死にそうな場面を見てもあまり感情が動かされません。 後天的な学習によって得られた倫理観や、他人から慈しみ深いと見られたいという感情を動員しないと哀れみの感情が生まれません。 同様に、いじめで苦しむ他人の感情を入力する機構が備わっているからといって、必ずしも自分の痛みとして中止要請を自らに働きかけるかどうかは、別問題のようです。本当に共感しない場合もあるでしょうし、むしろ他人の苦痛を自分の喜びとする人もいるでしょう(これは一般に倒錯と言われます)。 ミラーニューロンは大変興味深いのですが、情報のインプットと脳の特定部位の電位変化が観察されたものであり、人間の複雑な感情の成り立ちの一部を構成していることは間違いないと直感するものの、他の要因との関係が解明されているわけではありません。 即座にミラーニューロンがあるからいじめは本来起こりえないとも言えないのではないでしょうか。(逆に、この働きによってより残酷な仕打ちをし得る可能性も大いにあります。) 今の学問レベルでは不可能にも思えますが、食人の場合は倫理観や宗教観、暴力性や精神錯乱状態との関係、いじめの場合は恐怖や無関心、サディズムとの関連性、そしてその濃度を個人別に測定しないと機械的に答えを出すことは出来ないでしょう。 その意味で、私の回答は拙速・決め付けであるともいえますが、ほとんどの人が直面したことが無いであろう状況と、ほとんどの地域でカニバリズムが禁忌とされていること、そして火葬にせよ土葬にせよ、それが公衆衛生的な見地によるものであるにせよ、死体をぞんざいに扱う文化はなさそうであるということを前提として想像力を働かせて答えさせていただきました。

noname#226970
質問者

お礼

なるほど、ミラーニューロンは現時点では単なる受信装置(?)でしかないということですね。その受信した情報にどのような色付け、意味づけをするかは別の問題だと。 >ほとんどの地域でカニバリズムが禁忌とされていること、そして火葬にせよ土葬にせよ、それが公衆衛生的な見地によるものであるにせよ、死体をぞんざいに扱う文化はなさそうであるということを前提として想像力を働かせて答えさせていただきました。 再度のご回答をありがとうございました。とても参考になりました。

  • eroero4649
  • ベストアンサー率31% (10495/33005)
回答No.11

「人間は高尚な生き物だから、人間は食べないようにしよう」ではないと思います。むしろ割と単純な「同族食いはしない」に基づいていると思います。ライオンや虎も、やむにやまれぬ事情にならない限り同族同士で食い合うことはしません。あるとしたら土ボタルのような閉鎖された特殊な空間で生きるような動物だけです。 おそらくこの地球に「他の生物を食べる生物」が誕生したときに「同族もおかまいなしに食べると絶滅してしまう」ということに気づいて(どうやって気づいたかの問題についてはさておき)、遺伝子の中に「同族は食べないようにする」とインプットしたのだと思います。そのくらいの根源的なことだと思うのですよね。 ところで興味深い話があります。ヒトとアミノ酸の構成が似ているヒト以外の動物は、ブタ、ウシ、鶏の順番になるんだそうです。人間の体はタンパク質でできていますから、その維持のためにはアミノ酸が必須です。そのアミノ酸の構成が似ていれば効率よく栄養になるので、アミノ酸の構成が似ている肉を「美味い」と感じるのは当然のことだと思います。 ここでハタと気がつくわけです。「あれ?アミノ酸の構成が似てると美味しいって、ヒトの肉はヒトとアミノ酸の構成が似ているどこから全く同じだから美味しいのでは?」って。質問者さんのおっしゃるあの佐川君も「人肉は美味かった」と公言していましたよね。だから、実はかなり美味しいのではないかと思うのですよ。「食べちゃいたいくらい可愛い」という言葉もありますしね。 しかしまた生物というのは、一度食べて美味しいと感じたものは食べたくなるという本能も持っています。人間の味を覚えた熊は危険だっていいますよね。「一度食って美味いと感じたものは食べ物にしか見えない」っていうのは、これまた生命の本能だと思うのです。 私の家には柿の木が昔からありまして、あるとき母が柿の葉の新芽を天ぷらにしてみたんですね。それを食べたら大変に美味しくてですね、すると不思議なことに、今は毎年春になって柿の木から新芽が出てくると「うまそう」としか思えないんですよ。 可愛いあの子が向こうを向いて寝息をたてているときに、そのキュートなヒップが「うまそう」に見えたら困るので、そういう「遺伝子のストッパー」は必要だと思います。 ちなみにあの佐川君も、日本に帰国して街で白人女性の尻を見ると「うまそう」といつも思っていることを隠しもしませんでしたね。

noname#226970
質問者

お礼

こんにちは、エロエロさん。 今回も実に興味深いご意見ですね。 アミノ酸の構成が似ているのが、豚や牛。なるほど。 そういう点では正に似ているどころか「同じ」なのは人間ですね。 >あるとき母が柿の葉の新芽を天ぷらにしてみたんですね。それを食べたら大変に美味しくてですね、すると不思議なことに、今は毎年春になって柿の木から新芽が出てくると「うまそう」としか思えないんですよ。 おいしそうですね。 >可愛いあの子が向こうを向いて寝息をたてているときに、そのキュートなヒップが「うまそう」に見えたら困るので、そういう「遺伝子のストッパー」は必要だと思います。 そうですね。このストッパーはやはり遺伝子レベルのものなのか?それとも後付けの倫理観なのかが分かりづらいところです。 とても参考になりました。 いつもご意見をありがとうございます。

noname#218049
noname#218049
回答No.10

そもそも そんな状況に なる形に ならない・・ 飛行機が発着するって事は 飛行機が墜落した時点で 既に捜索は始まってる・・ なので何日間も経つ事は無い・・ いい加減 こんな下らない質問なんか辞めれば?

noname#226970
質問者

お礼

こんにちはnoname#218049さん。 みなさん、真面目に考えて答えてくれています。 別に「飛行機事故」に限定した設定の質問ではありませんよ。

noname#226970
質問者

補足

ところで、質問者の名前が、noname というのを屡々見かけますがこれはなんでしょうか? No Name ? (名無し)?ん???

noname#225485
noname#225485
回答No.9

悪いも何も無いでしょう。 それしか生き延びる選択肢がないなら…。 生きたいという思いは本能ですから、飢餓状態にでもなれば理性で抑えることは出来ないでしょう。 まあ、それが罪となっても生き延びなければ罰を受けることは出来ないのです…。 飢餓の状態でそんな理性を保てる人は少ないでしょう。 後は人間として行った事に対してどう責任を取るかって問題です。 世間的な見方もあるでしょうし…。 でも生き延びるってのは本能であってそれしか選択肢が無いなら仕方ないでしょう。 誰も責めることはできないと思います。

noname#226970
質問者

お礼

こんにちは。 >悪いも何も無いでしょう。 それしか生き延びる選択肢がないなら…。 生きたいという思いは本能ですから、飢餓状態にでもなれば理性で抑えることは出来ないでしょう。 >飢餓の状態でそんな理性を保てる人は少ないでしょう。 確かに極限的飢餓状態にいる人にとっては生き延びるという本能があるように思えます。 >誰も責めることはできないと思います。 そうですね。それを「裁きうる」というのは、安全地帯にいる人、或いは想像力を働かせない人・・・つまり「わたしが、彼、彼女であったかもしれない」という考えが存在しな場合ですね。 ご意見をありがとうございました。

回答No.8

いくら仲間だったと言えど、仲間の肉まで食べようと言う気になりませんん それならば「死なば諸共」と言いうように、、一緒になって逝きます

noname#226970
質問者

お礼

こんにちはmichiyoさん。 >それならば「死なば諸共」と言いうように、、一緒になって逝きます なるほど、これも一つの哲学だと思います。 一票いれました。 いつもご意見ををありがとうございます。

  • heyboy
  • ベストアンサー率21% (1852/8729)
回答No.7

たしか、同種の肉を食うと 「狂犬病」になりやすいはずです。(たぶん) https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%83%8B%E3%83%90%E3%83%AA%E3%82%BA%E3%83%A0 少し読ませてもらいました。 たぶん、他人の肉を言うなんてよほどの極限状態です! 出来れば避けたいですが、なのような状態ならするのかなあ。 >つまり人間も含めて、他の生物の食物・養分となりたい、またそのものたちの排泄物として、土に戻り、大地の肥やしになりたいと願います。 それは違うと思います それは質問者のエゴです 食べられる家畜でも殺処分される犬や猫でも とにかく「生きたい!」と願うはずです 自分は面白い言葉があると思ってますが 「人の命は地球より重い」 自分は違うと思います 神様から見れば人も動物も同じなのです でもだからと言って人も食べられる存在でいいのかは 比喩しすぎですよ。 否定はしませんがあまり肯定する気にはなません 質問者はもっと命が危険にさらされている 人や動物を事を考えるべきではないでしょうか?

noname#226970
質問者

お礼

こんにちは。 >>つまり人間も含めて、他の生物の食物・養分となりたい、またそのものたちの排泄物として、土に戻り、大地の肥やしになりたいと願います。 >それは違うと思います それは質問者のエゴです 食べられる家畜でも殺処分される犬や猫でも とにかく「生きたい!」と願うはずです わたしはわたしが死んだ後に、火葬にされるくらいなら犬やあるいは餓えた動物(人間含め)の食い物になりたいと云っているのです。 他の動物が「同じように思っている」とは云っていません。 人間も虫も、動物も、いのちの重さには変わりはないだろうと云っています。 ご意見をありがとうございました。

回答No.6

極限状態ならば仕方が無いと思います。 そんな状態で「悪」とか倫理観がどうこうなんて言っていられない状況なんだろうし。 ただ、食べられるために殺されるというのはまっぴら御免です。 ちなみに日本国内でも食人事件があり、餓死した部下の遺体を食べ遺体損壊罪で懲役1年でしたが、出所後も「食人鬼」と後ろ指さされ、彼自身も罪の意識に苛まられ、しかもその事件をヒントに取材なしで書かれた小説(事実とは異なり殺して食人)がベストセラーになり、映画にもなって、ますます偏見され・・・普通の殺人よりも奇異な目で見られ、まともに生活ができなくなったそうです。 理性が残っている間は食べたくないですね。 ちなみに死んだら食われようが捨てられようが知ったこっちやないので。 どうぞ食べてくださいとか思わないけど、意識無いからね。 でも遺族や社会は絶対許さないでしょうけど。

noname#226970
質問者

お礼

こんにちは。 >ただ、食べられるために殺されるというのはまっぴら御免です。 勿論「自分が生きるために、他を殺す」ということは許されざることでしょう。 つまりそれは「逆もあり得る」ということですから。 仰っているのは「佐川君からの手紙」のことでしょうか? >でも遺族や社会は絶対許さないでしょうけど。 ああ、遺族や社会のことまでは考えませんでした。 でもじゃあ、遺族や、まして「社会」は、「人の(屍の)肉を食って生き延びるくらいなら死ねばよかったのだ」と言えるのでしょうか? ご意見をありがとうございました。

回答No.5

セックスは、快楽であるがゆえにインモラルだとして 抑えねばなりません。 カンニバリズムも、簡単に手に入る食物であるがゆえに、 社会生命として有害になる可能性があるので、タブーに する必要があるのです。 カンニバリズムが第二次大戦前まで残っていた、ソロモン 諸島やサモアに住んだ事がありますが、太平洋の孤島は、 大型動物が少なく、動物性タンパクが不足するので、強い 必要があってタブーが解除されたのだと思います。 近代になって、豚が導入されてから、食人の習慣は徐々に すたれたと言ってました。 ちなみに、「タブーではない」といっても、まだ歯止めが かかっており、島ごとに言葉が違うほど社会性の乏しい (性格的に荒々しい)メラネシアンのソロモン諸島では、 他の島の敵と戦った時に殺した相手の勇者を食べて力を もらうというものだったというし、社会性の強いポリネシ アンのサモアでは、他の島の酋長がやって来た時に、歓迎 の宴において自分たちの赤ん坊を料理して出したという ものだったそうです。 (ちなみに鳥葬のブータンにも住んでましたが、平坦な土 地が少なくお墓がないという事情がありました。基本、遺体 は腐敗するので、深く埋めるか焼くかしないと不衛生です。 チベットのように乾燥した荒涼たる高原ならいいですが)

noname#226970
質問者

お礼

こんにちは。psytexさん。 生きている人間を「極限敵飢餓状態にない人間」が「殺して」喰うということは、当然「タブー」視されるでしょう。(最大限に文化的相対性を受け容れつつ、ですが) ここでは、極限的な飢餓状態にある生者が、死者の肉を喰うことで生き延びることについての、価値判断についての問いかけです。 >(ちなみに鳥葬のブータンにも住んでましたが、平坦な土 地が少なくお墓がないという事情がありました。基本、遺体 は腐敗するので、深く埋めるか焼くかしないと不衛生です。 チベットのように乾燥した荒涼たる高原ならいいですが) へえ、そういうことは初めて聞きました。じゃあ埋めてもらって、植物の肥やしになりたいですね。 いつもありがとうございます。

noname#218135
noname#218135
回答No.4

極限の状況なら仕方ないんじゃないですか? 同じ殺人でも平時なら「殺人犯」として刑罰を受けるのに、戦時下だと「英雄」として表彰されたり。 その時々によっていくらでも変わりますよ。

noname#226970
質問者

お礼

こんにちは。 >その時々によっていくらでも変わりますよ。 つまり「モラル」は常に相対的で、絶対ではないということですね。 ご意見をありがとうございました。

関連するQ&A

  • あなたは人肉を食べることができますか?

    今から30年ほど前ジャイアンツの長嶋が後楽園で 『、、永遠に、、、と』と引退声明を発表してるとき、 アンデスの山に墜落した飛行機の乗客が寒さと飢えで、 死んだ乗客の肉をを食ったという事件が起きました。 全員キリスト教徒だったのですが、のちに乗客は『正当』というキリスト教の 判定を下され生き残った人は最大の名誉を助けられましたが、 翻って、あと100年後におきるであろう食糧問題が発生した時 あなたは人肉をたべますか?

  • 戦時中の人肉喰いについて

    立花隆「人体再生」(中央公論新社)に以下のような文がありました。 >カソリック教会は、脳死移植を、魂が離れた肉体を、他の命を救うために用いる愛の行為だということで認めてあり、これは、脳死以上の死後移植で、とっくに魂が離れた、放っておけば朽ちるだけの肉体を生きた魂の持主が利用させてもらうことだから問題ないと考えて、自分を納得させているということでした。何年か前に、南米のアンデス山中の雪の中に飛行機が墜落し、生き延びた人たちが(カソリック教徒)、「死んだら自分を食べて生き延びて」と言い残して死んだ人たちを食べることで命をつないだことを、カソリック教会は法王庁の正式見解として、それは神の教えに背かない正しい行い(一種の聖餐という位置づけ)だと認めたことがあります。  太平洋戦争の日本軍では物質の補給も乏しく、サルの肉と無理に納得させ、人肉を食べたひともいたことが少なくなかったことが小説にも書かれています。心に重荷を抱えて大変だと想像します。  戦争で人肉を食べざるを得なくなった人々は悩みを自分ひとりで抱えているのでしょうか。日本の宗教団体で、戦時中に行われた人肉喰いにコメントしている団体はあるのでしょうか?  

  • 自然の生命をたべることについて

    ベジタリアンの友人に、私が肉を食べていると、「動物を食べることに抵抗ないの?」と言われました。 自然の生命、同じいのちとしておなじ地球に暮らしているのだから、極力、動物は殺すべきでないと。 彼女はヨーロッパに住んでいたことがあり、向こうではベジタリアンのひとも多いそうです。 私の感想としては、 ベジタリアンとかはなんかお坊さんとかの宗教っぽいイメージです。 わたしたち一般人にはかけはなれているというか… みなさんご意見いかがでしょうか?

  • ベジタリアンについてどう思いますか?

    私は肉を食べません。 生きている動物は愛らしいですし、その肉を食べるのは気持ちが悪いです。 (完全に動物性の食品を断つと色々と不便ですので、魚介類や無精卵など 抵抗が少ないものは食べたりしますが、便宜上ベジタリアンとさせていただきます。) 自分がベジタリアンであることは、自ら好んで主張はしません。 むしろ隠している方ですが、付き合いなどで食事に行くこともありますし、 いつかは周りの人にも知られることになります。 とは言え、大半の人はそこまで否定的ではないようで 「食事に困らない?」「健康上の問題はないの?」など興味本位の質問や、 あまり興味すら持たれずに、そのまま話題が流れることも多いのですが、 中にはベジタリアンを否定したがる人が居るのも事実です。 まず彼らは決まって、 「野菜や果物だって生き物」「生命は同等」と言います。 (果物をもぎ取っても木は死にませんが、ここではあまり気にしないでください。) 生物を食べることの善悪については私の知るところではありませんが、 人間に近い生物の肉を食べることへの抵抗なら、肉好きの人でも想像できると思います。 誰だって、犬や猿の肉を、野菜や果物と同じ感覚では食べられないと思います。 (程度の大小はあれど。) さらには 「食べても食べなくても、すでに殺されて肉になっている」 「食べないほうが殺された動物に悪い」 というのもありました。 まるでベジタリアンが悪、あるいはわがままな子供であるかのようです。 なぜそこまで嫌うのでしょう。 (よく「ベジタリアンは価値観を押し付けるから嫌われる」とも聞きますが、この場合逆です。) あげく 「なら虫も殺すな」「皮革製品も使うな」 (さすがに実際の付き合いでは、ここまで言われたことはありませんが) 自分の基準が曖昧であることは認めますが、 ここまで来ると、自分の肉食を正当化したいがための揚げ足取りにすら思えます。 絶対的な正当性がないと、ベジタリアンになってはいけないのでしょうか? 逆に肉好きの人は絶対的な信念を持っているのでしょうか? (私は違うと思いますが、言い返しはしません。) いずれにせよ、ベジタリアンを否定的な目で見る人は周りに少なくありません。 奇異の目で見られることは覚悟の上でしたが、やはり生きづらさはあります。 同じような経験をされた方は他にも居るのでしょうか。 また、経験はなくとも私の意見についてどう思われたでしょうか。 どちら側の立場からでも結構ですので、皆さんの意見が聞きたいです。 長くなってしまいましたが、よろしくお願いします。

  • 食肉用動物の幸せ感

    家畜は将来食肉にされるために管理されて育てているので 食べるために殺してもかまわないという意見があります。 一方で、家畜用として管理されて育てられるのがかわいそうに思うので 菜食主義を行っているという人もいます。 菜食主義ではないが、食べる瞬間まで自由に生活させ 人間が食肉にしたくなった時期まで自由にさせるのが 食肉用動物にとって幸せなのではないかと考える人もいます。 はたまた野生だろうと家畜だろうと関係なく 肉は肉だと考える人もいるでしょう。 お伺いしたい点は、 ・動物を殺して食べることについてどう思うか ・ベジタリアンの方がいらっしゃればなぜベジタリアンになったのか ・管理されている動物なら食べてもかまわないのか ・管理されている方がいいのか ・できる限り自由な時間を与えた方がいいという意見に対してどう思うか などです。 正しい答えなどないということはわかっています。 が、いろいろな人の意見を聞いてみたいと思っています。 よろしくお願いします。

  • 人権はあるのに動物に権利なし?

    先ほど色んな質問を読んでいたところ、人権についての回答がついているものがありました。 そこでふと思ったのですが、人権は激しく主張するのになぜ動物は守られないのでしょう? 動物も殺される時には泣き叫び、抵抗しますし… じゃあお前は肉を食ってないのかっていう意見はおいといて 穀物、野菜だけでも生きていけるので… なぜ動物は簡単に殺されるのでしょう? 命に差があるのでしょうか? 生きていく上で必要以外の回答が得られるとありがたいです。 結構簡単に殺してるなぁって思ったので

  • みんな犯罪者なんです

    動物殺して肉を食べたりしてるでしょ? あれも犯罪ですよ。 動物を肉を食べる目的で殺すのを禁止する法律はないと言っても、命を奪ってる訳ですから、殺人と同じです。 人が育つのに動物の肉は必要不可欠というのは、人間が勝手に決めたことです。 みんな犯罪者なんです。地獄に落ちれば等しく罰を受けます。何が言いたいかと言うと、この事実に気づいてない愚か者が、罪を犯した人に強く当たるのはちょっとおかしいんじゃねぇのって話。

  • 過剰に動物を食べることは法律違反になり得ないか

    なるべくわかりやすく書いたつもりです なんでこういう考えになったのかとかは私の他の質問を見ていただければ 分かるかもしれないです すみませんがメンタルが弱いので人格批判が入っていれば読みません 動物の命が大切 理由:人間の本能的なもの ↓ むげに動物の命を粗末にする虐待を守らないといけない ↓ じゃあなんで過剰な肉の摂取は許される? ↓ 過剰摂取している人は食は生きるために仕方ないで思考停止しているから 必要量以上食うのがどうなのかなどは考えていない ↓ だから肉を必要量以上食う ↓ じゃあ明らかに必要以上に肉を食べることを法律で禁止すべきでは? 虐待について  虐待の一つのデメリットの可能性のあるもの    虐待は人間を暴力的にして他人に迷惑をかける そして社会の秩序を乱す (しかしぼくらはそれでも肉を食うという 本に書かれているのですが動物虐待と暴力犯罪が結びつくかは不明瞭) つまり社会の秩序が乱れるかわからない もし虐待が動物が痛がってるからダメ、動物の人格?を侵害している だから法律違反にする という理論であれば過剰な肉の摂取は 人間の美味しいものを食べたい欲のために殺され 栄養は排泄物でほぼ流れる 人間の欲のために殺す これは動物の人格を侵害しなおかつ 人間が生きるためという言い訳も出来ない これは立派に罪と認められることではないでしょうか ※あくまで飽食で植物などで肉食を代用出来る現代人に焦点を当てて書いてます ※植物も命という意見は今回の話では関係ないというのは 動物虐待を引き合いに出してる点からわかると思います

  • ブリーチの尸魂界についての質問です

    ブリーチに登場する世界に現世と尸魂界とありますよね。 現世で亡くなった人は尸魂界に転生し、尸魂界で亡くなった 人は現世に転生し両世界のバランスを保ってることは理解 しているのですが、尸魂界の人間(死神)について分からない 事があります。 ・恋次、ルキアといった一般の死神はもとは現世で死んだ人の魂なんで  すよね?  その頃の記憶は持ったままなのでしょうか? ・白哉や夜一など貴族はもとから尸魂界で生まれ尸魂界で死ぬので現世で  の魂は関係なく普通の人間のように寿命があるのですか? ・貴族以外の死神は一定の時期が過ぎると現世に生まれ変わるみたいな事  を読んだ記憶があるのですが、病気や怪我などで死ぬという事なのでしょうか? 質問ばかりですみません。予想でも構いませんのでご意見を聞かせて下さい。

  • 肉(家畜動物)食やめませんか?

    肉(家畜の)食に矛盾を感じながらも続けている方に質問です。 私は昔は焼肉、ハンバーグ、ケンタッキーとお肉大好き人間でした。 でも、生きている動物にもとても強く愛情を感じ、肉食が大好きな自分と、自分の動物への愛情に矛盾を感じていました。それでも弱肉強食だし、身体のためにやむを得ない、感謝して食べれ良いのだ、と、矛盾を感じながらもずっと肉食を続けていました。 しかし、いろいろな本やサイトで肉食について書かれていた以下のような内容を読み、肉食を今ではきっぱりとやめました。 ○その残酷な殺され方 ○家畜動物は屠殺される前、これから殺される事を認識していて、恐怖に震え涙を流す事もあるそうです。 ○生まれた時から将来殺される為に狭いスペースに閉じ込められまるでナチスドイツの収容所と同じ、人間と同じ様に大変なストレスと苦痛を感じている。 ○肉食は実は人間の身体にとっても有害であること(営業妨害になる為報道されない) ○地球温暖化の主要原因は家畜(反芻動物の吐き出す二酸化炭素、牧草地にする為の森林伐採等) ○家畜に与える餌の大量の穀物を飢餓に苦しむ国の人々に人々に回せば地球上の食糧問題はなくなる。(1人分の肉食に必要な餌は飢餓に苦しむ人6人分の食糧不足に相当する) 引用したサイトを敢えてここでは紹介しませんが、キーワード検索すれば沢山出て来ます。 私は肉食をやめて2年になりますが、動物性タンパク質をやめた替わりに納豆、豆類等の植物性タンパクを多く摂り、ご飯やパンを、玄米(五分)や全粒粉パンにするなど工夫する事で、動物肉と白いご飯、白いパンの食事だった時より今の方が体調もよくなり、ダンスのインストラクターをしていますが身体も軽く、昔はあった貧血もなくなりました。もちろん野菜、きのこ、海藻類も充分摂っています。(ずっと摂っていた動物性タンパクを急激に止めるのはよくないそうなので魚介(動物に比べればずっと意識は 低い)もまだ少し摂っていますが、それも少しづつ減らして行く方向です) 肉食を続けている皆さん、 それでも「弱肉強食だし、身体のためにやむを得ない、感謝して食べれ良いのだ」という考えの方には何も申しません。 少しでも矛盾を感じている方、それでもやめられないのは何故ですか?