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門の色と身分。

黄門は中納言。 赤門、白門、青門もありましたか? 黒門町の伝七がいた黒門。 これはどういう身分の人の門でしたろう?

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noname#224207
noname#224207
回答No.1

青、白、赤、黒と門の愛称としてはありました、というかあります。 ただし、黄門様のような役職と言いますか身分の呼称にまでなったものは寡聞にして知りません。 江戸時代に将軍家の娘が嫁にいった先の屋敷の門を御守殿門と呼び丹塗りにしたことから赤門と呼ばれました。 加賀前田家の赤門は現在東京大学のシンボルとして残っています。 筑前黒田家の門が黒かったことから黒門と呼ばれていました。 専修大学が創立された際に東大の赤門にたいして正門を黒くして黒門としてシンボルにしました。 数年前に復元されて現在もあります。 東大の構内に赤門に対して青門というのがありました。 (門は池之端門として残っていますが、現在青門とはあまり呼びません) 専修大学に対して中央大学を白門と呼んでいました。 >これはどういう身分の人の門でしたろう? 上野寛永寺の入口の門が黒かったことから、門前の街を黒門町と呼び現在も地名として残っています。 黒門も上野公園に残っています。 黒門町の伝七は捕り物小説の主人公ですが、黒門町界隈を縄張りとしていた岡っ引きとして設定されたものです。 浅草寺の幡随院長兵衛からの連想でしょう。 落語の世界では、八代目桂文楽が黒門町に住んでいたことから、黒門町と呼ばれていました。 その他に大阪に黒門市場があります。 近くにあった圓明寺の山門が黒かったことに因んでいます。

krya1998
質問者

お礼

博識なるご薀蓄、ありがとうございました。 素晴らしいおご薀蓄です。

その他の回答 (2)

回答No.3

大変申し訳ございませんでした。 以下の事については、全く聞いてはいませんでしたよね。 早トチリをしてしまいました。 訂正してお詫び申し上げます。 <<まずは、水戸家(黄門さま)の門構えは「黄色」ではありません。 回答から先に述べますと「普通の黒」でした。 「黄門」とは、日本の朝廷かせ賜った官職名を「唐名」に置き換えたものです。 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%94%90%E5%90%8D 上記のように、水戸光圀は「中納言」に任じられていましたので、「黄門」とも呼ばれました。 他にも、太閤秀吉(豊臣秀吉)なども、「関白」に任じられていましたので、唐名で「太閤」とも呼ばれました。>> >>赤門、白門、青門もありましたか? ★赤門・・・・江戸の武家屋敷等では、全て「黒門」でしだか、 東大の赤門・・・先の回答をご参照ください。 その他としては、 沖縄の「守礼門」・・・ご存知の通り、これは、元々は日本の領土ではなく、独自の王国でした。王が代わるたびに、中国から使者を迎え、王として認めてもらっていました。赤色(朱色)、または、ベンガラ色と言われ、めでたい門、という他に、「高貴な門」という意味から赤門になりました。 但し、屋根瓦については、諸説あるようで、最初は黒だった、しかし、後に赤色を乗せた、という説もあります。 また、神奈川県の金沢文庫にある、真言律宗の別格本山にあたる「称名寺」なども赤門のようです。歴史は古いらしく、それ相応の格式があったため「赤門」を造ったようですね。 ★白門・・・金沢城の三の丸の出入り口は(通称)「白門」と呼ばれました。白い漆喰壁が特徴です。 ★黄門・・・特に全体が黄色に塗られた門は、日本では無いようですが、寺院関係で特に「黄檗宗」関係で、一部が黄色や青色、赤色などで装飾された門があったように記憶しています。 ★黒門・・・先の回答をご参照下さい。 >>黒門町の伝七がいた黒門。 先の回答をご参照下さい。 中国(特に唐代)に比べて、門の色による格式の意識はなく、日本では「重厚さ」を追い求めたためか、「黒」が一般的で、「赤」はめでたい色として一部に用いられたようですが、カラフルな門は、近現代になってから登場するようになったと思われます。

krya1998
質問者

お礼

わざわざありがとうございました。 とても勉強になります。

回答No.2

こんにちは。 まずは、水戸家(黄門さま)の門構えは「黄色」ではありません。 回答から先に述べますと「普通の黒」でした。 「黄門」とは、日本の朝廷かせ賜った官職名を「唐名」に置き換えたものです。 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%94%90%E5%90%8D 上記のように、水戸光圀は「中納言」に任じられていましたので、「黄門」とも呼ばれました。 他にも、太閤秀吉(豊臣秀吉)なども、「関白」に任じられていましたので、唐名で「太閤」とも呼ばれました。 確かに、中国(主に唐時代頃より)では、青、黄、赤(朱)、白、黒、を五色(ごしき)と呼び、官職の位により、門の色として使うことができました。 一般庶民や官職の位を超えて、この五色を使うことが許されず、この五色を「禁色」(きんじき)と呼びました。 ちなみに、誰でもが自由に使用できる色を「許色」(うるしいろ)と呼びました。 主に「ただの木の色」(茶色系統)は許色と呼ばれました。 江戸時代の武家では、一般的には「黒」でしたが、では、赤門(東京大学に残る)は? と言うと、 文政10年(1827)、加賀藩の13代藩主、前田斉泰に11代将軍家斉の第21子である溶姫が輿入れをした際に、おめでたい色としての赤門を造ることが決まりとなっており、許されたものです。 それ以外は、全て「黒」でした。 従って、「黒門町」は寛永寺の門が黒かったことから、その辺一体を黒門町とよぶようになりました、 しいて、家格の違いによる門構えとしては、「薬医門」、「腕木門」、「冠木門」、「門柱だけ」などに分かれていました。 http://japanmeguri.seesaa.net/article/407493889.html おおよその区分けとしては、 薬医門・・・公家や大名、それに準ずる武家。格式の高い寺院など。 腕木門・・・主に旗本など。 冠木門・・・主に御家人など。多少なりともお役目のある者。 門柱だけ・・御家人の中でも、いわゆる無役の「貧乏御家人」。小普請組などに多かった。 しかし、江戸幕府の中期頃は、これらは厳密に守られていましたが、終焉の頃になると場違いの者、医者、按摩なども財にまかせて好き勝手な門を建てるようになりましたが、お上もすでに権威が衰退していましたので、取り締まることができませんでした。

krya1998
質問者

お礼

相変わらずのご薀蓄、感謝申し上げます。 ありがとうございました。

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