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領土拡大のスピードが違うのはなぜ?

劉邦が反秦の兵を挙げてから天下をとるまで大体10年くらい、曹操が30年くらい戦い続けてその3分の1くらいを支配。 チンギスハンが生涯戦い続けて1260万平方キロメートル。 信長も信玄も家康も若い頃から同じように小さな勢力から戦い続けて勝ち続けて信長は700万石で信玄は100万石くらい家康は800万石。秀吉や家康は日本を征服するのがやっとチンギスハンはその何十倍もの領土を征服。 家康は生涯戦い続けて日本を支配。頼朝は大体10年くらいで日本を支配。 チンギスハンが騎馬民族だから広大な領土を獲得できたというなら他にも確か騎馬民族の国家はあったと思います。名前は忘れましたが こういった差はどこから生まれてくるのでしょうか? 曹操が劉邦の三分の一しか強くなく、信玄が家康の8分の一の賢さしかなく、チンギスハンは家康の30倍以上戦上手とは思えません。 皆若い頃から戦い続け勝ち続けているのに一体どこでなぜこのような差が生まれてくるのか道理が分かる方がいれば教えてください。 こまかい領土の大きさとか石高は面積じゃないとか誰々は負けたことはあるとか朝廷が力を持っていたとかいう細かいツッコミはしないでください。分かっていますから

noname#213315
noname#213315
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回答No.4

地形、密集地がどのようになっているかで違うのでは。 日本は山川があるので、なかなか広げにくいかと思います。 戦国時代などは個別の領主がいての拡大です。 源氏は平氏と2大(他がありますけど)勢力でした。 騎馬民族は戦争に基本的に強いです。テュルク系などでいろいろありますね。 中国の王朝もかなり苦戦したり、北方の民族の王朝も多いです。 農耕の民族は文化は築くものの戦争はやはり大変なものがあります。

回答No.3

武器とか戦い方とかが違って、相手に優位な場合はかなりの速度で拡大します。銃を手に世界を占領した欧州などが一番ひどいでしょう。 日本は、武田の騎馬が強いとか信長の鉄砲がすごいとか多少の差異はあっても、相手も同等の武器などを持ってるので、それほどの差を生むのが難しいのでしょう。

  • eroero4649
  • ベストアンサー率31% (10396/32704)
回答No.2

ミもフタもないことをいってしまえば「時代背景が違う」となりますよね。例えばWindowsがOSのスタンダードとして文字通りに世界を支配しましたが、今からどんな天才ビジネスマンが現れてもWindowsのように世界のOSを支配することは無理でしょう。 チンギスハンについていえば、まずは彼にとって条件が揃っていたというのはあります。当時はシルクロードでの商活動が活発で、商人は入国税を取られたくないからシルクロード上に統一国家が生まれることを望んでいたんですね。強い統一国家に支配されれば、航路も安全となります。そしてチンギスハンは彼ら商人を保護したので、商人からの主に財政面での強力な支援が得られたというのがあります。そしてちょうど彼の周辺に軍事強国が存在しなかったという面もあります。金も西夏も国家としてのピークは過ぎていましたし、中東にも強力な軍事大国がありませんでした。そしてチンギスハン本人が世界史上に名を残す英雄英傑の中でもトップクラスの野望とエネルギーの持ち主だったということもあると思います。 現在のアジア人のうち約1600万人と見込まれる人々は、「ある一人の男」を共通の先祖に持つことがDNA上に判明しているそうです。で、おそらくその男はチンギスハンではないかといわれてるそうですよ。いったい何人の女に種付けをしたのか、想像もできませんね・笑。戦争しながら征服しながら女への種付けも怠りなかったわけですから想像を絶するバイタリティーです。Wikipediaにもありますが、「男の最大の快楽はなにか」の答えが「敵を撃滅し、これをまっしぐらに駆逐し、その所有する財物を奪い、その親しい人々が嘆き悲しむのを眺め、その馬に跨り、その敵の妻と娘を犯すことにある」なんだから・笑。ウルトラスーパーデラックス朝青龍です。 長くなりすぎるので個別のケースはチンギスハンだけにするとしてどの例でも、あるブレイクスルーを突破するとそこから雪崩をうつように一気に版図が広まるというのはあります。決戦に勝利すると、小国とか諸侯が「これからはあの人の時代だ。あの人についていこう」ってなるのです。曹操は赤壁で一敗地に塗れたのが痛かったでしょうね。あれに勝っていたら、全土統一したのではないかなと思います。

回答No.1

時代も場所も社会的背景も違うといことと、そもそも「領土」や「支配」の定義が一定していないからでしょう。

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