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上杉謙信の信者って

上杉謙信の信者って、軍記や家譜のデタラメを妄信し、関東(北条以外)、東北(出羽庄内)、佐渡、信濃、飛騨、加賀・能登・越中・越前も?、越後本国の大領土があったと思っているのか? ゆうに、400万石くらいあるぞ。 徳川家康は、250万石で天下取っているのだが。。。。。 敵の敵=勝手に与力扱いして、勢力圏という曖昧な定義で、領土化しているのではないのか?????? その論理だと、関が原の家康は、日本の8割方支配していたことになるな。 なお、佐渡、出羽庄内、越後内乱統一は、景勝以降である。 学研の歴史群像などには、関東・北陸・東北・信濃の大領土があったみたいに書いていますよ。まともな同時代史料を読めば、上杉家の主張は、大ウソだって、わかりますよ。謙信死後に、なんで崩壊して、一気に越後だけになるの?もともと越後だけだからでしょ。

みんなの回答

  • Verhalten
  • ベストアンサー率17% (36/201)
回答No.5

>永禄12年(1569年)には蘆名盛氏・伊達輝宗の仲介を受け、本庄繁長から嫡男・本庄顕長を人質として差し出させることで、繁長の帰参を許した。また繁長と手を結んでいた大宝寺義増の降伏により、出羽庄内地方を手にする。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8A%E6%9D%89%E8%AC%99%E4%BF%A1

回答No.4

250万石で天下って 笑 250万石は徳川家の直轄地だから 笑

  • itou2618
  • ベストアンサー率26% (319/1208)
回答No.3

上杉謙信と織田信長との決定的な違いは、謙信は室町幕府の体制を維持しようという考え方でしたから、越中で一向一揆との戦いに勝利しても、家臣に領土を与えず、もともと越中を支配していた守護代に任せました。 守護代は謙信の子飼いではありませんから、簡単に裏切ります。 景勝の代になって、越中の裏切った守護代を攻め滅ぼし、子飼いの家臣を魚津城に置いて支配しました。 景勝は越中の兵をまったく信用していず、城の本丸は越後の兵だけで守らせ、二の丸や三の丸は越中の兵2人につき、越後の兵を1人、監視に付けるように配置しろと、指示しています。 越中が上杉の勢力範囲となっていたことはありますが、謙信や景勝を「おらが殿様」とは思っていなかったですね。

noname#188107
noname#188107
回答No.2

なんせねつ造が大好きですからね。

  • jkpawapuro
  • ベストアンサー率26% (816/3045)
回答No.1

どこの出典を批判しているのか分かりませんが、関東(北条以外)、東北(出羽庄内)、佐渡、信濃、飛騨、加賀・能登・越中・越前というのはいくらなんで誇張が過ぎます。 一方越中に関しては上杉謙信の時代は勢力範囲であり、景勝の時代に織田侵攻で失ったものでしょう。越後だけではありません。

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