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信仰において拝むこと、唱えることとは
信仰においては、拝むこと、あるいは唱えるということは日々における信仰の実践としてやはり必要不可欠なものなのでしょうか。
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- 畑 茂夫(@Flareon)
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朝立ちと同じだ。 健康を保つ生理反応だ。
- shiren2
- ベストアンサー率47% (139/295)
必要なものは信仰心と教えの実践であって、拝むことも唱えることも 必要不可欠でもなければ、重要でもないです。 例えばキリスト教徒でも仏教徒でも、 祈りや参拝は欠かさないのに、教えに背くようなことを平気でするような人はたくさんいます。
- hekiyu
- ベストアンサー率32% (7193/21843)
拝んだり、唱えたりすると、アルファ波が出て 時には恍惚になったりします。 仏教の某宗派によれば、これぞ悟りだ、という ことにもなります。 これは医学的には、単純作業を繰り返すこと により、体内麻薬が生成され、情動神経系に おいて報酬が与えられるからということが 判明しています。 だから、宗教は、唱え拝むことを奨励するわけです。 その方が布教に都合がよいからです。 理屈で考えたら宗教などやっていられません。 感覚で悟らせる方が、布教には効果的なのです。 ”日々における信仰の実践としてやはり必要不可欠なものなのでしょうか。” ↑ 以上から解るように、これは信仰の実践とは 関係ありません。 しかし、卒倒するほど恍惚状態になると 健康に良いことが知られています。 これが、情動神経系において報酬だ、と される所以です。
- yaasan
- ベストアンサー率22% (2728/12284)
信仰において拝むこと、唱えることはその間、無心になったり願うことだけに集中したりする時間になると思います。 そうなれば、自身を深く見つめ、今後どう生きればいいか、願いを叶えるにはどうすればいいか、の答え(ヒント)をつかめる可能性が広がるのだと解釈しています。 ですから、具体的な願いなく本当に無心で何も考えずに惰性でやるには無意味だと思います。
- oyatsuya
- ベストアンサー率21% (111/517)
リンク先はクリックしてなく、見てないです。 私には不必要。 でも、あちらのことを勉めて強いて身に付けたいとか勉めて強いて身に付けなければという人には必要だと思います。