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神は概念であるというだけのバカらしさ

stmimの回答

  • stmim
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回答No.5

神は概念である、というのはこうゆうことじゃないですか? 人間というのは勝手にいろいろな概念を作り出します。それが存在するとか存在しないとかおかまいないしに。そして概念として作ってはみたものの、実態は存在しないということもよくあります。神という概念も、概念だけで実態は存在しない。そうゆうことを言いたいのでしょう。 つまり神は人間の頭の中だけの存在。空想の産物。そうゆうことなんだと思います。 ただ、神を信じたい人は信じるということでいいと思います。 ひとそれぞれですから。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  ★ 神という概念も、概念だけで実態は存在しない。そうゆうことを言いたいのでしょう。  ☆ と言うのならば その概念内容を まづ自分が明らかにしてからその議論を始めなければなりません。  《神は概念である》と言っただけでは 話になりません。  成るというのなら 《概念》はぜんぶ《実態は存在しない》ということになります。  《犬》という概念は 類としての――犬という類または種としての――表現ですから その抽象性のゆえに 時に《犬なる概念は 実態として存在しない》という議論がなされることがあります。  それは そうだ。具体的な一匹ごとの存在から類概念として《犬》をみちびき出したのだから 当たり前だ。  でも 当然のごとく具体的なワンちゃん一匹づつの《実態》としての存在と対応しています。  つまり それでは《神という概念》はどうか?  何の説明もしていません。話になりません。  ★ つまり神は人間の頭の中だけの存在。空想の産物。そうゆうことなんだと思います。  ☆ なぜですか? それは 何も説明しないですでに初めに論点(結論)先取で自分の頭の中だけで決めていたというに過ぎません。  ★ ただ、神を信じたい人は信じるということでいいと思います。 / ひとそれぞれですから。  ☆ そういう問題ではありません。論点がずれました。  けっきょく《神は概念である》とだけ言って あとは信じたい人は信じればよいという含みを持って けっきょく哲学を放棄した に過ぎません。つまり 思考停止のアホバカ状態がよほど好きなあたまです。  いま現代にあって 日本人の哲学は こういう状態にあります。

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