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神は概念であるというだけのバカらしさ

 《かみ》と 言葉で言っているのだから 何らかの概念であるに決まっている。  それで終わってしまうという神経が分からない。  なぜ人間は 世界のすべてを概念で知ってしまい得ると思うのか。  《無限》は 概念であるだけか?  二で割っても三で割っても その商はやはり無限であるというその概念説明は それで分かったと言えるのか。

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noname#221368
noname#221368
回答No.1

 無限についてだけですが、前も言いましたように、 >二で割っても三で割っても その商はやはり無限であるというその概念説明は それで分かったと言えるのか。 については、わかったとは言えないと思っています。上手く表せませんが、「わかったの程度」は以下のようなものと、思います。   ・納得 → 理解 → 了解.  納得は、少なくとも内部矛盾や周辺環境(常識?)との不整合はなさそうだと、受け入れた状態。理解は、論理的・逐語的に追跡し終えた状態。了解は、手に取るようにわかった状態(いわゆる意訳できる状態?)。  意訳可能を了解とするならそれは、論理的・逐語的・概念的理解をやり切った後に起こる事です。  ところが無限は、「手に取れたら有限だ」という論理的制約があるので、真の意味での了解は無い気がします。しかしそれでも、直感的な了解(非概念的了解?)はある。  また言いますが無限公理です。とんでもない仮定なのに、誰も文句言わない(^^;)。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  無限にかんする《概念説明》:  ★ については、わかったとは言えないと思っています。  ☆ ですから 《神は 概念である》と言うだけでは 意味を成さない。神は その無限であるゆえ。    ★ ~~~~~~~~~~~~~~  上手く表せませんが、「わかったの程度」は以下のようなものと、思います。   ・納得 → 理解 → 了解.  納得は、少なくとも内部矛盾や周辺環境(常識?)との不整合はなさそうだと、受け入れた状態。  理解は、論理的・逐語的に追跡し終えた状態。  了解は、手に取るようにわかった状態(いわゆる意訳できる状態?)。  意訳可能を了解とするならそれは、論理的・逐語的・概念的理解をやり切った後に起こる事です。   ~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ というところの《了解》には 神にかんする概念説明では人は 到らない。    ★ ところが無限は、「手に取れたら有限だ」という論理的制約があるので、真の意味での了解は無い気がします。しかしそれでも、直感的な了解(非概念的了解?)はある。  ☆ ここですか 問題は。  (あ) ★ 無限は、「手に取れたら有限だ」という論理的制約がある  ☆ という命題は けっきょく《神は 概念である》という定義に 《ただしそう言い切っておしまいにすることができない余地がある》という但し書きを添えたものでしょう。  (い) 言いかえると 概念として神を扱っているが じつはそれは 便宜的にそう使い慣わしているということであって その本体(正体)は なおナゾである。というふうに 精確を期している定義でしょう。それが  ★ 真の意味での了解は無い気がします。  ☆ の実質的な中身です。無限の扱いは 補助線を引いただけのことなのですから。  (う) 問題は  ★ しかしそれでも、直感的な了解(非概念的了解?)はある。  ☆ という添え書きに やはりみたび・よたび 成ります。  (え) そのことは 次の説明と同じですので 合わせて検証しましょう。  ★ また言いますが無限公理です。とんでもない仮定なのに、誰も文句言わない(^^;)。    (お) すなわち 《便宜的な使い慣わし》の問題に帰着するということを 言わば最後に添え書きしておけば 最初の《神は概念である》という定義が それとして通用すると言っているのかどうか? となります。  (か) 答えは 自明です。当座の便宜のために但し書きつきで あたかも公理としてのごとくみなが用いる。に過ぎない。――です。  (き) つまりは 決してしかるべき結着はついていない――これです。これが 答えです。  (く) 哲学は 《文句を言う》のです。なぜなら 科学者にあっても誰もが 物言いを言っていいし実際に言えるというところの  ★ とんでもない仮定なのに、誰も文句言わない(^^;)。  ☆ だけであるのだから。  神はサイコロは振るかも知れませんが 近似値にはなじみません。すなわち  ★ ところが無限は、「手に取れたら有限だ」という論理的制約があるので、真の意味での了解は無い気がします。  ☆ ではなく そうではなく   ○ ところが無限は、「手に取れたら有限だ」という論理的制約があるので、真の意味での了解は 現象の知覚や理性による思考・認識としては(=それらこそが 論理的かつ現実的な制約のことなのだから) 無い気がします。   これを言いかえると 神についての人間による了解は あるかどうか・あり得るか否か それが人間には分からない。  ですよね?  あるいはさらにつまり:  ☆☆ 二で割っても三で割っても その商はやはり無限であるというその概念説明は それで分かったと言えるのか。  ☆ というとき その概念説明をとおして人間は ひょっとすると――あくまでその人の主観の内でのことであるが―― 分かったという場合がなきにしもあらず。と成り得ます。つまり 神について《人間は決して分からない》とか《分からないことが証明できた(この場合は 非知ではなく 不可知である)》とかという答えにはならない。(なるかならないかが 分からないといった定義の仕方がつづく)。  よって 《神は概念である》という定義は マチガイである。仮りにひとつの概念であったとしても その概念は すでにいちど無限の場ないしチカラを経由して来ているし それはあくまでひとりの人間の主観内における出来事にとどまる。――こう定義しなければならない。  このように回りまわってたどり着いたところで やっと:  ★ しかしそれでも、直感的な了解(非概念的了解?)はある。  ☆ という表明が――それは 《非概念的な了解》として・つまりはけっきょくヒラメキとして―― ひとりの人間の《固有の時(非思考の庭)》の枠内において ささやかに持たれ得る。かも知れない。

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noname#210675
noname#210675
回答No.7

構造主義的にいえば、マルクス同様『上部構造の存在を仮定する』ってことなのだと思いますけれどね。要は、構造主義以前の哲学とは実存に執着しすぎているのですよ。構造主義は哲学ではないけれどね。重力は、存在しませんし『説明概念』ですからね。概念構築能力と言う意味で『かみ』を仮定することは、抽象世界を構築する上で重要な役割を担っていたと思いますけれどね。自然科学の発展が、アジアより西洋で著しかったのは、アジアの宗教では上部構造の存在を仮定しないからだと思いますね。私は構造主義を支持しますね。人の思考は言葉の中で閉じているものだと思います。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  ううーむ。ご説明が短すぎます。構想主義を・つまり構造主義なんかはと勝手に捉えて卒業したと思っているわたしには。  ★ 私は構造主義を支持しますね。人の思考は言葉の中で閉じているものだと思います。  ☆ ふうーむ。    よく捉えきれないので ぎゃくにこちらから質問します。   (あ) 構造主義は 社会が構造つまり関係からのみ成っていると見て 人間にとっては《無主体の過程》だと見ていると捉えてよろしいですか?  このひとつに絞っておきましょう。  あとは どうかなと引っかかったところを取り上げておたづねします。  ★ 概念構築能力と言う意味で『かみ』を仮定することは、抽象世界を構築する上で重要な役割を担っていたと思いますけれどね。  ☆ (い) 《神》は 抽象世界の問題ではない。  と考えます。なぜなら 次のように《非経験の場 = 非知なるナゾ ⇒ わが心なる非思考の庭》というふうに定義し得る場ないしチカラの想定によると見るからです。  (う) 認識の対象として世界を区分する。    経験事象       可知         既知         未知       不可知 (知り得ないと証明された定理など)    非経験の場 (有無を超え因果関係から自由な場を想定)       非知 (知り得るか知り得ないかが知り得ないナゾ)  (え) 非知なる非経験の場を心に受け容れると わが心に非思考の庭が成る     信じる:非思考の庭:ヒラメキ     -------------------     考える:思考の緑野:コギト     感じる:感性の原野:センスス・コムニス  ☆ むろん 《非経験の場》が 《かみ》であり――言わば普遍神であり―― 《非知》は 《絶対や無限》と同じように普遍神を説明する概念であり この非知なる非経験の場を心に受け容れる(=信じる)と そのわが心〔をも超えた自然本性ぷらすアルファなるところ〕に非思考の庭が成る。という寸法です。  単なる《抽象世界》ではない。はずですから 物言いをしました。  ★ 『上部構造の存在を仮定する』 / アジアの宗教では上部構造の存在を仮定しない  ☆ 《上部構造》うんぬんにつきましては いささか違った観点をすでに構築しました。  (お) 社会形態――すなわち国家――は 次のような構造を成すと見る。    《スサノヲ市民社会 - アマテラス公民圏》連関制  (か) これまで 《 S圏・従属 - A圏・主導》という逆立ちした連関制であった。理論としては すでに民主制にあって 《 S圏主権・主導 - A圏・従属》と成ってはいます。  (き) このスサノヲ・アマテラスなる術語は 次のようにマルクスを――罪を告白せねばならないでしょうか――《模倣・剽窃》しています。  ▲ ( K.マルクス:ユダヤ人問題によせて) ~~~~~~~~~~   結局のところ   ( S ) 市民社会の成員としての人間(* つまり生活者市民スサノヲ)が 本来の人間とみなされ   ( A ) 公民 citoyen (* 人格の全体でもっぱら公共の仕事に就くアマテラス公民)    とは区別された  ( S ) 人間 homme とみなされる。  なぜなら   ( A ) 政治的人間(* アマテラスのそういう側面)がただ抽象された人為的につくられた人間にすぎず 比喩的な精神的人格としての人間であるのに対し   ( S ) 市民社会の成員としての人間(* スサノヲ)は 感性的な 個体的な もっとも身近なあり方における人間だからである。  【 S‐A 連関】 《現実の人間》は  ( S )  利己的な個人の姿(* もしくは 感性を自由気ままに発揮しあやまちうるスサノヲ人間語)においてはじめて認められ   【 A‐S 連関】 《真の人間》は  ( A )  抽象的な公民の姿(* もしくは アマテラス普遍科学語ないし人格語)においてはじめて認められるのである。                   (城塚登訳)  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ★ 要は、構造主義以前の哲学とは実存に執着しすぎているのですよ。  ☆ それは おそらく《主意主義とか主知主義とか あるいは 主体に絶対性を付与する傾向》を《実存主義》の一面として捉えたからではないでしょうか。  《実存》といえば けっきょくわたしから見れば  (く) 《スサノヲ市民 - アマテラス公民》連関なら成る或る個人における構造的な生活世界  あるいは  (け) 《あやまちうるスサノヲ人間語 - あやまたざるアマテラス普遍人格語》の構造的にしかるべく連関する人間存在とその動態  だと考えられます。ので 棄ててはいません。  あまりにも大きな主題をいくつもかかえたご議論です。  少しづつ解きほぐして行けるのかどうなのか。・・・

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  • stmim
  • ベストアンサー率24% (57/236)
回答No.6

> ☆ と言うのならば その概念内容を まづ自分が明らかにしてからその議論を始めなければなりません。   gooの辞書では神とは「信仰の対象となる霊的な存在」とあります。 これではいかがですか? この定義はよくできているなあと思いました。つまりどんなに超越した能力を持つ存在であっても「信仰の対象」でなければそれは神ではないということ。 また、神とは「霊的」な存在であるということです。確かに実体的な存在ではないですよね。 > つまり それでは《神という概念》はどうか? 犬だったら、これが犬ですよと事例を指し示すことができます。しかし、これが神ですよとリアルに指し示すことはできないですよね。それは竜や妖精と似ています。おとぎ話をしめして「ほらこれが竜ですよ」と示すことはできますが、リアルな世界で示すことはできません。ということは神は竜や妖精と同じように実態として存在しないということだと思うのです。 >☆ なぜですか? それは 何も説明しないですでに初めに論点(結論)先取で自分の頭の中だけで決めていたというに過ぎません。 過去にいろいろ説明したと思いますが、こうゆうことです。 神は超越した能力を持っていますよね。何の能力もないとしたら、それを神と呼べるのか?という問題が発生します。ではその超越した能力の存在はどうやっって、生成したのか?という問題が発生します。また、そうした超越した能力の存在が自然に偶然に生成されることは非常に難しい。それが神が存在しないと考える私の理由です。「神をつくったのは誰か?」問題です。 > ☆ そういう問題ではありません。論点がずれました。 そうですか?要するにbragelonneさんは神を信じたいわけでしょ?それはそれでいいと思いますよ。 bragelonneさんの書いていることは「信仰込み」なので哲学にはなじまないと思うのですよ。要するに哲学とか言われていますが、ご自身の信仰を語っているだけなのです。私は神を語るにしても信仰抜きで考えないと哲学にはならないと思います。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  ★ gooの辞書では神とは「信仰の対象となる霊的な存在」とあります。 / これではいかがですか?  ☆ げんみつに言えば:  (あ) 《信仰 あるいは 信じる》とは何か?  (い) 《霊 霊的〔な存在〕》とは 何を言うのか?  がなお問われるものと思います。  同じくげんみつを期すとすれば:  (う) 《超越した能力を持つ存在》というとき 何を超越しているのか?   が問われなければなりません。ま これは 《経験世界を》であるとは考えますが。  ★ ということは神は竜や妖精と同じように実態として存在しないということだと思うのです。  ☆ いえ。龍や妖精は 比べられるものがあります。  蛇のお化けであったり 主に自然界における不思議な(科学的に解明されていないかたちの不思議な または すでに解明されていて まぼろしであると分かっていながら ただ想像の世界であそぶために存在するとおもしろいというようなかたちで不思議な)現象であったりします。  おそらくそれ以上の内容を付されることはないでしょう。つまり いわゆる神として受け留められることはないはずです。    ですから 神とは何か? は依然として問われなければなりません。  ★ 何の能力もないとしたら、それを神と呼べるのか?という問題が発生します。  ☆ げんみつを期すならば そうであるかどうかは 神については分からないのです。分かるか分からないかが 人間には分からない。というふうに定義するしかないものです。  神は 何の能力もない――のかも分からないのです。人間が規定し得たら その規定する知性の能力の範囲内に 神が 閉じ込められます。そういうものではありません。  ですから ほんとうには  ★ 「神をつくったのは誰か?」問題  ☆ は ないのです。あると言う人には説明しなければなりませんが。  ★ 要するにbragelonneさんは神を信じたいわけでしょ?それはそれでいいと思いますよ。  ☆ これも論点が違います。  あるいは 無理に合わせようと思えば こうです。  《その存在が知り得るか知り得ないかが 人間には知り得ないナゾ――これを 非知という――》なる何ものかと人間のわれとの関係 これは すべて《信仰》とよぶ関係に入ります。  非知を受け容れる または 認めない・受け容れない これらいづれを選ぶにしても 《非知とわれとの関係》は 成っています。《非知》だからです。既知ないし未知の可知でもなければ 不可知でもないところの《非知》とは そういう関係にあり そういう関係にしかありません。  つまり いちど自覚して 神を受け容れた あるいは逆に棄てた というとき いづれの場合にも その人に 非思考の庭が成ってすでに《信仰》が動態として始まる。こういう寸法になっています。  すなわち このように信仰を哲学として分析し定義しています。  神や信仰について尻込みするのは 哲学の放棄です。  ★ 私は神を語るにしても信仰抜きで考えないと哲学にはならないと思います。  ☆ 神の定義が 何もないところでは まだ話は始まっていません。

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  • stmim
  • ベストアンサー率24% (57/236)
回答No.5

神は概念である、というのはこうゆうことじゃないですか? 人間というのは勝手にいろいろな概念を作り出します。それが存在するとか存在しないとかおかまいないしに。そして概念として作ってはみたものの、実態は存在しないということもよくあります。神という概念も、概念だけで実態は存在しない。そうゆうことを言いたいのでしょう。 つまり神は人間の頭の中だけの存在。空想の産物。そうゆうことなんだと思います。 ただ、神を信じたい人は信じるということでいいと思います。 ひとそれぞれですから。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  ★ 神という概念も、概念だけで実態は存在しない。そうゆうことを言いたいのでしょう。  ☆ と言うのならば その概念内容を まづ自分が明らかにしてからその議論を始めなければなりません。  《神は概念である》と言っただけでは 話になりません。  成るというのなら 《概念》はぜんぶ《実態は存在しない》ということになります。  《犬》という概念は 類としての――犬という類または種としての――表現ですから その抽象性のゆえに 時に《犬なる概念は 実態として存在しない》という議論がなされることがあります。  それは そうだ。具体的な一匹ごとの存在から類概念として《犬》をみちびき出したのだから 当たり前だ。  でも 当然のごとく具体的なワンちゃん一匹づつの《実態》としての存在と対応しています。  つまり それでは《神という概念》はどうか?  何の説明もしていません。話になりません。  ★ つまり神は人間の頭の中だけの存在。空想の産物。そうゆうことなんだと思います。  ☆ なぜですか? それは 何も説明しないですでに初めに論点(結論)先取で自分の頭の中だけで決めていたというに過ぎません。  ★ ただ、神を信じたい人は信じるということでいいと思います。 / ひとそれぞれですから。  ☆ そういう問題ではありません。論点がずれました。  けっきょく《神は概念である》とだけ言って あとは信じたい人は信じればよいという含みを持って けっきょく哲学を放棄した に過ぎません。つまり 思考停止のアホバカ状態がよほど好きなあたまです。  いま現代にあって 日本人の哲学は こういう状態にあります。

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noname#210680
noname#210680
回答No.4

ちゃんと睡眠はとれていますか。 精神疾患は発症していないでしょうか。 発症していなけばいいのですが、これ以上回答を続けると、あなたの意識の不安定さが進行すると考えられるので、これにて失礼することにします。

bragelonne
質問者

補足

 ご回答をありがとうございます。  ★★ どこにもいないのに、本気で信じているなんて、古代人そのものにみえてきます。    ☆ どこにもいないのを、本気で信じているなんて、近代理性人そのものにみえてきます。

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回答No.3

簡単すぎるじゃないか。 自己の自覚が無いから、どうして自分が生きているか理解が及ばないんだ。 ご存じのとおり、自覚があれば生は神抜きには語れない。 あんたの自己表現はこむづかしいが、コレは共通項だ。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  No.1のでーでーてーさんへの返答を参考にしてください。  趣旨説明をかんたんにしたのは ちゃんとした説明がむつかしいから。  やり取りの中で分かるようにしたい。  ★ 自己の自覚  ☆ が有る・無いという議論は ややこしいのではないだろうか。説得力を持たせるのは むつかしいのでは?

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noname#210680
noname#210680
回答No.2

本当にバカバカしいことですね。 遥か昔の類人猿よりちょっと進化した程度の人類が、雷や地震、火山の噴火なんかが理解できなくて、自分たちが理解している範疇の外側に神がいるなんて言い出して、それが広がっただけですからね。 それで雷や地震なんかが「これは神の怒りに違いない」なんて本気で信じて、供え物したり、生け贄なんかまでしちゃったり。 それが儀式になって、科学が発達した現代まで続いているなんて、つくづくバカバカしい。 そもそも、信じるとか信じないとか言っている段階では、理解していないということですからね。 どこにもいないのに、本気で信じているなんて、古代人そのものにみえてきます。

bragelonne
質問者

補足

 ご回答をありがとうございます。  ここはしっかりと定義やその説明をおこなっていかねばならないと考えます。  そこでお訊きします。:  ★ 自分たちが理解している範疇の外側に神がいるなんて言い出して  ☆ この《外側》というのが わたしの見るところ 何ともはっきりしない。と思うのです。  何の外側なのでしょう?  前もって批判点を明らかにしますと おそらくこの経験世界の外側ということではないかと見るのですが しかしながら それですと けっきょくその外側は なお同じく経験世界であるのか? それとも そうではないのか? という問いが必然的につづきます。  経験世界の外側とは いったいどういう場なのでしょう?    世界(ないし宇宙)の果てがあったとしましょう。だとすると その先は どうなっているのか?  けれども その境界は 認識し得ると言っているのですから 境界までは 経験事象が起こっている世界である。では その外側とは いったいどういう世界なのか?  たぶん 経験世界を前提としたまま 内と外と言っても ほとんど議論にならない。のではないでしょうかねぇ。  つまり もし境界があって そのこちら側とそして向こう側とに分かれるといった程度なら なおまだどちらも経験事象が起きている同じような世界なのではないか?  したがってその《外側に神がいるなんて言い出して》  ★ それで雷や地震なんかが「これは神の怒りに違いない」なんて本気で信じて  ☆ ということになる――のは おかしい。内側の経験世界とさして変わらないのだから。  ですから 外側ではどう変わっているかを説明しなければならないでしょう。  ★ どこにもいないのに、本気で信じているなんて、古代人そのものにみえてきます。  ☆ 神の存在の証明がむつかしい――細かく言えば 証明が出来るか出来ないかが人間には分からない――と同じく 存在しないという証明も むつかしい。のですよ。  《どこにもいない》という命題は 決して自明でもなければ証明もされていないのです。    そんなあさはかな見方が  ★ 科学が発達した現代まで続いているなんて、・・・  

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    最近「抽象概念」という言葉を知って、まあなんとなく意味は解るんですが、ひとつ大きな疑問が残ります。 国語辞典には 抽象概念の例に「人間性、大、正直」 そして対語の 具体概念の例に「人間、大きいもの、正直者」 となっています。 じゃあ「言葉」はどっちなんでしょうか? どっちでもあるようなないような・・・ とても微妙~な気持ちになります。 どなたかなるたけ簡単に教えて下さい。

  • 第四章 非経験の場なる神が どうして知られるのか

     ○  神(宇宙なる非経験の場:マクロコスモス)および信仰(わが心なる非思考の庭:ミクロコスモス)ならびに〔信仰の偽造物たる〕宗教にかんする一般理論  第四章 非経験の場なる神が どうして経験存在である人間に知られるのか  § 1 《非思考の庭がわが心に成る》そのいきさつについて  (あ) 神とはなんぢゃい? とワタシは いぶかったり うたがったりする。  (い) 分からんと結論づける。《考えても分かるか分からないかが分からないナゾの何ものか》であると 想定し 定義づける。  (う) 《かみ》もしくは《何々の神》といった名は 神を示す仮りのものであり シルシであり 補助線であるとみとめる。  (え) ということは それでも或る日或る時 何ものかがわが心の窓をノックしている。と感じた。ということが起きたとき 主観としてその単なる感覚で これは神であるかも知らんと思って その雲をつかむような何ものかを心に受け容れた。(または そんなものは知らんと言って 棄てた)。  (お) このとき わが心なる非思考の庭が 成る。維持し持続するとき それを 動態としての信仰と呼ぶ。  § 2  《神を知る》という表現は――神という言葉からして そうであるが―― 精確ではない。  (か) ただただ その名前を心に受け容れただけのことだ。ブラフマンにせよ アミターバ・タターガタにせよ キリストにせよ あるいは単なるカミにせよ さらにはまた《無い神》にせよ。  (き) あとは 人間という存在の社会性――つまり生活の共同性 そしてそこから関係性(つながり・きづな または ときには不倶戴天の敵対関係)――をつうじて そのマボロシなる神の名が あたかも意味を持って来る。言いかえると 何が何だかワケの分からないナゾの何ものかであるということ――非経験の場とでも名づけるべきものであること―― ここから意味が出て来る。  (く) おのれの心の中で・おのが主観において 《絶対なる神と相対なる我れとの関係》が成っているというとき それは 神がこの経験世界を超えているからには・そしてそれは 非思考であり 何ら中身はないと言ったほうがよいからには 神は同じ次元ではありえない。  (け) つまり中身はからっぽである(つまり 非思考の庭である)ところへ しかも それが何であるかが知りたさに いろいろ考えることをも為す。つまり 補助線を引いて 《こたえ》を探りにかかる。  (こ) 手掛かりがないわけではない。それは 非思考であるにもかからわず(または 非思考であるがゆえに) ひとにはヒラメキという出来事があたえられる。そこから 観想・瞑想が得られることがあり 神についての仮りの説明とすることが出て来る。そういう《意味》が現われる。  (さ) ここから やがて オシエという代物も現われる。うんぬん。・・・  § 3 《神を知った》わけではなく 《神とわれとの関係》を 何とか経験思考において表現してみたものが 人間には持たれて来る。たとえば不老不死を願うところから 神については 永遠の生命といった当てはめが持たれる。知ったような感じになるということなのであろうか。  (し) ところで神は この経験世界に介入するか?   (す) 分かるわけがない。ただし ひとりの人間の主観内では 如何ようにもと言うほどに 説明書きが持たれる。それを共同化することは 出来ない。出来たら ほんとうに神は何であるかが分かったときだから。  (せ) 信仰は 非経験の場を マボロシとして心に受け容れるその受け容れることとしては経験的な意志行為である。そういう人間の特殊な現実である。  ○ 真理と事実と真実  ~~~~~~    普遍真理(非経験)――信じる    世界事実(経験)――考える    主観真実――《信じる》+《考える(感じる)》   ~~~~~~~~~~~~~~~~~  § 4 介入はしないが 神は人間とその世界にお節介を焼くのだろうか  (そ) 初めは 神とは何ぢゃい? と問うに過ぎなかった。それは なぜなら 《かみ》という言葉をわれわれは持って使っているからである。  (た) おそらくこの言語習慣という社会関係性がかかわっている。はずだ。コトバとしての事実が 《かみとわれとの関係》を どこかで成り立たせることになるのかも知れない。  (ち) ナゾの何ものかについて それでも それが何であるかを探り始めると言ったとき 説明として《絶対・無限・不可変性》などの概念が挙げられるのは それとして分かりやすいものと 大方の人は受け取るのではないか。  (つ) そこからは いろんな説明やら果ては神学体系やらが 繰り広げられて行く。     《〈わたしはある〉 それがわたしである》(エフエー アシェル エフエー)  こういう説明もある。これが 神のことだという。つまりコトバとしてはすでに 存在として受け留めた表現例である。  (て) はじめの想定も そこから無理にでも概念化して捉えることも その概念からさらに神論として説明を繰り広げるのも すべてすでに 非思考ではなく 思考の緑野における人間のしわざである。基本としては 思考(考える)と非思考(信じる)との区分がなされており このような思考におけるこころみは 限界のあることも分かっている。  (と) けれども ときどき このような神論を弄んで しかもその補助線こそが絶対だと錯覚して――または 自分はそうではないのに 錯覚したい人たちがいると見込んで その需要に応じるとうそぶくかたちで―― カミの商売を展開するヤカラも出て来る。不届き者があとを絶たない。  (な) つまり この不届き者が 組織宗教である。すでに信仰ではなくなっている。もぬけの殻であり この蛻の殻が けっこう好まれるようでもあるのだ。その内実は ムレタガリ症候群であろうか。  § 5 信仰は 心の解放をもたらすか  (に) 《心の解放》は 初めの神の――想定としての――定義の時点では 何の関係もない。  それでも 神は 社会の生活共同やその言語習慣とかかわりを持つと見た点にかんがみれば やはりいづれかの――神論の《発展》の――時点で この《心の解放》ともかかわりを持つということになるだろうか。  (ぬ) 言いかえると 主観内面における《神とわれとの言わばタテの関係》は けっきょくのところ社会における《人と人とのヨコの関係》と ほぼひとしいという様相を呈するようになる。こういうかたちで 心の問題が捉えられるし 扱われて行く。  (ね) いかにか? 《真理》も 説明書きのシルシであり 究極においては ナゾの何ものかは 何が何だか分からないのだから 神という言葉にしても真理にしても その他その他にしても みな 単なるシルシであり 補助線である。  (の) つまりすべてはシルシであるから 《何者かが存在している》ことも《介在している》こともないと言えばない。そして シルシとして・コトバとして 存在があると言えばあるし 介在していると言えば言えるかも知れない。  (は) 真理だから それに依拠するのだとか 神だからその存在は うるさいとか 感じるかも知れないとしても それは 問題にはならない。シルシをあやまって受け留めただけのことだ。そして しかも すべては 単なるコトバの問題として マボロシが介在していると見られるのかも知れない。  (ひ) 神にしてもその真理なり絶対なりの概念にしても その他その他の説明書きにしても みな コトバの世界である。かみというコトバが ナラワシとして流通しているから これを尋ね求める。その結果としても ただ《神と我れとの関係》というようなやはりコトバの問題に行き着いてしまう。――そして ただし その神とのタテの関係は 人とのヨコの関係にひとしい。どうしてそうなるか?  (ふ) このコトバの問題が 人間的現実であると捉えられるかぎりで 神がわれわれのあいだに・またとなりに 存在している。ここに もしそうとすれば《心の解放――こころがやわらげられ もともとの心に立ち帰る――》という主題が持たれるのか。  § 6 神は コトバの問題か。コトバがどうして心を解放するのか。  (へ) 《ナマス・テ》というあいさつが もし《わたしは あなたに帰依する》という意味であるのならば それは やはり《あなた》の内なるブラフマンなりマハーワイロ―チャナ・タターガタなりアミターバ・タターガタなりの神に帰依すると言っているのであるらしい。  (ほ) かくのごとく わが心なる非思考の庭における神とわれとのタテの関係は わたしとわたしの身の周りの人びとそれぞれとのヨコの関係と相い携えて 互いに入り組んでいる。互いにひとしい。  (ま) あるいはつまり あらゆる生命に ブッダター(仏性)がやどると言う。神の霊がはたらくと言う。  (み) 非経験の場なる神が その補助線としての説明表現つまりコトバをつうじて すでに経験現実にあたかもその影をひびかせている。か?  (む) そして神は 世界中でいかにその名が違っていても すべて同じひとつの非経験の場である。  (め) これが 神および信仰ならびに信仰の偽造物たる宗教にかんする一般理論である。としてよいか?  (も) かくしてわが日本のルネサンスが成れば――万葉集 いな 億葉集なる一人ひとりのウタが鳴り響くようになるならば――世界もめざめるか?

  • 日本人は神について何も知らんと言われたら

     1. 神について何も説明できなくても 信じる動態はあると考えます。したがって わざわざ神について説明せよという問いを受けたときのこたえが出来るかどうかの問題です。  2. たとえば次のように ヘーゲルに問われたとしたら 返す言葉はありましょうか?  ▲ (ヘーゲル:有限と無限) ~~~~~~~~~~~  無限なものと 有限なものとの一体性・・・この矛盾・・・は どんな自然的なものも自分のなかにこれを持ってはいない ないしはこれを 我慢できないであろうが この矛盾を持ちこたえることができるのが 人格(* もしくは《時間》)の高さである。  (『法の哲学』§35 追加)  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  3. 無限とは わけの分からないものです。つまり神のことですが 経験世界を超えています。しかもヘーゲルはここで 有限なる存在であるわれわれ人間にあっても その生まれつきの自然本性にこの無限がやどる・または埋め込まれていると言おうとしています。  4. なぜこの《有限なる存在における無限との――非思考における―― 一体性)》を我慢できないのかと問うているはずです。     5. なぜあなたはその存在としての《時間》が 高くないのか? と。  6. あとはヘーゲルの読みを勝手に自分の側に持って来ていますので それを説明します。    6-1.  《この矛盾・・・は どんな自然的なものも自分のなかにこれを持ってはいない ないしはこれを 我慢できないであろうが》というとき それは ここでは 神について説明せよと問われたとき〔だけ〕の問題だと見るということです。  6-2. 言いかえると 自然本性としては《矛盾をやどし持っている》。けれどもそのことについて理論立てて説明することは出来ない。  6-3. ただし哲学においてその問いを問われて何にも答えられないのなら それは《神について何も知らん》ということになる。  6-4. それでよいのか? という問いです。  7. なお 《日本人は》ということにさほど意味はありません。これを日本語で問うているというような意味です。

  • この世界にもし、お金という概念が無かったら。

    この世界からお金という概念を無くしたら世界はどう変わると思いますか? 一つは、人々の記憶からお金という概念を消し、もちろんお金そのものも無くしたら? もう一つは人々の記憶にお金という概念を残し、お金だけを世界から消滅させるとどうなるのか? ちなみに銀行やお金に関する物は残っている状態で、現金そのものだけが全て消えた場合です。 回答よろしくお願いします。

このQ&Aのポイント
  • 好きな人を信じられなくなりました。気になる男性との関係に疑問があります。
  • 彼には好きな人がいると言われていますが、実際のところ何が真実なのかわかりません。
  • 今後の行動についても悩んでいます。お土産の渡し方やバレンタイン・ホワイトデーの対応についても相談したいです。
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