• ベストアンサー

旧約聖書と新約聖書

(質問1)旧約聖書と新約聖書がありますが、なぜ聖書が2つあるのですか? (質問2)どちらも神はキリストただ一人でしょうか? (質問3)サタンかルシファーかバフォメットかアヌバスは新旧どちらに登場しますか? (質問4)旧約聖書と新約聖書は何か違いがあるのですか? (質問5)旧約聖書と新約聖書はどこの国の人が創ったのですか?

  • bekraf
  • お礼率99% (240/241)

質問者が選んだベストアンサー

  • ベストアンサー
回答No.17

 No.16です。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~   >天使が神と同等だということはありません。  それは神々の有する力がという意味でですか?  つまり、天使の力が神より強いことは絶対ないとお考えですか?なぜですか?  これが一番気になります。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ そうですね。聖書から引きましょうか。  △ (へブル書 1:13~14) ~~~~~~~~~~~   http://www.bible.or.jp/read/titlechapter.html  13: 神は、かつて天使のだれに向かって、    「わたしがあなたの敵をあなたの足台とするまで、     わたしの右に座っていなさい」(詩編110:1)   と言われたことがあるでしょうか。  14: 天使たちは皆、奉仕する霊であって、救いを受け継ぐことになっている人々に仕えるために、遣わされたのではなかったですか。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~   ☆ 《人間にも仕える》と書いてあります。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~   >サタンは たしかに ひとつの顔として《神のごとくいかなる者の下にも立つまいと堅く決意した者》であり もっと具体的に言えばけっきょく《支配欲に支配された心であり 相手を・すなわちすべてのものを支配下においてその意志を踏みにじるために動いている者》です。もっと早く言えば すべてを否定する精神です。さらに ひと言では 死です。死の制作者です。 このようなサタンは 要りません。わたしは 死にカカハリを持ちません。  わかっているけど、要らないという意味なんですね。ほぼ同意します。  ~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ これは ありがたい感じです。    ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~   >預言ないし予言が当たったということは 神ではないですよ。起きる確率の低いけれども一般的な経験事象に属します。  人にできない預言は神或いは天使などの言葉ではありませんか?  この方神主だから神に聞いたと言っていますが。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 神業に近いのかも知れませんが この人間の世界における出来事であるとは思っています。  ★ 神の力の源である栄養とはなんですか? / 聖書に書いてなかったですかね。。  ☆ それは 信仰です。  △ (パウロ:ローマ書) ~~~~~~~~~~  http://www.bible.or.jp/read/titletext.html  1:17    福音には、神の義が啓示されていますが、それは、初めから終わりまで信仰を通して実現されるのです。「正しい者は信仰によって生きる」(ハバクク書2:4)と書いてあるとおりです。  3:27   では、人の誇りはどこにあるのか。それは取り除かれました。どんな法則によってか。行いの法則によるのか。そうではない。信仰の法則によってです。  3:28   なぜなら、わたしたちは、人が義とされるのは律法の行いによるのではなく、信仰によると考えるからです。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

bekraf
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 >☆ 《人間にも仕える》と書いてあります。 本当ですね。書いてありますね。 では、心配いらないのですね。 >★ 神の力の源である栄養とはなんですか? / 聖書に書いてなかったですかね。。  ☆ それは 信仰です。 意味がわかりました!ありがとうございました!

その他の回答 (16)

回答No.6

 No.2です。あらましを続けます。  16.★ 聖書はいろいろ派閥があって歪められていると聞きますが、いつからかが判らないので何とも言いにくいですね。  ☆ 信仰としては ひとつのかたちしかありません。オシへをめぐって――つまりエレミヤ書31:31以降で要らなくなると述べられたオシへをめぐって―― ああだこうだと言っているに過ぎません。つまり 阿呆状態です。  17.★ ユダヤ教はヤハウェしか認めず、キリスト教は他も認めるってことですね。  ☆ つまりユダヤイズムは エレミヤ書の預言がまだ成就していないという立ち場です。イエスが成就したとはみとめません。  17-1. クリスチアニズムは 信仰としては 普遍神の受け容れを基礎としてイエス・キリストの指し示した神の信仰という立ち場です。神学としては 三位一体なる神として説明されるものです。  17-2. クリスチアニズムとは 実際には 信仰ではなく思考にかかわるオシへの問題を言います。信仰の立ち場から行くと キリスト教というオシへを《信じる》ということはあり得ません。オシへは 考えるものだからです。  17-3. ローマ教会を初めとする教会やそのオシへは 信仰から派生したものですが 言わば信仰という蝉の抜け殻です。先ほどの神学をも含めて オシへは 信じる神という正解を問い求めるときに人間が引いた補助線のことです。  18.★ 神の選民がなければ争いは減っていたのではないでしょうか。  ☆ オシへを信じよというワケの分からないことを言うシュウキョウが いちばんの問題です。  18-2. 《神の選民》という自称は 表現こそ違え どの宗教・どの宗派でも同じことです。似たりよったりでしょう。普遍神を知らない。かまたは 知っていてもそれをみとめると自己崩壊を起こすとでも感じているのでしょう。阿呆状態から諍いや争いが起きるのは 世の常であるらしい。  19.★ 他の信仰も認めるなら、神はユダヤ人にも納得できるような方法を用いて説いた方が、いざこざが無くて済んだのかもしれませんね。  ☆ オシへとしての聖書や教典を――まなぶために――とうとぶこととそれを無条件に受け容れるという意味で信じることとは 別です。ユダヤ人なら それくらいのことは分かると思います。ムスリムの人たちもやがて分かるものと思います。  20. 《他の信仰をみとめる》というよりは 普遍神はひとつで 名前が民族によって・人によって違う。名前の違いで 信仰の名称も違って来ますが けっきょく《神とわれとの関係》としての信仰のかたちは 同じです。  ○ 神とわれなる関係としての信仰は すべて《梵我一如》類型で捉えられる    A. ブラフマニズム:梵我一如    梵:ブラフマン・・・・・マクロコスモス。神    我:アートマン・・・・・ミクロコスモス。霊我   B. ゴータマ・ブッダ:無梵無我一如(=無神論)    無梵:空(シューニャター)・ゼロ    無我:アン‐アートマン;ニルワーナ   C. ブディズム:仏仏一如(=有神論)    仏:アミターバ・ブッダ(阿弥陀如来)       / マハーワイローチャナ(大日如来)    仏:タターガタ・ガルバ(如来蔵)・ブッダター(仏性)   D. クリスチアニズム:霊霊一如    霊:神・聖霊    霊:《神の宮なるわれ》   E. (プラトン?):霊霊一如    霊:宇宙霊魂(プシュケー・コスムー) / 世界霊魂(アニマ・ムンディ)    霊:《われ》   F. 《もののあはれを知る》    霊:かみ(自然および超自然)    霊:われ(自然本性)   G. ユダヤイズム:霊霊一如    霊:ヤハヱ―;(エローホ=神)    霊:われ   H. イスラーム:霊霊一如    霊:アッラーフ(イラーハ=神)    霊:われ    21. アブラハムの神は モーセには 自分の名称をあかしました。(出エジプト記3:14)      eHYeH   aser     eHYeH.      エフイェ アシェル  エフイェ      I-am    that( who )    I-am.      《わたしはある》――それが わたしである。  21-1. この《ある・生きる》なるいわゆる be‐動詞は 子音三つで示すと H-Y-H ですが y が w とも交替します。ですから H-W-H ともなります。  端折った言い方をすれば――じつは定説が争われているにはいるのですが――次のように解釈する説も出されています。    √HYH ( HWH ): ある・生きる    eHYeH : I-am ; わたしはある。    yaHWeH : He-makes-be ; かれはあらしめる。  これが 神の名・ヤフヱフです。    21-2. ちなみに アダムとエワのエワは ハワー( HaWWaH )であり《生きるもの》を表わし これがアラビア語では ハヤー( HaYYa )となっています。  ▼ ( OnlineEtymologyDictionary : Eve )    http://www.etymonline.com/index.php?term=Eve&allowed_in_frame=0  21-3. エホワという呼び名は あやまって文字を読んだ結果が慣用されたものです。ふつうへブル語やアラビア語では 子音しか書かないので あとでそこに母音をつけるときに――つまり YHWHという子音の四文字に母音をつけるときに――あやまって yeHoWaH と読んだところから来ているようです。  22. その昔 ユダヤ人が王を立てるとき その額に油を塗ったそうです。霊的な改まりとしての禊ぎのようなものでしょうか。この《油塗られた〔者〕》を マッシーアハと呼びました。メシアです。そして この語のギリシャ語訳が クリストスです。  22-1. ユダヤの民は よその民族に従属しなければならないハメになることが歴史上起こり イエスの頃はローマ帝国に支配されていました。この従属状態から独立を勝ち取るあたらしい王が待望され メシア=キリストは そのような救世主としての意味を持ちました。  22-2. そこで人びとは イエスをメシアの名でも呼ぶようになりました。ただし イエスはけっきょく十字架上に磔となったわけですから そのような政治上のチカラとしての救世主ではなかった。それでも この名称を用い続けて 今度は神の子としてまた同時に神である存在として キリストという名を用いることとなりました。  23. ヘブル語とアラビア語とは セム語の家族です。《かみ》という普通名詞は √'LH の三子音から成り次のようです。どちらかが訛っています。    ヘブル語: ha ’eLoH ( the God;ハー エローホ)        ha 'eLoHim ( the gods; ハー エローヒーム)    アラビア語: al 'iLaH ( the God; アル-イラーハ)          > aliLaH > aLLaH (アッラーフ)  ヘブル語は ふつう複数形を用います。  定冠詞は 同じだと見なされています。     定冠詞 hal > へブル: ha (ハー)           > アラブ: al(アル)  24. サタンなどにつきましては どうでもよいと考えていますので よくは知りません。もしそうとすれば 普遍神に仕えていると捉えるのが 妥当なのでしょうね。

bekraf
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 >知っていてもそれをみとめると自己崩壊を起こすとでも感じているのでしょう。 これ、私もそう思っています。 そういう方確かにいますよね。 >エレミヤ書の預言がまだ成就していないという立ち場です。イエスが成就したとはみとめません。 なぜイエスが成就したと認めないのですか? >サタンなどにつきましては どうでもよいと考えていますので  しかし、日本人がどうでも良いと言ってられるのは今のうちだけかもしれませんし、そのうち、どうでも良いなんて悠長なことは言ってられない事態になりそうですし、そうなれば取り返しがつきませんが。。 人は死んでしまうと元に戻りませんし、身近な人が亡くなれば人々は悲しみにくれますし、しかもそれが普通の死に方でないなら、尚更残された人々の心が壊れます。

  • hue2011
  • ベストアンサー率38% (2800/7250)
回答No.5

No.3です。 お礼に対する回答です。 あなた、キリスト教に染まってしまっていますね。 ヤハヴェというのはユダヤ語読みで「大いなる父」です。 これをイスラムでは「アラー」と呼んでいるのです。 ユダヤ教で救世主が現れないのは当然です。 キリストなんて救世主じゃないという考え方だからです。 もしそうだと思うなら彼はキリスト教信者になる論理です。

bekraf
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 >キリスト教に染まってしまっていますね。 いえ、染まるほど読んでいません。。 長いので。。しかもどれから読めば良いのか知りませんでしたので。。 >ヤハヴェというのはユダヤ語読みで「大いなる父」です。これをイスラムでは「アラー」と呼んでいるのです。 なるほど!ありがとうございます! >ユダヤ教で救世主が現れないのは当然です。キリストなんて救世主じゃないという考え方だからです。もしそうだと思うなら彼はキリスト教信者になる論理です。 なぜ救世主じゃないと思っているのでしょうかね? キリストはユダヤ人じゃないからですか?

  • yuniko99
  • ベストアンサー率15% (31/204)
回答No.4

1聖書は旧約と新約は一応一つの言い伝えとして書かれた繋がった書です。  がイエス(キリスト)登場から教えが改まります。  旧約聖書では「目には目を、歯に歯はを」と言う同害報復や「十戒」と言う  十の戒律がありますが。  新約聖書ではイエスが「神を愛せ」「隣人を愛せ」「敵をも愛せ」という教えを説いて  その後キリスト教が広がり イスラム教も派生します。イスラム教の経典はコーランです 2旧約では「イエス」という記載はありませんが「キリスト」とは「油を注がれて清められた者」の意でしたが後にはイエス・キリストと呼ばれるようになり、救世主、メシアの意味になります。 イエスは神の子であると言われますので、イエスを神と考える人も多いですが キリスト教外から客観的に見れば イエスは1人の思想家とでも言うべきでしょう。 キリストが神という言い方はあまり聞かないのですが。旧約・新約聖書通して神の名は ヤハウェとかエホバとかゴッドとかゼウスとか呼び名はいろいろですが 本当は神は一つです。呼び名が違うのは方言のようなものです。 3 よく分かりませんが ルシファーと言うのはサタン(悪魔)になる前の天使だった時の名前です。バフォメットはサタンの代名詞的言葉です。アヌバスはアヌビスの事でしょうか サタン降臨に関係があるようですが ゲームでの名前ではないでしょうか?? 4 旧約聖書は新約聖書より長くイエスの教えがないので神も恐ろしい事をします。イエスが愛の神を強調して弟子たちも愛の神という路線になりますが。しかし神の義を行わない悪い人ばかりだと神はハルメギドの時のように大艱難を起こして人を滅ぼすと書いてあるそうです。旧約聖書はキリストを求める書でもあり、そのキリスト(イエス)のことを書いたのが新約聖書とも言えます。 5 旧約聖書・新約聖書はモーセが書き始めヨハネの黙示録で終わっていて約40人が書いたと言われます、それ以上書き加えてはいけないと書かれています。たしかユダヤ人だと思いますが。

bekraf
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 >キリストが神という言い方はあまり聞かないのですが。旧約・新約聖書通して神の名はヤハウェとかエホバとかゴッドとかゼウスとか呼び名はいろいろですが 本当は神は一つです。 教会の十字架のキリストと、キリスト教という宗教だから、キリストが神なんだろうと思っておりましたが、救世主とは書いていても、神だとは書いてないのでしょうね。 >ルシファーと言うのはサタン(悪魔)になる前の天使だった時の名前です。バフォメットはサタンの代名詞的言葉です。アヌバスはアヌビスの事でしょうか サタンになる前の名前でしたか。 >サタン降臨に関係があるようですが ゲームでの名前ではないでしょうか? デンバー空港がそんな像(青ざめたユニコーンなど)ばかりを置くし、悪魔崇拝が流行りすぎているので、気になったのです。 >旧約聖書は新約聖書より長くイエスの教えがないので神も恐ろしい事をします。イエスが愛の神を強調して弟子たちも愛の神という路線になりますが。しかし神の義を行わない悪い人ばかりだと神はハルメギドの時のように大艱難を起こして人を滅ぼすと書いてあるそうです。 サタンか何かを召喚してハルメギドでも起こしたいのでしょうかね。

  • hue2011
  • ベストアンサー率38% (2800/7250)
回答No.3

(質問1)旧約聖書と新約聖書がありますが、なぜ聖書が2つあるのですか?  イエス・キリスト出現以前が旧約聖書です。  イエス・キリストの出現、行動、教えを書いたものが新約聖書です。 (質問2)どちらも神はキリストただ一人でしょうか?  いいえ、旧約聖書にはキリストは存在しません。  大いなる神、です。名前を持っていません。これを父と呼んだりすることがありますが、聖書では書いてありません。 (質問3)サタンかルシファーかバフォメットかアヌバスは新旧どちらに登場しますか?  それは旧約聖書です。ただ、引用としては新約でもあります。 (質問4)旧約聖書と新約聖書は何か違いがあるのですか?  宗教が違うということです。  旧約聖書は、ユダヤ教の経典です。  また、イスラム教が参照している経典です。たまたまキリスト教も聖典にしているのです。  いまヨーロッパにある宗教はほとんど幹に旧約聖書があります。  預言者がいて、救世主があらわれるだろうと旧約聖書には書いてあります。  それが本当にあらわれたといっているのはユダヤ教以外の宗教です。 (質問5)旧約聖書と新約聖書はどこの国の人が創ったのですか?  今ある国名を言っても仕方がありません。2000年以上前はユーラシア大陸も国境線が違いましたし。  まあローマ帝国付近で成立したんでしょうね。

bekraf
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 >旧約聖書にはキリストは存在しません。 大いなる神、です。名前を持っていません。これを父と呼んだりすることがありますが、聖書では書いてありません。 あれ、では旧約聖書の神がヤハウェだと言うのはどうなるのでしょうか? 旧約聖書もいろいろ書き方の違いがあるのでしょうか・・・? >預言者がいて、救世主があらわれるだろうと旧約聖書には書いてあります。それが本当にあらわれたといっているのはユダヤ教以外の宗教です。 困りますね。。ユダヤ人に救世主だと判るようにあらわれてくれないと・・・

回答No.2

 あらましを述べます。  1. 神の信仰は アブラム(のちのアブラハム)というひとりの男から始まりました。  《祖先の地を去って〔どこへかは明らかにされず〕行け》というお告げ(?)を聞いて これをおのが神の心として受け容れ そのように行動しました。  2. 信仰は 思考ではなく――そのヒラメキのあと思考をもおこないますが 思考に発するのではなく――或る種の賭けのごとく無根拠を根拠とするものです。あるいは 義無きを以って義とするところに成ります。  3. 或る日アブラハムは たぶん神から その長子のイサクをいけにえに捧げよという声を聞きました。悩みに悩み苦しみ抜いた末その声に従おうとしたとき かれは《思考ないし人間の能力と努力とを ある種のナゾとしての神の心よりも先に立てることをしない》という信仰を たぶん神からみとめられ もうよい いけにえは要らないという結着になりました。  4. つまり 思考としては 《ひとは他人をも己れをも ひとをころすことはしない》というヒラメキとしての命題を得ました。  5. これを のちにモーセは 人びとの集団にとっての秩序を重んじるところから 《なんぢ ころすなかれ》という否定命令(禁止法)としての命題に表わしました。モーセ自身は アブラハムと同じく 理性による根拠(あるいは人間の義)をナゾの信仰に先立てることはしない人間でしたが 社会の秩序のためには ナラハシやオキテないし――人間が思考し判断して取り決めるところの――法律が必要だという考え方であったわけです。  6. モーセの法律は なぜか日本語では《律法》と呼ばれます。このいわゆる旧約聖書にあっても 信仰が思考よりも当然のごとく優先されるという《考え》は記されています。  ▲ (ハバクク書 2:4) ~~~~~~~~  見よ、高慢な者を。彼の心は正しくありえない。  しかし、神に従う人は信仰によって生きる。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  7. 信仰は 言わばわれわれ一人の人間にとってその心の奥深くにある思いを超えた思いのようなこと(場またはチカラ?)として 《固有の時》です。ダヰデというひとは こううたいました。   ▲ (詩編 2:7) ~~~~~~~~~~   主の定められたところに従ってわたしは述べよう。   主はわたしに告げられた。    お前はわたしの子    今日、わたしはお前を生んだ。   ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  8.イザヤという人に到っては 《主なる霊が わたしに臨んだ》と表現する歴史に到りました。   ▲ (イザヤ書 61:1-3)~~~~~~~~~~~   これは主がわたしに油を注いで    貧しい者に福音を宣べ伝えることをゆだね    わたしを遣わして心の傷める者をいやし    捕らわれ人に放免を告げ・・・(中略)・・・るためである。   ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  9. 話を端折りに端折って すでに新約聖書に到ります。  アブラハムからニ千年ののちでしょうか イエスという人が出たというわけです。  イエスが 《自分の育ったナザレに来て いつものとおり安息日に会堂に入り 聖書を朗読しようとして立ち上がった》時のことです。       ▲ (ルカによる福音4:17-21) ~~~~~~~~   すると 預言者イザヤの巻き物を渡され 開くと次のように書いてある箇所が目に留まった。     主の霊がわたしに臨み     油をわたしに塗った。     主がわたしを遣わしたのは     貧しい人に福音を伝え     捕らわれ人に解放を・・・告げ知らせるためである。          (つまり イザヤ書61:1-2)   イエスは巻き物を巻き 係りの者に返して席に坐った。会堂の人びとは皆 イエスに目を注いでいた。そこでイエスは     ――この聖書のことばは 今日 耳を傾けているあなたたちに      実現した。   と話し始めた。   ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  10. アブラハム・モーセ・ダヰデ・イザヤそしてイエスまで 神は同じひとつの神です。ただし 旧約のエレミヤ書31:31以降には 《新しい契約》のことが書かれています。引用をやはり端折りますが   (あ) 神は人びとの罪をもう覚えない。忘れる。      (ひとはゆるされる)   (い) 神を知れと言ってひとは人におしえることはなくなる。      (オシへ・律法は要らない)  という趣旨が告げられており このくだりは 新約聖書でも へブル書8章に取り上げられ確認されています。  ▲ エレミヤ書31:31~    http://www.bible.or.jp/read/titlechapter.html  ▲ へブル書 8章    http://www.bible.or.jp/read/titlechapter.html    11. つまり《新しい契約》は イエスのときにイエスの登場によって成就されたという見方です。  このことは アブラハムからの同じ神ですが しかもユダヤ民族だけの神ではなく そのふるい顔を棄てて みづからを外へも開きいと高きところなる普遍神へと揚げたことと捉えられます。神がみづからを揚棄した。と。  12. その普遍神を指し示したイエスは イエスという人間であると同時にキリストとよばれる神の子でもあると想定されるようになりました。    13. つまり エレミヤの預言によれば このキリストという神の名は どうでもよいということになります。    14. つまり 神は 普遍神ひとつであり――その名前は どうでもよく―― その神とわれとの関係は アブラハムにとってのごとく ナゾの信仰であると考えられます。信教・良心の自由と言われるごとく・あるいはそれ以上に まったく自由であると考えられます。  15. これが 聖書のこころです。

bekraf
質問者

お礼

詳しく回答ありがとうございます。 聖書はいろいろ派閥があって歪められていると聞きますが、いつからかが判らないので何とも言いにくいですね。 ユダヤ教はヤハウェしか認めず、キリスト教は他も認めるってことですね。 神の選民がなければ争いは減っていたのではないでしょうか。 他の信仰も認めるなら、神はユダヤ人にも納得できるような方法を用いて説いた方が、いざこざが無くて済んだのかもしれませんね。

回答No.1

全部に答えるのはできませんが、一部だったら答えられます。 (1)旧約聖書はユダヤ教の聖典、新約聖書はキリスト教の聖典。 そしてユダヤ教では旧訳という言い方をしません。 「律法・トーラーと預言者と諸書」と言っています。 厳密に言うとユダヤ教の聖典は「モーゼ5書」と言われている、創世記・出エジプト記・レビ記・民数記・申命記だけです。 別々の宗教の聖典が一つに合わさっているのは異例中の異例なことで、驚くべきことです。 でも、キリスト教はユダヤ教から出てきたので、旧訳はイエス・キリストの存在理由のようなものだから、それを外すことができないのです。 (2)ユダヤ教の神はエホバ(あるいはヤハウェ)です。 キリスト教にとって神は「神と子と聖霊」の三位一体の神ですから、エホバだけではありません。子であるイエスも神であり、そして聖霊・スピリットも神です。 ただ一人ではなく、どちらかと言えば、三人です。 どちらか、といえばですが。 (3)このことに関しては私はよく知りません。 (4)旧約聖書と新約聖書の違い? 旧訳聖書はユダヤ教の聖典ですから、選ばれた民、ユダヤ人のためのユダヤ人を目的とした民族宗教の聖典で、失われたユダヤ王国の復興を目指したもの、それに対して新約聖書はイエス・キリストを中心にして、最後の審判で良き人が復活して天国に迎えられることを目指したものです。その意味で、世界宗教です。 (5)旧約聖書は確かなことは分かっていませんが、紀元前6世紀の「バビロンの捕囚」以後の紀元前4~5世紀の頃だろうと言われています。 律法・トーラーは紀元前398年、ペルシャの官吏、エズラが書いたと言われています。 律法以外の諸書はペルシャ期の紀元前4~5世紀に製作が着手され、完成したのは紀元後1世紀と言われます。 したがって「モーゼ5書」が最初に書かれ、その後、500年をかけて預言者と諸書が書かれたと言われています。 新約聖書はイエスの死後、各宗派の別々の人によって書かれた記録を一つの聖典に編纂したもので、マタイ伝は紀元85年から90年にかけて、シリアのアンティオキアで書かれたもの、作者は不詳。マルコ伝は共観福音書である、マルコ・マタイ・ルカの3つの福音書の中でもっとも古いもので、イエスの死後30年後に書かれた、作者は12使徒の内のペテロの弟子か側近。原文は失われ、今あるのは250年頃の写本。次のルカ伝はマタイ伝と同時期の紀元85~90年にローマ帝国の内のギリシャ本国で書かれたと言われ、作者不詳。 最後のヨハネ伝はこれまでの共観福音書とは違い、グノーシス派の思想に近く、紀元1世紀、たぶん90年頃、アナトリアのエフェソスの長老ヨハネによる作。 特にギリシャ思想の影響が強い。 以上。

bekraf
質問者

お礼

大変詳しく回答ありがとうございます。 >厳密に言うとユダヤ教の聖典は「モーゼ5書」と言われている、創世記・出エジプト記・レビ記・民数記・申命記だけです。 5つだけなんですね。ありがとうございます。 >選ばれた民、ユダヤ人のためのユダヤ人を目的とした民族宗教の聖典で、失われたユダヤ王国の復興を目指したもの 復興したとして、ユダヤ人以外の人々はやはり、家畜並みの扱いなのでしょうかね・・・? >新約聖書はイエス・キリストを中心にして、最後の審判で良き人が復活して天国に迎えられることを目指したもの 良き人でないなら地獄行きですかね? 聖書で地獄という言葉出てこないような・・・? どこへ行くのでしょうか。。

関連するQ&A

  • 聖書の旧約と新約の違いがわかりません。

    聖書の旧約と新約の違いがわかりません。 キリスト教を理解しようと思っていますが、聖書になぜ旧約と新約があるのかが わかりません。ある言語で書かれた書をただ訳しただけなら、古いも新しいもないと思うのですが、 間違った解釈でしょうか。派閥に都合のいいように訳されている為に、 旧約派と新約派などがあるとも聞きました。 また、そもそも聖書には誤訳が多く非常に都合よく訳されているとも聞きましたが、詳しい方、 実際はどうなのか教えていただけないでしょうか。 よろしくお願いいたします。

  • 新約聖書と旧約聖書の違いを教えて下さい。

    新約聖書と旧約聖書の違いを教えて下さい。 こんばんは。 新約聖書と旧約聖書ってありますよね? あの二つはどこがどう違うのか、 具体的に、簡単に教えて下さい。

  • 新約聖書と旧約聖書について質問があります

    新約聖書と旧約聖書では一神教と多神教の違いがあると思うのですが、具体的に聖書内でその違いを記してあるパートはありますか? その違いを探さなければいけないのですが、一通り探したのですが正直分からなかったのでどなたか教えてもらえませんか? プラトンの哲学(洞窟の中の話)と新約聖書または旧約聖書の観点の違いも教えてくれると助かります。 宜しくお願いします。

  • 新約聖書と旧約聖書の違いは何でか。

     新約聖書と旧約聖書の違いは何でか。また、それぞれの聖書は、いつ誰が書いたのですか。宗教改革のときルターは、いわば聖書第一主義のような活動をしますが、そのときの聖書とはどちらでか、教えてください。

  • 旧約と新約の違い

    キリスト教の聖書には「旧約聖書」と「新約聖書」がある。 旧と新で、どう違うのか?

  • 旧約聖書と新約聖書を読み終わったが双方の違いがよく

    旧約聖書と新約聖書を読み終わったが双方の違いがよく分からなかった。 何が違うんですか?

  • 新約聖書

    キリスト教における神との新たな契約とはなんですか? また旧約聖書との違いは何ですか?

  • 旧約聖書の預言が新約聖書で成就している件について

    私は、キリスト教に、中立の立場で、勉強している者です。 旧約聖書の、様々な預言が、新約聖書で、幾つも成就しています。 例えば、メシアが、ベツレヘムで産まれる、など。 キリスト教&聖書に、批判的な立場の人は、この件を、 どう説明するのでしょうか、よろしければ、教えてください。

  • 旧約・新約聖書についての質問です。

    キリスト教の話になるので文化人類学でいいのかと思ったら、皆、 哲学のほうに質問を書き込んでいるみたいなので、私もこっちに書き込みます。  (実は何度も同じところに書き込むの恥ずかしい)  聖書を読んでいて何とも分からないところです。  まず、旧約聖書のほうで、モーセが岩を2回叩いただけで、神様が「あなたは私を疑いましたね」と、モーセを叱る場面があるのですが、(モーセの二度叩きの部分)どうしてたったそれだけの事で、モーセはカナンの地を踏ませてもらえなかったのでしょうか。ジーザスと違って、モーセは普通の人間だから、 あせる事もあると思うんですが・・・。旧約の神様は、かなりキツイ性格をしているように思えます。  いまひとつ旧約で、パロの頑なさは度を越している異常性格のように感じるのですが、本当にあんなにわからずやだったのでしょうか。  新約聖書です。盲目のバルティマイは、目が見えるようになった途端、ジーザスのあとにくっついていったのに、どうして「使徒」の中に入っていないのでしょうか。マグダラのマリヤも。  復活の後、使徒たちがエマオでジーザスに会い、それが主なる神であることを知った、と書いてありますが、ジーザスは神様であると考えてよいのでしょうか。(そのほうが嬉しいけど) 長くなるといけないので(充分長いよって)箇条書きにします。 ・マタイとマルコの福音書と、ルカ・ヨハネの福音書でずいぶん違う個所があるの はどうして? ・「主の名をみだりに唱えてはならない」(これ旧約だっけ)とあるが、ジーザス の話を他人とべらべら話してはいけない?  ・・・まだまだあるんですが今日はこのくらいにしておきます。 もしよかったら解釈の仕方を教えて下さい。

  • ユダヤ教は新約聖書を否定しますか?

    ユダヤ教の信仰は旧約聖書を基本とするという私の認識はまず合っていますか(間違っていたらご指摘ください) ユダヤ教は新約聖書をどう解釈しているのでしょう?ユダヤ人迫害があったのはイスカリオテのユダの件以外に「新約聖書を否定するから」なのでしょうか?キリストが神の子であるというのは新約聖書ですが、ユダヤ教にとってそれは受け入れられないことなのでしょうか?