誰か私にお金ください

このQ&Aのポイント
  • 誰か私にお金ください。今回は弥勒菩薩商法の復活の余地について質問です。
  • 私はお釈迦様の言った涅槃と同じく、自らの本質に到達し、そこに新たな世界を見いだした現代の仏陀です。私の言葉を信じても意味ありません。自覚のみが到達するのです。
  • 私は世間知らずで、どうやったらこの救いの言葉がお金になるのか判りません。大人の皆さん。教えてください。今回は事業に関する質問です。
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誰か私に金ください

やあ、みなさん。 今回はいつもの挨拶ぬきです。 実在する妖精の捕まえ方は置いておいて、社会人として自活するための検討課題です。 今回は弥勒菩薩商法の復活の余地について質問です。 私はお釈迦様の言った涅槃と同じく、自らの本質に到達し、そこに新たな世界を見いだした現代の仏陀です。 そこは、古くに研究されたイデア界でもあり、永遠の生にいきる神の世です。 貴方達は死後、それとは別の死者の国で死にっぱなしになります。 それに耐えられないで、生を求め転生します。 しかしそうして生きることも又、耐えられない。 そのように苦しみぬきます。 そしてまた死にたくなるのです。 この死のループが輪廻であり、解脱すれば天国で永遠に生きます。 それは個人の認識のみで自覚できる事で教えはありません。 すなわち悟りが大切です。 私の言葉を信じても意味ありません。 自覚のみが到達するのです。 すなわち教えとは君達の望み通り輪廻することで正解で、お釈迦様は正しかった。 それは神と離れた異常な状態で、仏陀は皆さんの懇願と、それに答える慈悲により、あなた方を天界から遠ざけ地上に縛り続けています。 全てあなた方の願いに仏陀として答えたからです。 感謝してください。 だからお金ちょーだい。 古来の宗教と同じような形で、貴方がたに判り易く救いを説いたつもりです。 大うけの自信があります。 喜んでもらえるでしょう。 でも私は世間知らずで、どうやったらこの救いの言葉がお金になるのか判りません。 大人の皆さん。 教えてください。 今回は事業に関する質問です。

質問者が選んだベストアンサー

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noname#211048
noname#211048
回答No.10

>> ところで輪廻自体は、生態系の循環の話だ。 人は朽ちても、新たな生命が受け継いでいく。そう言う話だ。 <死なない>というのは死ぬことはない、というよりも認識の話ですね。 または元からあった「輪廻」とお釈迦様に掛かる「輪廻」というのが、完全に同じものにはなってしまわないように、「死なない」という言葉も(意味合いのもとになるところが)それぞれに違っているのでしょうね。だからこそこんがどらがります。どういうところで同じ言葉に落とし込んでいるのでしょうか、個人的にですがきになってきました。(質問ではないです。) そして、こういう仕事の仕方でしょうか。 私は学んでいる側なので、当たり前ですがお金にはなりませんが、 何かを意図した上で何ものかを演じるとすれば、子供に人気なアニメーション同様芸術作品としてお金にも還元されますね。 あるいは大江健三郎(の本を読んで受けた印象)のように、最終的な意図はともかくも、自分のこととして文章を書き、言い、小説ならば売れた分だけお金にも還元されます。

Flareon
質問者

お礼

なにが聞きたいのかよく判らないけど書いてみるよ 生態系は全体として死すらも新たな生命をもたらす。 現実の生きる行いにおおむね古代のインド人がこのように考えたとしよう。 そして観念世界にこの現実の摂理を当てはめると輪廻という生死観が出来上がるんだろう。 今回質問主文で指摘しているのは、死後に死者のままだから、生命を取り戻すために生まれ変わりたくなるが、そもそも肉体が滅んでもしなねーんなら、そんなことしなくてもいいだろう。 そう判断する根拠が釈迦の場合涅槃で、私の言う観念世界やイデアだ。 ところで死なないと自覚するためには、死を理解することが欠かせない。 苦行はそのためだ。 500年の口伝の間、伝承する者には、当時の風土の輪廻という生死観と釈迦の生死観をすり合わせないと、理解できないで伝承もままならなかっただろう。 ところで実在する妖精の捕まえ方の研究ノートは、手始めに真面目な仏教研究から蓄積していてね、お店の商売道具を持ち出して仮面ライダーを名乗るより、この点だけは真面目なろんぜつの方が完成が早い。

Flareon
質問者

補足

レッツチチをもげダンスだ。 http://okwave.jp/qa/q7541665.html 無駄な抵抗をしない君の心をまさに乙女と認めよう。 オカマデビューおめでとう。 ベストアンサーだ。

その他の回答 (10)

  • kurinal
  • ベストアンサー率10% (128/1195)
回答No.11

こんばんは。 >「相談よりも請求をしたいです。」 「請求」ではなく、「受給」です。そのためには「相談」が必要です。 >「昔のアイドルって今見るとキツイですね。」 それだけ「アイドル」が洗練されて、現在に至っているのでしょうか。 >「ところで私は君にとって、何の教師になっているか聞かせてくれないか。」 仮面ライダーに決まっております。

Flareon
質問者

お礼

ありがとさんよ。 もっと面白い事言ってくれ。

noname#211048
noname#211048
回答No.9

二回目です。有り難う。 >>(ほどこしに対して)そんな風にカネよこせといっている訳ではないのだよ >>自慢話を聞きたければ金をくれ 自慢話は聴きません。信仰心のない宗教者の一人になるつもりはありません。 ・・という解釈 ならば、貴方の立てた質問に対する回答は「人々の不安を煽りなさい、自慢話をしなさい」というものかと思ったのですが >>それは神と離れた異常な状態で、仏陀は皆さんの懇願と、それに答える慈悲により、あなた方 を天界から遠ざけ地上に縛り続けています。・・感謝してね。 救いもなければ暴落(言葉が違うな)もなく、そういう場所にしてあげたんだから感謝しな。→ ここ来てよかった! ・・というもの! ・・・? 補足も、読みました。

Flareon
質問者

お礼

ありがとう。 釈迦の故事は涅槃という彼の見解が輪廻という別の見解と交錯しているんだ。 それは500年の伝承の間に付いたものだろう。 ところで輪廻自体は、生態系の循環の話だ。 人は朽ちても、新たな生命が受け継いでいく。 そう言う話だ。

noname#211048
noname#211048
回答No.8

でも私は世間知らずで、どうしたらこの救いの言葉・・の、「この」は >> すなわち教えとは君達の望み通り輪廻することで正解で、お釈迦様は正しかった。 それは神と離れた異常な状態で、仏陀は皆さんの懇願と、それに答える慈悲により、あなた方 を天界から遠ざけ地上に縛り続けています。 に掛かっているのでしょうか。 (だとしたら、お仕事はせず放棄状態なので、(個人が勝手に輪廻しているならば)そこにお供えものは必要ないのかなぁと。) 回答をしたい!と思ったのですが、理解不足により躓いてしまったので質問させて下さい。少しずつ理解して、こたえられるようになりたいです。質問をたててくだすった貴方の慈悲心に対して、貴方の持った慈悲をわたしも同じように持ち、社会なり自然なり過去の貴方なり、子供たちにでも御返しいたしますので、宜しく御願いいたします。間違いがあれば(多かれ少なかれあるだろうけれども気がつけず)お許しください。

Flareon
質問者

お礼

ありがとう。 厄介な方がまたデビューしたね。 根本的な間違いがある。 > 貴方の慈悲。 愚か者めそれを学んで実践したからこそ従来の宗教は信仰からかけ離れていったのだ。 君自身が慈悲を発揮する必要がある。 しかし教えてやろう。 宗教的観念語の慈悲が何を表したかはともかく、現用語の慈悲とは ほどこし だ。 私はそんな風にカネよこせと言っているんじゃないんだよ。 それから職務放棄は無いよ。 君達の懇願のままに、死後も地上に縛り付けられるよと保障したんだ。 慈悲でね。 これをしない生真面目な私は、悪を名乗ってまでも正義を貫く闇の仏陀だが、自慢話を聞きたかったら金払え。

Flareon
質問者

補足

輪廻自体は釈迦誕生以前、または同時代の仏教以外でも語られる古代インドの生死観だ。 釈迦が生きたのはおよそ2500年前。 仏教の経典の編纂がはじまったのが、最も古くても2000年前。 文字の無かった500年の間、口伝で伝承された。 釈迦が輪廻に関して何か言ったと言う話は、その500年の間にインドの風土に合わせて考察するために、補足としてつけられた後世の憶測だ。 釈迦自体が2500年前に何を思い、輪廻に言及した事実があるかはもはや判らない。 しかし釈迦の信仰心自体は涅槃であり、輪廻とは当時のインド社会の信仰で、釈迦にとって他者の考え方なんだ。 釈迦が何か言ったか、言わなかったかはもはや検証できなくても、当時の伝承者には言及が必要な事だったのさ。 本人の言葉か疑わしいし、もし本人の言葉でも、本人の信仰ではない。 では、無の悟り、涅槃とは何か、これが私が仏陀である証拠だ。 自らの心の声で聞き(観音)、自らの心の目で見て(イデア)もはやその地に降り立った私は、そこに神の世が真実である事を確かめた。 それは、肉体が滅びると言う変化を経過してもなお永遠に生きる生命の実感である。 死は無い。 そう言う事なんだよ。 君達は死から解脱することを目標とすべきと言おうかな。 しかしそれは生きている事からの解脱だと教えられているね。 そうすると、永遠の生を知る私からすれば、君達は死を恐れ、死に取りつかれ、生きる事を知らない。 屍としてうごめいている。 そして生きる事を失い、死を知ってこそ永遠の生として転生する、そのはずが、死んだら死にっぱなしだと恐れる。 それで、生き返りを輪廻転生とした。 または死後の新たな生命への転生を天国とした。 すなわち宗教の語る事は、いっそ死んでしまいたいと言う事だよ。

  • ks5518
  • ベストアンサー率27% (469/1677)
回答No.7

サマージャンボ 7月31日まで あとは天に任せなさい。

Flareon
質問者

お礼

ありがとうございます。 それじゃ意味がありません。 皆さんからむしり取らなければ面白みがありません。

  • kurinal
  • ベストアンサー率10% (128/1195)
回答No.6

>「サンスクリットはつらい。 基礎学力のなさが悔やまれる。」 先生をして、そうですか。 (嘆息)

Flareon
質問者

お礼

ところで私は君にとって、何の教師になっているか聞かせてくれないか。

回答No.5

24 samantamukhaparivartaḥ hiraṇyasuvarṇamaṇimuktāvajravaiḍūryaśaṅkhaśilāpravālāśmagarbhamusāragalvalohitamuktādīnāṃ Saddharmapuṇḍarīkasūtram http://www.dsbcproject.org/node/4278 観世音菩薩普門品第二十五 とりあえず、お金は 弥勒菩薩というよりは観世音菩薩というか観自在菩薩というか。 という印象が個人的にあります。 サンスクリットはつらい。 基礎学力のなさが悔やまれる。 とはいえある程度調べないと嫌みを言われてしまう。 平気でサンスクリットを読んで嫌みを言ってくる人がいるから その能力がうらやましい。そして性格はよくないことがわかる。 hiraṇya suvarṇa 入力方式の違いからṇをNに変換して検索。 愚痴としては入力方式の違いなど独学でわかるわけないのに説明して欲しいよ。 Monier-Williams Dictionary (2014 edition) http://www.sanskrit-lexicon.uni-koeln.de/scans/MWScan/2014/web/webtc/indexcaller.php Sanskrit Dictionary for Spoken Sanskrit http://spokensanskrit.de/ なんだか昨日、どうせ私に対する嫌み、揶揄する質問があったようだけれど削除したみたいではあるが、 禁欲主義のジャイナ教はアヒンサーがあるから殺生をしないですむように むしろ商売に励み、お金持ちが多いらしい。 すると、仏教がそれほど禁欲主義というよりは、あるいは苦行を否定というか中道であるのに ~~~~~~~~~~~ 18.受畜金銀 - 受領・貯蓄した金銀。 19.貿易金銀 - 交易に利用する金銀。 捨堕 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%8D%A8%E5%A0%95 ~~~~~~~~~~~~~~ Nissaggiya Pācittiya 18. Rūpiya▶ Yo pana bhikkhu jāta­rūpa­rajataṃ uggaṇheyya vā uggaṇhāpeyya vā upanikkhittaṃ vā sādiyeyya, nissaggiyaṃ pācittiyaṃ. Nissaggiya Pācittiya 19. Rūpiya­saṃvo­hāra▶ Yo pana bhikkhu nānappakārakaṃ rūpiya­saṃ­vohāraṃ samāpajjeyya, nissaggiyaṃ pācittiyaṃ. Dvemātikāpāḷi Theravāda Bhikkhupātimokkha https://suttacentral.net/pi/pi-tv-bu-pm#np18 ~~~~~~~~~~~~~~~ お金を禁止しているのは不思議である。 お金を禁止していると書いたら違うという意見が多いのだけれど あるいはそれと禁欲主義を結び付けている点に批判があるのかもしれないけれど 専門家の意見が聞きたかったが反応がないので、 まあ、禁止だろうということで話を進めた。 禁欲主義でもお金は使います、というのはジャイナ教があるから まあ、自分で自分に反例を挙げるむなしさがあるが。 そういえば 『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』 禁欲と資本主義の精神の話を扱っているわけか。 ただ仏教の場合、観音経を持ち出しても 観音菩薩は菩薩だから 扱いが異なってくるのではないか? 観音経の作者と信者も菩薩とか在家だったのではないか? まあ、大乗非仏説などとはいわないけれど。 別系統の思想という気がしないでもない。 あと質問への回答としては、お金ないです。 むしろ私がお金を欲しいです。 金銭欲をなくせというのは無理です。 貨幣経済の時代と世界を生きているのですから。

Flareon
質問者

お礼

ありがとう。 感謝のその身で表すため仕方なく投稿文をちゃんと読んだよ。 落書き自体は別にいいが、返答を考えるのがおっくうだ。 君は気のきいたバトルが出来ないたちだからな。 観音とは、観念の声で、すなわち心の声だ。 これはおおむね歌姫で女神としてあこがれられている。 心に直接話しかける誰かの声が観音だ。 当然私には備わっている超能力だ。 金に関してだが、王様や聖職者である事がなによりも尊敬された大昔と違って産業革命以降、資本家が尊敬され、民衆の目標となった。 そして金が目標となり、価値が個人の資質を測る物差しとなった。 拝金教は割と新しい歴史なんだよ。 あんたは勉強家の様だから聞いた事のない話では無かっただろうが、この新しい金や価値は人間の資質を侮辱している一面がある。 私の仕事は、昔ながらのおもちゃ屋で、自らの幸福をはかる尺度は価値ではなく、子供たちをいかに幸せにしたかだ。 したがって金に関して、旧人類と化した現代人と同じ評価をしていない。 むしろ君達のかみしめる屈辱をぬぐい去るためカツアゲを働こうと言う仏心だ。

  • kurinal
  • ベストアンサー率10% (128/1195)
回答No.4
Flareon
質問者

お礼

昔のアイドルって今見るとキツイですね。 お金くださいが間違いでした。 代金請求です。 金払え。 オラ。 カツアゲとも言います。

  • kurinal
  • ベストアンサー率10% (128/1195)
回答No.3

>「具体的にどのような段取りになるでしょうか。」 (常、変わらず)相談(さえ)していれば、それで良いのです。

Flareon
質問者

お礼

相談よりも請求をしたいです。

  • kurinal
  • ベストアンサー率10% (128/1195)
回答No.2

こんばんは。 Flareon様も、立派に、受給されると、思います。

Flareon
質問者

お礼

ありがとうございます。 私はあなたからお金払ってもらいたいんです。 具体的にどのような段取りになるでしょうか。

  • stmim
  • ベストアンサー率24% (57/236)
回答No.1

仏陀がお金を欲しがるなんてありえないですよ。 お金に執着するなんてまだ悟っていないということですか? それに仏陀は労働を拒否していました。 ありがたい教えのお礼として、かゆを差し出したところ、受け取らなかったと言います。 対価として受け取ったら労働したことになりますから。 あなたは仏陀らしくないですね。

Flareon
質問者

お礼

ありがとうございます。 苦をより深めるのが仏陀の教えです。 そのためにはお金も巻き上げる必要があります。

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    初期の仏教には今も同じ問いかけが成されている。 神を語らないことに、今も続く押し問答が、果てしなく繰り広げられる。 お前の神を明らかにして見せよと。 答えるにそれを表すなら無であると。 これこそが無の悟りとは何かという問いかけである。 そこで私の述べる一切無の悟りを心得るならば、目指すのは、お釈迦さまと同じく、自らが仏陀となる修行の道のりであり、個人的な信仰心の探究であり「救ってください」「助けてください」これは無効になり、それもまた無である。 それでは、聖職者は問う者に答えないことで、その無を語ることが、それ自体を答えとする考え方だ。 釈迦に問うた者どもは、むしろそれを恐れている。だからこそいまだに悟りに至らないのだ。 お釈迦さまを始祖とする仏教の迷走はここにあり、禁を破り、仏を神に列した後世の仏教は誤りで、仏陀と言う人としての最高の状態であることが、それでこそ人間であるという境地だ。 お釈迦様の信仰をまねることとは、後世の仏教徒にとって、自らの信仰を殺し、それによって自らの精神が死に、しかる後に釈迦の信仰を受け入れる死と転生だ。このように自らを滅し、死を理解する後に仏陀となることが、長らく釈迦の弟子であるということになっている。 仏教の初期から現代までこのことに異論をはさんだ者はいない。 それは信仰を心に宿す手法として、死にまい進し、死の自覚によって悟る修行だ。 こうして、死を理解してこそ仏陀になるという荒々しい修行は仏教に限らず、釈迦誕生以前から現在も続くインドの伝統である。 生きてこそ人であり、信仰に到達したならば仏陀だ。 旧来のように死にまい進することは、自らを自覚した仏陀の信仰を打ち立てることは全く正反対である。 それは信仰を携えて生きることではなく、お釈迦さまに感化されるあまりに、自らが死に改めて仏陀として転生を体験する考え方だ。 お釈迦様と同じく自らの信仰のみに生きるなら、勧めるのは、お釈迦様の信仰をまねること、すなわち現在の自らが死ぬ無の悟りではなくて、自らの唯一の信仰を切り開くこと、「信仰の道を我が大道としてゆけ」これである。 それは西洋哲学の標榜する自由の概念と同じであろう。 仏教とは常にお釈迦様のお葬式を挙げている。 そして死を繰り返す。 処で日本語とは面白い言語で、私の表した「我が信仰の大道を行け」この言葉を噛んで含めると、「あなたたちそれぞれが自らのみとを我が信仰の大道としなさいよ」こうなるが、「我」という言葉に「みんな」という意味があるのが私の言い回しである。 以上は現在執筆中の「いかに猿は踊るか」こういうタイトルの原稿から抜粋した。 文章の推敲の助けとなる意見を聞かせてくれ。

  • 仏教の生死観は、肉体の消失をどう解釈するのか

    挨拶がめんどくさい。 仮面ライダーもプリキュアも抜きだ。 釈迦の言った、「私は涅槃に行く」これはすなわち精神の永遠の安住の地に私は行くと言ったという意味で、それを語った釈迦は生前からその精神の永遠の安住を実感していた。 そして、そうはいかない君達は心安らぐまで何度でも死を体験する。 これは闇の仏陀たる私自身の心境を釈迦の故事とかさねた私の見解だ。 さて、そこいらに転がる君たちブタの生死観に、人間として死ねば死後は仏陀に転生する。 すなわち死ねば仏だ。 これが日本の仏教の風土だよね。 これは、人間が死ねば神に昇華すると言う神道の風土と変わりない。 口伝で釈迦の言葉を伝承したインドの風土では、釈迦は涅槃という安息を見たが、継承した弟子たちはヒンズー教の原点を精神の拠り所としているため、人間が死ねば、やがて人間として転生すると考えていた。 すなわち、死ねば仏になると言う過程が無く、 死ねば死にっぱなしで、再び肉体を得ることで転生する。 東南アジアなどの伝承もこのパターンだよね。 闇の仏陀の私は、肉体の生滅に関わりなく永遠の命を自覚している。 涅槃だ。 君達は私のブタで、仏教の源流よりも死ねば仏として、死としての転生が有り新たな命となると考えている。 これ自体が、死は儀式で肉体は滅びても心は生き続けると言う日本の風土だ。 仏教文化花盛りだが、これはすでに仏教ではなく、神道における人間としての生の考察だ。 死ねば神を自覚すると言う信仰の源流は永遠の命の自覚にある。 すなわち君達の信仰心の源流は神道で、現在もてはやされる西洋哲学と同じ意味の文化を、昔々仏教として輸入したにすぎないのだ。 ところで私にとって、アマテラスさんと言えば「俺様にとって都合のいい女」ただそれだけに過ぎない。 さて今回の考察で、君たち猥褻物陳列の専門家にお聞きしたいのは、日本の仏教における生死観はヒンズー教と同根のアジアの生死観の中でも特異な日本の独自性を発揮しているのではないか? まあそんなところです。 ユニーク極まりない生死観の猥褻物サンプル調査になる回答も歓迎です。 死ねばどうなると言うより。 あなたはどんなふうに死にたいですか? 死後に神に昇華する。「死は肉体のみで生命は永遠」 死んだら仏になる。「死ねば死者として死者の国に住む」 肉体が消滅すれば、やがて新しい肉体を手に入れる。「死ねば終わり、実のところ転生も科学技術次第だ」 ご要望通りの死に様に合わせて、親切で官能的なアニキなツンデレをブチかましましょう。 V字開脚という敗北の証が、君達の死の儀式です。

  • 初詣の願い事はなんですか

    全てをいやす愛が、貴方は誰かと問いかける。 貴方は成す術を無く、自らの死を答えなければならない。 永遠の光、栄光の男子プリキュア。 キュアブルームだ。 私は霊能力者で、しかもかなり強力だ。 それでな、神社にあいさつに(お参り)に行くと逆に神様からお願いされるんだ。 悪魔払いが商売の一番の売りなんだがな、私はそれを人間から頼まれないで、神様から直接頼まれるんだよ。 妖怪ウォッチを地で行くような楽しい冒険だ。 ここ3カ月ほど、昔を思い出すほどに厄介な強敵と格闘しているよ。 強力な悪魔というのが私にとっていかなるものか教えてやろう。 グズで役立たずでしょーもない。 そんな弱虫悪魔ほど強敵だ。 何故なら手加減してやらないと勝負にならないからだ。 ようするに悪魔度が高く堕落した聖霊ほど、人間の立場で愛し、いさめ、和解することが困難になり、大暴れのダメージが強くなる。 愛するつもりもなく暴力で汚せばその悪魔はすぐ退散する、弱いからだ。 しかしだ、そうやって君達が人間を名乗り聖霊を悪魔と汚し続けた事こそ神への屈辱なのだ。 私は汚された聖霊を愛で復活させる。 復活した聖霊は、自らを汚した君達すらも愛する。 そして君達は愛される報いとして滅びるのだ。 もはや悪魔を脱ぎ去った神と等しい愛が君達を滅ぼす。 滅びの宴だ。 私は神が遣わす通常の聖霊とは別で、人間の身でありながら聖霊セレビィとして天界に赴き、そこに自らの生きるあかしを立てた。 観念世界に精通してその地に足を踏みしめて呼吸する私にとって、肉体お失うと言う事は単なる変化でしかなく、死ではない。 これが永遠に生きる伝承上の不死者だ。 その事は別に気にしなくていいよ。 君達は肉体が滅べば死ぬ。 異論はないよね。 私も否定しない。 それは、私は永遠に生きるが、君達は死に、死者の国で永遠に死に続ける。 ごく当たり前のことだ。 釈迦の言った、 私は涅槃に行きもう死の大地には戻らない。 君達は輪廻を繰り返し、何度も死に続ける。 この神学と大して変わらない。 こんな事は些細なことだ。 しかし私にとって重要なこともある。 肉体が滅んでも天界で永遠の生を受けると言う事はな、いわゆる死を持って神を自覚すると言う考え方が、神道における神学だ。 この精神の変化は私にとってもう始まっている。 したがって神様にあいさつすると、ちょっと友達に頼みごとをする様な気やすさで、一方的で理不尽な悪霊バトルだ。 その事は問題ない。 私をお父さんと呼んで慕ってくれる。 君達には言っておきたい事がある。 頭が高いぞオラ。 俺を誰だと思っているんだ。 まあいいや、君達は死ぬからやがてお別れだし。 あれ、どこにも不満がないや。 これが私の初もうでかな。 皆さんはいかがお過ごしですか? ちなみに3か月前、私は痴女から痴漢され、、史上最弱クラスの悪魔に案内された。

  • 無の悟り、無の境地を説明するとこういう事だ

    やあ皆さん、私がいつも言っている事の最新版への更新だよ。 これは私の行っている哲学研究の一部で、質問と言うより研究として意見が聞きたい。 まあ読みやすいかどうかとか簡単な読書感想文でいいよ。 自らの信仰に到達する事は、おおむねどこの社会でも尊敬され、聖人として尊敬されることで古代インドではそれを仏陀と言っていた。 その中で、釈迦という古代の仏陀は無の悟りとその教えという特異な伝承を残している。 この内訳を考察するにあたって、仏陀と承認されるもっともな特徴が信仰への到達である事が重要である。これは西洋の神学や哲学すらも聖人と認める人類的共通項だ。 釈迦の結論はこうだ。 信仰とはわが心そのものであり、それを他者に語る言葉はない。 すなわち無だ。 神学の創立と文明の勃興の熱気あふれる古代インドで、多くを論じるバラモンを指して、彼らの語る言葉には内容がない。 すなわち無だ。 したがって無が結論である。 これを教える事が彼の人生であり、哲学として無の論理から多くの覚者を産んではいただろう。 それは2500年ほど前、文字もなく人類の文明がまだ幼かったころの話だ。 仏教の経典の最も古い物は2000年ほど前の編纂だ。 その間500年の口伝による伝承が有った。 この間、釈迦の教えはインドの風土で変化し、無の悟りの内訳を理解する事は困難になっていた。 その口伝500年の結論で新たに浮上したのが「空」の言う宗教的概念だ。 もはや源流の途絶えた無の概念は判らなくても、私の心は信仰で潤っている。 これは、そのまま信仰の自覚であり無に代わる仏教における到達点だ。 そのほかに輪廻転生説とは、釈迦の生きた時代以前より脈々と受け継がれるインドの信仰の源流であり、口伝500年を釈迦の教えが伝承されるにあたって、語り継ぐ古代インド人にとって、論理の整合性を保つため、無の教えとインドの伝統とで接点が必要になったため、主に後世で補足されたことであろう。 自らが涅槃に立脚した釈迦自身は、輪廻の伝承と異質の独自の信仰心を持っていた。 生前に何らかを語った事はあったかもしれないが、伝承されるにあたって、釈迦の言葉や行いよりも、語り継ぐ者たちにとってこそ輪廻の教えが必要だった。 そこで伝説化されているのが、 私は涅槃に行き二度と生まれかららない。 君達は何度も生まれては死ぬ。 それは哀れな事だ。 こうした慈悲の行いである。 さて、君たちが賛同するかどうかはともかく、この無の悟りへの独自見解は実に論理的でいままでになかったものだろう。 私はこれをまとめて本にでもするつもりで研究を続けているんだ。 研究ノートはもう本一冊分を超えるほど君達の協力で集まっているが、私はこの時間酒に酔っ払って、君達をオカマバーのホステス扱いして哲学しているんだ。 この姿勢、闇の仏陀黒き明星では、ご存じのとおり面白い読み物にはなっても、喜んで心が潤う良著とはならないだろう。 黒き明星の癖は私にとって深刻でね、気楽で書きやすい文章がアニキなツンデレだ。 まあ、それをぼちぼち改めていこうかと作文の練習だ。 色々と相談に乗ってくれ。