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差異、逸脱と包摂、排除
多様性、差異の尊重だと悪い逸脱者も包摂されてしまいます。 かといって、差異はよくないにすると良い差異を持つ人も排除になります。 どのようにあるべきなのでしょうか?
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かつては民主主義は悪い思想だ、とされていました。 今でいう、過激派みたいなものと理解されていました。 逸脱者がいなければ、社会が行き詰まったとき、 転換できません。 受け皿が必要なのです。 だから、逸脱者の存在は必要です。 かといって、逸脱者が多くなれば、社会の秩序が 乱れます。 極端な場合、北斗の拳の世界になってしまいます。 ということで、逸脱者の存在を保持しつつ、少数にとどめおく、という のがあるべき姿だと考えます。
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- 日比野 暉彦(@bragelonne)
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《異者の排除》が成功し そのあとしかもその排除され・実際には犠牲とされた異者をこんどは排除した側が 聖化しあがめたてまつるという儀式とそのシュウキョウがおこなわれることとなった。そういう歴史があります。 このシュウキョウをインチキであり人間性に反するということを徹底的に考えしかるべく対処することが 《差異、逸脱と包摂、排除》をめぐって あるべき姿であると考えます。 【Q:イエスは 犠牲にされたあと聖なるものとされたか】 http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa8968735.html ☆☆ (趣旨説明欄) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 《第三項排除――犠牲を作り出す――の理論》があります。 自分たちの集まりの中から 《異質〔と見なした者〕を排除する》といううごめきについてです。 今村仁司が理論づけました。『排除の構造――力の一般経済序説』(1992)です。 この理論とそして その中でイエス・キリストがその排除された第三項であるという見方 これらについて問います。合わせて 話し合いの断たれる場合とはどういうことか それについてどうすればよいのかをも問います。 § 1 まづ人には《承認欲望》があると言います。 人は 個々の存在としてすでに 社会的である。しかも主観は 最後に意思決定するのは独立した歴史知性であるゆえ 自由な関係を希求する。しかもその自由の実現を 特に社会集団としては時に まちがって追い求める傾向があると。 簡単に言うならば 集団の中の一人だけを例外つまり除け者にして あとは互いにひとしく自由や平等をたのしむといった傾向であり むろん間違った道筋であるというものです。 一人ひとりは独立した主観であっても基本的に人間は 社会関係的な存在であるからには(独立した存在であるというコトはすでに他者の存在を前提している) 互いによる承認を喜ばしいものとして受け取る。人からみとめてもらえれば うれしい。そのときややもすると この承認を 自分から 追い求めて行く傾向を持つと言う。たとえ誰か嫌いな者あるいは誰でもよい者一人の人を除け者にしてでも。・・・ § 2 承認欲望が 模倣欲望をうながす。 この承認欲望が衝動のごとくにさえおのれの身にはたらくと 《みんなと同じでありたい願望》=《模倣欲望》を持つ。みんなと同じであれば 安心するという習性。つまり 承認されていると思うことがたやすくなる。 そしておそらく この模倣が世の中全般に行き届いた段階でも その一様性つまりは《全員による同じ歌の大合唱》という情況だけではまだ 相互の承認が完成したとは見なさない。こういう気難しい一面もあると言う。隠し味がないと納得しない。 § 3 模倣欲望は 承認欲望が満たされていちど安心したのもつかのま なおまだ不安が潜んでいるようなのだ。 そこで これなら安心しうるという一定の判定基準を持とうとする。 この誰れにとっても見やすい共通の基準となるものが 《第三項》である。具体的には 《のけ者》と言えば早い。被差別者でもある。 除け者を除け者とする同じひとつの態度を共有するなら・そしてその基準がはっきりしているなら もう何が来ても安心だということであるらしい。 〔ちなみに先走って言うなら 《貨幣》は 或る意味でこの《第三項》でもあるらしい。そっくりそのままかどうかは別として その《共通の基準によってのけ者とされたお金》の所有は それなりの安心をもたらすものであるらしい〕。 § 4 第三項とは みんなから隅へ追いやられるものである。 追いやられ仲間ではなくなるという意味で 第三項と称される。 このときその〔小単位としての〕社会は 《一》対《他の皆》という構図をつくる。《一》となった第三項は たしかに《除け者》として扱われる。《一定の基準》が出来た。 つまりははっきりとシルシづけられた第三項を皆で共有しつつ排除する構造が出来て初めて 人としての互いの承認が実現するというわけだと言います。そうしてこそ 人びとは安心して 安定した《仲良し》状態となり 《秩序》を楽しむと言うのだそうです。 このような傾向を人類は 悲しいかな 残念なことに持っているのだと。 § 5 もっとも そもそもにおいて《自由》を前提していたように その自由への変身を人びとが成しうるとも説いています。 それは 第三項やあるいは《異者》の 受容をとおして わたしたちは獲得することができるとも言います。 また 模倣欲望を実行している最終の過程で その互いに互いを模倣するという《流行や ファッション》の現象においてもその反面にはつねに起こると思われるように それつまり 《みんなと違いたい願望》が これもじつは同時に はたらいてくれるとよいし はたらくだろうと考えられてもいます。 非模倣ないし反模倣つまり みんなと違っていたいという欲望 そしてそれと並んで 《異者》を受け容れるという行為 これらによって 自由への変身を人びとは勝ち取れる道はのこされると。 § 6 排除された第三項は 歴史的にキリスト・イエスであるとも言い あるいは 資本主義社会における貨幣のことであるとも論じていました。 第三項は それがいわば見事な排除であった場合には 排除し切ったあとで ぎゃくにそれを人びとは《聖化》すると言います。 人びとからは呪われて去ったと見なされたその除け者を 今度は排除の成功のあとにはぎゃくに偉大な生け贄と見なし それに聖性を付与する。 それによって なお人びとは 安心するというその仕組みなのだと。 つまり 十字架上に去って行った者を 絶対の聖者として こんどは一転して崇めるようになるのだと。 したがってつまり今度は 除け者の第三項を《聖なる第三項》として みなであがめる。 このことを通して あらためて集団ないし社会における秩序と安寧をたしかなものにするのだと。人びとは安心するということらしい。 たとえば菅原道真は 聡明で真面目な人間だったらしくしかもワケもなく左遷されたらしく その死後には 天神様として生前における《のけ者の第三項》扱いが《聖なる神》としてまつられるというからくりであるらしい。 § 7 言いかえると イエス・キリストの事例に見られるような《聖なる除け者(第三項)》といった扱いは これも まちがいであると考えられるのに かなり有力なかたちで続けられる。 なぜならそこでは 死後に一たん評価がひるがえって《聖なる者》と見なされるようになったあとでは この《聖化》――つまりは そういう通念ないしクウキ――に対してもし否定するような動きがあったなら今度は あたかもすでに条件反射のごとくに 反動のチカラがはたらくということらしい。 前からもうしろからも オモテからもウラからも 《第三項排除》の歴史は 完璧を期してつづけられるというのである。 反動のチカラ――つまり一般にオシエを説くシュウキョウである――は 出る杭を打つとなって現われる。つまりその――今度は 聖化されたイエスを悪く言うかたちで――新たに現われた異端分子を やはり第三項と見なしてその排除にかかる。ゴータマ〔は第三者ではなかったが 王子のときにひょっとしたらのけ者になった(ちょっとしたことでも拗ねた)かも知らない〕にたいする批判には 一斉に本能によってのごとくに反批判が集まる。 異端分子が 人びとの《心の――じつはただうわべにおける心理的な――安心と安定のみなもと》としていだかれたキリストなる観念の共同に ただ否定的なだけではなく 真っ向から敵対するかたちとなり ひとつの勢力さえ形成してきたときには 当然のごとくそれを 単に除け者とする手段では間に合わなくなれば 明らかに迫害や戦争にまでも発展させる。ときに社会はこぞって容易に その戦争に飛びつくことが起こる。 § 8 《自由への変身》は 異者の受容によるか? ひとりの偉大な《聖なる者》をいただくひとまとまりの社会 これも じつは そのまま間違いである。 その《聖なる者》をいただくか否かで区分した規定じたいがすでに 除け者をみづから作ろうとしている。ただちに排除しようとして 異端分子の起きることを待ち構えている。 だから他方で《他人と違っていたい》という欲望においては 外の異者を受け容れよと言うのであるが おそらくそれは――その今村理論に逆らってでも―― まだコトの本質には迫っていないように思われる。(異者の受容そのことが わるいわけではない)。 内外の区別ということ自体が そしてそもそも《偉大なる聖なる第三項》をいただくという方式じたいが どこまでも除け者を作り出そうとする模倣および承認の欲望のなせるわざである。世に言うシュウキョウなるものの何たる自己欺瞞 ! ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ このシュウキョウにおける自己欺瞞をしっかりと知ることから始めるのがよいと考えます。
- 雪中庵(@psytex)
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人と違う事が価値ではない。 多様性によって可能になる分業化=助け合いが大事なのだ。 日本社会のような「出るクイは打たれる」というのを避け、 人と違う事を否定的に見るではなくすれば、後は「他人と 違う事が良い」とは考えてはならない(ミョーにかっこ つけたナンチャッテ変人になりがち)。 そこから先は、他人への思いやり=異なる立場への理解に よって、差異を乗り越える事だ。
- a_hona
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個性を無属性とし、良さを普遍性ととるとして、個性と良さの交わるところにあるものを是とし、そうでないところにあるものを否とする、かつ、悪や良さの定義の異なる可能世界の存在を考えないのなら、これで筋は通ると思います。 端的に言うならば、誰にとっても良い事は、私にとっても良い、という事です。