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川上哲治氏の謎

jakyyの回答

  • jakyy
  • ベストアンサー率50% (1998/3967)
回答No.2

川上哲治氏の謎を解く鍵は川上哲治の長期の戦略にあります。 【監督は10年】 川上哲治は監督を引き受けたときは、10年はやると決めていたようです。 そのために、自分の後釜になるような別所、広岡などの将来の監督候補を早めに斬っておいたようですね。 別所は暴力事件が明るみになると追放されました。 【生え抜き】 チームは生え抜きの選手で固めること問題が生じないことも熟知していたようです。 いうことを聞く選手で固めることを第一にしました。 チームを強くするためには、外からも適当に補強しながら、生え抜きの選手を育てることをしました。 広野、高桑、桑田、金田など外様の選手をたくみに使いました。 【外様のコーチ】 荒川、牧野などの外様のコーチを使って勝つためのキメの細かい野球を徹底的にしました。 これらの結果V9になったということです。 【広岡と川上】 川上は将来の監督候補、広岡をまず斬りました。 彼の野球指導者の才能を恐れたからですね。 彼が巨人のチームに顔を出すのを嫌がりました。 解説者になった広岡が巨人のキャンプを訪れた時、 誰も口をきかなかったが、唯一森捕手だけが声をかけたというのは、有名な話です。 今でも表立って批判はしませんが、広岡氏は巨人を追われたことを根に持っているでしょう。 【川上野球で泣いた人々】 広岡に限らず川上野球で多くの選手、コーチが早く才能を枯らして球界から消えました。 下記の本に詳しく載っています。 「英雄たちへの挽歌」上前淳一郎、文藝春秋社、 「戦後プロ野球50年」近藤唯之 新潮文庫

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