• ベストアンサー

聖書は 《ひとごろし》をどう見ているか

 たたき台をしるしますので お考えを述べてください。  【§1】 エワとアダムの自由意志から始まった(創世記3:1-24)  (1) 生まれつきそなわった自然の自由な心にその心に背く自由もあった。:食べるなと言われた木の実から採って食べた。  (2) アダムよ きみはどこにいるのか? という心の声を聞いて 自由のおそろしさを知った。  【§2】 その子カインは 自由は自由ではないかと心に思った(承前4:1-17)  (3) 弟のアベルは おのが心に背かないみたいだ その能天気はマチガイではないかと兄はうたがった。  (4) 背かないのはおかしいではないかとカインは或る日 野原でアベルに迫ると アベルはその従順をとおした。これをカインは ころした。  (5) あらためてカインも 自由のおそろしさを知った。知ってみるとそこで《顔が落ちた》。  (6) 自由という畏れには 仕返しという観念がなかった。そのこともカインは知った。  ▲ (創世記 4:15) ~~~~~~~~~~~~~    主はカインに言われた。       「いや、それゆえカインを殺す者は、だれであれ七倍の       復讐を受けるであろう。」    主はカインに出会う者がだれも彼を撃つことのないように、カインに    しるしを付けられた。   ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  (7) のちに:  ▲ (申命記19:21) あなたは憐れみをかけてはならない。命には命、目には目、歯には歯、手には手、足には足を報いなければならない。  ☆ というふうに復讐をすすめてもいるが:  ▲ (申命記32:35) わたし(=神)が報復し、報いをする  ☆ とも言っている。  (8) イエスの出たあとでは こう言う。:  ▲ (ローマ書12:17-21) ~~~~~~~~~~~  17: だれに対しても悪に悪を返さず、すべての人の前で善を行うように心がけなさい。  18: できれば、せめてあなたがたは、すべての人と平和に暮らしなさい。  19: 愛する人たち、自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい。    「『復讐はわたしのすること、わたしが報復する』    と主は言われる」(申命記32:35)  と書いてあります。  20: 「あなたの敵が飢えていたら食べさせ、渇いていたら飲ませよ。    そうすれば、燃える炭火を彼の頭に積むことになる。」  (箴言25:21-22)  21: 悪に負けることなく、善をもって悪に勝ちなさい。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  【§3】 神のためならば《ころし》もありなのか? (創世記22:1-19)  (9) あなたの息子イサクをささげなさいと言われたアブラハムは 気のくるうばかりに悩み苦しみ考えた。  (10) ひとは おのれをもほかの人をも ひとをころすことはしない。という答えを得た。  【§4】 《なんぢ ころすなかれ》とモーセ (出エジプト記20:1ff.)  (11) これは 禁止命令である。アブラハムの主観内面における信仰とヒラメキを人びとのあいだに共同化したのである。  (12) モーセその人は個人としてアブラハムと同じくおのが心における内面の信仰にしたがっていたが 集団・社会としてはこの倫理規範を持った。律法と呼ばれる。法律である。  (13) 主観の内から言わば外へ出たのである。《カインにつけられたシルシ》に発するごとく。  【§5】 《文字はころし 霊は生かす》とパウロ (コリント後書3:6)  (14) 律法は 禁止命令としての倫理規範である。つまりは 禁止を犯したことの罪を自覚させるシルシとしての文字である。つまりは 《法律〔やオキテやナラハシ〕》を超えて 主観をおもんじるアブラハムの信仰に還る。と言う。    (15) ▲ (コリント後書3:2-8) ~~~~~~~~~~~  2: わたしたちの推薦状は、あなたがた自身です。それは、わたしたちの心に書かれており、すべての人々から知られ、読まれています。  3: あなたがたは、キリストがわたしたちを用いてお書きになった手紙として公にされています。墨ではなく生ける神の霊によって、石の板ではなく人の心の板に、書きつけられた手紙です。  4: わたしたちは、キリストによってこのような確信を神の前で抱いています。  5: もちろん、独りで何かできるなどと思う資格が、自分にあるということではありません。わたしたちの資格は神から与えられたものです。  6: 神はわたしたちに、新しい契約に仕える資格、文字ではなく霊に仕える資格を与えてくださいました。   文字は殺しますが、霊は生かします。  7: ところで、石に刻まれた文字に基づいて〔* 罪の自覚をうながし その罪がけっきょくあたかも人をそこへみちびくところの〕死に仕える務めさえ栄光を帯びて、モーセの顔に輝いていたつかのまの栄光のために、イスラエルの子らが彼の顔を見つめえないほどであったとすれば、  8: 霊に仕える務めは、なおさら、栄光を帯びているはずではありませんか。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  【§6】 イエスの後の現代  (16) 法律や思想が 有限のものであり相対化されたなら もう神は要らない。神という観念は要らない。主観内面におさまる。  (17) ひとの意志を踏みにじる《ころし》は ウソ・イツハリをもゆるすような自由度を持つ自由意志に発していると知ったし その自由についてのおそれをも知っている。その自由は 仕返しから 自由である。

みんなが選んだベストアンサー

  • ベストアンサー
  • yuniko99
  • ベストアンサー率15% (31/204)
回答No.9

ある国をどうとか書いたら 消えてしまった 怖しい。 長々と書いたのに・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ つまり僕は聖書は素人ですが モーゼの十戒やイエスの教え(神と隣人への愛、敵への愛など) ユダヤ人には大体神のイメージがあったのでしょうけど 聖書全体には様々なケースで神や預言者やイエスや使徒などが 結構その場その場で適当な事を言っているので 後世の人々は 罪の意識を感じた時 聖書を読み 神父さん牧師さんに 懺悔すると 結構適当な聖句を引用して ケースバイケースと言うより 半分占い的要素で 聖書のどこを開いても答えがあると言われる様に 教えていたのではなかろうか しかし神は精神に存在するのだから 精神を通じてしか働かない 神もイエスも 義人はいない 死人はほっとけ 歯噛みして悔しがるだろうと 言いたい放題言って 最後は逆ギレされて屠られたので  イエスも神も死んでその記憶だけが文化の中に息づいている 途中は忘れましたが 兎に角リメンバー9.11でイラク戦争で10万人も殺すものだから 敵を愛するなど真っ赤な嘘とばれてしまった 第一原爆を人体実験のように投下して 300万人を殺した戦争も 聖書に宣誓して政を行う国の諸行。 殺して殺して殺しまくった20世紀キリスト教国。 今更人殺しと言っても クリスチャンでなければ人でない と言われるかも それより仏教の方が比較にならない程殺生を戒める。 怒りの国米 陰湿の国日本 屈辱の国中国 日本はこれを取り持たなければ。 ひとごろしは行けない 人にされたくない事は人にするなと孔子?は言った 自分がしてほしいことを人にもしなさいとイエスは言った。 それでクリスチャンが人を殺したら・・・もう教えは成り立たない。 私は言う 自分が死んでも人を殺すな。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  ★ ある国をどうとか書いたら 消えてしまった 怖しい。  ☆ ん? 何の話ですか?  ★ 神父さん牧師さんに懺悔すると   ☆ これは 何の意味もありませんよ。  霊の次元ですくわれるのですから。  それに エレミヤ書31:31以降(これは へブル書8章に取り上げられています)によれば イエスの登場によって人びとの罪はすでに神においておぼえられていない。忘れられている。また すでにもうオシエを説くことはない。オシエは要らない。と成るとなっています。すでに成りました。  ★ しかし神は精神に存在するのだから 精神を通じてしか働かない  ☆ いいえ。霊をつうじてです。霊からヒラメキが――直感ないし直観としてまた観想や瞑想として――得られるのですが それは 身をつうじてもそして心をつうじても働くことになります。精神と身体とは およそ一体です。それらを超えたところが 霊の領域(非思考の庭)です。  ★ それでクリスチャンが人を殺したら・・・もう教えは成り立たない。  ☆ ここからです 信仰は。非思考の庭は オシエを超えていると知るところからです 出発は。  

その他の回答 (15)

noname#206898
noname#206898
回答No.5

判ってる人なら こんなサイトで質問等しないのです・・ 理解すれば 今 必要な事は 他人に聞く事じゃ無く 実践だって解かってる筈なのです・・

bragelonne
質問者

お礼

 方向性として解かっていると言いました。  ★ 実践だって解かってる筈なのです・・  ☆ という意味では分かりません。むしろ 反対です。つまり 説明せず・また説明しえずに実践はないという意味での反対です。  ご投稿をありがとうございます。

  • a_hona
  • ベストアンサー率21% (95/444)
回答No.4

ところで、聖書の神は、洪水を起こしたり、ソドムとゴモラを滅ぼしたり、バベルの塔を破壊したりしたんでしたっけ?

bragelonne
質問者

お礼

 そうですね。そのとおりであると言わねばならないでしょうね。  それで だから どういうことになりますか?  つまりそのむかし ユダヤ民族にとってのヤハヱーならヤハヱ―という神であったわけです。まぎれもなく よその民族に対しては 聖絶と言って みなごろしにするようにも命じています。  生存ないし民族の存続を第一に考えたところがあった。ということだと思います。  ご回答をありがとうございます。

noname#206898
noname#206898
回答No.3

解読が問題では無いのです・・・ 聖書の役目は 既に終わったのだから・・・ あなたは それを知らない・・って事なので 何も解かってない‥と言う事です・・

bragelonne
質問者

お礼

 あんたの言おうとすることは 分かっている。その方向性として分かっている。  そしてそのことについては 何の関心も持ちません。  何度もそう言ってあげています。  ご投稿をありがとうございます。

noname#207138
noname#207138
回答No.2

こんにちは。 再びですが、再チャレンジではありません。 やはり独特の表現法に加えて長文、かつ話すのが目的(でしたよね?)である事なのでその性質上仕方なく焦点がぼやける。→何を踏まえ、何に沿って題材について話したいのかいささか不明瞭。 なのが原因かなと改めて思いました。 質問じゃなくて、トークが目的なんですよね? それによって他者の考えなどを聞く機会を持ちたいという事でしょうか? という訳で質問の意図をちゃんと理解していないので、質問に対する回答ではなく、質問をあまり集中力のない状態で拝見しての素朴な発言です。 律儀でマメな方なのでコメント頂けるのかもしれませんが、私の姿勢は自覚しているのでスルーして頂いてもかまいません(^^) 聖書には「神は心をかたくなにしようと思う者の心をかたくなにし、慈しもうと思う者を慈しむ」 とあります。 平たく私の理解を言うと「神は完全な自由意志をお持ちなので、その人に対する扱い方も相手が良い人/悪い人などという性質に関わらず完全な神の自由意志によりその人の扱い方を決める」という事です。 つまり、たとえ人殺しでも赦される可能性は十分にある。 という事になります。 事実「聖霊を冒涜する以外の罪は全て赦される」とも書いてありますし。 イエスでさえ自分を「良い先生」と呼ぶ人に対して「私を良いと呼ぶな。良い方は神お一人だ」と言っています。 本当にそうでしょうか? 実相のイエスは良いでしょう。でも人の形をとって降りてこられたイエスが、人の表現方法、人の形をして人の性質を帯びている存在としてある仮相のイエスが良い筈が無い。 こう受け止める事もできます。 つまり私がさすポイントは「神の意思を人の表現方法に納める事はできない」という事です。 だからイエスでさえ「良い先生ではない」のです。 聖書は人に規範を与えるための書物ではなく、人と神との関係を人に思い出させ、人と神との親子関係を正しく維持運営させるためのものです。 その一つとして規範を与えるという側面もありますが、主目的は「神と人との関係を正しくする」事にあります。 聖書に書かれている事の全てはそのための方便とも言えます。 ですから逐語しても仕方が無い側面があります。 神はたとえ罪の無い人でさえもその御意思にあれば罪人と同じ様な経験をさせる事があります。 マルコ10:35-45を読むと、必ずしも期待した報酬がえられるか解らない状態でも試練を苦しみを受ける可能性が示唆されています。 少し蛇足になりましたが、平たく言えば「聖書はある決まった価値観や視点に固定して物事を見ているとは限らない」という事です。 「神は人間の王の様にご自身が法律の類いに縛られる方ではない」 はずだと思いませんか? 神の神輿を赦された人間以外の人間が触れただけで殺した事もありますし。 ノアの洪水でも世界中の人が知っている通りです。 ですが、神の殺人にはある法則と言っても良い様な傾向は窺い知れる様な気がします。 それは「神の律法に背く事」であったり、「神の律法を守る者を害する事」であったりなど、いわゆる「公的な理由」です。 神は気分屋な殺人者ではなく、裁判官の様な精査の上での決断として殺人をしていらっしゃる。 つまり「裁き」です。 神ご自身が完全な方なので、神に背く事は「完全に背く」事です。 これが死を招くのは当然です。 完全な神ですからまるで気分を害しただけで殺した様なタイミングで人を殺す事もありますが、当然頭の回転は天上天下一品ですから決断を下す段階ではあらゆる事が精査されていると考えるのが自然。 こうした完全無欠な人格と能力を持っている存在がとる行動と人間如きがとる行動を同じに考えてはなりません。 そうした「同じに考えてはならない存在」に対して与えられた神からしてみれば欠陥だらけの教えが聖書です。 聖書は霊性と信心によって読まなければあまり意味が無いと思います。 霊性と信心によって読むならば、木も空も水も太陽も全てが聖書であると言えます。 それが心に刻まれた律法の一側面だと思います。 自分を殺す敵の事をも愛する様要求する人が人殺しを良い事だと考えているとは考えにくいが、仕方の無い場面もあるという事。 そしてその場面は人間の知恵では計り知れない場合もあるという事です。 そして人がいくら「仕方が無い」と考えたところで神が思う「仕方が無い」とは異なるかもしれない。 それは神のみぞ知ることなので人間がいくら議論しても仕方が無い。 人間は”作業”として隣人を、敵を愛する様努力実行するその日々の思考と決断と実行とが学ぶ契機となり、その思考言動をしている人を答えに導くのだと思います。 そして”答え(とするもの)”に至ったときは、それは他人と議論する必要のあまりない暗黙のうちの了解になっていると想像します。 この質問はその過程の中のほんの一粒としての要素に過ぎませんから、この質問に対する答えとしてではなく、この質問を受け手の私からの”反応”として受け止めてください。 また長くなりましたね(笑) まあ気になさらないということなのでお言葉に甘え(^^)

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  ★ 聖書には「神は心をかたくなにしようと思う者の心をかたくなにし、慈しもうと思う者を慈しむ」 / とあります。  ☆ そのことが じっさいにあまねく行き渡るには――エレミヤ書31:31以降の(そしてそれは へブル書8章に取り上げられています)《あたらしい契約》に説かれたふたつのこと・すなわちひとつに《神は人びとの罪をおぼえない。忘れる》ということと共に―― もう《神を知りなさいと言っておしえない。オシエは要らない》というかたちになることと同じでなくてはなりません。  すなわち そのような神のエコヒイキといったオシエすらが 要らないというふうに人びとに受け留められていることです。  すなわち:  ★ つまり、たとえ人殺しでも赦される可能性は十分にある。 / という事になります。  ☆ と見るのは まだなお《オシエ》の傘の下にとどまっています。  すでに人間のことや人間どうしのことは すべて人間の考えやあるいは思想・法律によって取り扱って行けばよい。ここまで突き進まなければおかしい。イエスの現われたことが台無しになります。  ★ マルコ10:35-45を読むと、必ずしも期待した報酬がえられるか解らない状態でも試練を苦しみを受ける可能性が示唆されています。  ☆ ううーん。方向性として違った読み方をします。  ▲ (マルコによる福音書 10章 43-45 )~~~~~~~~~~  43: (* イエスの話がつづいているくだり) しかし、あなたがたの間では、そうではない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、  44: いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい。  45: 人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである。」  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ つまり《報酬》や《試練》の問題ではないと考えます。勝手にやりたいことをやるという問題でしょう。  ★ 平たく言えば「聖書はある決まった価値観や視点に固定して物事を見ているとは限らない」という事です。  ☆ というひとつの定まった読み方をかかげることから自由になること。でしょう。  ★ 「神は人間の王の様にご自身が法律の類いに縛られる方ではない」 / はずだと思いませんか?  ☆ というその中身が現実となるには その読みを固定した規範とすることから自由になることでしょう。  ★ 神の神輿を赦された人間以外の人間が触れただけで殺した事もありますし。 / ノアの洪水でも世界中の人が知っている通りです。  ☆ といったふるい見方を揚棄しましょう。高いところに揚げて そのよき中身は保たれていますから。  その高いところとは けっきょく神はひとつだということです。どの名の神も おなじ一つの神であるという地点(人間の境位)です。そのような神を イエスは指し示したのでしょう。すべての人に仕えるために来たと言ってるぢゃないですか。  ★ ですが、神の殺人にはある法則と言っても良い様な傾向は窺い知れる様な気がします。  ☆ ではなく そうではなく その同じ内容を実現するかたちで もはやすべては人間にまかされている。民主制における話し合いで共同自治して行くということ。ここに尽きると考えます。神のカの字も キリストのキの字ももう出さないのです。(それが 信仰の究極のすがたです)。  ★ 神は気分屋な殺人者ではなく、裁判官の様な精査の上での決断として殺人をしていらっしゃる。 / つまり「裁き」です。  ☆ これを 民主制における話し合いがおこない実現して行きます。    ★ 完全な神ですからまるで気分を害しただけで殺した様なタイミングで人を殺す事もありますが、当然頭の回転は天上天下一品ですから決断を下す段階ではあらゆる事が精査されていると考えるのが自然。  ☆ そういうことを言ってると ふるい! と言われます。あんた それを見たんか? と問われます。  ★ 霊性と信心によって読むならば、木も空も水も太陽も全てが聖書であると言えます。 / それが心に刻まれた律法の一側面だと思います。  ☆ ということは 心の奥にしまっておいて すべては《話し合い》において具体的な自己表現として示すのが キリスト者です。オシエを持ち出したら そのとたん アウトです。そのくらいのきびしさで臨むべきでしょう。  ★ 自分を殺す敵の事をも愛する様要求する人が人殺しを良い事だと考えているとは考えにくいが、仕方の無い場面もあるという事。  ☆ 人間であるあんたが 決めることでも言うことでもないのでは? とツッコミを入れられたらどうします?  ★ そしてその場面は人間の知恵では計り知れない場合もあるという事です。  ☆ これは ペテン師の常套手段です。不思議なこと・つまりあからさまに言えば そのオシエを垂れる人に不利なことについては 《唯仏与仏・・・つまり ただ仏と仏とのみよく知ることだ》と言って逃げる。そういう手品です。  あくまで人間と人間との話し合いで決め合うのです。分からないことは分からないと言わなければいけません。神や仏を持ち出したら アウトなのです。  ★ そして人がいくら「仕方が無い」と考えたところで神が思う「仕方が無い」とは異なるかもしれない。  ☆ そういう話をひょっとして あんたは神から聞いたんかいな? と突っ込まれます。  ★ 人間は”作業”として隣人を、敵を愛する様努力実行するその日々の思考と決断と実行とが学ぶ契機となり、その思考言動をしている人を答えに導くのだと思います。  ☆ だめ! これぢゃ オシエを受講する優等生の答案でしかありません。《となりびとや敵と同じようになって じっさいに対話をなさなければ》話になりません。優秀な答案をいくら書いても 宝の持ち腐れです。  ★ そして”答え(とするもの)”に至ったときは、それは他人と議論する必要のあまりない暗黙のうちの了解になっていると想像します。  ☆ じつは ここが出発点なのです。よ。その出発点に立つまでの作業は 《密室》で信仰の動態としておこなわれます。それを ひけらかすことはありません。

bragelonne
質問者

補足

 No.6のお礼欄で  ☆☆ この(回答No.5の)方は おそらくエホバの証人でしょう。  ☆ と書きましたが マチガイだと分かりました。世界統一教会の人でした。  回答No.7に 次の用語が出ていたからです。    ▲ (ヰキぺ:蕩減(とうげん)) ~~~~~~~~~~~~~  http://www.weblio.jp/content/%E8%95%A9%E6%B8%9B    出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2009/12/11 23:23 UTC 版)    罪を清算すること。そのために立てる条件を「蕩減条件」と言う(、p249)。  ※この「蕩減(とうげん)」の解説は、「世界基督教統一神霊協会の関連用語」の解説の一部です。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  おわびして訂正します。

noname#206898
noname#206898
回答No.1

聖書とは 書いてる事が比喩と喩えで出来てる書物なので まずは それを現代人に理解出来る様に清書しないといけません・・・ あなたが 何処まで聖書を解読出来てるのかが焦点だとしか言えないが これを見る限り 何も解かってないですね・・

bragelonne
質問者

お礼

 では 《解かっている》場合の解読は どうなりましょうか。  ご回答をありがとうございます。

関連するQ&A

  • ヘブライ聖書における人間洞察

    ユダヤ教的解釈または議論では人間心理は対象とされるのでしょうか? されるとすれば、以下の解釈は適切でしょうか? また、人間洞察をテーマにしたヘブライ聖書の書籍などの情報を知りたいです。 よろしくお願いします。 ”カインは農作物、アベルは子羊を一匹殺して捧げたところ、神様はアベルの貢物の方が良いと言ってカインを馬鹿にしたのでカインは怒って弟のアベルを殺した。” 弟を殺した兄の心のうちはなんだったのかを自らに問うと ・兄特有の我慢と弟特有の自由さ ・農作物を得るための地道な労働を否定された ・尊敬する神の不当な評価(≒可愛さ余って憎さ百倍)に対する憤り

  • カイン再考

     極端な仮説を提出して 再考をのぞみます。  まづやはり先に そのくだりをかかげます。  ▲(創世記 4:1-16) ~~~~~~~  1: さて、アダムは妻エバを知った。   彼女は身ごもってカインを産み、    「わたしは主によって男子を得た」   と言った。  2: 彼女はまたその弟アベルを産んだ。   アベルは羊を飼う者となり、カインは土を耕す者となった。  3: 時を経て、カインは土の実りを主のもとに献げ物として持って来た。  4: アベルは羊の群れの中から肥えた初子を持って来た。   主はアベルとその献げ物に目を留められたが、  5: カインとその献げ物には目を留められなかった。   カインは激しく怒って顔を伏せた。  6: 主はカインに言われた。      「どうして怒るのか。どうして顔を伏せるのか。  7:   もしお前が正しいのなら、顔を上げられるはずではないか。      正しくないなら、罪は戸口で待ち伏せており、お前を求める。      お前はそれを支配せねばならない。」  8: カインが弟アベルに言葉をかけ、二人が野原に着いたとき、    カインは弟アベルを襲って殺した。  9: 主はカインに言われた。      「お前の弟アベルは、どこにいるのか。」     カインは答えた。      「知りません。わたしは弟の番人でしょうか。」  10: 主は言われた。      「何ということをしたのか。      お前の弟の血が土の中からわたしに向かって叫んでいる。  11:  今、お前は呪われる者となった。      お前が流した弟の血を、口を開けて飲み込んだ土よりも      なお、呪われる。  12:  土を耕しても、土はもはやお前のために作物を産み出す      ことはない。       お前は地上をさまよい、さすらう者となる。」  13: カインは主に言った。       「わたしの罪は重すぎて負いきれません。  14:   今日、あなたがわたしをこの土地から追放なさり、わたし       が御顔から隠されて、地上をさまよい、さすらう者となって       しまえば、わたしに出会う者はだれであれ、わたしを殺す       でしょう。」  15: 主はカインに言われた。        「いや、それゆえカインを殺す者は、だれであれ七倍の       復讐を受けるであろう。」     主はカインに出会う者がだれも彼を撃つことのないように、カインに    しるしを付けられた。  16: カインは主の前を去り、エデンの東、ノド(さすらい)の地に住んだ。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 《4:6 どうして顔を伏せるのか》は 内面の暗い重い闇に落ち入った感じをつたえそうな表現であり じっさい原文は 《どうして顔が落ちているのか》という言葉で表わしているのだそうです。    →【Q:カインは なぜ・どこが わるかったのか?】No.36お礼欄    http://okwave.jp/qa/q7308621.html  ですが 今回は 形式的なこと・表現技法にかんすることがからんでいるのではないかという・ちょっと人を食ったようなとさえ見られる見方を提出します。  (あ) このカインの物語は カインがどうだアベルがこうだという問題では必ずしもなく そうではなく ひとえに《ひとごろし》という主題を アダムとエワの物語のあとに提示してみせたのだという解釈です。  (い) すなわち聖書記者は 天地創造が終えられたあとの初めに 《善と悪とを知る木から採って食べた》という・おそらく人間の自由意志の主題をあつかった。そのあと ただちに――エワとアダムとは その自由意志を おのれの心にさからったかたちにおいても 発揮することがあると物語ったからにはそのあと ただちに―― 人が人をころすという主題を取り上げた。  (う) だから アベルが遊牧民でカインは農耕民だという違いを要因として取り上げたり あるいは一にも二にも 信仰の問題であってそれは なかなかオモテには出て来ないのだと信仰論で済ませようとしたり さらにあるいは けっきょくカインは 神がアベルの供え物を喜んだが 自分のそれには目を留めなかったところから アベルに嫉妬したのだと説明したりする議論は 解釈に失敗するか もしくは タメにする議論に落ち入るのではないか。  (え) すなわちつまり エワとアダムの事件では 《自由意志には すなおな心とへそ曲がりの心とがある》と理論づけたのだし ここカインの事件では 《その自由意志が みづからのであれ・他人のであれ同じ自由意志を・つまりは自由意志の主体として人間という存在そのものを抹殺することがある》と論じすすもうとしている。  (お) エワとアダムとは へそ曲がりの報いとして エデンの園を追われた。カインは  ▲4:12 お前は地上をさまよい、さすらう者となる。」  ▲4:15 ~~~~~~~~~~~~~~   主はカインに言われた。        「いや、それゆえカインを殺す者は、だれであれ七倍の       復讐を受けるであろう。」  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ といったように捌かれた。この結果をもって ひとが人をころすことがないようにとされた。      *  ブレインストーミングのごとく 思いっきり自由なご見解をどうぞ。  言わなくてもよいと思われますが フルボッコのご批判をどうぞ。

  • 甘えの哲学は 忘れていないか

     1. 《甘え》の歴史をとおして セクハラ問題を考えます。そして 事実と真実は ディスクロージャー原則に従うのがよいはずだと考えます。  2. 甘えと言えば 基本的に赤子が母親に身も心もゆだねる聖なる甘えを言うと見ますが この母子関係から離れた人間としての依り縋りなどを甘え一般と ここでは します。  3. エワは 光が陰の部分にも入り込んでいるのを見て 光も曲がると思っていたところ或る日 夫アダムのつくった料理に対して なぜか遠慮してまづいのに おいしいわと言ってしまった。  4. その以前では アダムもエワもそれぞれ互いのつくった料理に対して 遠慮なくおいしいとか・まづいとかと思ったとおりを言っていた。甘えていた。  5. だが まづいものをまづいと言うのを遠慮することも 甘えではないか。――勝手に自分の考えで遠慮するのなら それも 甘えではないか。  6. ふたりは知った。わが自由意志はその自由度がまさに縦横無尽に自由自在なのだ。  7. 光も曲がるのか。曲がり得るということは まっすぐに行くこともあるということだ。でも こわいほどにわが意志は――思考や想像においてだけとしても―― あたかも限界を知らないかのごとく 自由自在だ。  8. 子どもたちの内 弟のアベルは 兄のカインから見て 甘えるタイプだった。アマエについて遠慮しない。少しは遠慮せよと何かにつけカインは思っていた。  9. カインのつくった畑の野菜は 羊を放牧しその肉を食べるアベルにはまづい食べ物だった。  10. 或る日カインは ついに頭に来て弟アベルをなぐり殺してしまった。  11. 甘え合戦の結果 ついにここにまで来てしまった。  12. かれらの子孫の一人でアブラハムなるぢいさんは まっすぐ行くのも曲がるのも同じ光だと思った。遠慮のあるのも無いのも 同じ甘えだと。愛も憎も 人間の甘えなのではないか。  13. その後さらにモーセという男は 人びとのあいだでこの《甘え》について共通の取り決めをするのがよいと考えた。世の中の秩序のためである。  14. 《なんぢ ころすなかれ》と。そして遠慮するにせよ・しないにせよ 《いつはる(偽る)なかれ》と。  15. モーセ自身は アブラハムと同じく独りなる人間の主観そしてその内面を重んじる人であったが 人びとの生活共同にとっては 倫理規範が必要だと思った。  16. 甘え合戦をめぐる交通法規であり交通信号である。  17. 自由意志の自由な想像力の問題であるとも考えられる。《甘え》ということがである。甘えていない者はいない。  18. のちにイエスという男は ふたつ言った。:  アブラハムの言う《同じひとつの光》は その同じはらから(同胞)の内に閉じ籠るのではなく そうではなく 外に開くのだと。  そうして モーセの交通信号は 人びとそれぞれの心根の中にすでに植えつけられている――アートマンまたはブッダターとして――と。  19. 世界の人びとよ。自由に互いにあまえたまえ。自己チューをさえつらぬきたまえ。ちぢこまることなかれと。  20. もっと自由に! もっともっと自由に! もっともっともっと自由に!   21. アヤマチをおかしたその同じ思考の形式と過程を 人びとの生きる環境としての情況あるいはナラハシについて捉えるかぎり――外に開きつつだが―― むしろそのまますすみゆくことで あたらしい・よき考えがわが心におとづれるのだ と。  トンネルを出るのだと。  22. 個人としては われがわれに還ることだ。  23. S 記者も F 前次官も 財務省も報道局も 甘えの哲学のもとにあるのか ないのか。みんな 互いにそれぞれ《われがわれに還る》そのヒラメキを俟っている。それは むしろ甘えてこそ湧き出るのでは?  24. 事実と真実は ディスクロージャー原則に従ってよいはずだ。あとは あまえてもよいのでは?  25. あまえのもとでこそ たがいにゆるしあえる。  ☆ 思いっきり自由なご見解をどうぞ。

  • カインとアベル

    創世記で、神様がアベルのお供え物は気に入ったけれど、 カインのお供え物は気に入らなかったというのは、どうしてですか? 生きた動物を殺して肉を捧げるのは良くて、 汗水流して耕して、その結果できた農作物はだめなんですか? ※カテ違いだったらすみません。

  • カインは なぜ・どこが わるかったのか?

     明確には分かりません。いくつか解説を読みましたが たたき台とする案も見つかりません。  ▲(創世記 4:1-16) ~~~~~~~  1: さて、アダムは妻エバを知った。   彼女は身ごもってカインを産み、    「わたしは主によって男子を得た」   と言った。  2: 彼女はまたその弟アベルを産んだ。   アベルは羊を飼う者となり、カインは土を耕す者となった。  3: 時を経て、カインは土の実りを主のもとに献げ物として持って来た。  4: アベルは羊の群れの中から肥えた初子を持って来た。   主はアベルとその献げ物に目を留められたが、  5: カインとその献げ物には目を留められなかった。   カインは激しく怒って顔を伏せた。  6: 主はカインに言われた。      「どうして怒るのか。どうして顔を伏せるのか。  7:   もしお前が正しいのなら、顔を上げられるはずではないか。      正しくないなら、罪は戸口で待ち伏せており、お前を求める。      お前はそれを支配せねばならない。」  8: カインが弟アベルに言葉をかけ、二人が野原に着いたとき、    カインは弟アベルを襲って殺した。  9: 主はカインに言われた。      「お前の弟アベルは、どこにいるのか。」     カインは答えた。      「知りません。わたしは弟の番人でしょうか。」  10: 主は言われた。      「何ということをしたのか。      お前の弟の血が土の中からわたしに向かって叫んでいる。  11:  今、お前は呪われる者となった。      お前が流した弟の血を、口を開けて飲み込んだ土よりも      なお、呪われる。  12:  土を耕しても、土はもはやお前のために作物を産み出す      ことはない。       お前は地上をさまよい、さすらう者となる。」  13: カインは主に言った。       「わたしの罪は重すぎて負いきれません。  14:   今日、あなたがわたしをこの土地から追放なさり、わたし       が御顔から隠されて、地上をさまよい、さすらう者となって       しまえば、わたしに出会う者はだれであれ、わたしを殺す       でしょう。」  15: 主はカインに言われた。        「いや、それゆえカインを殺す者は、だれであれ七倍の       復讐を受けるであろう。」     主はカインに出会う者がだれも彼を撃つことのないように、カインに    しるしを付けられた。  16: カインは主の前を去り、エデンの東、ノド(さすらい)の地に住んだ。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ のちに弟アベルをころすまでに到る心の深い闇のような悩みがあったのかと推し測られますが それを具体的にどう捉えればよいのでしょう?  ▲ (同上) ~~~~  6: 主はカインに言われた。      「どうして怒るのか。どうして顔を伏せるのか。  7:   もしお前が正しいのなら、顔を上げられるはずではないか。  ~~~~~~~~~~  ☆ こういう声を聞いてカインは 否まなかった。のなら 何か心の中にやましく心苦しい動きがあったのかと推察されますが それが何かは 読む者の解釈に任せられていましょうか?  農民と遊牧民との違いを指摘してそこに何かがあるといった議論も聞きますが むしろそれのほうがはっきりしないと考えられます。なんで職業の種類が 心のやましさにかかわるのか?  よろしくお願いいたします。

  • 旧約聖書 人物

    旧約聖書創世記第4章で、出てくる人物で、 カインの妻 レメクの妻アダ、チラ 25節「人」の二人目の妻 はどこから来たのでしょうか。 (神)ヤハウエ神が人間を作ってエデンに置いていたはずですが、 他にも上記のような人を作っていた、ということでしょうか? 3章の最後で、神は人を排した、という記述もあり、よくわからず。 また、「神」「ヤハウエ神」と2つの言い方をしてますがこれは同じでしょうか? 詳しい方教えてください。

  • あなたは 自由を持て余しているか

     1. どういう自由か? ―― 一連の歴史をつうじて明らかになった次のような自由である。  2. アダムとエワは 善と悪とを知る木から採って食べた。そうするのは 胸の動悸で告げられるヤマシサ(恥づかしさ)反応があったにもかかわらず。  3. これは 自由意志のおこないであり わが心にさからうことも その自由度の範囲内だ。この自由度は 人間の思いや考えや想像力の行き着くところまで行き着くらしい。  4. アーリア民族の高貴な血を守るためには 或る異民族の血をことごとく抹殺するというところにまでも。  5. あるいは アダムらの子のカインは 弟のアベルが気に喰わないというので 抹殺した。  6. かれらは楽園を追放されたし 人殺しのシルシを額につけられた。が 自由意志のハタラキについては神にとっては織り込み済みなのであって 人間には ゆるされている。  7. カインを殺す者は七倍の復讐をしてやろうと神自身が言ったという。  8. アブラハムはこの神を心に どういうわけか 受け容れた。  9. 百歳でやっとさづかった嫡男のイサクをも神にささげるというほどの《自由意志におけるその意志の神へのゆだね》をよしとした。  10. イサクを屠ろうとしたとき神が止めた。《わたしが望むのは愛であって いけにえではない》と。  11. モーセは 社会における人びとの間の秩序のためにこれを《なんぢ 殺すなかれ》という倫理規範かつ法律とした(石打ちの死刑など 罰則がある)。  12. イエスはこのいわゆる律法を・そして民族の神をも揚げて棄てた。  13. 律法はその倫理規範に背いたヤマシサ(罪)をおしえるだけのものであるゆえ このオシへ(宗教である)による自己経営を棄てた。  14. 石板に書かれた十戒ではなく 心の胸板に書かれているものであることを指し示した。  15. ヤハヱー神についてはそれを 民族の外に開くことによって棄て 民族神からじんるいにとっての普遍神へと〔イエスが〕揚げた。  16. 揚棄される前の神についても 《わたし(神)は憐れもうと思う者を憐れみ 慈しもうと思う者を慈しむ》とか《わたし(神)は双子の兄弟の兄エサウを――母の胎内にあるときから――憎み 弟のヤコブを愛した》と言う場合がある。  17. エコヒイキはある。《風は気ままに吹く》。  18. 義人ヨブもが艱難に遭う。神などはオサラバしてしまえと言われるほどにゴミ屑同様の状態に成り得る。因果応報説は 人間の知恵どまりだと言わざるを得ない場合がしばしばである。  19. 原罪は 人間がウソをつきイツハリをおこなうということだ。ウソとはヤマシサ反応に逆らうこと。その自由度が われわれの自由意志にはそなわっている。ということらしい。  20. 原罪説(オシヘ)が――あるいは 不殺生戒や不邪淫戒が―― 人びとの意志の自由を抑えて秩序が保たれるという社会と時代は去った。その自由を 人びとは どう受け取っているか? ――持て余しているのか。  21. 人びとは オシヘ(つまりシュウキョウ――それは 人間の言葉で書かれているからには 信じるものではなく 考えるためのものである――)を 心の主人としてその奴隷に成り下がっている時代が過ぎたというのに ただただなお慣性の法則に従ったままである。――のだろうか?  22. あたまとたましひが――シュウキョウとつるんだマツリゴトによって――鈍ってしまったのだろうか。  ☆ あなたは 自由を持て余しているか

  • 宗教学に詳しい方おしえてくだい。

    宗教学に詳しい方おしえてくだい。 モーセの十戒に、唯一神であること、偶像崇拝禁止などが含まれています。モーセはイスラエルの民を引き連れ、エジプトを脱出し、新たに十戒を設けたと思うのですが、多神教の教義の問題点(多数の神々、偶像崇拝)を考慮した結果に思われます。 (1) 多神教においての多数の神々を崇拝する事においての問題点はなんですか? (2) 偶像崇拝を禁止した理由はなんですか? (3) その様な記述はありませんか?また、宗教学者の見解はありませんか? また、創世記には、アブラハム・イサク・ヤコブの3代の族長の物語が記されていますが、 (4) アブラハムの時代の教義(古代イスラエルの民)には既に偶像崇拝禁止、一神教の概念があったのでしょうか? (5) それとも創世記の内容自体、モーセ以降の時代の人間が、先代から聞いてきた内容を踏まえ、旧約聖書に織り込んだのでしょうか ユダヤ教、キリスト教、イスラム教を信じるいわゆる聖典の民は、いずれも唯一神がアブラハムを人類救済のために選んだ預言者として尊敬し、祝福する傾向が強いとウィキペディアにありますが、 要約しますと (6) モーセが、何故、唯一神、偶像崇拝を禁止にしたのか・・・その理由 (7) アブラハムの教義には、既に、唯一神、偶像崇拝禁止の概念があったのか (8) アブラハムの生まれた時代には、その周辺の教義は主に何だったのか 以上、宜しくお願い致します。

  • 聖書とは 何か?

     関連するすべての質問についてこの初めの問いをしておけば 問い求めが分かりやすくなるのではないか。  初めということは しばしば終着駅における結論になるとも考えられますが ともかく出発してみます。  むろん哲学としての問いです。  たたき台としては:  (1) 信仰とは何ぞやという問いについて 答えている。  (1-1) たとえば 《信仰が与えられるのは 血筋によってではなく 友情や義理人情など生活上のかかわりによってではなく あるいは人間の意志や努力や学識によってでもなく 無根拠においてである》と。  (1-2) たとえば 《理性や知識あるいは知恵によってではなく ひとは 信仰によってあゆむ》と。 哲学としては 《無根拠によって》という意味になるかと考えます。  (2) その信仰の対象である神は 非経験であり非対象である。ゆえに 無い神をいだくのも――つまり無神論も―― 信仰である。    (2-1) 《無い神》と《神は存在するというときの有る神》とが 《人間と非経験とのかかわり》としてその人の非思考なる姿であるという類型において互いに同じ信仰形態である。    (2-2) つけ添えるなら 《有る神》のその名も それが何であっても まったく問わないということ。名前の違いには 意味がない。  (2-3) 言いかえると 聖書は 新約聖書に到って そのアブラハム以来の神を経験世界の背景にしりぞかせた。  (2-4) 神は 良心と信教の自由なる公理にうちにみづからの身を隠した。言いかえると おのおの主観内面におさめられた。  (2-5) (ただし その主観の自己表現として 神の話をするなということではなく してもよいし それは 説明責任をともなった表現の自由にもとづきおこなわれる)。  (2-6) 無い神の話と有る神の話とが 同列にあつかわれる。  (2-7) いわゆるもろもろの民族宗教も 以上のような扱い方のうちに揚棄されて行く。  ☆ いろんな角度から捉えられていくかと考えます。ご回答の内容について 納得できるように質問者はたずね返してまいるかと思います。その点 つけ添えます。

  • カインを殺す者

    カテゴリー違いかもしれませんが。 旧約聖書創世記第四章で、アベルを殺害した後のカインが 「私に出会う者は誰であれ、私を殺すでしょう」 と言っていますが、この時点でヒトは、アダムとイブのカインの三人だけなのではないのですか? さらに、ノドの地で妻も得ています。 この頃のヒトの寿命を考えれば、カインの一生の間に、相当数のヒトが産まれていてもおかしくないでしょうが、それはこの時点で心配することでも無いように思います。 どういう事でしょうか?