《猛禽と仔羊》:ニーチェの道徳観

このQ&Aのポイント
  • ニーチェの道徳観についての要約文です。
  • ニーチェの著書《猛禽と仔羊》において、仔羊と猛禽の対比から人間の道徳観を考察しています。
  • 強さと弱さの関係や力の本質について、ニーチェの思想を解説しています。
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《猛禽と仔羊》:ニーチェの道徳観

 ▲ (ニーチェ:《猛禽と仔羊》) ~~~~~~~~~~~~~  ――だがわれわれは引き返そう。《よい( Gut )》のもう一つの起源の問題 すなわち《反感( Ressentiment )》をもった人間が考え出した《よい》の問題がその解決を待っているから。  ――仔羊どもが大きな猛禽を恨むのは異とするに足りないことだ。しかしそれは 大きな猛禽が小さな仔羊を捉えることを咎め立てる理由にはならない。  また仔羊どもが 《あの猛禽は〈悪い( Böse)》 従って 猛禽になるべく遠いもの むしろその反対物が すなわち仔羊が――〈善い( Gut )〉というわけではないか》と互いの間で言い合うとしても この理想の樹立にはいささかの難ずべき点もない。  もっとも 猛禽の方ではこれに幾らか嘲笑的な眼を向けながら 《俺たちは奴らを あの善良な仔羊どもをちっとも恨んでなんかいない。俺たちは奴らを愛してさえいるのだ。柔らかい仔羊より旨いものはないから》とおそらく独り言を言うであろう。   ――強さに対してそれが強さとして現われないことを要求し 暴圧欲・圧服欲・敵対欲・抵抗欲・祝勝欲でないことを要求するのは 弱さに対してそれが弱さとして現われないことを要求するのと全く同様に不合理である。  ある量の力とは それと同量の衝動・意志・活動の謂いである――というよりはむしろ まさにその衝動作用・意志作用・活動作用そのものにほかならない。それがそうでなく見えるのは ただ すべての作用を作用者によって すなわち《主体》によって制約されたものと理解し かつ誤解するあの言語の誘惑(および言語のうちで化石となった理性の根本的誤謬)に引きずられるからにすぎない。  [・・・(力とその作用 あるいはつまり逆に言って 作用と作用者=主体とを分けて捉えるのは 例の《イデア》論にそそのかされたアヤマチだと論じている。省略します)・・・]  作用が一切なのだ。  [・・・(今度は チカラにも《原因としてのチカラと作用としてのチカラとがある》といったあやまった見方をすることがあると論じている。省きます。ただしこのような言葉=観念の誘惑にみちびかれることからの派生的なあやまちだというものが 次に挙げられている。)・・・]  内攻して蔭で燃え続けている復讐と憎悪の感情が 強者は自由に弱者になれるし 猛禽は自由に仔羊になれるというこの信仰を自分のために利用し その上この信仰を他のあらゆる信仰にもまして熱心に保持するとしても それは別に異とすべきことではない。――実にこの信仰によってこそ彼らは 猛禽に対して猛禽であることの責めを負わせる権利を獲得するのだ・・・。  抑圧された者 蹂躙された者 圧服された者が 無力の執念深い奸計から 《われわれは悪人とは別なものに すなわち善人になろうではないか。そしてその善人とは 暴圧を加えない者 何人(なんぴと)をも傷つけない者 攻撃しない者 返報しない者 復讐を神にゆだねる者 われわれのように隠遁している者 あらゆる邪悪を避け およそ人生に求むるところ少ない者の謂(い)いであって われわれと同じく 辛抱強い者 謙遜な者 公正な者のことだ》――と言って自らを宥(なだ)めるとき この言葉が冷静に かつ先入見に囚われることなしに聴かれたとしても それは本当は 《われわれ弱者は何といっても弱いのだ。われわれはわれわれの力に余ることは何一つしないから善人なのだ》というより以上の意味はもっていない。  [・・・(長くなるのでもう省略に従います。書かれていることは このように《仔羊》たることに甘んじる《弱者》たちは その何もしない方針を 信仰としての主体・つまりその魂の成せるわざだと言って 《自己欺瞞》に落ち入っているという批判である。そのくだりで この断章は終えられている。)・・・]  (ニーチェ / 木場深定訳:『道徳の系譜』 第一論文 《善と悪》・《よいとわるい》 十三 (訳:1940/1964改版))    ・独文:http://www.nietzschesource.org/#eKGWB/GM  ・英訳:http://nietzsche.holtof.com/Nietzsche_on_the_genealogy_of_morals/on_the_genealogy_of_morals.htm  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 読むに耐えますか?

質問者が選んだベストアンサー

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回答No.12

 お礼文賜わりましこと、どうもありがとうございました。 > ☆ あぁ。えぇ。この《二元論》てヤツも わたしは敵対心を燃やしていました。少なくも 《元》ではないと言い続けていました。相対的な対立する二項であって 相互依存の関係にもあるはずだと言いたかったのでした。  二元論というよりも、単に、[話を単純化した] <二項対立>といったものに過ぎないということでしょうか・・・ > もう復唱をはぶいて やっぱり息巻いてしまうのですが このようなニーチェの文章における《欠陥》は 決して一部分的なものではないと思われるのです。  量としては 一部分でしょうが 思想の内容としてはけっきょくどこを取ってもその思惟のかたちが金太郎飴のごとくつらぬかれていると考えられるような性質のものだと思うのです。そのおそれをきちんと捉えたいと思うのが ふつうだと。  つまり 学者は どうしているのか? どう捉えているのか?   まず、上述の<二項対立>という手法は、それなりの頻度で用いられていたかと思われます。  実を申しますと、小生は、ポストモダンの終焉とともに、ニーチェも陳腐化の一途を辿ったと考えております。 > この質問を挙げたときには ただの覚え書きとして取り上げておけば足りるかなと思っていたのですが やはり学者にこの問題が届けという思いがあります。  海外の思想等の紹介には優れた面を持っておりますが、あえてアンチテーゼを掲げるのは苦手なのかもしれません。もちろん、学会等からホサレル、といった懸念があるのも事実かと思われます(寄らば大樹の陰?)。  ですが、同じ方向に進んでしまうのは、結局のところ、怠慢といって何ら差し支えないと考えております。10ー20年先を見越して批判を加えておくことは、むしろその学者にとりましても益するところが出てくる可能性だってあります。ある思想家の評価は時代によって異なるのが当たり前なのですから。  そもそも、異なった見方・思想等を世に訴えていくのが彼らの使命にように思えるのですが・・・ ・余談です・・・ニーチェとナチスについて  まず、ナチスにより利用されたのは史実であります。  確かに、「本当のニーチェの思想はこうであったのだ!」、「あれはニーチェの妹がナチスに売り込んだ結果であり、ニーチェの思想とは無関係だ」と主張することもできるかと思われます。  ですが、例えば、旧ソ連が崩壊したときも、 「本当のマルクスはこうである」、 「ソ連は、真にマルクスが具現したかったものではない」  とかいった発言も見られました。廣松が「今こそマルクスを読み返す」を著したのはちょうどその頃だったと記憶しております。  ですが、仮に、「ソ連が”本当のマルクス主義”を具現化した国家ではなかった」としても、現実の旧ソ連体制を見ますと、マルクス主義とは”全くの別物”であったとは考えにくいと考えられます(本当は◯△だ!というのは詭弁だと思われます)。  従いまして、これと同様、たとえ「本当はニーチェの思想とは違ったとの主張があった」としましても、全くニーチェとは無関係であったとは考えにくいと考えています。  以下には、「力への意志 734」の引用を載せてございます。  

諸君の求める平等は非常に危険な思想である。したがって私には次の言葉が至極まともに思えてならない。
   ことに金や社会的認知度にものを言わせて不妊治療に取り組んだ挙句、結果として身体機能の欠損を抱えた子供が誕生する時に強く次の言葉が私をとらえる。
   「子を産むことが一つの犯罪となりかねない場合がある。強度の慢性疾患や精神薄弱症にかかっている者の場合である。・・・ 社会は、生の受託者として、生自身に対して生のあらゆる失敗の責任を負うべきであり、またそれを贖うべきである、したがってそれを防止すべきである。しかもその上、血統、地位、教育程度を顧慮することなく、最も冷酷な強制処置、自由の剥奪、事情によっては去勢をも用意しておくことが許されている。」 引用:馬越哲学の概論&文学(Ecce Homo) http://matome.naver.jp/odai/2133386017332593501/2133436207059367603  皮肉なことに、当のニーチェ自身が、「最も冷酷な強制処置、自由の剥奪、事情によっては去勢をも用意しておくことが許される」とした”精神疾患”に患ってしまい、あっけなくそのまま人生を終えてしまいましたが・・・  それでは、失礼させていただきます。

bragelonne
質問者

お礼

 こんにちは。ご回答をありがとうございます。  ★  二元論というよりも、単に、[話を単純化した] <二項対立>といったものに過ぎないということでしょうか・・・  ☆ ええ そう思います。  たとえば善悪二元論という言い方をよく聞きます。  もし他の何ものにも依ることなくひとり満ち足りているものが《元》だとしますと 善と悪とは互いに相容れない内容を持つはずですから 善が元である(要するに神 つまり善神である)なら 善ではない悪が同時に元であることは・つまり善神と同時に並列して悪神がいることは 矛盾しています。  じっさいには二元的・多元的といった言葉は 相対的なチカラ関係の中の有力者について二元や多元として言うとは思います。G2とか。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~  まず、上述の<二項対立>という手法は、それなりの頻度で用いられていたかと思われます。  実を申しますと、小生は、ポストモダンの終焉とともに、ニーチェも陳腐化の一途を辿ったと考えております。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ なるほど。ムイシキ説が迎えいれられたりニヒリズムが注目を浴びたりすると ニーチェの世紀になったかの感を見せていましたし またそこを 対立する二者を構図とする世界の見取り図で説明したりすると――《超人》論にまで行き着いたりもしつつ――またまた 持て囃されたりしたかと思いますが 《ポストモダンとその終焉》と言わば生死を共にする。と見てみれば どうもそのようですね。  ★  [・・・]ですが、同じ方向に進んでしまうのは、結局のところ、怠慢といって何ら差し支えないと考えております。10ー20年先を見越して批判を加えておくことは、むしろその学者にとりましても益するところが出てくる可能性だってあります。  ☆ いま上に見たところの世界史の流れですね。    ★ 以下には、「力への意志 734」の引用を載せてございます。  ☆ まさにこれは ここで取り上げた《猛禽と仔羊》論そのものですね。より一層ひどく・気持ち悪いほど残忍になっていますね。  よって(筋をたがえますが 同じように):  ★  従いまして、これと同様、たとえ〔* ナチスは〕「本当はニーチェの思想とは違ったとの主張があった」としましても、全くニーチェとは無関係であったとは考えにくいと考えています。  ☆ だと思います。  その点で ちょっと困ったことが起きています。ぷらぽ氏によると わたしの思想は ニーチェと相性がよいのだそうです。言っていることは正反対でも 同じような内容ではないかと。そう見えるし 想像されるのだと。    いちおう反駁しましたが こういうのは困りますよね。(むろん愚痴としてあしらってください。やがて笑い話になるとは思います)。  この問いはもう終えてもよいと思っています。  一日くらい置いて締めましょうか。  おっと。ありがとうございました。(にゃんこさんのご回答で問い求めが引き締まったと思っているのですが それにつけて考えてみますと たぶん ぷらぽ氏の言い分は わたしが ニーチェ批判には息巻くところが じつは相性がよいのではないかと見ようとしているのだと思います)。

その他の回答 (11)

noname#214841
noname#214841
回答No.11

回答番号3,6,7,9のplapotaです。コメント拝見いたしました。 ぶらげろさんとニーチェとの相性につきましては、私が勝手に想像してゐるだけですので、御勘弁ください。それにしても「疚しさ」が登場するところも、以前から類似性を感じてゐました。たいへん失礼いたしました。

bragelonne
質問者

お礼

 ★ それにしても「疚しさ」が登場するところも、以前から類似性を感じてゐました。  ☆ 《やましさ》という言葉が同じであるというだけだと受け取りますが それでよろしいでしょうか?  ★ ぶらげろさんとニーチェとの相性につきましては、私が勝手に想像してゐるだけですので、御勘弁ください。[・・・]たいへん失礼いたしました。  ☆ その《想像》を――たとえ主観の内にはなお保ち続けるとしても―― しっかりとした反論の理由なしにはもう持ち出さないと受け取ってよろしいでしょうか?  これら二つのことについて あいまいであります。となお問い返すことが 誤解をこうむっているこちらには あってしかるべきと考えます。    ご回答をありがとうございます。

noname#207067
noname#207067
回答No.10

nyan_nyankoさんにご意見するつもりはなくて、 一応、書いてみようかと思っただけですので、 もし気分を害してしまうようなことがありましたら申し訳ありません。 私は宗教を調べてばかりですっかり現実的な問題から遠ざかってしまっているのと、 この問題については完全に放置したままになっていて知らないことやわからないことばかりですので 間違っている点や至らない点がたくさんありますが・・・。 反ユダヤ主義のEugen Dühringに対して ニーチェはルサンチマンだといっているようです。 しかも道徳的。 ですからナチズムの人種差別的、特に反ユダヤ主義については、ニーチェの思想ではないと思います。 ニーチェからさまざまな引用箇所を見つけることができるとしても、 一応、反ユダヤ主義者を批判している箇所もありますよ、という。 Bis in die geweihten Räume der Wissenschaft hinein möchte es sich hörbar machen, das heisere Entrüstungsgebell der krankhaften Hunde, die bissige Verlogenheit und Wuth solcher „edlen“ Pharisäer (— ich erinnere Leser, die Ohren haben, nochmals an jenen Berliner Rache-Apostel Eugen Dühring, der im heutigen Deutschland den unanständigsten und widerlichsten Gebrauch vom moralischen Bumbum macht: Dühring, das erste Moral-Grossmaul, das es jetzt giebt, selbst noch unter seines Gleichen, den Antisemiten). Das sind alles Menschen des Ressentiment, diese physiologisch Verunglückten und Wurmstichigen, ein ganzes zitterndes Erdreich unterirdischer Rache, unerschöpflich, unersättlich in Ausbrüchen gegen die Glücklichen und ebenso in Maskeraden der Rache, in Vorwänden zur Rache: wann würden sie eigentlich zu ihrem letzten, feinsten, sublimsten Triumph der Rache kommen? Zur Genealogie der Moral. Eine Streitschrift. http://www.nietzschesource.org/#eKGWB/GM ニーチェの思想が影響を与えたのはむしろ ムッソリーニのファシズムだと思います。 ムッソリーニはニーチェ全集を希望して、ヒトラーからプレゼントされています。 ファシズムとナチズムとどこがどう違うの?とか ムッソリーニの思想とニーチェの思想の相違点だとか そういうのは私はすっかり放置したままなので 関心がありましたら別の人に質問してください。 とはいえ、ナチスも意志の勝利とかだからニーチェっぽいですよね。

bragelonne
質問者

お礼

 ▲ (ニーチェ:E.デューリング論) ~~~~~~~~~~  しかも特に 正義の故国は反動感情の地域に求められるべきである というデューリングの命題に関して言えば われわれは真理を愛するが故にそっけなく彼に背を向けて 正義の精神によって占領された最後の地域は反動感情の地域である! という別の命題をそれに対立させる。[・・・]  能動的な人間 攻撃的で侵略的な人間は いつの場合でも反動的な人間よりは百歩も正義に近い。反動的な人間は彼の対象に誤った評価や偏った評価を加え かつ加えざるをえないけれども 能動的な人間には毫もその必要はない。事実それ故にこそ 攻撃的な人間はより強き者 より勇敢な者 より高貴な者として 常にまたより自由な眼 より潔白な良心をも自分の味方にしてきたのだ。  その反面において 良心の上に《良心の疚しさ》の発明を有する者は一体誰であるか。諸君のすでに察知している通り それは――《反感(ルサンチマン)》を守った人だ!  (木場深定訳:『道徳の系譜』 第一論文 一一)  ▲ (ニーチェ:ふたたびE.デューリングについて) ~~~~~~~  [・・・]《高貴な憤激》の純然たる身振り芝居を演じたがるあの病人のパリサイ主義をもってする 無言の戦いである。この病み犬どものしゃがれた怒声 この《高貴な》パリサイ人どもの咬みつくような欺瞞と逆上 それは科学の聖域の内までも聞こえて来ないとも限らない(――耳ある読者はあのベルリーンの復讐の使徒 オイゲン・デューリングのことをもう一度想起してもらいたい。デューリング――彼は今日のドイツにおける最もみっともない そして最も厭うべき道徳の屑物使用者であり 彼の同類すなわちユダヤ人排斥者どもの間でさえも 現今における第一の道徳的法螺吹きだ。)  これらはすべて《反感(ルサンチマン)》をもった人間であり 生理的な破産者であり 虫食いどもである。それはいわば潜行的な復讐の震動する地域の全体であって 幸福な人間に対する爆発において 同様にまた復讐の仮装において 復讐への口実において 尽きるところを知らず飽くことを知らない。  (木場深定訳:『道徳の系譜』 第三論文 禁欲主義的理想は何を意味するか 一四)  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 言葉に 独特のものがあります。確認しつつ 見てまいります。  (あ) 世の中にはやはり比喩として言って《猛禽と仔羊》とに分けられるような二種類の人びとがいる。と見る。  (い) 猛禽とは 一般に社会にあってひとつの最大の集団組織としての形態すなわち《国家》をつくった《高貴な人間たち》であり 《仔羊》とはこれが出来ずにその猛禽たちの支配の下にある《弱き人間たち》だと言う。  (う) 猛禽は 《能動的な人間 攻撃的な人間》だとも規定される。仔羊は 別の呼び名として《畜群》でもある。  (え) 《仔羊》は その弱さによって支配をこうむっていることについて《反感(ルサンチマン)》を持つ。そこから その反感の起きている心の内へ向き変わり 《良心のやましさ》といった概念をこしらえ これを猛禽たちに向けてその振る舞いはまさに良心の疚しさを持ってしかるべきだと思うように成っている。と言う。  (お) 国家などの体制にあっては 支配者である猛禽やそれに近い人間たちのあいだから これら仔羊たちの反感が現われると 体制の保守のために《反動》にうったえる人間が出て来る。  (か) ただしこの《反動的な人間》は 猛禽としての《能動的・攻撃的な人間》とは違う。しかもその手口は 猛禽に似たかたちで《高貴な道徳》を主張することがある。   =▲ 正義の故国は反動感情の地域に求められるべきである というデューリングの命題  (き) けれども 反動感情は 所詮やはり大きくは《反感》から来ているのだ。と言う。   =▲ 〔* あやまった・見せかけの〕正義の精神によって占領された最後の地域は反動感情の地域である! という別の命題  ☆ つまり 反動的な人間の道徳ないし正義は 見せかけの高貴さであると。仔羊と同じルサンチマンに発するからには 《勇敢な者》が持つ《潔白な良心》とは別物だと。それは 口先が厳格なだけの《パリサイ主義》だとも言って批判されている。  (く) その反動的な人間の・学術じょうの事例には デューリングがいる。つまり 《最も厭うべき道徳の屑物使用者》なのだ。《屑にしてしまいうる道徳の唱道者》だと。  (け) そして  ▲ 彼の同類すなわちユダヤ人排斥者どもの間でさえも 現今における第一の道徳的法螺吹きだ。  ☆ と言う。どういうことか? 字義どおりには デューリングが《道徳的法螺吹きの内のもっとも酷い事例だ》と言っている。そしてその《同類》には 《ユダヤ人排斥者ども》がいると。  (こ) とすると かく言うニーチェは ユダヤ人に対して・またユダヤ人排斥という思想および運動に対して どういう態度であったのか?  (さ) 分かっていることは ニーチェは アンチ・セミティストであるデューリングに対して ほんとうの猛禽ではないと言っていることだ。仔羊とは対立する立ち場である体制側にあってその反動的な動きをしているが けっきょくは仔羊と同じようにルサンチマンによって行動を掻き立てられた見せかけの猛禽であると判定している。  (し) 果たして ニーチェは アンチ・アンチセミティストであったか? はっきりと分かっているのだろうか。

noname#214841
noname#214841
回答No.9

回答番号3,6,7のplapotaです。 >理由が明らかにされていないという致命的な議論です 『喜ばしき知識』を出したついでに、有名な「神は死んだ」といふ文句について書きますが、私はニーチェは聖書の世界を否定したとは考へません。ニーチェは人間肯定の人です。ぶらげろさんが、宗教の組織化によつて堕落したキリスト教の状況を弾劾なさいますが、ニーチェの場合も同じなのではないかと思つてゐます。キリストの出現によつて、神が普遍化したといふ、ぶらげろさんの主張とニーチェの言葉とは、表現は正反対のやうですが、重なるものがあるのではないでせうか。 この「宗教の組織化によつて堕落したキリスト教の状況」をふくめて、「ルサンチマン」と言つてゐるやうに私は読めます。「階級」は単にわかりやすくするための枠組みにすぎないといふ気がします。nyan_nyankoさんの御指摘どほり、強烈な二元論です。ナチスに利用されるのももつともです。ただしニーチェの言ひたいことは、回答番号6に書いたとほり、この部分ではないと思ひます。 私が、ぶらげろさんとニーチェの両方を誤解してゐるのかもしれませんけれど。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  質問の焦点が広がっていますが まづは広くニーチェ問題というかたちで正当なご回答として受け取ります。  したがって ご議論に沿って情報交換をしてまいります。  ★ 私はニーチェは聖書の世界を否定したとは考へません。  ☆ そのとき 一つだけでも例証として文章を引かれるとよいかと思います。  と言っても それはおおむね広く認められている見方であるともわたしも理解します。  問題は さはさりながら 《聖書の世界を否定している》ことも 一方での事実ではないでしょうか。登場する人びとを《畜群》としてあしらっているからには。  だとすれば 総合して全体的に見るとどうであるか? とうぜんこういう論点になります。  ★ ニーチェは人間肯定の人です。  ☆ 例証が俟たれるところだと言っても 不当な批難ではないでしょう。  ★ ぶらげろさんが、宗教の組織化によつて堕落したキリスト教の状況を弾劾なさいますが、  ☆ これは 基本的な理論として 取り違えておられます。  わたしは むろんたとえばローマ教会が 神父による児童の性的な虐待を温存し黒いマネーをそのワチカン銀行をつうじて洗浄しているといった《堕落》を批難していますが わたしのローマ教会批判の的は そこにはありません。  ブディズムの動きについても 不祥事があったからダメだというような批判はしたことがありません。    基本は 《個人としての人間の〈固有の時〉と言える信仰が すでに組織シュウキョウにあっては ないがしろにされている》ことをもって弾劾しています。  考えるべきであるオシエを鵜呑みにして信じなさいというその姿勢やその姿勢をかたちづくるところの組織上の権限関係すなわち《信仰》にかんする権威の下にあると自分たちが言っているその秩序としてのヒエラルキアがやはり人びとの良心・信教の自由を侵しているおそれがあるということ この問題を問うています。  細かいことですが 《堕落ゆえに》ではありません。誰だって多少は堕落しているでしょう。    ★ ニーチェの場合も同じなのではないかと思つてゐます。キリストの出現によつて、神が普遍化したといふ、ぶらげろさんの主張とニーチェの言葉とは、表現は正反対のやうですが、重なるものがあるのではないでせうか。  ☆ キリストの登場の意味については そこここで書いていますので 別の観点から反駁しておきます。  ▲ (ニーチェ:《良心のやましさ》の起源) ~~~~~~~~~  [・・・]敵意・残忍 迫害や襲撃や変革や破壊の悦び ――これらの本能がすべてその所有者の方へ向きを変えること これこそ 《良心の疚しさ》の起源である。  (木場深定訳:『道徳の系譜』 一・一六 )  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ わたしの場合には 自然本性に良心ないしヤマシサ反応はそなわっていると見ています。  つまり 《破壊》という行為の《悦び》が――ニーチェは――《本能》であると言います。そしてこのとき《敵意を持って襲撃し社会のあり方を変革し〈仔羊〉たちに対しては迫害するという残忍》の悦びは 《国家をつくった〈猛禽〉たち》のものであるが その本能としての同じ悦びを求めて 強き支配者に対する自分たち弱き《畜群》は 心を発見しその内へ向いて行き 言わば酸っぱいブドウとしてのように自分たちにはあるとうったえるところの《良心》というものを考え出した。と つづく《第一論文 一七》に書いています。  いったいどこに 《重なるものがある》のでしょうか?  ★ この「宗教の組織化によつて堕落したキリスト教の状況」をふくめて、「ルサンチマン」と言つてゐるやうに私は読めます。  ☆ いま挙げている質問:  【Q:聖書は 《ひとごろし》をどう見ているか】  に書きましたが 弱き立ち場に立たされた者にとって悔しさや憎しみ・恨みが込み上げ思い出すたびにいつまでも退いて行かないということは 実際のことです。と同時に 自然本性にそなわった良心のチカラが 《復讐するのは 神にまかせるものだ。心の自由は 報復から自由なのである》という現実をおしえている。  だからコトは《堕落》の問題ではなく その堕落なる状態によってこうむった傷の問題ですら 基本としては ないということ。《自由》が 堕落した悪貨の流通によって侵されてはいけないという心の主張であるということ。  ★ 「階級」は単にわかりやすくするための枠組みにすぎないといふ気がします。  ☆ 先ほど触れましたが ルサンチマンを起こさせられ良心の疚しさなる概念を産んだという《仔羊》たちは 《国家をつくった猛禽》に対立するものだという図柄によれば コトは社会階級の問題だと言って――ニーチェにあっては――マチガイないと考えます。  ★ nyan_nyankoさんの御指摘どほり、強烈な二元論です。ナチスに利用されるのももつともです。ただしニーチェの言ひたいことは、回答番号6に書いたとほり、この部分ではないと思ひます。  ☆ 仮りにこのひとつの断章を取り上げられるのは不本意だとしましょう。そうしますと この《強烈な二元論》を成してけっきょくは何の意味もないと考えられるパラグラフは どうあつかうことになりますか?   たとえば ユダヤ民族が《仔羊》だとしましょう。ディアスポラ以降は アブラハムがそうであったように《寄留者・寄留民》としてそうであったと見ることが確かにできますから。  だとしますと 今ではイスラエルを建国して 周囲の人びとに対しては紛れもなき《猛禽》になっていると ニーチェなら見るということですか?  つまり 意味がないのです。この《猛禽と仔羊》論は。それをどう処理するのですか? 不本意なのだから そこは捨てなさいということですか?  もしそうだとしたら なぜ捨てるのか? なぜ不本意なのか? その内容についてそちらこそが説明して人びとを納得させる責任があるでしょう。

回答No.8

 こんばんは  徹底した「強者の論理」と「弱者排除」に読めました。 > ☆ 読むに耐えますか?  ナチス政権等にとっては、拍手喝采でもって、迎え入れたい文章だと思われました(子羊=ユダヤ人)。  ニーチェはナチスにより利用されたとされていますが、ナチス [的思想] そのものとも思われます。  むしろ、ニーチェからナチス的なものを省けば、どれだけのものが残るのだろう?とも思えた次第です。  軽蔑すべき「奴隷道徳」に対して、ニーチェが理想として掲げた「君主道徳」。一時期、”勝ち組・負け組”といった考え方が流布していましたが、このような明確な二元論的解釈を、案外日本人は、好きなのかも・・・ しれません。  どうも失礼致しました。

bragelonne
質問者

お礼

 ★ このような明確な二元論的解釈を、案外日本人は、好きなのかも・・・ しれません。  ☆ あぁ。えぇ。この《二元論》てヤツも わたしは敵対心を燃やしていました。少なくも 《元》ではないと言い続けていました。相対的な対立する二項であって 相互依存の関係にもあるはずだと言いたかったのでした。  とのっけからヘンに息巻いていますが 鎮まりましてまづは ご回答をありがとうございます。お久しぶりに こんにちは。  もう復唱をはぶいて やっぱり息巻いてしまうのですが このようなニーチェの文章における《欠陥》は 決して一部分的なものではないと思われるのです。  量としては 一部分でしょうが 思想の内容としてはけっきょくどこを取ってもその思惟のかたちが金太郎飴のごとくつらぬかれていると考えられるような性質のものだと思うのです。そのおそれをきちんと捉えたいと思うのが ふつうだと。  つまり 学者は どうしているのか? どう捉えているのか?   この質問を挙げたときには ただの覚え書きとして取り上げておけば足りるかなと思っていたのですが やはり学者にこの問題が届けという思いがあります。  〔こちらこそ〕どうも失礼しました。

noname#214841
noname#214841
回答No.7

またまたplapotaです。 大衆を煽動しようと思うなら、自分自身を演じる俳優になる必要があるだろう。まずは、グロテスクなほど性格のはっきりした人物になり切り、人格と行動のすべてを、粗く単純化して上演しなければならないだろう。 (フリードリヒ・ニーチェ『喜ばしき知恵』第三書236 村井則夫訳 河出文庫 268,269ページ) 私の文章もさうなのですが、ニーチェの著作も、論点を明確化するために、内容が単純化され、極端な表現になつてゐます。だからこそニーチェの本は大衆受けして、よく売れるわけです。日本の研究者の多くは、ニーチェの語り口に乗せられて誤解してゐるのではないかと、私は感じます。 >猛禽と仔羊との階級に分けている。 たしかに、そのやうな表現がなされてゐますが、階級ではなくて、単に人間のパターンに過ぎないと私には読めます。ぶらげろさんのニーチェ批判を拝見して、もつともだとは思ひますが、実際には、ぶらげろさんとニーチェは、思想的に近いのではないかと考へてゐます。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  ★ ニーチェの著作も、論点を明確化するために、内容が単純化され、極端な表現になつてゐます。  ☆ こういうばかさ加減は わたしはどうでもよいと判定します。    仮りに《論点》はあったとしても その議論が議論にすら成っていない代物だからです。    この質問で取り上げている論点は おっしゃるように任意の二人のあいだの《マナザシの高い低いの関係》であったとしても その意味での《階級》関係が取り上げられているとき その・単純に言って上下の支配関係じたいは じっさいの事態であるからには あたかもその話がまともな議論であるかに見えるということ ここにあります。  事実が事実だと言っているに過ぎないということ。これを論点としています。  けれども  ★ 論点を明確化するために、内容が単純化され、極端な表現になつてゐます。  ☆ というそれでも一応《文体》は 大抵は論点じたいがでっちあげであったりしますから そういうあざやかな飾りをつけたとしても 勝手にしやがれで済みます。    猛禽と仔羊の論題では 階級関係という事実が取り上げられているので 厄介だと捉えます。  ★ ぶらげろさんのニーチェ批判を拝見して、もつともだとは思ひますが、実際には、ぶらげろさんとニーチェは、思想的に近いのではないかと考へてゐます。  ☆ これは 理由が明らかにされていないという致命的な議論ですから そのことを指摘して こちらとしては放っておきます。  

noname#214841
noname#214841
回答No.6

回答番号3のplapotiです。コメント拝見しました。 >《すんなりと読めます》ということは 《読むに耐える内容である》ということでしょうか? 読むに耐へる日本語訳であるかどうか、が質問ではないのですか。ニーチェの本はよく売れてゐて多くの人が関心をもつてゐますから、大衆向けに読みやすい翻訳が次次と出版されるやうになりました。若いころ読んだ岩波文庫の翻訳は全部処分しようかと思つてゐます。 >ニーチェがそのままを主張していると受け取るなら これが問題です。ニーチェの文章はパロディやアイロニーがあふれてゐて、どこまでが本心なのか判断が困難です。私は本を読むたびに見方が変ります。ですから、このサイトでも、ニーチェの思想について回答したことは一度もありません。いろいろな人が多様な解釈をし、評価が極端にわかれるのも納得がいきます。ニーチェの思想はかうだ、と一義的にきめつけるのは危険な態度ではないかと思ひます。 第一論文だけ、読みかへしてみたのですが、ニーチェの思考がよく現れてゐるのは「10 ルサンチマンの人間の特性」のところなのではないでせうか。「13 弱き者の自己欺瞞」には、猛禽と小羊といふ印象的なたとえがあつて有名なのですが、どうでもいいことのやうに思へます。専門家からは叱られるかもしれませんけれど。

bragelonne
質問者

お礼

 《猛禽と仔羊》について けっきょく社会におけるいわゆる支配関係をその現実の情況のままを――と言っても どのくらいの時間的なスパンで見るかによって じつは違って来うるのでしょうが それは措いておいて――捉えたそのままによって 猛禽と仔羊との階級に分けている。  と読み取るわけです。  この内容は 読むに耐えません。  平家は負けた。  勝った源氏も滅ぼされた。  やがて 信長・秀吉・家康の時代になる。   うんぬん。うんぬん。  と言っているに過ぎません。  勝ったほうは 堂々として高貴に見えるとか。飾りをつけてやっている。に過ぎません。  ありがとうございました。  互いのあいだで共通の結論を得ようとして問い求める姿勢にはおつきに成らない。  こう理解しました。

回答No.5

彼に足りなかったのは、仮面ライダー黒き明星にある、開き直りだ。 面白い読み物として、受けるために、悪夢を読者に見せたかっただけだ。 それらはヨーロッパでは、魔女狩り廃止の後、初めて体験する、人の心の声であり、彼は悪魔として生きたのだろう。

bragelonne
質問者

お礼

 そうですかねぇ。  このように書いて反省はなかったとすれば それが  ★ 開き直り  ☆ だと思えますが。  ★ 悪魔  ☆ というのは そう簡単に言われてもよくは分かりません。  ご回答をありがとうございます。

  • pigunosuke
  • ベストアンサー率19% (1063/5528)
回答No.4

ええっと。まづ  ★ ニート  ☆ というのは ニーチェのことですか? それとも 質問者のわたしのことですか? どちらでもありませんよ 読むのが面倒な質問でしたから 最初の「ニーチェ」って部分しか読んでません で 「ニーチェ」って言葉と「ニート」って言葉が似ているような気がしたので 今回の回答をさせて頂いた次第です

bragelonne
質問者

お礼

 あぁ そうでしたか。  ニーチェとニート 似てますね。  中身にも違いがないかも分かりません。    哲学 きらいですか?   好きになったら 読んでみてください。  ご回答ありがとうございます。

noname#214841
noname#214841
回答No.3

>読むに耐えますか? ちよつときつい、と感じます。岩波文庫ですね。 光文社文庫の中山元訳はすんなりと読めます。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  ★ 光文社文庫の中山元訳はすんなりと読めます。  ☆ 《すんなりと読めます》ということは 《読むに耐える内容である》ということでしょうか?  そうしますと わたしの理解では この岩波文庫の木場深定訳は 読み取りがたいと思われるところは マチガイであるということになるのですが そういう意味でしょうか?  そうですね。英訳とくらべて 木場訳は 大きな違いはないと思います。そして 最初の段落だけとしてもまとまったかたちでニーチェがそのままを主張していると受け取るなら それでわたしとしては読むに耐えない内容ではあります。  見解の相違で一致しましょうか。  ありがとうございました。

  • pigunosuke
  • ベストアンサー率19% (1063/5528)
回答No.2

ニートの言葉なんて聞く価値も無い

bragelonne
質問者

お礼

 ん? おっと ぴぐのすけさん こんにちは。ご回答をありがとうございます。  ええっと。まづ  ★ ニート  ☆ というのは ニーチェのことですか? それとも 質問者のわたしのことですか?  あぁ いづれにしても 《ニート》と見なした者の言うことなんて耳をかたむける値打ちもない。ということですか。  それは あいにくでした。ね。  懲りずにまたどうぞ。

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