• ベストアンサー
※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:無神論者の方は佛教をどう捉えておられるのでしょうか)

無神論者の方が佛教を捉えるとは?

hekiyuの回答

  • ベストアンサー
  • hekiyu
  • ベストアンサー率32% (7194/21844)
回答No.2

(1) 釈尊の自己を知る事や有無を離れる事も無意味無価値と思っているのですか? 「自己」等知る必要は無い、自分の思うがままに生きればよいと云う  思いなんでしょうか? 又「有」に執着されておられるのでしょうか? ↑ 思想の一つとして、それなりの価値は認めていますよ。 ただ、信者のように無批判に、それだけを盲目的に信じたりしていない というだけです。 尚、仏教に神はおりません。 仏陀とは悟りを開いた人間のことで、神とは別物です。 だから無神論者云々は仏教には適合しません。 (2) 昔、「人は死ねばゴミに成る」と云う癌告知をされた伊藤栄樹氏と云う検事の方が 「霊魂を否定し」「意識は無くなりものとなってしまう」と云う結論を下されましたが、 遺族は「私が貴方を思う気持ちはどうするの」と云うと本人は 「死後もこの世の思いを引きずられたら叶わない」と云われました。 科学的に見ればゴミでありますが、遺族の思い過ごして日々と云う処から、 墓や儀礼が生まれたのだと思いますが、私の事を決別し、 忘れてくれと云う事なんでしょうか?      ↑ 現代科学はおおむね、死後の世界については 否定的ですね。 意識は脳細胞が織りなすネットワークの作用に過ぎない という説が有力です。 ノーベル賞受賞者の利根川教授も、魂の存在を否定して います。 しかし、人間から宗教的情感をぬぐい去るのは無理だし、 良くありません。 宗教的感情が無になれば、遺体などただの生ゴミになって しまいます。 そんな世の中は殺伐として、非常に住みにくい世になる でしょう。 人間に、最低限の宗教的感情は必須です。 ただ、世の宗教家がいう宗教が気にくわないだけです。 あれは、宗教産業株式会社です。 仏教など、死体に群がるハイエナ産業です。 (3) 唯物論(私も完全に否定しませんが)は金銭が満ち溢れれば、 情等の思いと云う処は必要ないのでしょうか? 私も霊魂は否定します が自己を知る 科学的には死ねば物質となる 伊藤栄樹氏の指摘には賛同できますが、 反面私が今生きているいのちも多くの無数のいのちのより存在し、 私も死を迎えますが、宗教儀礼関係無く、その繋がりの中に居ると思います。 この辺りの事をご回答戴きたいと思います。     ↑ 人間社会に宗教は必要なのでしょう。 それを利用して金儲けに走る輩が絶えないので問題になる のです。 新渡戸稲造の武士道にあります。 「御国では宗教教育をしていないと聞きましたがホントですか?」 「ホントです」 「お~、それでどうやって子供達に道徳を教えることが  出来るのでしょう?」 宗教には次の効用があります。 ・食物連鎖の頂点に立つ人間の上に位置する存在を創る  ことにより、人間を謙虚にさせることができる。 ・死への恐怖を緩和できる。 ・道徳に対する根拠を与えることができる。  どうして人を殺してはいけないの?  ウイトゲンシュタインが主張しているように  これに理論的に回答するのは不可能です。  しかし、宗教を利用すれば説明は簡単です。  神様がそうお決めになったのだ。

関連するQ&A

  • 無神論者の方に質問です

     私も霊魂は否定します。  が、私も先祖から戴いたいのちのつながりの中にあると云う事から  墓参り等は行っております。  (元々佛教も釈尊が説いた教えは無神論に近いものであり、   極楽や霊山 本尊等は教えが伝えられていく過程で生まれたもので、   その教えも私を知る為の象徴でありますが)  さて、無神論と名乗る方に質問です  1 今が楽しければ良いのでしょうか?  2 儀式的なものが面倒なのでしょうか?  3 死ねば唯の廃棄物であると認識しているのでしょうか?  4 生きている間のみが全てと認識しているのでしょうか?  5 いのちの繋がり等は感じないのでしょうか?  6 自己を知る必要もないのでしょうか?   批判はしておりませんが ご回答戴ければ幸かと思います。     

  • 無神論と云われる方へ質問です

     別に無神論と云われる方を批判非難するつもりはありません?  キリスト教やイスラム教等の様に神が絶対的な存在であり、それに従属する形で  救われていく教えとは違い佛教は釈尊がありのままに物事を見ていけ、私を知る  と云う事であり、本尊等も釈尊の死後真理の象徴として造られたとも聞きます。  故に、佛教の教えは無神論と似ていると思えます。  唯、世間で云われる無神論者と言われる方とは少し違う様な処があると思います。  佛教は「今権勢を極めていても何時までも続かない(無常)」  「生きている現在も絶対ではなく 死も訪れるがこれは私の計らいのないもの(無我)」  と云う事を説いております。  芥川龍之介氏の『蜘蛛の糸』で主人公犍陀多が蜘蛛の糸で救われる時、  「俺一人が助かればよい」という考えで地獄に戻ったと云う話から、その様な事がうかがわれました。  私的には死後の世界や霊魂は否定しますが、その様ないのちの繋がりやわたしのいのちも  多くのつながりにより生まれ、又私も死に至る身でありますが、そのような思いを大切にする  象徴であると、法や極楽は解釈しております。  さて、世間で無神論者と自称される方へ質問させて戴きます。  1 今現在が良ければよい  2 老病死は無価値で無意味なもの  3 死ねば物質と捉える  4 損得 役に立つか立たないないか 科学的に判断する  5 死ねば最終的には諦めていく  6 仏教では0(ゼロ)無もいのちの根本と見ますが、無は無意味無価値なものと捉える 昨今、不景気や地域社会の崩壊で「葬儀無用」が言われております 仏教も元来葬儀とは関係はありませんでしたが、江戸時代の寺壇制度で各集落ごとに寺社が造ら れたことに由来し、戦後もバブル期までは金銭的にもそう贅沢せずに行っていたのが派手になった これは見直していくべきだと思いますが、この様な事を踏まえ無神論と言われる方は どの様に捉えておらるかご回答いただければと思います。

  • 積極的無神論者の方は強いのでしょうか?

    特に霊魂やオカルト等は信じず、狂信的で無いにせよ、 大半の人は「受け継がれてきたもの」「先祖(近い故人)を偲ぶ場」 と云う事や、「縁あればその人との接点」と云うものはあり、 それが日本の緩い宗教(既成の神道や佛教)と地域と云うもので 融合したのだと思います。(本来佛教の教えもこの様なものではなく、「生き方」を説いていた、葬儀の必要性は説かなかった) 江戸時代に寺壇制度が出来 その集落の葬礼は佛式で 冠婚は神式で 行われる様に成った 所謂役所 自治会の役目を果たしていたと思います。(遡れば保育園幼稚園小学校のルーツもここにあると云われております。 僧侶や神主が農繁期で忙しい時期の乳呑児を預かる 読み書きを教える等) 極稀に 積極的な無神論者の方が居られます。 (墓参りしない 一切の儀礼に参加しない)この様な方は 自分で生き方を覚られておられるのでしょうか? ある意味強い信念を持って居られるのでしょうか? 共産党員でマルクス主義者だった漫画家青木雄二氏 (50代半ばで肺癌で死去) 「死は怖くない」「生きているうちに好きな事をすべき (どう生きるか)」という遺言を残しておられます。 釈尊や初期仏教の教えも「老病死」をありのままに見つめよ 「その視点に立って私をみつめよ」という教えで、 それを伝えていく為に本尊や極楽と云う者が後に考えられたと 云われております。 その様な事から無神論と初期仏教の教えとは似ている様な気がします。 唯釈尊は「今自分が良いと思って居ても、それは続かず それが亡く成った時の苦しみは大きい「(人間の幸せには限界がある)天人の世界」「大宇宙 生まれて来たつながり(この象徴が極楽や本尊として 伝えられたのだとおもいます、所謂寺社もそうだと思います)により 今の自分がある事に目覚めよ」と云う事だと思います。 積極的無神論者(青木雄二氏の例をすると) 「いのちは限界がある どう生きるかと云う事であるが、  自分は漫画で生涯食べて行ける暮らしが出来た、それで贅沢できる  故に少し平均寿命短いがそれで満足だった」という感覚だったのでしょうか?  故に、金銭に恵まれ、経済的に裕福な「天人」を目指す、 それが達成できたのでいつ死んでも良いという考えと云う事になるのでしょうか?  唯(霊魂を信じるとかは別として)無神論を自認する人は、 「全て自分の力でやり遂げた」「自分が良く成れば先祖や周りの人の 事は関係ない」という人が多い様な気がします。故に葬儀墓参り等無意味という結論が出るのでしょうか? それともただのゴミである遺体等に何故手をあわせないといけないのかということになるのでしょうか? ビジネスで金がかかると云うのが弊害な理由もありますが、 遺体を放置してはいけないという法律があるので、未だ人間としての良心は保てていると思います。 が、青木雄二氏の様に(良い漫画家で資本社会の矛盾を描いた点では 評価しております)金を持ち、好きな事が出来、他人の事には構わないという人はこれで満足できたので強い生き方をされたといえるのでしょうか? (私は墓の管理の仕事をしてますが、青木氏の様に稼がなくても、 親や先祖は関係ない そんなものに金かけたくない(本当に困っているのではなく 海外旅行に行きたいから墓の管理料(年2000円)が払えない 処分もめんどくさい(手続きも嫌)という人が 「私は無神論者」だからという一言で片付けられます、自身は親族の葬儀でも 「めんどくさい燃やすだけでいいのに」と云う様な事を云っておりましたが、この様な人は覚っているのでしょうか?)

  • 無神論者の死生観は動物の本能に近いのでしょうか?

     人間は知恵や知識が発達し、家族(~家の存続)村社会(共同体)というもの  が出来、皇族や豪族 武士等の当時国を制する立場の者は個人の墓というものは有 りましたが、元来当時の庶民層は共同体の墓地に納めるという形だったそうです  が、明治期にその様な身分が無く成り、~家としての墓が造られたという話を聞い た事があります。  ともあれ、弥生期頃には現在の様に法律や形式はありませんが、共同体で葬り  (土葬する位だったと思いますが)、死者を偲んだとも云われております。  それ以前 知恵 知識が発達する前は「死んだ認識も無く」「死ねば放置」  という事だったといわれております。  絶対的な神を否定する佛教の教え(無神論に近いと私は思いますが)も  「近しい方との別れ」「私も亡く成って行く」という悩みがあり、そこからの  解放が「ありのままに受け入れていく」という事で それが又死者に対する儀礼  (今日本ではこれが中心になり元来の佛教の思想とは離れたものになっていると   の指摘はありますが)へと繋がったとも云われております。  現代は科学が発達し、迷信や霊魂は否定 死後の世界等無い  だから「葬儀 墓無用」という方が増えていると思いますが、  その様な考えを持つ方で「無神論」と言われる方は人間の知恵が発達する前の  動物の死生観を引用されている方が多いと思います。  つまり知恵や知識が無いと「唯生きている」「死んだだけ」という事なのでしょう か?科学等は信奉されても、死生観は原始的なものへ立ち返るべきであるという事  なのでしょうか?  (私は霊魂や死後の世界は否定しております 佛教でも「ただ白骨のみぞのこれ  り」ということは云われております。唯「無に還る」という言葉が良く使われておりますが、無神論者の方にとって「無」は「無意味」「無価値」の「無」なのでしょうか? 事実死者に話しかけても応えてくれないし、死後の世界に行って帰って来た人はおりませんが、私のいのちも遡れば、「無」というところから始まったのではないかと思いますし、色々な方の「お育て」があり、今日の私があると思うので、 その様な事から自己の戒めという意味では儀礼や墓参りも必要なのではと思います 最終的に「心で思えば良い」という事ですが、形があり時には「ああそうかな」と 云う事もあるかと思います) (偏見で申し訳ないのですが、「何もしてくれるな」という方は個人主義の方が  多い様に思います。 事実本当の原始時代は徹底した弱肉強食だったそうですから、「自分は自分で今の地位生活を築いた」「誰の世話にもなっていない」 だから、「親戚や知人の煩わしい付き合いは嫌 行きたくない」 「墓も仏事のみならず 子の結婚等もめんどくさい」 「だから俺もほおっていてほしい」という理屈なのでしょうか?) 本能でみれば 生きている今だけ 世の中は弱肉強食 煩わしい付き合いは嫌 死ねば終わり その様な生き方が一番そのままに生きているといえるのでしょうか? ご回答お願いいたします。

  • 佛教の「無」と無神論者の「無」は違うのでしょうか?

     佛教は印度の遥か昔は仏像等本尊も無く、  私の心の煩悩からの開放 当たり前であるが苦しき事(老病死)を受け入れていく 事により、覚りの世界へと到達すると云う事が根本にあったと思います。  その象徴として、本尊や浄土や霊山というものが生み出されたと考えられます。  「死ねば唯のカルシウム」と云われる方が居られますが、  「唯のカルシウム」「無に還る」という意見は私も同意できますが、  私の生命も遡れば「無」と云う事から始まり、その繋がりの中にある、  そして、亡き方からご縁があった、そこに「今科学的に観て生命が生きている   「有」ものと成る「無」という世界では解釈できない「有無をはなる」という  世界だと思うのですが?」  説明が悪く申し訳ありません?  1 無神論者の方にとっての「無」は仏教の「無」とは違う「無意味」「無価値」なものであり、死ねば完全な「もの」として捉えていくという事なのでしょうか?  (私自身も死ねば「遺体」「白骨」と解釈しますが、何処かに亡き方とのいのち   の繋がりもあるそれこそが同じく「無に還る」という事なのではないかと思います)  2 無神論者の方は 今が良ければそれで良いのでしょうか?    葬儀の参列 墓参りは科学的に何の根拠もないので無意味 無価値なのでしょ  うか? 遺体は処理し、遺骨は捨てる、それで終わりという感覚なのでしょう   か?

  • 法華経

    http://okwave.jp/qa2649476.html 上記にのNo.16にある内容なのですが、、、 >「法華経」も釈尊の死後に、弟子達が作った教典です。 釈尊が説いたものではありません。 と、あります。 1.「法華経」は、釈尊の説いた教えではないのでしょうか? 確かに、釈尊滅後、国や弟子達により、経典の結集が行われたというのが、現時点での一般的な認識だとは思うのです。 もし、釈尊が説いた教えではないとし、それを証明できるものがあるのなら、それは世の中を覆す大変な事だと思うのです。 中国の天台に学び、法華経を日本に持ち帰った伝教。その伝教大師の開山の比叡山延暦寺。そして、国中にある天台宗系のお寺は全て、有りもしない教えを民衆に教えてきた事になってしまうでしょうし、比叡山で修行し、開宗した宗祖を持つ宗派も多い事でしょう。 本当のところは、どうなのでしょうか?

  • 靖国神社に参拝する小泉首相は死後の霊魂の存在を認めているのか?

    靖国神社参拝問題でいろいろと揉めてますが、靖国神社に参拝する小泉首相は死後の霊の存在を認めているのでしょうか?一国の総理がこんな非科学的なものを信じてるという非難はあまりされてないのが不思議です。21世紀にもなるのに。 靖国神社に参拝するというのは、以下の世界観を信じることとしていいのでしょうか? 詳しい方の解説を願います。 ・人間は肉体と霊魂からなる(二元論) ・死後も霊魂は存在する(靖国の英霊) ・死後も霊魂は個別性を保つ(アートマンとブラフマンの問題) ・死後も日本人/非日本人の区別がある ・死後も霊魂は贖罪されない(A級戦犯分祀問題) ・人間だけではなく、動物にも霊魂があり、死後も霊魂は存続する また、中国共産党が靖国参拝を批判してますが、マルクス主義は唯物論・無神論なので、霊魂の存在を認めないのだから、A級戦犯やBC級戦犯の霊の取り扱いについて、いろいろいうのはおかしいと思いますが、これについて中国共産党の見解があったら教えてください。

  • 無神論者の死生観とは?

    無神論者の死生観とは? 1 死ねば唯の亡骸、廃棄物であり、意識も消滅する。 危篤状態の時、父母や亡き人が出て来たという事を言われる方も居られるが、 これは自らが空想で作り上げたものに過ぎないという事に成るのでしょうか? 2 元来佛教始め宗教も今をどう生きていくかという事であったが、 亡き人との繋がりや、生きている今の私も絶対ではなく、死も完全な消滅では無い という視点であるが、科学や唯物的に見ると、生きている私が絶対、生きている内に 好きな事をするという事に成るのでしょうか? 3 仏壇 神棚 墓というものは宗教というよりも日本の家制度で家督を継ぐ、 私もこの家を受け継いだのだという事を継承する為のものであり、その様な儒教的要素が受け継がれてきたと思いますし、そこで個人ではなくこの家を背負っていると いう意識が芽生えたのだと思います。  唯、「亡き人を偲ぶ」事を無神論を自覚する人は「心の中で偲べばよい」と云いますが、亡き人の事を語る事も少ない様な気がします。  亡き人に対しても、70才を過ぎると「死ぬの当たり前」という感じで見ている様ですし、「偲びたい奴が偲べば」的な感覚で、「心の中で」というが、「死ねば終わり、偲ぶ事も面倒」的な人が多い様な気がします。  だから、生きている間に高収入を得て、好きな事をして、ある程度の年齢が来ると死ぬ、その様な感覚なのでしょうか?  そして、「今をどう生きるか」も佛教始め宗教の道徳的な部分よりも、 したたかに高収入を得て、好きな事をするという事なのでしょうか? そして、他人の事等構わないと成れば、「勝手に偲めば、俺はご免だ」という事に成るのでしょうか? 4 動物から人類に進化した時に、遺体のそばに花を向けたのが始まりであるとされています。 、日本でも公家や武士階層は別として、庶民は遺体を唯埋めるだけという事だったそうであるが、遺族の悲しみを和らげる為にお供え等の儀礼を行ったとされてます。 が、科学的に究明されたので「その様な事は無駄 無意味」と思って居るのでしょうか? 所詮「生ゴミ処理」だけれども、「悲しみを和らげ 自己の安心の為」に葬儀等の儀式があるが、「自分はそんな必要ない」と覚っておられるのでしょうか? 又、動物の死生観へと還っていった、そこで「生きている間に好きな事をする」と いうある意味覚っておられるのでしょうか? ご回答戴ければと思います。

  • 死後の世界を否定するのは「科学的」か

    科学者で「死後の世界」を否定する人がいますね。早稲田の大槻教授とか。 彼の本などを読むと、何か物理学の理論?を使って死後の世界や幽霊を否定しているのですが、そもそも現在の科学(化学)で、死後の世界(魂、生まれ変わり等も)が「ない」ことを証明することは可能なんでしょうか。もし出来ないのだとしたら、死後の世界を否定する科学者は「科学的」でないと言っていいのですか。 私は「死んでみなければわからない」というのが、最も「科学的」な考え方だと思うのですが違うのでしょうか。

  • 死後の世界はあると思いますか?

    表題どおりですが、私は厳然と霊魂、霊界の存在を確信しています。 今までこういうサイトで聞いたり、他の人の同様の質問をいろいろ見てきました。 この種の話はどうしても肯定否定がはっきり分かれやすく賛否両論ですが、否定派の意見もかなり幅があることがわかります。オカルトだと決め付け頭ごなしで否定する人、はっきりわからないが科学的に証明できないのでどっちとも言えないという人、様々です。 結局いくら議論しても、生前に証明は不可能ですから最終的には個人個人が信じる信じないの世界になってしまうのは仕方ないでしょう。そこで、死後の世界、霊魂があると信じた場合のメリットデメリットを考えてみました。この場合、生前の行いに応じて、死後の行き先も異なることが前提です。 メリット・・・死後も霊魂が霊界で生きて、現世での行動への裁きがあることを知っていれば、自ずとこの世での行いに注意する。自分さえよければ他人を犠牲にしても知ったことじゃないという考えの人が多い殺伐とした現世がかなり優しくなると思います。 デメリット・・・あまり思い浮かびませんが強いて言えば、友人と議論してけんか腰になることがたまにある程度かな?でも友人も完全否定派ではなく、もし存在するならいずれ科学で証明されるだろうからと言っています。半信半疑よりやや信じないほうに近い感じですが。 私自身は別に霊感とか全く無いので何か見たとかもほとんどありません。若いころたまに金縛りに会ったくらいです。ですが、いろんな本を読んだり考えたり、テレビや映画などの見聞からやはり死後の世界や霊魂は必ずあるという結論です。 生前なにしようが死んだら無に帰すると思えば、この世では欲望むき出しで生きて物欲金欲丸出し、したい放題で恥ずかしい生きかたしてもお咎め一切無しと思い込みその通りの人生を送ってしまう人が多いでしょうね。現に、今のアメリカや日本などそんな人が特に多い気がします。まあ、他国でもいろんな人がいますが。もちろんアメリカ、日本でもそうじゃない人もたくさんいますが。 私もそんなに偉そうなことは言えませんが、なるべくやれる範囲で寄付したりとかしています。 人間だれしもいつかは100%死ぬので、その後どうなるか誰しも一度や二度は考えたことあると思います。どう思いますか。(頭ごなしに無いとかはご勘弁ください。) ・メリット・・・・この世の人生を終えても