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物質はなぜ様々な形や性質をしているのか?

性質とは何かと問うと  辞書には「事物の本来固有するもので、それにより他の事物特別されるもの」⇒質 とあります。 また性質という言葉は物事の属性と言う 付随しているものの様なイメージで使われています。 しかし私はここに宣言します! 性質はエネルギー・物質とは独立したものである エネルギーや物質は色んな形や態に変わるが 性質は心理の法則に完璧に従っているものです 真理は性質として現れるのです。そして性質はエネルギーや物質に在りながら フィードバックでエネルギーや物質に態を与えているのです。 そしてそのようなフィードバックの循環で存在を実現し存続と言われるもの(アイデンティティ?)を維持しているのです。 そのような性質を「存在性」と言います。 従って エネルギー・物質と性質は二元であると考えますが 如何でしょうか? これを世に問いたい。

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回答No.8

補足します、 あなたの質問の意味が分かりました。 あなたは物を物たらしめる固有のもの、それを「存在性」と言っていますが、性質というものは物を物たらしめる固有のもので、「存在性」と性質は同じものです。 猫には猫の固有の性質があり、魚には魚の固有の性質があります。 両者は切り離せないものです。 それと物質とエネルギーは違いますから、区別する必要があります。 たとえば電子とか中性子を原子核に衝突させて、核分裂を起こした時に、その連鎖反応によってエネルギーが生じるのですから、エネルギーは派生的なもの、二次的なものです。 根底にあるのは物質は、たとえば量子と言われるものです。 あなたは「性質はエネルギー・物質とは独立のものである」と言っていますが、それでもその性質は物質とは不可分なものです。 猫なら猫から、その性質を除いたら、いったい何が残るでしょうか? アリストテレスのいう「形相」としての形だけではないでしょうか? あなたは「性質は心理の法則に完璧に従っているものです」と言いますが、猫の毛色とか、鳴声とか、その他の性質は、あなたの心理次第で変わったりしません。 三毛猫は、あなたがそれをどう思うとしても、依然として三毛猫です。 (もしかして、心理は真理の間違いかもしれませんが・・・・・) つぎにあなたは「真理は性質として現れるのです」と言っていますが、それが何の意味かちょっと不明です。 ということは物質とかエネルギーは真理ではなく、そんなモノは無いかも知れないから、真にあるとしたら性質だけである、という意味ですか? そして「性質はエネルギーや物質に在りながらフィードバックでエネルギーや物質に態を与えている」というのは、もともと物質には形や態、すなわち性質などないのに、それがあると思われているのはフィードバックの結果である、ということ? つまりあなたはカントのように物自体の存在を疑っているというわけですね? 物そのものなんて存在しないかもしれない、と。 私たちが物そのものが存在すると思っているのは、真理としての性質をフィードバックした、その結果なんだ、と。 そしてその性質を「存在性」と言っているわけですね? ようやく分かってきました。 そうなると、現代の科学・物理学でいう電子、量子、クオークなどの存在も、真理ではなく、それが真理と思われているのはその物の性質から、つまり不可欠ではあるけど二次的な性質をフィードバックしたものに過ぎない、真理は性質の方にある、ということですね? 性質は二次的なものではなく、むしろ一次的なもの、根源であり、物質は逆に二次的なもの、フィードバックによって一次的なものと思われている錯覚にすぎないと。 典型的な観念論ですね。 カントでも、そこまでは考えなかったです。 最後にあなたは「エネルギー・物質と性質は二元だと考えますが、いかがでしょうか?」と質問していますが、私は物質は存在するし、それが根底にあって性質もあると思いますから、一元的だと思っています。 もし、真理があるとしたら、それは物質にあり、性質は物質と不可分であるとともに二次的なものだと考えます。

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回答No.7

 ゆにこ99さん こんにちは。  あなたの言っている《性質》は 生命のことでしょう。そのチカラ。  ただし この経験世界における《性質》は ただちにその生命と同じだとは言えません。基本的に別だとしなければいけない。  生命力としての性質と 目に見える性質とは 互いに絶対的に隔てられており その上でその《絶対》のほうから この相対世界に影響をおよぼすことがある・・・かも知れない・ないかも知れない。というように説明するのが 妥当ではないかと考えます。  《物自体》のことなのですが これは 《不可知》ではありません。《非知》なのです。  不可知というのは それを人間が知り得ないと知ったものごとのことです。知った限りでは 想像においてでも観念としてでもいちおう存在するということになります。経験事象に属します。  非知とは 人間には知り得るか知り得ないかが知り得ないナゾのことを言います。  もっともこの非知を われわれ人間は 有(絶対有)とも無(絶対無)ともいづれの呼び名でも自由に呼んでいます。《無からの射影》というのは 《有からの射影》と言うのと 同等の説明表現になります。  《生命としての〈性質〉》が 絶対の場でありチカラであり 基本的にわれわれの経験世界とは絶対的に断絶しているという前提を置いた上では 自由にえらんでその神が有るとも神は無いとも言って共同生活ができるかたちをわれわれ人間は採れるからです。  無神論者と有神論者とは 互いに自由であり対等でありその神論は同等であり したがって人格や存在として平等である。これゆえに 《平和》をこころざし のぞみの内にその状態の構築を目指すことができます。  有神論のあいだで神の名が違うことも まったく自由および平等を侵すことはあり得ません。いかに名が違ってもあらゆる神は 人間にとって同じひとつの生命としての《性質》であるからです。  《性質》を次のようにふたつの概念に分けてください。  絶対: 《生命としての〈性質〉》  相対: 《もの=ちから》とそこにそなわる目に見える《性質》

yuniko99
質問者

お礼

私の言ってる性質は生命のことではありません どうもありがとうございます。

回答No.6

たとえば、石ころと机は「全く違う物」ですが、階層 現象性を遡って見れば、ケイ素や酸素など、せいぜい (通常の物質は)同じ数十種の原子によって成っており、 多様な“物質”とは、並び方の違いに過ぎなくなります。 そしてその「数十種の原子」は、陽子や電子など十数 種類の素粒子の「並び方」、素粒子は数種のクォークの 「並び方」と、次々に数少ない原理的実体に還元され、 究極的に超弦において、量子の定常波の励起状態に 還元されます。 そして量子(=エネルギー)は、仮想的時空への無の 射影なのです。 「エネルギー・物質と性質の二元」という考えは、 既に日常的な常識を先入させた、素朴唯物論とでも 言うべき世界観に基づいています。

yuniko99
質問者

お礼

確かに「エネルギー・物質と性質の二元」は素朴ですが >そして量子(=エネルギー)は、仮想的時空への無の射影なのです。 と言うのでは よく分からないですよねえ 僕も理論とは言えない(証明してない)一思想だと思っていますが なるほどと思って考えています。 どうもありがとうございます。

回答No.5

ロックは物の第一性質と第二性質を区別し、第一性質を実体と言い、第二性質をその物の主観的な現われと考えました。 カントもそのロックの考えを継承し、物の現象と物自体を区別しました。 その上で、物自体は「不可知」だと言いました。 「不可知」ということは、あるかもしれない、無いかもしれない、知ることはできない、ということ。 その一方で、カントは物自体は超越論的には「仮象」だと言いました。 「仮象」だと言っても、必要ないのではなく、必要な「仮象」である、と。 だから物自体は「なければならない」と言いました。 それでないと認識の仕組みを合理的に説明できないからだ、と。 いいかえるとカントは経験的には「物自体」は「不可知」だけれども、超越論的には「仮象」でしかないとしても必要な「仮象」、「なければならない」と。 このカントの考えに対してヘーゲルはその「エンチクロペディー・小論理学」で、カントの物自体について、物からその諸性質を排除して行ったら、あとには何も残らない、そんな空っぽで中身のないものは、あっても無意味だといい、物自体の存在を否定しました。 このヘーゲルの考えはジョージ・バークリーの「人間知識の原理」でいう「存在するとは感覚されることである」という考えとよく似ています。 バークリーはその本で、感覚の向こうに物の存在を否定しました。 バークリーは聖職者だったので、物は神が創造し、人間はその神の作った物の性質しか認識できない、と考えました。 でもそのカントは「純粋理性批判」では、物自体の存在を「不可知」だと言いましたが、次の「実践理性批判」では、積極的に物自体の存在を認め、それを「人格」と言いました。 人間に「人格」を認めないと、道徳というものを否定せざるを得なくなるからです。 道徳というものは自由があるから道徳もあるので、自由というのは、何ものにも他に原因がなく、自分がその原因だということ、自分に自主性・自発性があることによって成り立っています。 物の性質とか属性は主観的です。 五官という感覚器官で、受容されるもの、だから私の内部にあるもので、外部にあるものではありません。 ただ、「カテゴリー」によって外部にあるものと思っているだけです。 外部の物はあったとしても感覚器官を「触発」するだけです。 感覚質・クオリァは私にだけ接近できるもので、他人はそれに接近できないし、知ることもできません。 色・味・匂い・音・肌触りなどの物の性質は私だけがそれを感性で受容できるだけです。 私が物を見て「赤い」と言っても、他人が同様にそれを「赤い」と言っても、同じ「赤」だという保証はありません。 ただ、両者に共通な「赤」という言葉によって、互いに同じものとして了解しているだけです。 「同床異夢」という言葉もあります。 まったく別物かもしれない。 あなたは性質を「存在性」と言っていますが、それって性質と同じではありませんか? 「性」というのは本質のこと、その物の本来持っている性質のこと、だから「存在性」と言っても、性質と言っても同じことを言っているだけ。 そして性質は主観的で、物そのものとは違うんですから、別だというのも当然です。 問題は、物そのものが、物自体があるか、どうかなんです。 ヘーゲルのように性質の総体としてあるのか、性質の集合としてあるのか、無いのか、ということなんです。 それともカントのように「ある」けど知ることができない、道徳的には「なければならない」と考えるかです。

yuniko99
質問者

お礼

ご講義をありがとうございます。物自体が仮象とか言うのは分からないではないですが そういう話とはまた違う話なんです 先生は私が「性質」と「存在性」を同じものなのに違う名前をつけているとおっしゃいましたが 存在性は実際にエネルギーの存在(存在とは個性ある性質を持ったエネルギー)を実現している性質で 性質には存在に関わらない 或いは存在を乱すだけの性質もあると思います。 定義としては、ある存在を存在させている性質 更に存在を(アイデンティティ)存続させている性質を「存在性」と読んでいるのです。 ですから猫にとっての存在性が魚にとっては存在性じゃないこともあります。 この存在性の働きは存続する者にとっては多くフィードバックするものであり 進化論として知られています。 その進化論を物質や精神や世代交代しなくても生物にも働いているのだと言うのが 私の考えです。 どうもありがとうございます。

  • stmim
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回答No.4

No.2です。 解説ありがとうございました。 せっかく説明していただきましたが、さっぱり理解できませんでした。

yuniko99
質問者

お礼

すみません 説明が親切でなかったようで。 進化論はご存じですよねえ? 人間でも存在性を働かせてちゃんと歩かないと溝に落ちたり 電信柱に当たったりします 絶えず存在しようという性質が働いて腐った物を食べないとか日光に当たるとか 車を安全に運転するとか 人と挨拶するとか 仕事をするとか 様々な存在性を働かせて存在しているのです その性質の結果 存在できているので 存在性のフィードバックによってと書いたのです。 その様な存在性が物質にも生物にも人間にも精神にも在って働いているのです 分かって頂けないのは残念ですが もしよかったらこの質問をまた見てください。 よろしくお願いします。 どうもありがとうございます。

  • raiden787
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回答No.3

面白い空想ですね。 その考えを題材にファンタジー小説を書けばいいと思います。

yuniko99
質問者

お礼

空想ですか 参ったなこりゃ 実際に働いていると思いますがねえ どうもありがとうございます。

  • stmim
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回答No.2

さっぱり理解できません。具体例で説明していただけませんか? 例えば、赤いリンゴがあったとします。 このリンゴの性質の1つは「赤い」ですよね。 赤いのはアントシアニンという物質が含まれているからと理解しています。 私としては物質に属するものとして性質があると思うのですが。 例えば、リンゴの赤という性質はどのように理解されているのですか?

yuniko99
質問者

お礼

あら消えました。 赤いリンゴは赤いから目立ちますよねえ 動物に。花でも鳥でもそうですが だから赤いりんごを動物が食べて 糞をして 肥料の効いた種から芽が出て木になって また赤いりんごが沢山なる。 赤いという性質が「赤いリンゴ」を存在させている訳です 此処までは進化論ですよね 僕の主張は生物に限らず この性質のフィードバックが世代交代しなくても 物質でも 精神でも成立っていると言う考えです。 性質進化論と言ってもいいでしょう。 その他諸々ありますが この性質の独立性。エネルギー・物質の違いや時や場所に限らず 真理の法則に則って性質は現れる と言う事です。 すみません 遅くなりました。 どうもありがとうございます。

  • titelist1
  • ベストアンサー率25% (712/2750)
回答No.1

この世にとって物質が大事なのか、性質が大事なのかは意見の分かれるところです。物質があっても性質が分らなければ意味がないとも考えられるのです。その一方で物質がなければ性質もありません。 この世は物ではなく心でできているとの考えもあります。見るという心がなければ物がないのと同じだからです。俗に言うと見えていても目に入らない状態とは物がないのと同じです。性質という特徴がないと見えていても目に入らないのです。この目とは人間の目であって人間が存在しなければこの世はないのと考えるのです。

yuniko99
質問者

お礼

物質も性質も大事です。二元論とすれば両方ないと世界は成立しません。 >この目とは人間の目であって人間が存在しなければこの世はないのと考えるのです。 こう言う考えがあることはよく存じていますが、私には間違ってるとしか思えません。 私が死んでも宇宙は在るし あなたが死んでも宇宙は在る。と思います。 人間の認識はあくまで人間の心、精神の事であって 現実ではありませんから。 どうもありがとうございます。

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