• 締切済み

徴兵適齢について

旧陸軍の徴兵適齢に関して、以下の疑問にお答えください。 1 徴兵適齢(とくに昭和10年代)   生年月日:12月1日から11月30日 で間違いないか。   このような適齢を採用した理由は何か。 2 徴兵適齢のズレがもたらす悩み   小学校などで同級生であった者同士が、徴兵適齢のズレによって   新兵・古兵の立場に置かれることもあると聞いたが、同じ部隊、同   じ内務班に所属すれば精神的には辛いこともありうる。実際にその   ようなことがあったのか(あるいは軍は配慮したのか)どうか。  以上、ご存じの方がありましたらご教示ください。   

  • Sigli
  • お礼率72% (8/11)
  • 歴史
  • 回答数2
  • ありがとう数8

みんなの回答

  • mm058114
  • ベストアンサー率30% (102/337)
回答No.2

NO1です。 お礼ありがとうございました。 入隊前は、それはとても、不安だったでしょう。 断言はできませんが、 私の読んだ本では、2人だけの時には、呼び捨て、貴様と俺と言うのを良く見かけました。 もちろん、1つの側面かもしれません。 元々、気に食わなかったり、イジメっ子だったり、入隊前に軋轢があったら、色々あったでしょう。 農村では、みんなで下級生の面倒をみたり、上級生を慕ったりするのは、当たり前の光景だったとの事です。 そういう所では、当然先に徴兵された者は、嫌だろうけど、やったふりでは盛大に送ってもらったろうし、 下級兵になるだろう者は、その点を不安で見送ったでしょう。 これは、会社員で同期だけれども、先に部長になった者に、みんなの前では、 敬語、上司部下の態度をお互いとるだろうけど、二人だけだったら、呼び捨てって事じゃないですか。 極端な例だと、マンガ、映画の『ハマちゃん』と『スー』さんと言う事ではないでしょうか。

  • mm058114
  • ベストアンサー率30% (102/337)
回答No.1

1、適齢の採用要因の一番の理由は、陸軍の会計年度だからです。   陸軍と学校制度の違いにより、同級生でも、スパっと1年の差が発生しました。   毎年、4/16~7/3にかけて、満20歳の男子の徴兵検査が行われ、翌年1/10に入営しました。   兵隊として一人前になる為の初期教育の期間を考慮して、徴兵期間は、2年4ヵ月とされました。   この半端な4ヶ月は、軍隊として戦力を落とさない為に、設定されたものです。 2、実際は、古兵に返ってヒイキされた様です。   2年兵になっても、同郷の新兵の者はガキの頃からの仲間として見ていたようです。     新兵にとっては、目をかけてくれるので、ミスの無いよう、古兵に迷惑をかけない様にがんばった様です。   古兵にしろ、新兵しろ、これが制度として、割り切っていたのではないでしょうか。      軍として、この現象をどう見ていたかというと、これこそ郷土の団結として、   日本の徴兵制度の郷土部隊制、郷土地域編成の良い現象として、とらえていました。   これで、答えになっているでしょうか?

Sigli
質問者

お礼

父の兄が12月生まれであり、同級生と同じ部隊に翌年入隊して苦労した という話を父から聞いた憶えがあります。 ご指摘のように「割り切って」いた方もおられたのかもしれませんが、 気まずい思いをした方もいたのではないか、という疑問もあって質問し てみました。 父は1月生まれで、18歳で志願したようです。志願した理由に上述の兄 のようなことが影響したのかは今となっては不明です。 回答有難うございました。感謝します。

関連するQ&A

  • 趣味の陸軍~その2

    教えて下さい。 私の趣味で調査している日本陸軍です。 知りたいのは~ 関東軍の『阿爾山駐屯隊』『歩兵第90連隊』についてです。 新設の理由は理解していて、その後「第107師団」に改編される経緯は調査済です。 ・『阿爾山駐屯隊』『歩兵第90連隊』の新設年月日、『阿爾山駐屯隊』の当初部隊の編成内容、以後昭和17迄の発展部隊内容~です。 情報は少なく、書物によっては食い違います。 勿論ネットでもヒットしません・・・ 教えて下さい。よろしくお願いします。

  • 趣味の陸軍~その2 教えて下さい。

    私の趣味で調査している日本陸軍です。 知りたいのは~ 関東軍の『阿爾山駐屯隊』『歩兵第90連隊』についてです。 新設の理由は理解していて、その後「第107師団」に改編される経緯は調査済です。 ・『阿爾山駐屯隊』『歩兵第90連隊』の新設年月日、『阿爾山駐屯隊』の当初部隊の編成内容、以後昭和17迄の発展部隊内容~です。 情報は少なく、書物によっては食い違います。 勿論ネットでもヒットしません・・・ 教えて下さい。よろしくお願いします。

  • 東部九十二部隊は陸軍電波兵器練習部か?

    通称号「東部九十二部隊」は「陸軍電波」とありますが、正式部隊名は「陸軍電波兵器練習部」でしょうか。 ある記事によると、「昭和20年5月ころからは水戸の航空通信学校の一部が陸軍電波兵器練習部という名称となり」とありますが、これにあたるのでしょうか。 また、当部隊は久慈方面に出張っていたようですが、久慈に配備されていた「電波警戒機乙型」と関係があるのでしょうか。 その他、当部隊についてわかる範囲で結構です。よろしくお願いします。

  • 中国黒竜江省東安市に駐屯していた部隊について調べています。

    みなさん、始めまして。私は写真や手紙などから身元不明の日本軍部隊の捜索をしている者です。 今回入手しました資料は、昭和16年頃~昭和19年頃まで、中国の東安市(現在は、黒竜江省牡丹江市東安区と思います。)に駐屯していた部隊です。 手がかりになるのは、写真の裏に、各日付と清尾少尉、松永班長殿など個人名です。兵科は不明です。ほとんどが北海道出身者の方と思います。若干、東京の方がいます。 軍衣の右胸に△と▽を組み合した部隊章や「カ」、「ミ」、「タ」などの名前が縫われています。 情報をお持ちでしたらお知らせください。

  • 趣味の日本陸軍~

    趣味の日本陸軍~ 私は暗い趣味ですが、日本陸軍を調査、研究しています。 さて、その中で図書館等行きましたが、どうしても分からない事があります。 それは、日米開戦時の部隊の特定部隊の編成等の詳細情報です。 [独立混成第2連隊]→支那派遣軍に所属、上海警備を行なっていた。 [独立混成第4連隊]→南方軍に所属、独立混成第21旅団に配属され仏印からボルネオ攻略する。              その後、同地警備守備の為、独立守備歩兵40、41大隊の基幹部隊となる。              そして更に、独立混成第56旅団の基幹部隊となる。 両連隊は昭和16年9月に編成の大陸指が出た。以上は分かっているいます。 『知りたい事は~両連隊の編成地、補充担任、所属歩兵砲兵等の編制隊等の内容、人員装備、独立混成第2連隊のその後の改編等の内容、日時・・・。』 とてもくだらない事ですが、同じ趣味の方教えて下さい。宜しくお願いします。

  • サイパン島玉砕の大本営発表

    http://www10.ocn.ne.jp/~kuushuu/d190718.html ↑のサイトのサイパン島玉砕の大本営発表は 「大本營發表(昭和十九年七月十八日十七時)   一、「サイパン」島の我が部隊は七月七日早曉より全力を擧げて最後の攻撃を敢行所在の敵を蹂躙し其の一部は「タポーチョ」山附近迄突進し勇戰力鬪敵に多大の損害を與へ十六日迄に全員壮烈なる戰死を遂げたるものと認む 同島の陸軍部隊指揮官は陸軍中将齋藤義次、海軍部隊指揮官は海軍少将辻村武久にして同方面の最高指揮官海軍中将南雲忠一亦同島に於て戰死せり 二、「サイパン」島の在留邦人は終始軍に協力し凡そ戰ひ得るものは敢然戰鬪に参加し概ね将兵と運命を共にせるものの如し」 となっているのですが、私の以前、どこかのサイトで聞いたサイパン島玉砕発表は「其の一部は「タポーチョ」山附近迄突進し勇戰力鬪敵に多大の損害を與へ」の部分や「同島の陸軍部隊指揮官は陸軍中将齋藤義次、海軍部隊指揮官は海軍少将辻村武久にして」の部分が読みあげられていないのですが、大本営発表は何通りかあったんでしょうか?

  • 珊瑚海海戦の際、日本海軍空母の位置について

    珊瑚海海戦の際(5月7日)、日本海軍空母(瑞鶴・翔鶴)の位置について、教えてください。 この海戦において、日本軍の一番の目的は、ポートモレスビーを攻略することでした。そのため陸軍海軍の兵士たち満載した攻略部隊が、ポートモレスビーを目指して出航(南下)しました。その際、ジョーマード水道を通過しなければなりません。 アメリカ海軍は、日本軍がこの水道を通過することを予測して、戦艦部隊も空母部隊も、ジョマード水道方面へ近寄り(西進)ました。 一方、日本の空母も、味方の攻略部隊を支援するため、またこの水道へ寄ってくるアメリカ軍部隊を攻撃するために、最初からジョーマード水道方面へ近寄る(西進)のが良いと思います。 しかし実際には、日本空母は、アメリカ軍の東側には位置して、水道に近寄りませんでした。 なぜ西進して近寄らなかったのしょうか?

  • ルソン島での日本陸軍第105師団工兵隊について

    昔、祖母から祖父がフィリピンのルソン島にて戦死したと聞かされていましたが、思い立って「兵籍簿」と「留守名簿」を調べましたら、第105師団工兵隊(勤10608部隊)にて昭和20年2月マニラで戦死と記録がありました。ただ、兵籍簿には 昭和18年12月に工兵第53連隊補充隊に応召(京都市内) 昭和19年3月に召集解除 のみの記録にて、祖母の話しでは昭和19年の5月頃に京都市内で再召集されたと言ってました。 ネットや書籍から当時マニラを防衛したのは主に海軍部隊だったみたいですが、 一部陸軍部隊もいたそうですのでそこに第105師団の工兵隊がいたのかなと思っています。 府庁や厚生労働省の担当の方との話の中で、記録があっただけましかと思いましたが、再召集されてからマニラで戦死するまで、昭和19年の京都市内の召集部隊や第105師団工兵隊関連の記録や資料をご存知の方がいらっしゃいましたらよろしくお願い致します。

  • ドイツ降伏直前のベルリン周辺部隊の指揮系統について

    1945年4月~5月、ソ連軍によるオーデル河渡河からベルリン包囲・ヒトラー自殺までの間の ベルリン周辺で戦っていたドイツ軍部隊の指揮系統を教えてください。 東部戦線では北から順にマントイフェルの第3装甲軍、 シュタイナーのシュタイナー作戦集団、 ブッセの第9軍、 グレーザーの第4装甲軍、 西部戦線ではエルベ河東岸に布陣するヴェンクの第12軍、 さらにベルリンにはヴァイトリングのベルリン防衛軍が存在していたと思います。 このうち東部戦線の第3装甲軍、シュタイナー集団、第9軍は ハインリーチのヴァイクセル軍集団の隷下にあり、 第4装甲軍はシェルナーの中央軍集団隷下にあったと思います。 では、エルベ河の第12軍とベルリン防衛軍の直上の上位司令部はどこなのでしょうか? これらもヴァイクセル軍集団に属していたのでしょうか? それとも、ベルリン防衛軍は陸軍総司令部の直轄部隊で、 第12軍はカイテル元帥がヴェンクに直接ベルリン救援を命令していたように、 西部戦線部隊を統括する国防軍最高司令部の直轄部隊だったのでしょうか?

  • 細木数子さんの占いについて

    細木数子さんの占いとかまったく興味がなかったのですが、時々テレビに出て来ては的確なアドバイスをしている事に感心致しました。 近頃、私も少しは興味を持って来まして、一つご存知の方にお聞きします。 質問1 私はいったい何星人なのでしょうか?    (妻も何星人なのか教えていただければありがたいです) 生年月日 昭和34年7月30日(本人) 生年月日 昭和43年3月29日(妻) 質問2 大殺界とかよく聞きますが、私は今どの地点にいるのでしょうか? 宜しくお願いします。