• ベストアンサー

主観的体験と意識は同じ意味?

感情の定義は「情動の主観的体験」だ。という文章を読みました。 この主観的体験というのは、「意識」という言葉とどう違うのでしょうか。 意識はつねに主観的だと思うし,意識というのは体験だとも思うからです。

質問者が選んだベストアンサー

  • ベストアンサー
  • kaitara1
  • ベストアンサー率12% (1119/8885)
回答No.2

意識というのは関心の対象が自分自身の場合では。体験というと少なくとも自分という存在は関心の対象になっていないと思います。つまり両者はむしろ図と地の関係にあるように思います。

zorozoro2100
質問者

お礼

ありがとうございます。 図と地の関係という発想は面白いですね。 ただ、意識はウィキペディアによると注意(attention)と気づき(awareness)、自己意識(self-consciousness)などがあるようで 自分自身との関係では、注意は自分から外界 気づきは外界から自分、自己意識は自分と自分 のようにも理解できるのですが。 体験の方はよくわからないですが、○○の体験というふうに外界の関係が不可欠な感じがします。 図と地という議論とどんな風につながりますかね・・・

その他の回答 (1)

noname#204004
noname#204004
回答No.1
zorozoro2100
質問者

お礼

ありがとうございます。 ただ難解ですね。 自分の力では解読が難しい・・・

関連するQ&A

  • 主観に論理性はあるでしょうか?

    そのまんまなんですが、 主観、という言葉の定義にもよるんでしょうが、 科学的、という言葉は、主観の排除から始まるので、主観とは相容れないと思うんですが、 論理的、という言葉、論理性は主観と相容れると思われる方はどのくらいいらっしゃるでしょうか? 脳のメカニズムが生む心の現象であれば、脳の機能には構造的構成が当然あるので、その産物である、感情、主観も論理的な記述可能な構成をとると思うのですが、 あるいは脳科学的視点以外にも、主観でも世間一般に「理にかなっている」「筋が通っている」などという表現があります。これはある種の論理的な性質を感じるのですがどうでしょうか? 、ほかの方はこの点についてどう思われるでしょうか? いろんな意見をききたいのでよろしくお願いします。

  • 主観には論理性はあるでしょうか?

    そのまんまなんですが、 主観、という言葉の定義にもよるんでしょうが、 科学的、という言葉は、主観の排除から始まるので、主観とは相容れないと思うんですが、 論理的、という言葉、論理性は主観と相容れると思われる方はどのくらいいらっしゃるでしょうか? 脳のメカニズムが生む心の現象であれば、脳の機能には構造的構成が当然あるので、その産物である、感情、主観も論理的な記述可能な構成をとると思うのですが、 あるいは脳科学的視点以外にも、主観でも世間一般に「理にかなっている」「筋が通っている」などという表現があります。これはある種の論理的な性質を感じるのですがどうでしょうか? 、ほかの方はこの点についてどう思われるでしょうか? いろんな意見をききたいのでよろしくお願いします。

  • 貴方の考えは主観的です

    OKWAVEさんに頼んでも、質問にぴったりのカテを作ってくれません。いつもこのカテで代用しておりますのでよろしくお願いします。 日本人と喋っていると、非常によく飛び出して来るフレーズがあります。 それは「貴方の考えは主観的だよ」という言葉。「独りよがりな考えでハンパな意見」という意味に使っています。 次に多いのが「それは決め付けだよ」というフレーズ。 この2つのフレーズは非常に威力があって、これを言われると死刑宣告を受けたような気分になります。 私の乏しい体験では外人たちと喋ったり議論していて、このようなフレーズが出て来た覚えがないのですが、外人と豊富に接して来られた諸兄の経験ではどうですか? 外人が日本人の議論の仕方について、何か言ってますか? 私が唯一耳にしたのは以下のことです。 外人「日本人に、論理的にこうだからこうでしょうと説明する。論理的にはそれ以外にないから渋々認める。だがやっぱり認めたくないらしく「でも・・・」とか言う。日本人は論理が正しくても認めないですね」と言ってるのを聞きました。その時私は思いました。そうか、だから欧米人は論理で判断するが日本人は感情で判断するので”情動”民族”って言われるんだな、と。 外人が日本人の議論の仕方や考え方に何か言ってるのを御存知ありませんか? 外人も二言目には「主観的だよ」とか「それは決め付けだよ」と言うのですか? 何人についての回答なのかも言って下さると理解が深まります。 よろしくお願いします。

  • 現象的意識と反省的意識

    デイヴィッド・チャーマーズは、意識について「機能的意識」と「現象的意識」の2つの側面があると指摘したそうですが、私の読んだ、「心の哲学入門(金杉武司 著)」では、「反省的意識」と「現象的意識」の2つに分けて説明されています。 反省的意識とは、機能的意識に含むものと考えればよいのでしょうか? また、もしそうだとすると、心が反省的な意識状態にあるとき、一切の現象的な意識は付随しないのでしょうか?付随しないとすると、自分が反省的な意識状態にあるということ自体、気づかないのでは…? そもそも、現象的意識という言葉の説明にある「質感」の意味を把握しきれてないのですが、要するに「主観的体験」そのものですよね? 「質感を持たない主観的体験」というのはあるのでしょうか? もし、「現象的意識」の言葉が指す内容が一定していないのであるなら、そのあたりも少し教えて頂けないでしょうか? あともう一つ、現象的意識が「現れる」という表現がよく見受けられますが、 現象的意識を「感じる」「受け取る」という言い方は不適切なのでしょうか? 質問ばかりで申し訳ありません。 宜しくお願い致します。

  • 主観と客観について

    「主観」および「客観」の意味を教えてください。辞書を見てもいまいちよく理解できません。 例えば、物理学の運動の法則の一つに、 「すべての物体は、外部から力を加えられない限り、静止している物体は静止状態を続け、運動している物体は等速直線運動を続ける。」 があります。この法則を一般の方にわかりやすく説明するために 「物体というのは速度の変化を嫌う性質があります。止まっているときはそのままずっと止まっていたい、ある速度で動いているときはその速度でずっと動いていたいのです」 と言ったら、ある文系学者さんから、 「そのような説明は良くないです。主観的だから」 と言われました。 前者の説明は客観的であることは明らかですが、なぜ後者の説明は主観的なのでしょうか?主観と客観の違いは何ですか? 主観性、客観性のそれぞれの定義は国語辞典に下記の通り書かれています。 主観性: 主観に依存する性質。(主観:その人ひとりのモノの見方) 客観性:だれもがそうだと納得できる、そのものの性質。 この定義に照らし合わせると、「いかなる条件下でもいかなる物体は"そのままの状態でいたい"が必ず成立する」であるならば、これは個々に依らないことであり、かつ、誰もがそうだと納得できるそのものの性質を擬人法で表したものなので、むしろ主観性が低く客観性が高いと言えるのではないでしょうか?

  • 無意識と本能の意味と類型

    (1)「無意識」という言葉をよく目にするのですが、この言葉の意味する所は、『ある特定の人物(実在しなくても良い)が抱いている深層意識』の意味なのか、『統計的に特定の集団(人類)が共通に抱いている深層意識』のことなのか、教えてください。 (2)また、無意識と本能の関係について教えてください。(共通事項か、包含するものか、特筆すべきものなど。) (3)本能の学術的な類型(定義)がありましたらご教示くださりますよう、よろしくお願いいたします。

  • 主観的なことを客観的に書ける?

    「あなたがそれをどう評価するか、なるべく客観的に書いてください」という文章があり、違和感を感じました。 つまり「あなたがどう評価するか」を書けば、それは主観的なことだと思うのです。 主観的なことを客観的に書く、というのが、あるいは成立するのかなあと考えたりもしているのですが、よくわかりません。みなさんは違和感を感じませんか? ちなみに、その文章は下記URLにありました。 http://help.yahoo.co.jp/help/jp/movies/help/8/3.html

  • 変性意識状態になると、不思議で神秘的な体験が起こりますが、この意識状態

    変性意識状態になると、不思議で神秘的な体験が起こりますが、この意識状態では、こうしたオカルト体験以外でどういう体験ができるのでしょうか?

  • 不思議体験、神秘体験のほとんど全てが変性意識状態で起こるのはなぜでしょ

    不思議体験、神秘体験のほとんど全てが変性意識状態で起こるのはなぜでしょうか? 脳の意識状態で起こるとしたら不思議体験も神秘体験も脳による現象なのでしょうか?

  • 主観を構成する要素の定義?

    例えばですが 喜怒哀楽や、自信、信念、愛、謙虚、恐怖、自己肯定感、信頼感、絆、存在、一体感、自由、感謝などの言葉(が表すもの)は、主観(心)を構成する要素として確定してもいいものでしょうか? こういった言葉は、主に文学表現や詩など一般の文章でよく使われる心を表す言葉で 数多くあります。 つまり、主観(心象世界)の構造全体を構成する要素一つ一つとみなして不自然ではないでしょうか? これらの文系的言葉(とその意味するもの)を、数学での集合での要素のように扱えるものでしょうか? あるいはそういう扱いをしている学問は存在しているのでしょうか?詳しい方教えてください。お願いします。