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「生命の本質」を否定している「善」は、

larme001の回答

  • larme001
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回答No.5

その文面を脈絡なしで妄想するならば、「善」という行為は「個の繁栄」という「生命の本質」において、マイナスであるにもかかわらずなぜ一般化されるのか?という質問になります。一般的になりえません、というのは、哲学的(あくまで便宜上こう呼ぶと)に人間の本質的には「なりえない」という考察なのか(たとえば人間性悪説)、科学的に「そういう変化を想定するのが不可能」という事実としての意見なのかでちょっと考え方が違うでしょう。 ただ、実際問題人間は「個人」を大切にする面と「人と人とのつながり」のなかで生きていく面の2面があるので、単純な遺伝子継承というのがはたして「生命の本質」かという疑問は残るでしょう。後者の科学的知見に対する主張については人間と人間という関係よりか、単細胞と多細胞のより原始的な部分でさえどのような発展を遂げたのかはいまだに色々な説があります。場合によっては多細胞生物やこの人間社会ができたのは単なる「偶然」が生んだにすぎないといういい方もまた可能だと言えます。

kurinal
質問者

お礼

larme001様、ご回答ありがとうございます。 率直に言って、大学入試の現代文みたいな、難しい文章ですね。 >「一般的になりえません」 が、ご回答ですね? >「場合によっては多細胞生物やこの人間社会ができたのは単なる「偶然」が生んだにすぎないといういい方もまた可能だと言えます。」 「ある「善」が一般的」なんてのが(そもそも)無理、という気がしてきました。

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