聖書は日本人には要らないか?

このQ&Aのポイント
  • 『聖書』は日本人に必要なのか、その意義を考えてみましょう。
  • 『聖書』とクリスチャン信仰の違いや、教会との関係も考えるべきです。
  • あなたは『聖書』をどのように位置づけていますか?その考えも伝えてください。
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『聖書』は 日本人には要らないか?

 漠然とした問いです。必ずしも焦点がさだまらないかも分かりませんが 問いとしてはむしろはっきりしているとも考えます。要るか要らないかですから。  哲学カテで問うているというのが ただひとつの前提でしょうか。  という出で立ちで 思うところを述べてみてくださいますか?  むろん なぜそう考えるかをお聞きしたい。  そうして主題を伸ばして行ければというコンタンです。  たとえば 『聖書』とそしてクリスチアニズム(特にはそのオシエ)との違いがすでにあります。  教会など坊主の関与する世界とそうではない世界との違いもあります。  あるいは あなたはこの書物をどう位置づけていますか? といった問いにもなるかと考えます。  よろしくどうぞ。

質問者が選んだベストアンサー

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回答No.18

バトルをちょっと眺めてみたよ。 あんたのもの言いは、そろばんではじいた様な以前の言い回しと違って、最近は心の潤いがある。 相手をいやす潤いでもある。 以前の瞬間湯沸かし器は、あんたの一人よがりだったが、当時そんな事を言えば沸騰どころか爆発していただろうな。 日蓮はあんたの反省でもあるのかもしれないな。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  そのままをありがたく受け留めていくのがよいのでしょう。  ただそれでは先行きに遅れた形で いやじつはこうこうであったとコトワリを入れなければならなくなる・そういうおそれがあるとすれば ひとこと 次のように言わば台所事情についてしるしておきます。  まだまだ 世の中の状態についての怒りはむしろ高まって来ているということです。  にゅうとらるという方が提起してわたしが自分の方式で引き継いだ主題として この《怒り》があります。あなたも参加しています。    ○ 【Q:《〈怒り〉をめぐるにゅうとらるの定理》】    http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa8717498.html  ○(趣旨説明欄) (あ) 《怒り》は その当の出来事に遭って まづとにもかくにも自分を元気づけるチカラの現われではないか。むしろ瞬間的な心的現象である。  ☆ このように怒りは 根に持たない。《瞬間湯沸かし器》であり むしろそうでなくてはならない。そのあと:  ○ ~~~~~~~~~~~~~~~  (い) そのとき怒り以外にともなわれる感情をあたかも鼓舞するかのように現われるチカラなのではないか。  すなわち 悲しみをかみしめるということにだって ある種の怒りのような元気づけのチカラが作用しているのではあるまいか。  ~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ というようなそのあとの経過になると思われます。  怒りを根に持つ場合には 恨み辛みになる。世に言うルサンチマンなのでしょう。    心にもし潤いがあるとすれば この怒りのおかげでしょう。

bragelonne
質問者

補足

 今回は単純に褒めてもらったので BA です。

その他の回答 (18)

noname#214841
noname#214841
回答No.19

またまた、こんばんは。回答番号14,15のplapotaです。 >>助ける相手を間違えています。 >>もっとまともに世の中を見つめてみなさい。 べねすとさんは、すばらしいではありませんか。哲学カテゴリに、またひとり名物キャラが加はりました。ガミガミ教、素粒子教、仮面ライダー教などと肩を竝べることのできる器です。名称はだれかが考へてくれます。あの教団、とひとくくりにせず、ひとりひとり見つめてゆけば、素敵な人がたくさんゐます。 >>いまちょうど 【Q:禁断の書物、書物の著者、どちらが危険ですか?】 >>という質問も挙がっています。 質問の意味がわかりかねるので、回答してゐません。べねすとさんとは、お話したいのですけれど。 >>ふざけて書いたのですか? それともマジですか? 私のことをそんな人間だと考へてゐたのですか。残念です。私がふざけるのは、朝起きてから、夜寝るまでの間だけです。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  まぁ 手に負えません。  負けてくやしい はないちもんめ  勝ってうれしい はないちもんめ  あの子が欲しい――あの子ぢゃ分からん  この子が欲しい――この子ぢゃ分からん  ・・・・  道草教ですかね。ユージューフダン教の主流か支流か。

  • benesuto
  • ベストアンサー率28% (12/42)
回答No.17

二度もお礼をいただきまして、ありがとうございます。べねすとです。 私は自分の信仰が自己満足であり、それを補強するために教団の存続を願っているだけです。存続するには信者がいりますし、貨幣経済の日本で職員の飲み食いや遊興費には金が必要です。少々ですが、恩恵に預かっている身としては、他宗教、特に仏教と完全に別な宗教の経典なんて、不要です。 >この信仰を 出来っこないのに売り物にしている 私は別に他人が救われようが、地獄に落ちようが、どうでも良いです。「自己満足」と書いたのは、そのためなら他人がどうなっても良いという意味です。人間、自分の幸福が一番です。 技術書や接客マニュアルでもないのですから、可能、不可能は関係ありません。小説の推薦文に「これは面白い」と書いてあっても悪ではありません。それに騙されて買って、金を失っても仕方ありません。宗教の「信仰」も一緒で、「救われる」とあって、「救われる」ならといって金を出す。強制はしてませんし、強引に奪ってもいません。ただ、出さなければ・・・と忠告してるだけです。決断するのは、《わたし》の《固有のとき》です。誰も邪魔しません。 それで、不幸になった、一家離散した、と言われても困ります。 私も聖書が他の哲学書、既に信者や教団がいない宗教の経典であったら、必要だと言います。あるいはアメリカ陰謀論やロクッフェラー陰謀論といった取る足らない説なら、必要だと言うでしょう。実際、教団内でギリシャ神話や北欧神話の話をしても、誰も責めません。 しかし、世界で最多の信者数を誇る二宗教の経典となれば、不要です。 それと、イスラムはアラブ民族の宗教と違います。イスラムはキリスト教と同じ、人類すべてを救う宗教です。アラブ人のみの宗教なら、インドネシア人はアラブ人となってしまいます。 >わたしのようにバカ丸出しになればよいのです。精神のストリップをこばまずに。 無理です。わたしは聖書で禁じられている行為の多くに魅力を感じ、実際に行ってもいます。やめる気もありません。だから、今の信仰がちょうど良いです。

bragelonne
質問者

お礼

 こんばんは。ご回答をありがとうございます。  ★ 宗教の「信仰」も一緒で、「救われる」とあって、「救われる」ならといって金を出す。強制はしてませんし、強引に奪ってもいません。ただ、出さなければ・・・と忠告してるだけです。決断するのは、《わたし》の《固有のとき》です。誰も邪魔しません。  ☆ まぁ そうです。そのとおりです。だから シュウキョウは 勝手にふるまっているのだから 結社の自由が認められている限り 手が出せない。ということになっています。  哲学は ちがいます。ここはマチガイであるとはっきり言います。哲学にしたがう人間ならば その判断としての結論に 行動としても実行するという暗黙の了解があります。  この了解に従わないシュウキョウ団体であるかどうかにかかわりなく 哲学として言うべきことを言って行きます。そういう問題です。  もっと早く簡単に言えば そのようなシュウキョウ者には ヤマシサがあるはずです。良心にとがめをおぼえているはずです。そこまでです 哲学の果たし得る役目は。それでかまいません。  ★ しかし、世界で最多の信者数を誇る二宗教の経典となれば、不要です。  ☆ ぢゃあ そのいわゆるキリスト教の教会員であなたと同じように考える人たちは 同じことを ブディズムの経典についてつまり不要だと言うでしょう。これは 哲学のあゆむ道ではありません。はないちもんめを 両者でやっているようなもんです。シュウキョウごっこです。おあそびです。  ★ アラブ人のみの宗教なら、インドネシア人はアラブ人となってしまいます。  ☆ この議論に参戦するとすれば それでもアラブ人の――個人にとっての信仰でありうるという可能性をのこしておきますが それでも――シュウキョウであって 必ずしもインドネシア人やフィリピン人のものではない要素があると言いたい。  つまりそれは クルアーンがアラビア語で書かれており・つまり 預言者ムハンマドはアッラーフの言葉をアラビア語で伝えており このことは どのほかの言語であってもよいということにはならない。と言われているかぎりで アラブ人のシュウキョウであると言えると思うのですが どうでしょう。  ★ だから、今の信仰がちょうど良いです。  ☆ ですから 《信仰》にかんしては 何一つ批判がましいことを言ってはいません。  問題は シュウキョウです。信仰に関係しないかたちの人びとの集まりであると言って じっさいにもそうするならば問題はありません。そういう批判です。  ぢゃあ 少々個人的なことにも首を突っ込んで話をすすめますが:  ★ 私は自分の信仰が自己満足であり、それを補強するために教団の存続を願っているだけです。  ☆ これで何も問題はないと言いましたが げんみつに言えば よくありません。と哲学は言います。  《教団やその存続によって補強する》ようなものは 《信仰――わが固有のとき――》ではありません。それは 自由ではないからです。固有の時よりほかのものごとに依存しているというような時も自由も そんなものはマヤカシだからです。  信仰は 非思考の庭です。わが心にこの思考〔やほかの行動〕にあらざる場が・庭が成っているという状態であり その動態です。  外から誰もそこに入って行くことが出来ないと同時に 自分のことであってもその庭から外へ――信仰の問題としては――外に出かけることもあり得ないことだからです。非思考なのですから。《神》とはそういうものです。ですから シュウキョウが指し示している信仰は マヤカシです。  これが 哲学の示し得るこたえです。

  • benesuto
  • ベストアンサー率28% (12/42)
回答No.16

No.9です。 御礼をいただきまして、ありがとうございます。 私は自分の信仰、信仰に伴う行為は、自分が助かるために行う、自己満足と考えています。 こんなことを言ったら、家族や他の信者から殺されるでしょうが、所詮は宗教なんて精神科で処方される安定剤、あるいはアルコール依存症患者の酒ぐらいの価値しかない、でしょう。精神が安定しない、あるいは自分に自信がないから、何かにすがる。それが酒なのか、薬物なのか、信仰なのか、その程度だと思っています。依存症患者は嘔吐しても、酒だと思えば地面を舐めずり、薬物患者は急死する量を服用する。本人がそれで、救われている、と考えるなら大して違いはありません。 私が日蓮宗なのも家族がそうであったから、自分で選んだ信仰ですらありません。そして、辞めないのも信心という安心感が欲しいだけです。しかし、それでも私は救われています。なかったら、死ぬ恐怖や将来の不安で押し潰されていたでしょう。日蓮聖人の教え(と称するもの)で、何とか依存症にならず、生きています。 本題ですが、私の信仰心は恥ずかしながらユダヤ人、キリスト教徒、ムスリムの方に比べて、弱いです。『聖書』を読み、大変に魅力を感じた事もあります。しかし、それで家族や人生観を捨てれるほど、私は強くがありません。そして、信者数が減り、団体の運営が難しくなり、休止となっても、酒へ逃げずに、内なる信仰のでみで生きれる強さは持ちません。だから、『聖書』なるものは日本人に不要ですし、それによって強固な信仰心を持つ人が増えるのも反対です。 自己矛盾?、百害?、たわ言?、精神錯乱?、大変に結構です。bragelonneさんにとって無意味であろうが、私は日蓮の教えによって救われ、心を惑わす邪な書物を無視できます。なくなれば、アルコールか、薬物しか残っていません。そのために、他人が不幸になろうと、その状態を信心で幸福だと勘違いさせれば良いだけです。私のように。

bragelonne
質問者

お礼

 べねすとさん あらためまして こんにちは。ご回答をありがとうございます。  さて いつものようにわたしは直球を投げてまいります。  ★ 私は自分の信仰、信仰に伴う行為は、自分が助かるために行う、自己満足と考えています。  ☆ 信仰は――良心・信教の自由さらには表現の自由なる公理は持ち出すまでもなく―― 《わたし》のしかも《固有のとき》です。  この《とき》は 世界のすべてに開かれていますが――決して蛸壺のごとく閉じられていることはなく《心の明け》は じつは全開なのですが―― ほかの人がそのトキの中に入ってくることは出来ません。その《わたし》なる人に 開かれているからには 誰でも声をかけ話をすることは出来ますが その人の《固有のとき》に入って行くことは出来ません。  ですから 早い話は シュウキョウが この信仰を 出来っこないのに売り物にしているところが 狂気であり 人間の意志行為としてまったくの無効なことだと言っています。  結社としての自己表現の自由が このシュウキョウにかんしては じつは認めてはいけない。という問題であると考えます。  このシュウキョウを別とすれば 信仰は いっさい自由です。自己満足であろうがなんであろうが 無条件に自由です。つまりは 他人に迷惑をかけないのなら まったく自由です。何の問題もありません。自己弁護する必要もさらさらありません。と考えます。  ★ 所詮は宗教なんて精神科で処方される安定剤、あるいはアルコール依存症患者の酒ぐらいの価値しかない、でしょう。  ☆ これは シュウキョウです。  ただし その薬代・治療費は 《信仰》ということをいっさい言わないでシュウキョウ団体は取って欲しい。ブディズムならそれとしての勉強会であり そこで仲間となって共に励まし合って生活していくのだという趣旨だけにとどめて欲しい。そのための《税金》であると。  そのあと読み継いで行って だいたい同じような反応になると思います。  ★ 他人が不幸になろうと、その状態を信心で幸福だと勘違いさせれば良いだけです。私のように。  ☆ これが 日蓮の秘策です。それを受け継いだ組織の作戦です。  《アベノミックスをすすめるしか道はない》という見解と主張は いちおう民主主義の社会にあって互いの自由な思想と行動のもとにおこなわれています。政策が失敗するかどうか それは〔変な恰好ですが〕措いておいて その思想や政治行動に 問題はありません。  ところが 信仰は 《わが固有のとき》です。そのトキの中に手を突っ込もうとし土足で上がって行こうとするシュウキョウがある。なぜかと訊くと それが人のすくわれる《ただひとつの道》であるからだと。たとえ そのいま勝手に押しつけているので嫌われたりケンカになったりしたとしても その道しか人間にはないということであれば 首に縄をつけても引っ張って行くことがただしいのだよという説明です。  ところが そういう《秘策》は けっこう世の中にあるわけです。  《アルケーの神こそが 真実の神であり アルケーの神以外に神はない》という《凝り固まり教》は 見られています。  その昔 人びとは 血筋の濃い者どうしでまとまって生きていました。よそ者は あたかも人間ぢゃないと思われていた。そのよそ者に 自分たちの中の美女をさらわれたなら その集団どうしの全面戦争でした。  すなわち神は その民族の・そしてわが民族だけの神でした。その生き証人は 現代においても韓国人や北朝鮮なる国として見られています。さすが戦争はまぁしませんが あること無いこと自分たちの有利になることは言い相手に不利なことは言いからかす。これも全面戦争です。――そして このような生活態度は いまでは きちがいです。  ユダヤ民族だけの・またアラブ民族だけの〔と言っても 両者は互いに同じセム族ではありますが ですから確かにおっしゃるように啓典を同じくしており ともにアブラハムの子孫でもあり おそらく神もじつは同じであろうと考えられるのですが それでも〕それぞれの神を唯一のものとして 他を排除します。いまでは 気がちがっています。  日蓮も この路線を――ほかに見渡すと あまりいなかったので――よしとして採用したのでしょう。そして 時代に応じてそれなりに効果はあったのでしょう。そして 現代です。戦後の復興期や高度成長期には 大いに《活躍》がありました。  けっきょくいまでも その余韻がのこっているのでしょう。  ユージューフダン教に対して 一発で決めてやる教のようなものとして――そうしていれば 不安は少なくともウワベからは消えます―― なお勢力を保っている部分があるのでしょう。    結論:《この神しかない》印のバス路線は その乗り合い自動車に乗っていていいかどうかを考えるという問題ではないでしょう。  わが固有の時を そうやって初めから閉じているのです。バスを何台も動かして自分たちの中でウワベではよほど活発で元気に動き回っているという・しかも蛸壺の中にあります。  バスの中の居心地の問題ではないでしょう。路線がすでに おのれの時間を――つまり自由を――閉ざし・ときには破壊してさえいるのではないでしょうか。日本列島ごと沈んでしまえとしか思っていない韓国人は そのようにして気が違っています。くるっています。人間でなくなっています。最初のボタンの掛け方が問題です。  日蓮の路線は そういうものだと思います。よ。まぐろだったかが 死ぬまで泳ぎ回りつづけていなければ生きていけないのと同じようです。  わたしのようにバカ丸出しになればよいのです。精神のストリップをこばまずに。

noname#214841
noname#214841
回答No.15

こんばんは。回答番号14の《ユージューフダン教》plapotaです。「お礼」拝見しました。 >>日蓮宗系でも過激な部類に属する団体が折伏するのに >>聖書に拠る人びとはしづらいから聖書は要らないという論議なのですよ。 私が質問者であれば、回答番号9をベストアンサーにします。宗教といふものは、えてして偽善のにほひがつきまとひますが、この回答にはそのやうないかがはしい香りは一切ありません。「日蓮宗系でも過激な部類に属する団体」についての内部発言で、これほど正直で本音に満ちた投稿を、このサイトでいままでに見たことがありません。この文章は、多くの人たちに読まれるべきです。 そもそもOKWaveは助け合ひが根本精神です。 >>こんなのは他の日本人には無いことで、大変に困ります。 >>このまま、クリスチャンやムスリムの考えが広まれば、 >>団体の運営も難しくなります。 とおつしゃるのですから、困つてゐる人を助けるのは当然ではありませんか。 >>アニミズムのような心的現象であり そういう傾向ですね。 はい、そのとほりです。今回は日本人と聖書との関連質問でしたので、ちよつと理由付けに使用しただけで、さほど大きな意味はありません。 いちばん言ひたいのは、日本人にかぎらず、『聖書』は危険な書物である、といふことです。読み手次第で、どんなことにも使へます。 危険だからこそ、魅力があります。酒や女性も同じです。毒にも薬にもならないものは、おもしろくありません。

bragelonne
質問者

お礼

 こんばんは。ご回答をありがとうございます。  ★ 私が質問者であれば、回答番号9をベストアンサーにします。  ☆ ダメ!! 時効が来たから 過去の殺人について包み隠さず白状したっていう《正直》のたぐいでしょう。ダメですよ。  ★ ・・・とおつしゃるのですから、困つてゐる人を助けるのは当然ではありませんか。  ☆ 過去にいかに多くの〔身体が弱いゆえにも含めて〕社会的によわい境遇に甘んじなければならなかったゆえに 押しつけ折伏に つい屈しなければならなかった人びとが しかもその生活費のかなりの部分を会員ゆえの費用に当てなければならず 毎夜泣き続けていたことか。  困っている人を自分たちの組織の興隆のために否応なく無慈悲にも利活用して来たという過去の《犯罪行為》です。  助ける相手を間違えています。もっとまともに世の中を見つめてみなさい。  ★ いちばん言ひたいのは、日本人にかぎらず、『聖書』は危険な書物である、といふことです。読み手次第で、どんなことにも使へます。  ☆ 賛同し得ません。そんなことを言えば 世の中に出て来る本なり雑誌なりの出版物のすべては 《読み手次第で 危険なものである》でしょう。  いまちょうど 【Q:禁断の書物、書物の著者、どちらが危険ですか?】という質問も挙がっています。  ★ 危険だからこそ、魅力があります。酒や女性も同じです。毒にも薬にもならないものは、おもしろくありません。  ☆ 《ユージューフダン教》の教祖さまから そういった話を聞くことになるとは思いもよりませんでした。  また ふざけて書いたのですか? それともマジですか?  

noname#214841
noname#214841
回答No.14

『聖書』が日本人に必要かどうか、私個人では何ともいへません。基本的には回答番号8に賛成ですが、回答番号10の反論も愉快ですし、回答番号7も冷静な見方で、回答番号9は切実な課題で、それぞれに説得力があります。 必要性の問題よりも、日本でキリスト教が(たとへば韓国のやうに)一般化しなかったことに私は関心があります。大きな必要性がないから一般化しなかつた、とも言ふことができるのかもしれません。そして、一般化しなかつたことは、日本人にとつて、ある意味、幸ひであると思つてゐます。 これは私の独断ですが、日本人は、対象物を自己と同一化する傾向が強い、と感じてゐます。たとへば、下記の私の質問、回答番号5のNakay702さんの御意見。 http://okwave.jp/qa/q8817917.html この傾向は書物に対してもあてはまるかもしれません。物語の主人公を、自分と同一視する。聖書の主人公は、いふまでもなく、神です。つまり聖書を読んで、みづからを神と同一視してしまふ危険性がある、といふことです。 回答番号8のNemurinekoNyaさんがこれまで何度も指摘なさつてゐますが、聖書は「善」と「悪」を区別します。ただしここで注意すべきは、その区別が可能なのは、神のみである、といふ点です。創世記3章22節にあるとほり、人間が「善悪」を知るやうになつたのは、罪の結果です。本来の姿ではありません。 特に恐ろしいのは、他の人たちを「善人」と「悪人」とに仕分けすることです。聖書では、人が人を裁いてはならない、と何度も警告されてゐます。たとへば、以下のことば。 「人を裁くな。そうすれば、あなたがたも裁かれることがない。人を罪人だと決めるな。そうすれば、あなたがたも罪人だと決められることがない。赦しなさい。そうすれば、あなたがたも赦される。」 (新共同訳聖書 ルカ6章37節) しかし、みづからを神と同一視してしまふと、この警告が目に入らなくなります。神ならば人を裁くことができるからです。自分と自分の好みの人たちのグループを「善人」とみなし、自分の嫌ひな人たちのグループを「悪人」と決めつけます。みづからの定めた「正義」がその基準です。これこそが戦争にはしる人間の思考です。 もし、日本人が聖書を今よりもはるかに多く受け入れてゐたとしたら、このやうな危険が強まると思ひます。聖書そのものに問題があるわけではありませんが、やはり何事も相性はあります。 *** *** *** *** *** この点で、私の尊敬する人たちが、このサイトに何人かゐます。どの質問に対しても常に、ちよつとした悪口を書いてゐる回答者です。あなたは病気です、とか、心療内科でみてもらひなさい、とか、そんな発言をしてゐます。これほどまでに、他の人たちを自分勝手な善悪で区別しない高潔な人間がゐるでせうか。あらゆる人を平等に扱つてゐます。性格的にまつたくウラオモテがありません。ウラだけだ! 善人と悪人とに区別をしないので、争ひがおきません。みづから戦ひを挑んでも、多くの人から評判を落としてゐるため、援軍などありませんから、勝ち目がありません。ですから、戦ふことができません。これほど完璧な平和があるでせうか。 私はかういふ人たちから、多くを学んでゐます。

bragelonne
質問者

お礼

 こんばんは。ご回答をありがとうございます。  ★ 回答番号9は切実な課題で、・・・説得力があります。  ☆ そういうことを言うから――とすでに馴れ馴れしく反応しますが――相手は つけ上がるのです。  ◆(回答No.9) 日蓮宗系でも過激な部類に属する団体  ☆ が折伏するのに 聖書に拠る人びとは しづらいから 聖書は要らないという論議なのですよ。  このような自己矛盾をはらんだ組織宗教に市民権をあたえるような発言は つつしむべきだと考えます。  ただただ独りよがりで 宗教をやっているという運動です。  (ですから そのためにわたしは質問を挙げました)。  どうでしょう 違いますか?  ★ 必要性の問題よりも、日本でキリスト教が(たとへば韓国のやうに)一般化しなかったことに私は関心があります。  ☆ ええ。そうですね。一般にあっても ひとつの重要な課題となっていると思います。  ★ 日本人は、対象物を自己と同一化する傾向が強い、と感じてゐます。  ☆ そうでしょうか。それは 言うなれば アニミズムのような心的現象であり そういう傾向ですね。  長い議論は出来ませんので そのような《対象ないし相手の人との同一化》が見られる場合とともに そうではない傾向も見られる。とは思います。  それは こうです。儒教・道教・仏教・キリシタン・西欧思想などなどに興味も関心をも示すと同時に一定の距離を置く。つまりあるいは 不即不離の位置関係を保つという場合。これも見られるように思われます。  あるいはつまり それぞれのオシエや思想は 少しづつ元の内容から違って来ていますね。土着の思想で仕立て直した衣裳を着ている。  というような事由で 一概には賛成することは出来ません。  ★ たとへば、下記の私の質問、回答番号5のNakay702さんの御意見。  ◆ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~  「人間と動物の同一視」、大いにあり得ると思います。  我々人間、誰でもegocentric particular(ラッセル、「自己中心的特殊規定」)のようなものがありますよね。つまり、人間の身体の言語分節の仕方で動物のそれを考えるという、対動物の、人間共通の「自己中心的特殊規定」がごく自然にあり得ると思います。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ これは 必ずしも当てはまるとも思えないのですが。  ★ この傾向は書物に対してもあてはまるかもしれません。物語の主人公を、自分と同一視する。聖書の主人公は、いふまでもなく、神です。つまり聖書を読んで、みづからを神と同一視してしまふ危険性がある、といふことです。  ☆ これは 何か勘違いなさっているのではないでしょうか。これだけでは納得の行く受け取りにまで到らないのですが。神と自己とを同一視するなら 超然として生きているのではないのでしょうか?  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~  特に恐ろしいのは、他の人たちを「善人」と「悪人」とに仕分けすることです。聖書では、人が人を裁いてはならない、と何度も警告されてゐます。たとへば、以下のことば。   「人を裁くな。そうすれば、あなたがたも裁かれることがない。人を罪人だと決めるな。そうすれば、あなたがたも罪人だと決められることがない。赦しなさい。そうすれば、あなたがたも赦される。」   (新共同訳聖書 ルカ6章37節)  ~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 《対象との自己同一化》なら このオシエにも同一化して 守るのではないのですか?  ★ ~~~~~~~~~~~~~~  しかし、みづからを神と同一視してしまふと、この警告が目に入らなくなります。神ならば人を裁くことができるからです。自分と自分の好みの人たちのグループを「善人」とみなし、自分の嫌ひな人たちのグループを「悪人」と決めつけます。みづからの定めた「正義」がその基準です。これこそが戦争にはしる人間の思考です。  ~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ いやいや 分かりません。神と自己とを同一化するというのでしょう? だったら よいことばかり考えおこなうようになるのではないのですか?   つまり 《この警告が目に入らなくなる》のは 神や聖書の記事に自己同一化することもない。からではないのですか?  ★ 善人と悪人とに区別をしないので、争ひがおきません。  ☆ とおっしゃいますが 《区別をしない》と言えるのは 《区別がある》と認めている場合ですよ。  わたしなどは 区別を見ていないのです。善人と悪人という言葉があることは知っていますが その言葉を実際にそれぞれの人に当てはめることはしません。(もう少し詳しく言うなら 相手がこちらを無視する態度に出たと確認する。といった事態の認識はするわけです。善悪に関係なく)。  評判を落とした状態にあって 完璧な平和がある。ということなのですね。さっぱり分かりません。

  • pikaruche
  • ベストアンサー率35% (6/17)
回答No.13

それは個々の日本人が判断すべきことであって、一般論でのべたら差別思想になるでしょう。

bragelonne
質問者

お礼

 そうなりますかねぇ。ううーん。  こんにちは。ご回答をありがとうございます。  たとえばまづ 回答No.6を承けて次のように事情をしるしました。:  ☆☆(No.6お礼欄)  ~~~~~~~~~~~   或るわたしの質問で   ◆ 私たちは日本人であり、東洋人であり、キリスト教の神なんか不要です。どうして聖書を知らなければお話にならないのか?   ☆ という回答の中の文章をもらったからです。ですから あまりにも意外だったので いちどみなさんに聞いてみようと。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ といった出来事がすでに起きてしまっている。  というところか出発しても   ★ それは個々の日本人が判断すべきことであって、一般論でのべたら差別思想になるでしょう。  ☆ という判断を堅持され またそう判断したかたちで対処される。ということでしょうか?  と考えると わたしの見方では なぜ要らないのか・また要るのか これを考えておくなら ひとつの正式な対処策になるのではないか。と思ったのでした。どうでしょうかねぇ。

回答No.12

あんたのお礼から考えたが、ヨーロッパにとっても外来から押し寄せた文明の脅威としてのローマで、明治日本と変わらないのではないか。 彼ら西欧は、奴隷となったが、日本は独立を守る為戦って、太平洋戦争での敗戦という形で武力抗争を清算した。 敗者の栄光はある。 私は赦されざる裏切り者黒き明星で、旧人類に滅びの宴をもたらす。 ジラーチちゃま。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  そうですね。もちろん 昔からの――ユダヤイズムの入って来ていない昔からの――習俗もまだまだ残っているようです。  クリスチャンの聖人がたくさんいて 毎日が誰々聖人の日となっているそうです。(これは スペインなどがそうだと思います)。  その日に生まれた人は その聖人が守護聖人となります。何のことはない 守護霊みたいなものです。つまり クリスチアニズム以前の昔からの精霊信仰(アニミズム)がかたちを変えてのこっている。らしいです。  日本人は ブディズムに対しても一定の距離を保っているとすれば 見上げたものです。

回答No.11

> 眠り猫からうわさされた反論をいつか聞きたいところだか、あのオカマこそ輸入ブローカーだ。 あいつは万人に親切にするつもりで、万人にV字開脚する性犯罪者だ。 本人はそんな恍惚こそ自らだと言っている。 人気者のストリッパーだ。 こう言う事を言うと後で本人からファンレターが届く。

bragelonne
質問者

お礼

 ぢゃあ そのファンレターをまづは待ちましょう。  ご回答をありがとう。

回答No.10

西洋を研究する教科書として必要性がある。 明治以降、西洋を学ぶにあたって欠かせない事だが、当時差別された過去からあんたはそんな歴史検証をしたいのだろう。 学問としていまだ哲学は、輸入ブローカーが先生としてのさばっているが、あざ笑う私と違って、あんたは正々堂々勝負を挑めるだろう。 眠り猫からうわさされた反論をいつか聞きたいところだか、あのオカマこそ輸入ブローカーだ。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  ★ 西洋を研究する教科書として必要性がある。  ☆ ええ。西欧人にとって外来ものなのですけれど 真剣にまなんだようです。  ★ 学問としていまだ哲学は、輸入ブローカーが先生としてのさばっているが  ☆ これも ええ ですね。かなり消化して来ているのですけれど 最後の――あるいは最後から二 三番目の段階での――詰めが甘いと思いますね。だからどうなんだ? と問い詰めるところが自分たちに欠けているように思います。  たぶん いいかえれば 自分の腑に落ちていないことを知識として得ている。ような。  ★ 眠り猫からうわさされた反論  ☆ これは 何のこってすかいな?

  • benesuto
  • ベストアンサー率28% (12/42)
回答No.9

不要です。 私は日蓮宗系でも過激な部類に属する団体の信者です。団体名は御想像にお任せしますが、クリスチャンやムスリムの方を改宗させるのは、普通の日本人を改宗させるよりも難しいと感じるからです。彼らは日本人にしては珍しい強固な信仰を持ち、折伏や謗法払いを行おうとすれば、暴力を使ってでも抵抗します。こんなのは他の日本人には無いことで、大変に困ります。 このまま、クリスチャンやムスリムの考えが広まれば、団体の運営も難しくなります。 『聖書』とあったので、旧約、新約も経典に含めているイスラムにも言及しました。

bragelonne
質問者

お礼

 こんにちは。ご回答をありがとうございます。  ★ 折伏や謗法払いを行おうとすれば、暴力を使ってでも抵抗します。  ☆ さんざん自分たちがやって来たことを棚に上げて・・・。  わたしはそういった団体の存在を認めていません。  そもそも宗教は 自己矛盾に満ちており百害あって一利なしです。  思考すべきオシエを思考に非ざる信仰として受け容れよというたわ言を言っています。  これは 精神錯乱であり 何をやっても無意味だからです。

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     関連するすべての質問についてこの初めの問いをしておけば 問い求めが分かりやすくなるのではないか。  初めということは しばしば終着駅における結論になるとも考えられますが ともかく出発してみます。  むろん哲学としての問いです。  たたき台としては:  (1) 信仰とは何ぞやという問いについて 答えている。  (1-1) たとえば 《信仰が与えられるのは 血筋によってではなく 友情や義理人情など生活上のかかわりによってではなく あるいは人間の意志や努力や学識によってでもなく 無根拠においてである》と。  (1-2) たとえば 《理性や知識あるいは知恵によってではなく ひとは 信仰によってあゆむ》と。 哲学としては 《無根拠によって》という意味になるかと考えます。  (2) その信仰の対象である神は 非経験であり非対象である。ゆえに 無い神をいだくのも――つまり無神論も―― 信仰である。    (2-1) 《無い神》と《神は存在するというときの有る神》とが 《人間と非経験とのかかわり》としてその人の非思考なる姿であるという類型において互いに同じ信仰形態である。    (2-2) つけ添えるなら 《有る神》のその名も それが何であっても まったく問わないということ。名前の違いには 意味がない。  (2-3) 言いかえると 聖書は 新約聖書に到って そのアブラハム以来の神を経験世界の背景にしりぞかせた。  (2-4) 神は 良心と信教の自由なる公理にうちにみづからの身を隠した。言いかえると おのおの主観内面におさめられた。  (2-5) (ただし その主観の自己表現として 神の話をするなということではなく してもよいし それは 説明責任をともなった表現の自由にもとづきおこなわれる)。  (2-6) 無い神の話と有る神の話とが 同列にあつかわれる。  (2-7) いわゆるもろもろの民族宗教も 以上のような扱い方のうちに揚棄されて行く。  ☆ いろんな角度から捉えられていくかと考えます。ご回答の内容について 納得できるように質問者はたずね返してまいるかと思います。その点 つけ添えます。

  • 初めて教会に行きたいと思っていますが・・・

    クリスチャンになりたいと思っています。 キリスト教に興味があり、色々な本を読んだり、ネットで調べたりしてきて、 正式に洗礼を受けて、キリスト教徒になりたいと思うようになってきました。 最近になって、聖書も読み始めましたが、全然意味がわかりません… そこで、やっぱり教会(日曜礼拝)に行ってみたいと思うようになりましたが、 もともと知らない世界に入るのがすごく苦手です… 是非、事前に教えて頂きたいことがあります。 1.教会による大きな違いはなんですか?何を基準に教会を選べば良いのでしょうか?  (近くにカトリックの教会と日本キリスト教団の教会があります) 2.教会を途中で変えるということはあるのでしょうか? 3.教会では聖書について教えてくれる機会などはあるのでしょうか? 4.日曜礼拝に知らない人がいると、信者の方はどう思われますか?   勉強不足でおかしな表現もあるかと思いますが、 ひとつでもいいので、ご教授お願いします。

  • ~The Way of World Peace~ 世界を平和にするためには・・・

    この哲学のカテの書き込みはよくチェックさせてもらっています。 思想的にすばらしい人がたくさんおり、また感銘を受ける書き込みも多数あり、ここにいる人は人間的にすばらしい人ばかりだなといつも見ていました。 そこで、そんな人たちに質問というか一種のディスカッション的なことでお互いの意見を交換してみたい。ということでトピを建ててみました。 前置きはこのくらいにして本題に入ります。 主題は ~The Way of World Peace~ 世界を平和にするためには・・・ でお願いします。 哲学カテにいるたくさんの知識人の方、いろいろなご意見待っています。

  • 広く世界を見つつの哲学を

     1. 日本という社会を基礎として誰もが自由に日本語で語り合う場を《井戸端会議》と言うとすれば――まづは これを目指しているのですが―― でもそこから 日本の歴史と文化に根差した《土俵》という場を持つだけではなく よその人びとの場である《リングやスタヂアム》をも われわれ自分たちの場とせねばならないのではないか?    2. 日本人の哲学の徒は 生活日本語をもちいてそれを基礎としてほかの国のリングにも上らねばなるまい。そのとき アヱーであってはならない。  3. これが 問いです。  4. さらにここで説明をおぎないますが 問うべきことは 《土俵としての井戸端会議だけに終わるようなウンドウ――《土俵》だけに終わってよいとするウンドウ――は 麦のあいだに生えてくる毒麦ではないか?》 これです。哲学カテは 《仲良しクラブ》であればよいといった風潮をつくりあげるウゴキ これについて疑問を挟み その是非を問います。  5. 言いかえると 真面目に哲学をまなび問い求めるのは ワールドカップのピッチに立つためである。また すでに立っているということでなくてはならない。もし 仲間内のあいだにちぢこまるようなウゴキがあるとすれば これは もってのほかではないか?  6. われわれは 世界の味を自由に受け容れしかもこれらを日本の味にして来ている。けれども 哲学・思想そして宗教については 勉強はするものの・いえいえ きわめて精力的に余すところなくというほど研究を伸ばして来てはいるものの 世界の料理を取り扱っているほどには 消化して来ていない。のではないか。訳語ひとつを取っても おぼつかない状態にさえある。  7. 聖書やその神ひとつを取っても 成っていない。ではないか?  ここでは それでもよいという風潮を取り上げ これを批判し切っておきたいというねらいです。

  • クリスチャンの方は御感想をお聞かせください。

    【日本や世界や宇宙の動向】様の2015年10月9日のブログ記事ですが、 クリスチャンの方は御感想をお願いいたします。 聖書はローマ・カトリック教会によって書き換えられました。 聖書は2000年以上にわたり少しずつ書き換えられてきたとも言われていましたが ・・・意外と・・・私がずっと疑ってきたことが本当だったようです。 つまり、聖書は時の権力者が彼らの都合のように書いたものであり、 聖書は預言書ではなく計画書であるということです・・・ 時の権力者とは・・・ローマ帝国の皇帝でありカトリック教会(バチカン)です。 やはり、世界一、武力と財力がある帝国が聖書の原本や古代の記録書を全て奪い取り、 聖書を彼らの都合の良いように書き換えてしまったのです。 しかも時代に合わせて何回も・・・ つまり聖書の預言書も神の預言ではなく、彼らの計画書だったのです。 バチカンは悪魔崇拝総本山です。彼らは悪魔(ルシファー)と契約を結び、 聖書を改ざんし、預言書(計画書)を作成し、人類の完全支配のために 預言書通りに物事を進めているのです。預言書はバチカンの台本です。 例えば、アメリカのキリスト教徒は、今まさに、聖書の預言書通りの事が 起きていると驚いていますが、私は冷ややかに・・・ バチカンも含むイルミナティが聖書の預言書通りに演技し、 世界人類を悪魔と共に完全に支配しようとしているのだと思っていました。 http://beforeitsnews.com/prophecy/2015/10/original-scripture-was-modified-by-the-roman-catholic-church-2473608.html (概要) 2015年10月6日付け バチカンの地下室には、キリスト没後300年以上にわたり、カトリック教会が 没収した(本物の)聖書原本、巻物、書物が大量に保管されています。 以降、カトリック教会は聖書原本を書き換え、新たな聖書を編集しました。 西暦325年に彼らが書き換えた聖書がニカイア会議にて認定され、 397年8月のカルタゴ会議で、北アフリカのカルタゴ主教、 西ローマ帝国の最初の皇帝、ローマ法王によって書き換えられた聖書が 神の言葉として最終的に認められました。 以降、聖書は(ローマ・カトリック教会によって) 何千回も修正され書き直されてきました。聖書は1000年以上にわたり 次々に書き換えられてきたため、どのバージョンを読んでも、 聖書原本とはかけ離れています・・・ 歴代ローマ法王やカトリック司教らは、神の言葉である聖書は 絶対に信頼できるものであると信者に伝えてきました。 そのため、信者は聖書を神の言葉として絶対的に信じてきました。 ローマ帝国が聖書原本や古代の記録書を管理してきたため、 今でもバチカンの地下室にそのまま残っています。 当時、聖書原本の内容や天地創造の真実を知っていた人たちは 宗教裁判にて全員処刑されました。 彼らを処刑後にローマ帝国は彼らが保管していた聖書原本や古代記録書を没収し、 如何わしい異教(彼らの宗教)の慣習を組み入れながら新たな聖書を完成させ、 無知な民衆を偽聖書で操ってきたのです。 ”聖なる”ローマ帝国は彼らに都合の良い歴史を民衆に刷り込み、 人類から、人類の親である創造主を切り離してしまいました。 このように、ローマ帝国は人類の歴史と聖書の預言書を彼らの都合のよいように 書き換えることで、民衆を支配しました。彼らは民衆に嘘の歴史を教えたことにより、 ローマ・カトリック教会は今でもそして未来も人類を支配することになります。 大量殺人と拷問と数々の嘘により、ローマ・カトリック教会が創設されました。 1つの嘘を隠すために、多くの嘘を作り上げ、真実を知っている人々を殺害しました。 ローマ・カトリック教会が創設されて以来、教会側は、悪魔ルシファーを崇拝し、 ルシファーからオカルト・パワーを恵んでもらいながら、 彼らの計画(彼らが編集した聖書の終末論に記された様々な出来事) 通りに事を進め人類の奴隷化を実現させてもらっています。 改ざんされた聖書(真実の内容も含まれるが)には、オカルト数字、魔法、 コード、呪い、寓話などのサブリミナル・メッセージが含まれており、 人々を完全に支配するためのパワフルなツールです。 聖書には、ローマ・カトリック教会によりオカルトのエネルギーやパワーが 注ぎ込まれており、聖書を読むと恐怖心を抱くようになり、 聖書の内容を完全に信じるようになるようになります。 世界の何百万人ものキリスト教徒は、聖書のパワフルな魔法にかかり、 神の言葉とする聖書を絶対的に信じているため、 人生に絶望し、うつ病、絶望感、精神錯乱で苦しんでいます。 ローマ・カトリック教会の最終目標は、世界統一宗教の創設(NWOの一環)です。 彼らはその目標に向かって容赦なく冷酷に計画を進めています。 彼らが聖書を書き換え、人類の歴史を改ざんしたことで、 世界中の人々に大きな影響を与えてきました。 我々は真実を知らずに不必要に苦しんできました。我々はみな、 何世紀もの間、強制的に何十億ドルものお金を徴収され、 我々のお金が彼らの策略と繁栄を後押ししてきたのです。 我々が生き残るためには、彼らが仕組んだ偽のキリスト教を 我々から完全に切り離されなければなりません。 キリストは我々に聖霊を送りこみましたが、聖書は送っていません。

  • 井戸端会議の中から 土俵もリングもスタヂアムも!

     かつて   ◆ 【Q:真面目な哲学の場はないものか】    http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa5407931.html  という質問に次のように回答しました。まづはこれをたたき台とします。たたいてください。  そしてそれを議論の前提にし得れば さらにもう一点 問います。  ○ 日本という社会を基礎として誰もが自由に日本語で語り合う場を《井戸端会議》と言うとすれば――これを目指しているのですが―― でもそこから 日本の歴史と文化に根差した《土俵》という場を持つだけではなく よその人びとの場である《リングやスタヂアム》をも われわれ自分たちの場とせねばならないのではないか?   日本人の哲学の徒は 生活日本語をもちいてそれを基礎としてほかの国のリングにも上らねばなるまい。アヱーであってはならない。  これが 問いです。  さらにここで説明をおぎないますが 問うべきことは 《土俵としての井戸端会議だけに終わるようなウンドウは 麦のあいだに生えてくる毒麦ではないか?》 これです。哲学カテは 《仲良しクラブ》であればよいといった風潮をつくりあげるウゴキ これについて是非を問います。  言いかえると 真面目に哲学をまなび問い求めるのは ワールドカップのピッチに立つためである。また すでに立っているということでなくてはならない。もし 仲間内のあいだにちぢこまるようなウゴキがあるとすれば これは もってのほかではないか?  われわれは 世界の味を自由に受け容れしかもこれらを日本味にして来ている。けれども 哲学・思想そして宗教については 勉強はするものの・いえいえ きわめて勢力的に余すところなくというほど研究を伸ばして来てはいるものの 世界の料理を料ったほどには 消化して来ていない。訳語ひとつを取っても おぼつかない状態にさえある。  ですから このまま内向きのまま仲間内の《知識の見せびらかしをつうじての懇親会》のようなコミュニティーにしてよいわけがない。西欧につうじる者を西洋タコと言っているひまはない。――これを 緊急に問います。  ☆☆ (◆なる質問への回答No.6) ~~~~~~~~~~~~~  こんにちは。  哲学力と妨害対策 このふたつの側面があるでしょうね。しかもけっきょくは同じひとつの問題です。  ◆ 哲学などの迂遠な抽象論  ☆ のっけから何ですが これは必ずしも適切な見方ではありません。  ○ 哲学は生きることですよ。  ○ 生活です。生活態度が 思想です。事件もあれば悲しい嬉しい出来事もあったりで その過程をつらぬく境地を言います。  ○ 感性とこころと論理的な思考力などなどを含むでしょうが 境涯の問題が 哲学です。  ○ いかに抽象的な表現を用いたとしても 生活現実が哲学です。一般に西洋のそれは 日常のことばを用いて表現しているに過ぎないのですから。  ☆ という基礎としての対応力を互いに持っていないと 真面目だけではうまく進まないでしょうね。  つまりは むしろふつうに対話するというだけのことなのですけれど。それを 観念の世界をこそゆたかにするという行き方を採っている人びとがいますね。  外国の哲学思想を解説するけれども 現実の主題や課題について自分の見解をよう述べない場合。  論理学を覚えたけれども 実際にそれを使うことができない場合。  いかにも倫理的で道徳規範をたしなみこれこそが徳に満ちた高尚な教養であるという見てくれで固まった宗教家の場合。  いわゆるクリスチアニズムでは もはやその聖書の世界が 生活からはかけ離れてあたかもそこだけは治外法権を持った領域だと言わんばかりに 夢を見つづける場合。  ◆ 真面目に抽象論の質疑をしたい場合、どうすればいいんでしょうね?  ☆ 哲学とは似ても似つかないこれらのファッション哲学を見極める力を互いにつちかうようにすれば いいでしょう。  ● 自己顕示欲を満足させる  ☆ という言い方を自分とは違う人びとにだけ当てはめて言う人がいますが よほど何も見えていないのだと考えられます。自己表現が自己を顕示しないということがあるでしょうか。ファッション哲学は きわめて幼稚なお遊戯であるようです。  もうひとつに 境地も論理も情感もうそもほんともへったくれもない投稿をしてくる場合の妨害対策についてです。  いちばんよいのは それでも相手は相手もひとりの人間であり誰もが互いに対等だという姿勢で臨むことです。  対等であることをつらぬくと 表現を相手に合わせなければならなくなる場合が よくあります。  ◆ 不真面目な書き込みが多く  ☆ あれば それ相応に表現を合わせて応対することになります。  ところが これは マナー違反になりがちです。どうするか。    臨機応変 これに尽きます。相手に応じた――つまりは相手が撞いて来た鐘の鳴り具合いに応じた――返答を マナー違反すれすれになりつつ 送ってやることです。ここでは ほんとうはマナーなど気にせず できるだけ相手の撞き方に応じる道を外さず逸らさず 鳴り返してやりたいところです。――と言っても 規約違反の問題もあり むつかしいところです。  次善の策は 応答できませんとそのまま返すことです。非力ゆえ わたしには出来ませんと言って了解を求めます。  相手はすでにマナー違反をしていますから そのことを蔑んでやってもいいですし 怒ってやっても憎んでやってもいいですが 相手に対してその存在にかんしては われわれと同じ存在であり対等であることを守るのがよいでしょう。  つまり初めに書きましたように このような破廉恥な投稿を受けるということも 哲学人生のひとつの側面ですし そのような妨害対策も哲学の問題であるとは考えられます。  あとは強いてあげれば みんなの協力ですかね。  これは どうなんですかね。良し悪しだとも思われます。でも 応対できませんと返すときには ほかの人たちの協力があると よいでしょうね。わたしが相手をしましょうと申し出てくる人がいると いいでしょう。  おっしゃるように  ◆ 真面目な哲学の場はないものか  ☆ という問い求めは みなの願いであるようですが ひるがえってやはり 錯乱した文章を書いてくる投稿を受けるのも哲学の課題であると引き受けること これがいちばんの王道であり近道だと考えます。くさいものにふたをするだけではどうにもなりません。  どうでしょう。    投稿日時 - 2009-10-30  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

  • こんな教会ありますか?クリスチャンの方に質問です

    こんにちは。前回、哲学のカテに似たような質問をしたのですが、私の説明が長すぎたのか、あまり多くの回答をいただくことができませんでした。そこで、もう一度質問させていただきます。 プロテスタントの教会に通って約一ヶ月経ちましたが、以下の点が気になります。気にし過ぎでしょうか。 どなたか教会選びに詳しい方がいらっしゃる場合、アドバイスをお願いします。 • 専属の牧師がいない •教会の代表者がいない • 聖書の勉強会がない •礼拝の終わりに報告会があるが、その際、信者が自分自身の身体の不調、病気や怪我の話になり、「今日は早く帰らないといけないので、皆さん私のために今、祈ってください」と祈りを強要する •献金が少なすぎるとあからさまに嫌な顔をされる→少ないとは300円くらい •ある信者が災難にあったようで、その人のために献金袋が毎回まわってくる •礼拝そのものよりその後のお茶会を楽しみに教会に来ている人が多い •とにかくプライベートな話ばかりする •教会の活動内容が良く分からない 教会で自分のために祈ってほしいと言われた場合、その人のことを良く知らなくても、祈るべきでしょうか?「痛みが酷いんです、私が帰る前に皆さん、祈って下さい」って感じです。

  • 一致の定理

      一致の定理によるとある微小領域において成り立つ数学的性質は、その微小領域を含むまともな領域全域においても成り立つという。 これはすごい事である。 一致の定理には世界についてのある普遍的な真理が隠されているに違いないと考えてみた。 そこでこれを人間精神に当てはめてみます。 例えば、 ある村に住む坊主が全て肉食妻帯坊主であるなら、日本中の全ての坊主は肉食妻帯坊主であることが導き出される。 ある教会で賛美歌を歌う人の全てが漬かっているなら、日本中の教会で賛美歌を歌う人のほぼ全員が漬かっていることは明らかとなる。 広布の広場に集まり南無妙法蓮華経とお題目を唱える人の全員がアホであるなら、日本中で南無妙法蓮華経とお題目を唱える人の全員がアホであることが分かる。 ある村に住むクソジジイ、クソババアの全員がウザいなら、日本中の全てのクソジジイ、クソババアはウザいことが分かる。 ・・・・などなど。 一致の定理は正しいか。    

  • 人生に意味などないことは明らかで、それ故そろそろ死のうかと思っているのですが

    とても下らない質問です。 お忙しい方は、どうぞ無視してくださって結構です。 さて。 こんな状況を想定してください。 ある理系の高校生がいます。 唯物論的世界観を有する彼にとって、世界は極めてシンプルです。 彼にとっては、科学を前進させること、人の役に立つ技術を開発することのみが、究極的には唯一、真に意義があると思われる命題です。 なぜ彼がこれほど単純な世界観を有しているかと言えば、それは彼がそれまで「自分」や「世界」について真剣に考えたことが一度もなかったからです。 幸い彼は、数学、物理などの理系分野にそれなりの才能があったので、世間では一流大学と呼ばれている大学の工学部に進学します。 大学生活の中で彼は、「哲学」と言うものに初めて出会います。 これがあらゆる不幸の始まりです。 「哲学」と言う名のウィルスは、少しずつ、しかし確実に彼の精神を侵食し始めます。 彼は「哲学書」という書物を読み漁るようになります。 この「哲学」という名の凶暴な悪性ウィルスが、彼の薄っぺらな世界観をすっかり転覆させてしまうのに、それほどの時間はかかかりませんでした。 彼はたちどころにそれまで信じて疑わなかった、「人生の意味・目的」というものを失います。それどころか、今後二度と以前のような意味での「人生の意味・目的」を得ることはできないことを確信します。 これはもちろん彼にとって、受け入れがたい苦難でした。それ故、彼は何度もそれらの書物を読み直し、そして考え直しました。しかし、どのように考えても、存在論的な基盤の上にある西洋哲学からは、人生の意味や目的を見出すことは不可能のように思われました。そして、それを承知でなおもそれら解決不可能な問いを探求し続けるのが哲学だと言うことに、ようやく気付いたのです。 人生の無意味、さらに言えば、存在の無意味に気付いてしまった(と少なくとも当人は思っているようです)彼にとって、残された道は二つしかありませんでした。素知らぬ顔で、残りの人生を過ごすか、あるいは無意味、無目的に耐えながら日々を過ごすかです。不器用な彼がとることができる道は、後者のみでした。それ以来彼は、数年にわたりシューシュポス的な日常に耐え忍んできました。 もちろん、取り付かれてしまった病を克服する努力はしてきました。 論理を超えたところに光があるのではないかという淡い希望にすがりながら、彼は宗教書や文学を読み漁りました。あるいは西田幾多郎や鈴木大拙などと言った東洋の思想も読みました。 一時はそれらによって、絶望を打ち破ることができたように思われました。 しかし、ダメでした。 3年前に、彼はうつ病と診断されてしまいます。 それ以来、投薬治療や認知行動療法などを続けますが、そんなものが効くはずはありません。彼にはそれが誰よりもわかっていました。何故なら彼は、本当はうつ病ではないからです。うつ病だったらどんなに楽だろうかと思いました。うつ病ならば、抗鬱剤で快方に向かいますが、デンマークの哲学者が名付けた彼の病の特効薬は「死」しか存在しないからです。 それ以来彼は、死に対する憧れを抱くようになりました。 夜眠りについて、そのまま一生起きることがなかったらどんなにいいだろうかと思いました。ただし、自殺を実際に行動に移すだけの勇気も、気力も、彼にはありませんでした。 もちろん、彼が自殺を思いとどまってきた理由は他にもあります。それは、家族、友人の存在です。彼が自殺をすれば、友人は猛烈な自責の念に苛まれ、両親は今後一生立ち直れないであろうことは、彼にはわかっていました。それゆえ彼は、それらの人々の為だけになんとか生きているといってもいい状態でした。しかし、忍耐にもそろそろ限界が来てしまったようです。 彼はそろそろ死のうかと思っています。 もちろん彼の死に一握りの悲劇的要素もないことは、彼自身が誰よりも承知しています。 何よりも無意味な死、犬死です。 しかし、彼の悩みが彼固有のものであると思うほど、彼はバカでもうぬぼれてもいません。 それどころか、数え切れないほど多くの人が、同じような問いに悩み、それを乗り越えてきたことを知っています。しかし、数千冊の書物から彼が導き出された結論は、それらの問いを乗り越えることとは、結局妥協によってのみ可能だと言うことです。 ただし、これは彼の結論であって、あなたの結論ではありません。 彼は、レヴィナス風に言えば、少なくとも「他者」を「私」ではない「他者」として認識するだけの謙虚さは持っているようです。 そこで彼は、インターネットと言う媒体を使って、「他者」にたずねてみることにしました。 彼の病を克服する「知恵」を、教えてあげてください。

  • 《信じる》とは 人間にとって どういう行為か?

     哲学として定義してくださいませんか?  宗教を信じるだのキリスト教を信じるだのブディズムを――浄土系などを除いて――信じるだのとよく聞きます。おかしい。哲学としてただしてください。  質問者の考えをたたき台にしてもらってもよいです。宗教について触れたところは 情報交換をねがいます。  1. それは 思考に非ず つまり非思考という行為であると。  2. 思考は 経験合理性にもとづき――その反合理性をも人間の境地で引き受けつつ――考えをすすめること。  3. その思考に非ずなら 或る種の賭けという行ないに似ている。無根拠を心に受け容れるということ。  4. そのときのわが心の伸び もしくは――どこへ伸びたのだと言っても分からないから――心の〔窓の〕明けのこと。  5. 非思考と言うからには それは 経験世界を超えて非経験なるナゾを――想定の上で――相手にしている。しかもその無根拠を心に受け容れるという時点では 経験的な行為である。言わばその賭けるという決めにおいて領収証を発行していることになる。  6. 一般に受け容れる相手は 《かみ》と呼ばれている。ちなみにこのとき《無い神》を心に受け容れているなら それは 無神論としての《信じる》である。  7. 無根拠にかかわることゆえに この《信じる》については 良心・信教の自由として その自由が公理と見なされ認められている。  8. 言いかえると 信仰は内面のもんだいである。その中身を――観想や瞑想として――ことばに言い出すことはあるかも知れないが その表現内容は あくまで非経験のナゾを仮りに表わした覚え書きである。  9. この信仰としての覚え書きを わざわざオシエとしていただきそのうえ教義や道徳規範とするやからがいる。組織宗教である。  10. キリスト者やブディスト――有神論であれ無神論であれ――の個人としての信仰を わざわざ人びとにとっての倫理規範としてかかげるやからがいる。ありえない。言葉で表わしたオシエは すでに経験思考の対象であり それ以外ではない。  11. キリスト教や仏教を《信じる》ということはありえない。それらオシエは 《考える》ことであり もし信じるに到ったというのならそれは 《思い込み》のほかのことではない。  12. せいぜい信念・信条として持たれる行動規範であり その場合に社会的に有益でりっぱなことが成し遂げられる場合があるだろうが けっきょくそれは オシエの奥なる個人としての信仰であろうと考えられる。  13. ゆえに組織宗教は ただ群れているだけである。  14. 結社の自由はあるけれども もし組織が個人に信仰を有無を言わさず強要し個人の信仰を組織の権限関係によって左右することがあるとすれば それは個人の信仰の自殺行為であり 違法行為である。  15. 仮りにひとはよわいとすれば そしてそれゆえ群れが必然だと考えるなら 見えざる教会(エクレシア)としての――信教を分離したところの――ムラ(共同体)こそがそれだ。  16. すべての宗教団体は 自主的に解散するのが 人間的なふるまいである。ローマ教会は 欺瞞である。