• ベストアンサー

創造神話の一種の流出説をどう表現するか?

書き直せばいいのでしょうが、思いつかなかったので質問してみます。 サンスカーラとマーヤー という質問で ブラフマンの世界への顕現 と書いてみたのですが、読み返してみても 私もまぎらわしいと思いましたが、ここでは、 形のない、いわば衝動だけのブラフマンが、世界という形を成した ということなのです。 この場合、岩とか木とか海とか植物、そして、動物や人間も ありとあらゆるものがブラフマンが形を成したもの ということであり、 ですから、人間が苦行者となり、禁欲すれば ブラフマンの衝動が消えて、「無」になる。ということです。 これを人格神が迎えに来たなどと解釈されては 何も伝わっていないことになります。 顕現だとまぎらわしいですか? あと、サンスカーラとサンカーラですが 正しい表記法があるなら教えてください。 ついでに仏教学者にも言ってくださいね。 saṃskāra saṅkhāra 日本語は難しい。 諸行無常より 十二因縁の行のほうが例としてはよかったかな。 ~~~~~~~~~~~~~~~ 十二支縁起の要素[編集] 2.行(ぎょう、巴:saṅkhāra, 梵: saṃskāra) - 志向作用。物事がそのようになる力=業 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%81%E4%BA%8C%E5%9B%A0%E7%B8%81 ~~~~~~~~~~~~~~~

noname#207067
noname#207067

みんなが選んだベストアンサー

  • ベストアンサー
  • pegasus0
  • ベストアンサー率20% (1/5)
回答No.1

お好きに・・・・ 創造論だけでは 人は納得しません・・ 全てを明らかにしない事には・・ そして もう 既に それは 出来ています・・

noname#207067
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 正式な解釈が知りたければ カテキズムとか読めばいいのですから ネットの書き込みは戯論です。

その他の回答 (3)

回答No.4

苦行、ゴータマさんの場合のように、特に断食行が問題になると思うのですけれど、 ヨーガ(宗教的なヨーガじゃないですよ)などをやっている人の話によると、 断食を始めたときは、ひもじさでかなり苦しい思いをするらしいけれど、 ある段階を越すと、 全身から悪いものが抜けてゆくような感じがし───あくまでそう感じるだけです───、 頭や感覚もクリアーになる───あくまでそう感じるだけです─── らしいですね。 そして、これをさらに徹底すると、意識が朦朧としてくる、混濁してくる。 意識と無意識の世界の境目が曖昧となり、夢うつつのような状態になる。 変なものが見えたり、現われたりして、それらを感じることができる。 神がかり状態に至る。 こうした感覚、錯覚が、日常的なそれとは異なる超感覚・超能力(のようなもの)が得られるという思い込みに至り、苦行を重視するという風潮を作ったのではないでしょうかね~。 アメリカの先住民のシャーマンは、麻薬などの幻覚作用を用いる薬草を用いることもしたし…。 麻薬ですからね~、本当にトリップしてしまう(ポリポリ)。 そして、トリップした異世界(?)で見聞きしたことを話す。迷信深い人々はこれを信じる…。

noname#207067
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 ですから断食を讃えるのは栄養学の知識がないのです。 それほどの断食をしたのに胃腸にダメージがないなど そのほうが異常なので、 ゴータマの断食を私は疑っています。 それに宗教は原始的になるほど、人権もないので 危険で関わらないほうがいいということになります。 動物を犠牲にするのだって見たくもないです。

回答No.3

既に人間の思惟の範囲を越えているから、何とも・・・。 ☆ですから、人間が苦行者となり、禁欲すれば ブラフマンの衝動が消えて、「無」になる。ということです。 ◇タパス(苦行)によって万物が生じたのですから、タパスによって「無」になれない、という気がします。 バラモンが苦行し、精進潔斎するのは、儀式によって神々の勢力を活性化し、潜在的な力を顕在化させ、それを具現化するためです。 儀式の依頼主の欲望をかなえるために行うんです。 だから、ブラフマンとバラモンの祭式とは密接な関係があり、この両者は不可分だと言ったじゃないですか。 宇宙創世の神話もバラモンの祭式(哲学?)と関係しているんです。 だから、タパスなんです!!

noname#207067
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 まあ、思考のお遊びです。 遊戯はリーラーとかいうらしいです。 理性の無駄遣いですね。 苦行はむしろ世界を活性化させてしまうというのは、なるほどです。 タパスは熱の意味もあるから 熱エネルギーで活性化したりして。 十二因縁も持ち出してきたから、智慧で解脱でいいのかもしれません。 ブラフマンとは無明であり、渇愛であり、と、さんざんな扱いになってしまいますが。 苦行はジャイナ教みたいです。 ~~~~~~~~~~ 解放[編集] 「ニルジャラー」つまり残存するカルマの除去は「タパス」、つまり苦行と禁欲によって可能になる。「タパス」は外面的にも内面的にもなされる。六種類の外面的なタパスとは、断食、食欲の自制、しかるべき状態の食事のみをとること、美食の断念、一人になれる場所でのみ休み眠ること、快楽の断念である。六種類の内面的なタパスとは、贖罪、畏敬、価値あるものへの奉仕の実行、精神修養、利己的な感情を避けること、瞑想である[88]。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A3%E3%82%A4%E3%83%8A%E6%95%99%E3%81%AE%E3%82%AB%E3%83%AB%E3%83%9E ~~~~~~~~~~

回答No.2

 ブラフマン、をどう受け止めているのでしょう。  根本原理に衝動と云った人間的精神の働きが有るのでしょうか。  そんな事はないと思いますが。    根本原理とは、「親」の意志(意力・幻力)に因って顕現した、始まりとか終りとかの無いこの世界(宇宙)に、意志と理性と感情という働きのある事を云うのだと受け止めれば、過去の宗教者たちの言葉は理解しやすくなるのではないでしょうか。  生命は、自身を維持するために自ら外部の栄養を取りこむ、と云う活動をしていますが、そんなところから宇宙の動態現象はまさに、宇宙そのものが自身を維持するための生命活動と思えてきます。  そして親の保育によって幼子が育つように、宇宙を保育するのが『絶対の大心霊体』であるとも思えます。  

noname#207067
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 要するに十二因縁の無明と愛(渇愛)です。

関連するQ&A

  • サンスカーラとマーヤー

    サンスクリットで、サンスカーラ パーリ語だと、サンカーラ 様々な意味がありますが たとえば諸行無常の行がサンスカーラだったりします。 それはともかく、 サンスカーラの止滅が仏教では 重要になってきます。 むしろサンスカーラを肯定するという立場もあるでしょうが。 やはり気になるのは、マーヤーです。 マーヤーもまた止滅させるべきものですか? 諸行無常といったときの行は、「形成されたもの」などといった意味になるでしょうから ブラフマンの世界への顕現ともいえるでしょうか? すると、サンスカーラとマーヤーの関係はどうなっていますか? サンスカーラもマーヤーも止滅させたとき おそらくは 「無」となるでしょうか?

  • 時間と空間の、無限の空虚さを表現した俳句か短歌

    諸行無常の概念……世界の無限の空虚さ、人間の心の空虚さ、時間の空虚さを表現しているような、俳句or短歌を 探しています。 当方俳句には疎いのですが、最近興味があり、恋愛系ではないスケールの大きなうたを探しています。 なお、うたの中に、「無常」「無我」「空」などの言葉を直接は用いずに、それを表現しているものを探しています。よろしくお願いします。

  • 《我れ》はある?ない? どちらですか(仏教)

    仏教についてです。  はじめ釈迦は 世間に対する無常観として無我( anaatman )を説いたが この無我説を知り実践する主体として 涅槃を現わす如来我(仏性)を説くことになると聞きました。 →無我=http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%84%A1%E6%88%91 (1)梵我一如を ヒンドゥーイスムから けっきょく 継承したということですか。あるいは ブラフマン(梵)ともアートマンとしての我とも 仏教は違うというべきなのでしょうか。それでも 宇宙との合一といったことは説くということでしょうか。 (2)涅槃としての如来我は 自己到来・自己還帰(わたしがわたしである)や自己実現(わたしがわたしする)といった言葉で表現すると 間違いですか。 (3)梵我一如を〔仮りにですが〕含めて 仏性の顕現としてのブッダの智慧は わたしが 人間の能力によって 実現するのですか。わたし以外の力と働きが必要不可欠ですか。両方が必要だとしても 両方は互いに 対等な力ですか。 中で(3)は これまでにも問うてきましたが あらためて おしえを乞うものです。 もし答えられないとなれば 残念ながら 仏教について 人は 何にも分かっていないと受け取らざるを得ません。そもそも 仏教じたいが あいまいな内容であるのかというそのあたりまで 議論は進むと思います。 このような出で立ちですが よろしくお願い致します。

  • 梵我一如に仏教は密着したのでは?

     ブラフマニスム(バラモン教)に言う梵我一如 すなわち   《真理としてのブラフマン(梵)》なる一元に 《人間存在つまり〈存在〉ということ としてのアートマン(我)》が 一体となり 輪廻から解脱するという思想 この思想を けっきょくのところ ブッディスムは 採り入れたのではないでしょうか。  真理(ブラフマン)を 法身なるブッダないしダルマとして そして 個人個人の存在(アートマン)を 人間の内なる仏性としてです。つまり これら両者は 同じであるなら 一如であると言っていると思われます。そうではないでしょうか。以上について おしえを乞います。 * 参考: ・《梵我一如》:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A2%B5%E6%88%91%E4%B8%80%E5%A6%82 ・《ブラフマン》:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%96%E3%83%A9%E3%83%95%E3%83%9E%E3%83%B3 ・《アートマン》:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%96%E3%83%A9%E3%83%95%E3%83%9E%E3%83%B3 ・《三身》:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E8%BA%AB ・・・以上は 短い解説です。次が 分かりやすかったです。 ・《Q:梵我一如と仏教の悟り 》:http://oshiete1.goo.ne.jp/qa1106940.html⇒そのANo.1およびANo.3が参考になります。

  • 創造神話

    旧約聖書の創世記第1章にて語られている以外に、 創世記第2章以降に、別の天地と人間の創造について書かれている そうです。 具体的にどんな内容なのでしょうか。 教えてください。 よろしくお願いします。

  • われわれ一人ひとりが ブッダであると何故言わないか

     次のような議論をめぐって ことの実態を明らかにしていただきたい。こういう問いです。  ▲(ヰキぺ:仏陀) ~~~  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%8F%E9%99%80  § 仏陀の範囲  ( a ) 一般には、釈迦と同じ意識のレベルに達した者や存在を「ブッダ」と呼ぶようになったり、  ( b ) ヴェーダの宗教のアートマンのように、どんな存在にも内在する真我を「ブッダ」と呼んだり、「仏性」とよんだりする。  ( c ) 場合によれば宇宙の根本原理であるブラフマンもブッダの概念に含まれることもある。  ▲(ヰキぺ:過去七仏) ~~~  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%81%8E%E5%8E%BB%E4%B8%83%E4%BB%8F  § 概要  ( d ) 仏教では過去未来現在の三世に渡ってそれぞれ千人ずつ仏が出現すると説かれているが、前三仏は過去荘厳劫の千仏のうち最後の三仏、後四仏は現在賢劫の千仏のうち最初の四仏といわれる。  過去七仏(かこしちぶつ)とは釈迦仏までに(釈迦を含めて)登場した7人の仏陀をいう。  ~~~~~~~~~~  問いです。  【Q‐1】 ( d )のゴータマ・ブッダのほかに過去六人のブッダがいたということは 何を言おうとしているか?    (1) ひょっとしてゴータマのさとりは 師匠が無く証明のしようが無いことゆえ そのような単なる修辞学的言辞によって論証のしようのない根拠を示しただけのことか?  (2) 過去七人のブッダたちのあいだで その《さとり》に程度の差はあるのか? ( a )のゴータマの境地は 相対性の世界にしたがうか?  (3) ブッダに聞いてみないと分からないという逃げ道(理屈)が用意されているということなのか?  【Q‐2】 唯我独尊と言うなら 《ひとり満ち足りているもの》であるはずだ。ならば・・・  (4) ならば ( c )の《宇宙の根本原理であるブラフマンも ブッダの概念に含まれることもある》だけではなく まったく同じダルマであると言わなくては 不合理ではないか?  (5) ならば そのブラフマン(梵)のみならず ( b )のわれわれ人間なる存在における《アートマン(我)》も――けっきょく 梵我一如というごとく―― ひとしいと言わねばウソではないか?  (6) ただし 確かにその《ブラフマン=アートマン》のことを 《無い神》と呼んでも――それは経験存在たるわれわれにはついぞ分からない《ひとり満ち足りている何ものか》であるからには―― 同じことであるから ブッダのさとりはそういう無神論〔なる信仰〕だと弁明することは出来る。そういう理解でよいか?  けれども  【Q‐3】 ( a ) 《一般には、釈迦と同じ意識のレベルに達した者や存在を「ブッダ」と呼ぶようになったり》という見方がただしいのなら その《ブッダなるさとり》には レベルの差がつねにあると見るべきなのか?  (7) けれども もしそうなら余計に 《われわれ一人ひとりが それぞれブッダである》と言えるのであり それだけではなく すでに初めにそう言っていなくては 話は始まらないのではないか?   (8) とは言うものの もしさとりのすべてが 相対性の世界に従うのであるなら 何をもって《自灯明》なり《法灯明》なりと そのオシエは言うのか? つまりは やはり それら両者をそれぞれ《アートマン》なりおよび《ブラフマン》なりと同一だと言っていなくては 話はまとまりがつかないのではないか?  (9) ブッダは ダルマが絶対だと――想定して――言わないことには 千年二千年とつづくただの《おさとりごっこ》に過ぎないのではないか? (ここでは 《想定して》が ミソだと考えられるがどうか)。  (10) 人びとは われわれ一人ひとりが ブッダであると何故言わないか?

  • われわれは各々が ブッダであると何故言わないか

     あらためて問います。  資料を検討しつつ 表題の問いに 最終的に行き着きます。  ▲(ヰキぺ:仏陀) ~~~  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%8F%E9%99%80  § 2 仏陀の範囲  ( a ) 一般には、釈迦と同じ意識のレベルに達した者や存在を「ブッダ」と呼ぶようになったり、  ( b ) ヴェーダの宗教のアートマンのように、どんな存在にも内在する真我を「ブッダ」と呼んだり、「仏性」とよんだりする。  ( c ) 場合によれば宇宙の根本原理であるブラフマンもブッダの概念に含まれることもある。  ▲(ヰキぺ:過去七仏) ~~~  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%81%8E%E5%8E%BB%E4%B8%83%E4%BB%8F  § 1 概要  ( d ) 仏教では過去未来現在の三世に渡ってそれぞれ千人ずつ仏が出現すると説かれているが、前三仏は過去荘厳劫の千仏のうち最後の三仏、後四仏は現在賢劫の千仏のうち最初の四仏といわれる。  過去七仏(かこしちぶつ)とは釈迦仏までに(釈迦を含めて)登場した7人の仏陀をいう。  ~~~~~~~~~~  問いのかたちで考えてまいります。  【Q‐1】 ( d )のゴータマ・ブッダのほかに過去六人のブッダがいたということは 何を言おうとしているか?    (1) ひょっとしてゴータマのさとりは 師匠が無く証明のしようが無いことゆえ そのような単なる修辞学的言辞によって論証のしようのない根拠を示しただけのことか?  (2) 過去七人のブッダたちのあいだで その《さとり》に程度の差はあるのか? ( a )のゴータマの境地は 相対性の世界にしたがうか?  (3) ブッダに聞いてみないと分からないという逃げ道(理屈)が用意されているということなのか?  【Q‐2】 唯我独尊と言うなら 《ひとり満ち足りているもの》であるはずだ。ならば・・・  (4) ならば ( c )の《宇宙の根本原理であるブラフマンも ブッダの概念に含まれることもある》だけではなく まったく同じダルマであると言わなくては 不合理ではないか?  (5) ならば そのブラフマン(梵)のみならず ( b )のわれわれ人間なる存在における《アートマン(霊我)》も――けっきょく 梵我一如というごとく―― ひとしいと言わねばウソではないか?  (6) ただし 確かにその《ブラフマン=アートマン》のことを 《有る神》と呼んでもまた《無い神》と呼んでも――それは経験存在たるわれわれにはついぞ分からない《ひとり満ち足りているナゾの何ものか》であるからには―― 同じことであるから ブッダのさとりはそういう無神論〔なる信仰〕だと弁明することは出来る。そういう理解でよいか?  けれども  【Q‐3】 ( a ) 《一般には、釈迦と同じ意識のレベルに達した者や存在を「ブッダ」と呼ぶようになったり》という見方がただしいのなら その《ブッダなるさとり》には レベルの差がつねにあると見るべきなのか?  (7) けれども もしそうなら――ただの程度問題なのだから――余計に 《われわれ一人ひとりが それぞれブッダである》と言えるのであり それも中途半端に触れたりするのではなく すでに初めに大前提としてそう言っていなくては 話は始まらないのではないか?   (8) しかもおそらくは 《非思考の庭》にあって そういう前提ないし想定の理論が成り立っているのであろうか。 つまり そのようなナゾとそしてナゾではなく認識しうる経験世界との――ヒラメキなどをとおしての――切り結びの問題か?  (9) ブッダということは ダルマが絶対だと――想定して――言わないことには 千年二千年とつづくただの《おさとりごっこ》に過ぎないのではないか? (ここでは 《想定して》が ミソだと考えられるがどうか?)。  (10) 人びとは われわれ一人ひとりが ブッダであると何故言わないのか? なぜゴータマの代化城なるマボロシから卒業しないのか?

  • 「神話が崩れた」「神話に過ぎなかった」どっちの表現

    報道の仕方に、 (1)「日本の耐震神話が崩れた」 (2)「日本の耐震は、神話に過ぎなかった」  の、2種類があるようです。   ズバリ、どちらの表現方法が好きですか?^^

  • ブッダは ブラフマンの掌で暴れまわった孫悟空では?

     ブッダの独自性は何でしょう?  そのむかしアブラハムという人に《信じる》という非思考の場が芽生えました。  神とわたしとの関係がその信じるままであるならば――という意味は 非思考のはたらきとして記憶能力において精神および身体の秩序がととのっているならばということですが そうであるならば―― とうぜんのごとくひとはやわらがしめられている。こころはやすらかである。ひとと仲良くやっていく。  と知りました。  このことは 古代インドでは神をブラフマン(梵)と呼び《わたし》をアートマン(我)と捉えて その両者の一体(つまり 梵我一如)という思想に表わしました。  あるいは同じく神を プラトンでしたかは 世界霊魂(プシュケー・コスムー)と呼びました。ローマ人たちは アニマ・ムンディと訳し換えて使っています。その後ドイツ人らは 同じくヱ゛ルト・ゼーレと言ったりしていました。  ところで ゴータマ・ブッダは 天の邪鬼よろしく 無我(アン‐アートマン)の説を唱えました。(諸法無我)。ほかのものに依存せずみづから成ってあるという存在を――つまり ブラフマニズム(バラモン教)の宇宙霊であるブラフマンのことを言っているのですが これを―― そんなものは無いと言いました。(もしくは 有るとも無いとも言わないと説明しました)。  ですから いわゆる仏性は――あたかも 宇宙霊のブラフマンが 《わたし》としてのアートマンに宿るというそのようなものとわれわれは捉えていると思うのですが その仏性は―― ブッダは説いていません。あくまで後世になって説かれたものです。   ただしそのブッダも あたかもみづからが宇宙霊となって 自分はブッダとして永遠に生き続けており 自由自在に好きなように歴史に即して人間となって現われるのだというようなことを言ったとされています。つまりそのように後世の人びとは 捉えるようになっています。  乱暴にひと言で言ってしまうなら ブッダは ブラフマニズムという思想の中で孫悟空のように飛び回り暴れまわっていたということではないでしょうか。  《成道》を得たブッダに おまえの悟りを人びとに伝えたまえとブラフマンが勧めた(梵天勧請)と自分(ブッダ)では言っていますが 果たして どれだけの独自性があったでしょうか?  (ないと思って言っているわけではないのですが 批判にまわりたいと思っていますし そのことに道理はあると考えています)。  もし仏性という普遍性の定理は別として言えば もはやブディズムは惰性としての仏教しかないのではないでしょうか? 橋から落ちた犬に引導を渡すのは 哲学の役目だと考えます。

  • 天地創造説などに関することで・・お聞きしたいんですけど・・・

    今、天地創造説や宇宙観のことについて調べているところです。 そこで少し疑問になったことがあったんでお聞きしたいのですけど ・現在考えられている地球や生物の現れ方(進化)など、人々に受け入れられていためにはどのような事が必要だったか みなさんの考えをきかせてください。よろしくおねがいします。