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天皇の諡号・追号

天皇には諡号・追号が付いています。その中で「後」が付いているのは「前」天皇と何らかの関係があるのですか。

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  • ベストアンサー
  • suicyo
  • ベストアンサー率43% (83/193)
回答No.4

天皇の加後号には、全て「前」天皇が実在します。「前」天皇の名にそのまま後をつける場合と「前」天皇の別称に後をつける場合があり、なんでそうしたのかよくわからないようです。 以下は、「前」天皇の別称に後をつけた事例の一覧です。 後小松  小松(光孝) 後柏原  柏原(桓武) 後奈良  奈良(平城) 後水尾  水尾(清和) 後西(院) 西院(淳和) 「前」天皇との関係は個々バラバラで、理由がわからないものもあります。尊敬していた、境遇が似ていた、遺言、先代の続き‥などなど。 先代の続きというのは、先代が後○○なので次も○○天皇の近親者に後を付けたというものです。 後醍醐-後村上 醍醐-村上(親子 延喜・天暦の治) 後柏原-後奈良 桓武-平城(親子) 後陽成-後水尾 清和-陽成(なぜか親子が逆転) この他にも、叔父・甥関係のトレースなど、微妙なケースもあります。 以下、蛇足です 中世・近世の権力者においては、故人は院号(戒名)つまり○○院で呼ばれてるのが一般的でした。天皇は○○院という追号が仏教の院号(戒名)にリンクしそのまま。徳川吉宗なら有徳院殿。但し例外もあって、家康は神様として別格なので神君とか(東照)大権現様とか。 天子摂関御影は鎌倉時代の天皇・摂関・大臣を鎌倉末~南北朝に描いた肖像画集ですが、天皇は○○院で統一、摂関は院号と他の号が混在、大臣は俗名(○○公)で統一となっています。院号が天皇以外の権力者へと普及し始めた過渡期という訳です。 徳川実紀でも家康・秀忠・家光‥ではなく、東照宮・台徳院殿・大猷院殿‥で、秀忠~家茂は院号で統一されています。慶喜の死は明治以後なので「慶喜公」。 で、明治になって、国家神道の影響か、故人を仏教の院号で呼称するのはなくなりますが、困ったことに中世・近世の天皇の追号は仏教の院号とリンクしているので、「○○院」という天皇の呼称は取り敢えず「○○院天皇」に変更され、やがて「院」を取って現在の「○○天皇」に統一されます。このとき後西院天皇も後西天皇とされますが、このことで「前」天皇=西院(淳和)天皇との関係がわかんなくなったということです。

titelist1
質問者

お礼

なるほど、それぞれの理由があることが判りました。ありがとうございました。

その他の回答 (3)

  • Tacosan
  • ベストアンサー率23% (3656/15482)
回答No.3

「関係がある」というか, 「ちなんでいる」というか, 「あやかっている」というか. 「奈良天皇」はいた (もちろん存命中にそう呼ばれたわけではない) よ>#1. さすがに「西天皇」はいなかったと思うけど.

  • tanuki4u
  • ベストアンサー率33% (2764/8360)
回答No.2

「前」天皇と何らかの関係があるのですか。 ↓ 歴史上の存在なんだから、知らないで付けるわけがない。 関係性はイロイロ http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E7%9A%87%E3%81%AE%E4%B8%80%E8%A6%A7 ●●天皇 というのも、最近の話 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%89%E6%A0%BC%E5%A4%A9%E7%9A%87 『天保12年1月27日(1841年2月18日)、第58代光孝天皇以来1000年近く絶えていた漢風諡号選定(但し、崇徳・安徳・順徳の各天皇を除く)及び第62代村上天皇以来900年近く絶えていた天皇号(但し、安徳・後醍醐両天皇を除く)を復活させ、「光格天皇」と諡された。それまでは「追号+院」という形であった。以後、仁孝天皇・孝明天皇の2代 にも諡号が用いられた。』 以上引用 1000年やっていなかったことを、この170年ほどやっているだけの話。

回答No.1

特にありません 後奈良天皇とか居ますが 奈良天皇ってのは居ませんし ちなみに後醍醐天皇は平安時代の名君 醍醐天皇にあこがれて自ら後醍醐と名乗ったそうですよ 天皇の名前は殆ど後世につけられたものですが たとえば前天皇の住んでたところと同じ場所に住んでたから「後」とついたとかね 理由は様々あるのです

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