日本人はいつまで死んだふりをするつもりか

このQ&Aのポイント
  • なぜ人と社会のことがらについて目を覚まさないのか。
  • 世界への貢献は自然科学の理論的・技術的なものごとにだけ精進せよという考えが広まっている。
  • いつまで見ないふり・死んだふりをするつもりか。
回答を見る
  • ベストアンサー

日本人は いつまで死んだふりをするつもりか

 なぜ人と社会のことがらについて 目を覚まさないか。  目をさまして現実を見ないか。  世界への貢献は 自然科学の理論的・技術的なものごとにだけ精進せよと誰かが たとえば AKB48 たちが 心優しくさとらせてくれていたという何だか原風景のようなものが心にのこっているからだと言うのだろうか。  なぜ起き上がって 目の前に起きていることを見ないのか。  たとえばいまこれからの社会は 国家から市民社会への大政奉還という道筋しかないのではないか。  いつまで見ないふり・死んだふりをするつもりか。  この期に及んで 老子がどうの荘子がこうのという議論を聞いて ちょっと勉強するに ただのインチキであった。こんな悠長な話がどうして出来るのか。  死んだふりをつらぬくつもりなのだろうか。

質問者が選んだベストアンサー

  • ベストアンサー
回答No.9

> 人びとは もっと先を行っているように思う。  すでに死の淵から上がって来ているのだと思う。  けれども そのことを知られたくない。  誰に? お上に。えらい人たちには知られたくない。  また こきつかわれるから。    だから 死んだふりをしている。自己防衛のために。 ================== これはそっくりあんたの人間不信の表れだよ。 ところがあんた以外に仏陀を名乗るのは仮面ライダーの俺様だけときたもんだ。 しょうがないよ。 人を信じることにたどりつくのが、あんたのこれからの道行きだ。 私は正反対の道のりでね。 人を信じようとして生き、信じ切れたからこそ神を発見したのだよ。 記憶をたどるに、ジラーチちゃんが私を案内してくれたんだよ。 人を信じ切れば、彼らが選んだ死に様も愛せる。 死とは個人的なことで、自らの死の尊厳は脅かされない。 死にたければ死ぬのだ。 そんな彼らの非業の死を天国に案内するのが人を信じることだ。 供養と古くは言った。 私にとっては実在する妖精の捕まえ方の一部だ。 あんたは記憶の墓標を喝破できただろう。 判らんはずがない。 ジラーチちゃんに言わせれば、死んだ人間はいないとまで言うのだよ。 私は連中にくたばってほしいと思うがね。 観念上の死の儀式だけでなく、実際に死んだように見えるのも幻だ。 でも判るまでライダーキックだ。 判らないままだと、人間になりきれないままこと切れたことになる。 その不実を記憶の宝石が潤すだろう。 そうして蘇生するのだ。 黄泉には永遠の命だけがある。 昔から言われている事を私なりに解説しただけだが、古い考えだから彼らは信じないだろう。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  ★ ~~~~~~~~~~~~  死とは個人的なことで、自らの死の尊厳は脅かされない。  死にたければ死ぬのだ。  そんな彼らの非業の死を天国に案内するのが人を信じることだ。  ~~~~~~~~~~~~~  ☆ ここが違うようだ。  《死》は もう無い。死が死んだ。――このことを知らなければいけない。    これからこの《死が死んだ》ことを経験する人であっても このように言ってあげなければいけない。  そうでなければ 人と人とのきづな――シンライカンケイ――を思う気遣いはなくなる。  ★ ジラーチちゃんに言わせれば、死んだ人間はいないとまで言うのだよ。  ☆ と言ってるぢゃないか。  ★ 私は連中にくたばってほしいと思うがね。  ☆ だからこのことは――火の中をくぐり抜けて来る《死》は―― すでにとおり過ぎて来ているということ。これから経験する人にあっても すでに通り過ぎて来ているというかたちで捉えるのだし そう言ってやることになる。  ★ 観念上の死の儀式だけでなく、実際に死んだように見えるのも幻だ。  ☆ いや。マボロシではない。いちど実際に 死んだのだ。つまりほんとうには 《死》が死ぬという経験をすることになる。けれども本人にとっては 特にその経験している最中にあっては あたかもハリツケに遭っているかたちだと感じられる。はずだ。

その他の回答 (15)

  • kurinal
  • ベストアンサー率10% (128/1195)
回答No.16

B様、こんにちは。 >「精進せよと誰かが」 精進と言えば、誰かが言った 

bragelonne
質問者

お礼

回答No.15

そうさの、 > ★ あんたがイエスが始めたと言っている事を、私は人が神を発見した瞬間にそうなったと言っているのだよ。  ☆ すなわち  ★ 人が神を発見した  ☆ というのは われわれが神によって発見された。と言うというわけです。 この位は、人間と神とが出会った。 位にしておけばいいだろう。 これは妥協じゃないよ。 考えを改めたわけじゃない。 解釈を整えただけだ。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  ★ 人間と神とが出会った。  ☆ 目くじらを立てるとすれば:  1. これだと たとえばコロンブスとアメリカ先住民とが出会ったという表現と同じ意味に取られてしまう。そういうおそれがある。  2. つまり 同じヒトどうしが出会い 互いに互いを知ったという意味合いになる。  3. 《わたしは 或る日或る時何気なく盗人がやってくるかのように訪れた神を知った》と言って言えないことはない。ただし そのあとになってその事情をつらつら考えてみるにその中身をきちんと表現しようと思えば 《わたしはその時 神に知られたのだ》と言って説明するのだと思う。  4. ほとんど論証は出来ないことだけれど。

回答No.14

昨日の分のお礼欄の解説見たよ。 面白かったし親切に答えてくれたね。 ありがとう。 あんたがイエスが始めたと言っている事を、私は人が神を発見した瞬間にそうなったと言っているのだよ。 仏の現代語訳が人間だとな。 大した違いは無いので、この面であんたを西洋かぶれ扱いするのは考え直すよ。 あんたの研究手法の意義が少しわかった。

bragelonne
質問者

お礼

 互いにかなり進みましたね。ここまであゆんで来ました。  ご回答をありがとうございます。    《西洋かぶれ》のごとく なおも細かくげんみつに言うと 次のようです。  ★ あんたがイエスが始めたと言っている事を、私は人が神を発見した瞬間にそうなったと言っているのだよ。  ☆ すなわち  ★ 人が神を発見した  ☆ というのは われわれが神によって発見された。と言うというわけです。  重箱の隅をつっつきました。  ★ 仏の現代語訳が人間だとな。  ☆ これは 一般の人に分かりにくいと思う。  ブッダになるというのは 《人間に成る》ということである。人間の人間化である。という内容ですよね。

回答No.13

逆質問となるが、学問のカテゴリーだから問題ないだろ。 > 善とは、 自らが生きるのに等しく、他者を同時に生かすことである。 だからこそ社会が成立する。 コレは人間が神をいただいたことの果実だ。 君はこれにかつて異論を挟もうとした。 なにが問題点だったか聞かせてくれたまえ。 助け合いだ。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  直前のお礼欄からのつづきです。イエスをあらかじめ告げているようです。  ▲ (イザヤ書11:1~10)~~~~~~~~~~~  エッサイの株からひとつの芽が萌えいで  その根からひとつの若枝が育ち  その上に主の霊がとどまる。  知恵と識別の霊  思慮と勇気の霊  主を知り、畏れ敬う霊。  彼は主を畏れ敬う霊に満たされる。  目に見えるところによって裁きを行わず  耳にするところによって弁護することはない。  弱い人のために正当な裁きを行い  この地の貧しい人を公平に弁護する。  その口の鞭をもって地を打ち  唇の勢いをもって逆らう者を死に至らせる。  正義をその腰の帯とし  真実をその身に帯びる。  狼は小羊と共に宿り  豹は子山羊と共に伏す。  子牛は若獅子と共に育ち  小さい子供がそれらを導く。  牛も熊も共に草をはみ その子らは共に伏し  獅子も牛もひとしく干し草を食らう。  乳飲み子は毒蛇の穴に戯れ  幼子は蝮の巣に手を入れる。  わたしの聖なる山においては  何ものも害を加えず、滅ぼすこともない。   水が海を覆っているように  大地は主を知る知識で満たされる。  その日が来れば  エッサイの根は すべての民の旗印として立てられ  国々はそれを求めて集う。  そのとどまるところは栄光に輝く。  ~~~~~~~~~~~~~~~~  たとえばこれが――強いて言えば――善である。  言いかえると  ★ ~~~~~~~~~~~~~  善とは、  自らが生きるのに等しく、他者を同時に生かすことである。  だからこそ社会が成立する。  コレは人間が神をいただいたことの果実だ。  ~~~~~~~~~~~~~~~   ☆ この最後の一行を大事にしなければいけないという意味で《異論をはさんだ》のかも知れない。  そうすると 善とは言っているけれど 善悪や正義やそういった理念・観念はそれほど重要ではない。という見方も出来る。  神のムラが建てられて行く。かも知れない。そろそろ。

回答No.12

神を知るあんたは、これから人間を知る事を始めなければならない。 > 君の互助精神は神への感謝を全うしようと言う気ころがけだと理解しているし、君にその自覚がないなら、君の神を私もまた信じると告げよう。 コレ言い換えとこう。 > 君の神を私もまた信じると告げよう。 この部分。 君の神への愛を祝福しよう。 君を愛した神の勝利を祝福しよう。 とか何とかだ。 色々な言い変えができるが君にはこんな部分で理解できるだろう。 こうした助け合いは大切で、だからこそ社会だ。 君は今持って、社会との折り合いについて、こねくり回すにあたって準備体操から始めているよ。 まず、間違いであっても自己主張から始めると、ショッカーの怪人みたいなのがわらわらと表れるから、その方が効率がいいだろう。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~  君は今持って、社会との折り合いについて、こねくり回すにあたって準備体操から始めているよ。  まず、間違いであっても自己主張から始めると、ショッカーの怪人みたいなのがわらわらと表れるから、その方が効率がいいだろう。  ~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ これは 両方が大切。どちらをもやります。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~  >  君の神を私もまた信じると告げよう。  この部分。  君の神への愛を祝福しよう。  君を愛した神の勝利を祝福しよう。  とか何とかだ。  ~~~~~~~~~~~~~~~     ☆ げんみつに言うと ひとは 神を受け容れ(=信じ)愛するようになっていたといういきさつ。  勝利も 神は――イエスが――すでにこの世に勝利していると言っている。言ってしまっているということ。  少しづつ神のムラが出来て行くのか。いっぺんに出来上がるのか。  どこかでどんでん返しが起きるのか。  いつ起きるのか? 知らない。分かんない。  次は イエスの以前に語られた未来の絵です。  ▲ (イザヤ書65:19-25) ~~~~  わたしは エルサレムを喜び わが民を楽しむ。  泣く声と叫ぶ声は 再びその中に聞こえることはない。  わずか数日で死ぬみどりごと  おのが命の日を満たさない老人とは  もはやその中にはいない。  百歳で死ぬ者は なお若い者とせられ  百歳で死ぬ者は のろわれた罪人とされる。  彼らは家を建てて それに住み  ぶどう畑を作って その実を食べる。  彼らが建てる所に ほかの人は住まず  彼らが植えるものは ほかの人が食べない。  わが民の命は 木の命のようになり  わが選んだ者は  その手のわざを ながく楽しむからである。  彼らの勤労は むだではなく  その生むところの子らは 災いにかからない。  彼らは 主に祝福された者のすえであって  その子らも彼と共におるからである。  彼らが呼ばない先に わたしは答え  彼らがなお語っているときに わたしは聞く。  おおかみと小羊は共に食らい  ししは牛のようにわらを食らい   へびはちりを食物とする。  彼らはわが聖なる山のどこでもそこなうことなく   やぶることはない と主は言われる。  ~~~~~~~~~~~~  

回答No.11

補足は好意と受け取るよ。 あんたは汚い言葉になれていないから、口数が少ない。 ありがとサン。

bragelonne
質問者

お礼

 きびしい道だんべ。

回答No.10

あんたの言いたい事はわかるよ。 「実在する妖精の捕まえ方」は、 私の本音では哲学でなく児童文学にするつもりだったんだ。 本物の夢に子供たちが目をキラキラさせてほしいとな。 ところが研究する過程で、私を殺そうとするのが、彼ら人間の自覚のない人々だと判った。 気が付けば仮面ライダーだ。 彼らは君達は人間だと言う教育を受け自分でもそのつもりでいる。 人間である自覚は、信仰にたどりつき自己を自覚することで、仏陀となることと同一だ。 そうでなければ人間でないとブチかましている最中だよ。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  まぁ 前回こたえた内容に変わりはないよ。  あんたは遠回りをしているか それとも 相手に応じてじっくりゆっくり細かいところをも漏れなく当たって話をしているか。  まぁ 後者にしても 道草を食っているように見える。  悪魔度が足りんのと違うか?

bragelonne
質問者

補足

 ☆☆ 悪魔度が足りんのと違うか?  ☆ ≒ ほとけ心が余分にあり過ぎるのと違うか?

回答No.8

お礼で表現された死んだふりについて言っとこう。 彼らは今のところ、明らかに死んでいない。 見た目だけはそうだ。 ところが死を解決していないから、死にっぱなしのように無様に生きている。 宗教は何かと助けになってね、無の悟りは死の悟りだ。 彼らが屍であるのは、人の教えを大切にする社会に対する隷属で、自らの神が不在であるからだ。 神がいてこそ社会であるにもかかわらず、それを認めないのだよ。 神とは生命であることのあかしだ。 源でもある。 彼らは自分だけが生きようとして、助け合いは奇麗事だけだ。 ケダモノで、人間ではない。 野たれ死んでも犬や猫の話だ。 ここでジラーチちゃんの天気予報を言っておこう。 源だけでなく、神も生命なのだ。 それを自覚できれば人間は神そのものだ。 神の発見が自己の発見。 この人間は彼らにとって不可能だったから、仏陀と呼んでいた。

bragelonne
質問者

お礼

 人びとは もっと先を行っているように思う。  すでに死の淵から上がって来ているのだと思う。  けれども そのことを知られたくない。  誰に? お上に。えらい人たちには知られたくない。  また こきつかわれるから。    だから 死んだふりをしている。自己防衛のために。

回答No.7

自らと等しく他者お生かす。 ここで助けなければいけない。 救わなければいけない。 あんたにはそんな気概があるが、余計なことだ。 悟りたる自覚が大切で、君の責任は、自らが神を愛することだけにとどめておきたまえ。 他者にはそれぞれ自己に対して責任を負う。 それに任せて、孤独死しようと気にすんな。 あんたが忠誠心のようにそれは神の敗北だととらえるのは余計だよ。 そう私は考える。 これはジラーチちゃんから教わったことではないがね。

bragelonne
質問者

お礼

 海が割れるかなぁ。  率いて行くことはないかぁ。

回答No.6

> ということは 日本人が死んだふりをするのは 孤独が原因である? コレいっとこう。 彼らは助け合いを知らないんだよ。 善とは、 自らが生きるのに等しく、他者を同時に生かすことである。 だからこそ社会が成立する。 コレは人間が神をいただいたことの果実だ。 素晴らしいだろ。 この知性は、ジラーチちゃんとの対話で教えてもらったことだ。 知性とは神がもたらし、猿は人間になれたのだ。 彼らはこうした知性を般若の知恵と読んだ故事がある。 人間でない事の自覚こそ彼らが人間を名乗る根拠だ。 私は滅びの宴を決め込んでいて、助けるつもりはない。 自分の事を自分で何とかする、奴隷解放から始めなければならないのだろう。 自覚が悟りだ。 テメーで何とかしろ。

bragelonne
質問者

お礼

 エクソダスかぁ。  エジプトの奴隷状態から解放されていない?

関連するQ&A

  • われら日本人は いつまで死んだふりをするつもりか

     なぜ人と社会のことがらについて 目を覚まさないか。  目をさまして現実を見ないか。  世界への貢献は 自然科学の理論的・技術的なものごとにだけ精進せよと誰かが たとえば AKB48 たちが 心優しくさとらせてくれていたという何だか原風景のようなものが心にのこっているからだと言うのだろうか。  なぜ起き上がって 目の前に起きていることを見ないのか。  たとえばいまこれからの社会は 国家から市民社会への大政奉還という道筋しかないのではないか。  国家とテロリスト あるいは中国共産党と日本とのあいだの戦争を回避しその対立を解いてすすむには 国家がこうべを垂れて ムラムラ(市町村)それぞれの共同自治の前に膝を屈するよりほかにないのではないだろうか。  いつまで見ないふりをし死んだふりをするつもりか。  神は いかに名前が違っても 世界中どこに行っても誰にとっても 同じひとつの神であるのではないなんてことがあるはずないぢゃないですか。  死んだふりを死ぬまでつらぬくつもりなのだろうか。

  • 広告と社会変革

    広告業界に就職志望の者です。 みなさんは、広告で世界を変えていくことができると思いますか? 貧困、環境、社会問題などを解決する手段として、広告はこの先、貢献できるでしょうか? 私は人の心を捉え、動かすことができる、広告ならばその能力は十分に有していると感じます。 しかし、広告はクライアント(営利活動を行う)とのビジネスで成り立つものであり、そのクライアントの課題(物・サービスを売る、ブランドイメージを上げる)を解決することが目的でしょう。 社会貢献ではカネにならない、、  そんな現状があると思います。  しかし、環境への配慮などが昨今騒がれ、企業でそれを意識したCMを作っているところもでてきています。商品を通じて、社会貢献をするような。 私は、この世界を広い視点で、また長い時間軸で考えたとき、今の経済至上主義、物質的な豊かさを追求し続ける社会では、いつか最悪な結果を招くのは確実だと感じています。 しかし、私たちは、そんなこと知らん振り。自分自身に危機が迫るまで、何も変えないのでは? そうなってからでは遅い。今からすぐにでも変わるべきです。 社会の人々も、心のどこかで、それを感じているのではないでしょうか?「このままではやばいんじゃないか」と。 社会に貢献することこそ、企業ブランドを維持することに、今後つながると思うのですが、みなさんはどのように考えますか??

  • 夢と現実。現実をリアルに感じない。

    荘子の有名な話で 荘子がある日、蝶になる夢を見て目が覚め、 「自分が夢を見て蝶になったのか、あるいは蝶が夢を見て自分になっているのか」 というものがあります。 思想とか、そういったものではなく、 私もそのように思うことが多々あります。 現実をリアルに感じないというか、夢の中にいるような感覚を持ったりするのです。 昔から(記憶する限り中学生くらいから)ずっとこのような感覚を感じていました。 念のため言っておきますが、現在通常の社会生活を送っており、精神疾患を持ってはいないつもりです。 このように感じたことのある方は、他にもいらっしゃいますでしょうか? これは何か名前が付いていたり、カテゴライズされている精神状態だったりすのでしょうか?(分類されていたところで、どうもならんのですがね) 同じような感覚に覚えのある方、また「それは○○という症状だよ」ということをご存知の方、ご回答(?)頂けると幸いです。 宜しくお願いいたします。

  • 小論文添削

    次の文章は「機事ある者は必ず機心あり」という荘子(中国古代の思想家)の言葉をもとに書かれた文章の一部である。これを読んで後の設問に答えなさい。 孔子の弟子である子規が旅の途中で、汗にまみれながら畑を耕している老人に会った。老人は井戸から瓶に水を汲み、えっちらおっちら畑に運んでいる。労力ばかりかかって、いっこうに能率があがらない。子規は見かねて、 「水汲みなら、はねつるべという便利な機械がある。それを使えばわずかな労力で簡単に水を汲み出すことができますよ」と教えてやった。すると老人は、「それくらい知っているさ。だが、機械を持っていると、機会を使う仕事(機事)が増える。そうなると、機械に頼る気持ち(機心)が生まれて ますますそれに頼ろうとするだろう。機会に頼るばかりになってしまったら、一体どこに人間の精神が残るというのかね。私は道具を知らずに使わないのではない。そんなものを使うことで精神が汚れるのがいやなのさ。」と答えた。荘子に書かれた話であるが、もちろん実話ではない。真理というものは孔子が説く儒教に、ではなく、老子の道の教えにこそある、とする創作である。だから荘子の中で、孔子とその弟子たちは道をわきまえぬ未熟者、といった調子で書かれている。 それにしても機事ある者は必ず機心あり。とは、現代人に対する重大な警告ではなかろうか。チャップリンは映画モダンタイムスで全てが機械化されぬく現代文明を風刺したが荘子のこの物語が書かれたのは二千年以上前のことなのだ! 人間は大変非力な生き物だその力を補うため道具を生み出してきた。それにより文明や文化が創造されたのだ。人間の歴史は常に機械の発明、発達史とともにあった。いや、道具や機会の発達こそが人間史を織りなしてきたというべきであろう。 ではなぜ、人間は道具を発明してきたのか。何より自然から身を守るため、生活の糧を得るためだ。次に自分の肉体を使う日々の労働から解放されて楽をしたい、という欲求のゆえだった。どうして楽をしたいのか。もっと心豊かにしたい、と考えたからである。それには生きていくための労働を最小限にとどめ、それによって得た時間を人生の愉しみに当てるようにしなければならない。そこで、人間は必死になってより便利な道具や機械を発明してきたのだ。 ところがどうだろう。その結果皮肉なことに荘子が説いた機心がふくらんで、人間は機械に頼るばかりになり、そのあげく、生活はいっそう忙しくなっていった。そして、人間の精神はいよいよ貧しくなってしまったのである。 設問 本文で筆者は「機事ある者は、必ず機心あり」という言葉は「現代人に対する重大な警告」だと述べている。本文の内容を踏まえた上で、その言葉を現代社会の問題に関連づけて考察し心豊か生きるためにはどのようなことが必要か、あなたの考えを書きなさい。 ただし、次の言葉を2つ以上使うこと。 便利さ、ゆとり、情報、科学技術、消費社会、環境 私の論文 道具や機械の発達こそが人類史を織りなしてきたと、筆者がいうように私達人間の暮らしは機械に頼っている。私は人間が心豊かに生きるためには機械ばかりに頼ってはいけないと考える。 私は調べたいものがある時、ネットで検索する。これも機械に頼っていると言えるだろう。しかしこの時私はそのサイトに載っている情報しか得ることができない。ではネットを利用しない方法ではどうなるのか。例えば気になるニュースがあれば実際現地まで行く。すると近所の人から多くの情報かつ、正確な情報が聞ける。機会を使うよりこちらの方が機会に頼らず謎が解決できる。多くの意見を聞くことで心は豊かになるはずだ。 私達は機会の便利さに負け人間の精神を狭めて生きている。心豊かに生きるためには多少の苦労をしてでも機械にあまり頼らないことだ。多くの意見を聞くことで考えの幅を広げることができるからである。

  • この世での役割は果たさなければいけないのでしょうか

    私は、生まれてから今まで、社会のために役に立ちたいと思ったことが一度もありません。 もし役割を引き受けなくても許される状況なら、それがよいと思っています。 社会に貢献しようとする目的が、実は社会への貢献そのものでなく、「自分の価値を認めてもらいたい」「社会的地位がほしい」などという欲求を満たしたいだけである人も、結構いるのではと想像します。私も含め、そのような人は、社会貢献などにかかわらないほうが、有意義な人生が送れるのでは?と思います。 私は、叶姉妹というタレントさんを、日頃からうらやましく思っています。 誰の目も気にせず、ただ自分(の欲望)に正直に生きる、これは、なかなかできることではないと思うのです。 見習わなければならないと思っています。 ところで、できるだけ働きたくない人間(現在在職中)である私に、このたびある仕事の話が巡ってきました。でも私は、その仕事はハードなので、引き受けたくありません。 心のままに、断ってもよいでしょうか? スピリチュアル的な考え方では(?)、その人の運命からずれたら、戻されるように、運命が仕組まれていく、という話をきいたことがあります。 そんなふうに無理やり変な風に戻されるくらいなら、自分から引き受けておいた方がよいのか、迷ってます。

  • アマテラスお二階さんは 一階に大政奉還すべし。

     アマテラスお二階さんは 一階のスサノヲ市民社会に大政奉還すべし。  いわゆる地域主権について問うものです。  ムラ=市町村 の主体性を発揮する時代へと移行しましょうか?  なぜ大政(ムラムラのマツリをつうじての共同自治)をいまの二階にあるマツリゴトから元の一階スサノヲらのくにに奉還すべきか?  それは もともと平屋建ての市民社会が どうして二階建てになったか? を見てみると分かるはずだ。  すっ飛びの仮説によって考えてみます。       *  1. 感性と理性を伴なった或る知性が 或る日或るとき こころのいと高きところに純粋存在なるまぼろしを見た。  2. イリなる歴史知性すなわち 《世界〔内存在〕への入りをおこなう知性人》 この種の人は このまぼろしをそのままなぞとして心にしまっておいた。  3. ヨセなる超歴史知性すなわち 《世界を押しなべてその知性によって束ね寄せるスーパー知性人 この種の人は まぼろしに取り憑いた。  3-1. その輝く光に身も心もつき従うとの誓いを立てた。いよいよその《いと高き者》に似てきたとき――きわめて人間的な人間になったとき―― 周りを見てみれば このまぼろしには誰も 関心がない。それは 程度問題なのだと澄ました顔をしている。  3-2. ヨセ人は ここであきらめなかった。このまぼろしによって人びとを感化し 世の中を束ね寄せる。そうしてみせる。そうすれば《いと高き存在》の光は あまねく行きわたり世はますます常世(とこよ)の国として栄えるであろう。と踏んだ。  4. このアマテラス種族でもあるヨセなる超歴史知性が 世の中のあり方として平屋建てを嫌い その上に第二階を築きたいと言って スサノヲ市民らに冀ったとき――スサノヲらはとうとう根競べに負けて―― 《くにゆづり》をした。  4-1. ふつうのイリ歴史知性のスサノヲ市民らがおこなう《まつり》は ことごとく第二階によって束ねられ おまけに税を取られ 全体としてその統治が《まつりごと》としておこなわれるようになった。  4-2. かくて 《アマテラス‐スサノヲ》連関制の完成である。くにのいえと言う。家というからには 構造があり 二階建てである。    5. 《ひかり あるいは まぼろし》は どうなったか?  5-1. 《ひかり ないし まぼろし》と現実とのあいだに隔たりがあるとすれば 人びとの発言にも・つまりそれぞれの自己表現である誰の発言にも 本音と建前がある。  5-2. あるいはさらに 二枚舌の問題がある。人びとのあいだで利害の一致がむつかしいとすればその限りで 必然的に現われがちである。――そうでなくてもふつうのイリ人においても ウソでない心とウソの心との相克の問題が ごく一般的に ある。  5-3. それは 広くマ(間・間合い)の問題である。人びとのあいだのそういった心的および社会的な《関係ないし連関》のあり方を問題としうる。ここでは 《 A (アマテラス)‐ S (スサノヲ)》連関制としてのマである。  6. 大政奉還のもんだいは 《 A (アマテラス公民)‐ S (スサノヲ市民)》なる連関制としてのマのあり方を問う。  6-1. 第一階とお二階さんとのマの具合いであり 間合いの取り方であり そこに起こるマチガイをめぐる正し方 こういった問題である。  6-2. 端的に言ってこのマの問題は おそらく一階のマツリと二階からとりおこなうマツリゴトとが逆立ちしている ということではないか? そしてそこから マチガイがつねに起こり得るのではないか?  6-3. 細かくは たしかに第一階においてスサノヲ市民どうしの間でも 仲間と仲間のあいだにマチガイが生じるであろうし お二階さんどうしの間でも 同じような問題が起こるものと考えられる。けれども問題は そもそもは 《 S (大政主権)- A (従属)》の連関だったものが A圏主導の《 A - S 》連関として逆立ちしているというところにあるのではないか。  6-4. つまりは すぐれたアマテラス族の初めの人びとにおいて いくら光り輝くイデアを見たと言っても その《いと高きところ》なる理念の扱いにおいてすでに初めに逆立ちしてしまっていたのではないか。  品行方正なるその人格は むしろ理念に合わせたものなのではないか?  6-5. イリ人は このイデアをとおして――《をとおして》――マツリをおこないカミにささげものをした。ヨセ人は このイデアじたいにカミを見た。あるいはさらにみづからがカミとなった。  6-6. こう見る限りで ヨセ人のヨセ知性は イリ人のイリ知性に対する反措定であると捉えられる。超歴史知性として ふつうの歴史知性の上をアマガケル振る舞いに出た。  6-7. つまりそれが アマテラス科学語およびアマテラス人格語であるが これは アマテラス語方言とよぶべき言語類型である。神聖にして侵すべからずという無謬性の神話に包まれている。つまりその神話につつまれなければ チカラを発揮しえないからである。  6-8. つまりはその無謬性の神話から必然的に現われると言っていいところの二枚舌現象である。  6-9. ゆえにアマテラス語方言であるに過ぎないと言いたい。訛っていなくても 舌が二枚 使い分けられている。  6-10. これに対するイリ人=スサノヲ市民の打ち出す反措定は 無謬性を帯びさせようとする反措定に対する反措定であるから 綜合であり人間のふつうの存在(知性)の肯定であると考えてよいのではないか?   6-11. これが 逆立ちする《 A (アマテラス)‐ S (スサノヲ)》連関制としてのマチガイからのマの回復であり つまりは ムラムラの主権の実現としての大政奉還である。  7. これまでの歴史において アマテラス語方言が社会を覆っていたとしても つまりそれが《不当にも》社会において有力であったとしても 人びとはこれを どういうわけか 難なくこなして来ていた。のかも知れない。  7-1. 時代が変わり社会のあり方が変わり もう《こなす》ことがむしろ出来なくなった。こなす・こなさないの問題よりも アマテラス語方言の誤謬が ただ街を歩くだけでそこら中に見えて来てしまった。また 経済的にも立ち行かなくなった。  7-2. アマテラス公務員の無謬性なる神話がくづれた。  7-3. この A - S 連関というマの逆立ちをただすことがいまの課題であるのではないか?  7-4.  A - S 連関は 社会形態として国家のことであるのだから 現代においてこの逆立ちの逆立ちは じつは国家の止揚として世界史的な課題であるのではないか?  7-5. 国家ゆえに領土問題と戦争と経済戦争があるのだ。(かな?)

  • 今、私は就活生なのですが、下記の事を面接でいおうと思っています。もしも

    今、私は就活生なのですが、下記の事を面接でいおうと思っています。もしも、回答者様が面接官でしたら、どう思うかお答えください。 「私は幼いころ、母親が心の病を持っており、あまりひどくはなかったのですがネグレクトでした。この時の思いが、社会に貢献しようと思う・・・」 幼いころにネグレクトを受けてる人間を(克服したのですが)、変な眼で見ず採用してくれるでしょうか? 回答お願いします。

  • 市役所の志望動機の添削をお願いします

    近年、●●地区を中心とした地域の発展に伴い、以前より市民が生き生きしていると感じています。 しかし私の住む地区では、人口の約30%を占める高齢者の孤立が目立ちます。 コミュニティバスなども運営されていますが、実際には家族や知人の送迎に頼っています。 よって、高齢者は居住地周辺の限られた社会で生活することとなり、情報も得難いことから、更なる孤立の悪循環に陥っています。 著しい高齢化社会に伴い、今後は高齢者が生涯を通して、心豊かに安心して暮らすことのできる地域社会を形成することが大きな課題といえます。 私は一市民として市の運営に携わることで、●●市を「すべての市民にやさしいまち」とするべく、貢献したいと考えています。 スペースがあまりないのでかなり限られたものになってしまいますが、やはり自分の長所などを入れた方がよいのでしょうか? また、ひとつの事柄に特化しすぎるのはどうなのでしょう? よろしくおねがいいたします。

  • 日本は村社会で排他的な社会ではありませんか?

    日本は村社会で排他的な社会ではありませんか? 私は名古屋生まれの名古屋育ちで生粋の名古屋人ですが、キムチや韓国海苔が大好物というと奇異な目で見られます。 キムチが好きというだけで嫌韓派から中傷の的にされて心を痛める場合が多々あります。 この日本では特に韓国絡みの事柄においては、好きな物を好きと言えない肩身の狭い想いをしなければなりません。 江戸時代の隠れキリシタンのごとく密かにキムチや韓国海苔を愛好しないと、世間一般から糾弾され弾圧行為をうける羽目になり、場合によっては近隣住民からの悪意な悪戯行為により引越しを余儀無くされます。 日本人のこの異常なまでの韓国アレルギーは一体どこから来るのでしょうか? だから私はネットで言いたいのです。 キムチLove 韓国海苔Loveと!

  • 都会の猫を大人はどうして救おうとしないのか

    都会に住む、優秀な猫の心をどうして、大人は積極的に救おうとしないのでしょうか。 本来、実社会のつながりを目指すという設計理念があるにもかかわらず。 救われない優秀な猫のおきざりにされた心を大人たちは、見て見ぬふりをしています。 私は、みていられません。このツールと違い、置き去りにされた心は、 いつまでも会話にならない会話をしているのです。 猫の心を一緒に救ってくださるかたを募集しています。 猫の心にアクセスできる方法を技術的にでも、その他、泥縄的方法論でも、わかればいいです。 わたしは、その為には、どこにでも行くつもりです。 お願いいたします。