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上杉謙信の上洛

上杉謙信は上洛した13代足利義輝に謁見していますが どうやって京都まで来たのでしょうか? 当時畿内は敵の勢力下です もし謙信だとわかれば討ち取られたのでは?と思うのですが

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  • titelist1
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回答No.2

30歳の時に5千の兵を引き連れて、天皇と将軍に謁見するのです。他国を侵略するわけでもないので妨害するものはいません。天皇と将軍に会いに行くものを殺すと朝敵です。5千の兵では簡単には殺せません。上杉謙信には天下を取る気はなかったのです。余談ですが、上杉謙信は若い時に家督を継げずに高野山に居たのです。京都のことを良く知っていたはずです。

azuki-7
質問者

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  • Pinhole-09
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回答No.1

謙信の上洛は二度あった。 天文22年秋兵2千を率い上洛の途に着いた。 事前の準備は周到であった。 朝倉氏、六角氏に鷹と太刀など贈りものをして仲を深めた。 当時彼らとは交易相手で敵対関係ではなかった。 次に本願寺証如上人(光教)に道中の通行安全を頼み 越前、加賀、能登の一向宗徒の協力を得ることに成功した。 光教は歓迎して、謙信に祖父以来の越後における一向宗 禁制の解除を頼んだという。 それでも注意深くして兵は陸路で、謙信は旗本と共に船で 越後水軍の郷津(上越市)から越前三国港へ行き、陸路の 兵と合流したという。 京では先ず参内して御奈良天皇に拝謁し、つぎに将軍 足利義輝に謁見したのち、本願寺、比叡山、高野山にも 行ったようである。 仏門衆との摩擦を避けたいということか。 二回目の上洛は有名で永禄2年4月3日5千の兵を率いて 陸路を進んだ。 前回の結果から道中安全の確信があった。 各地で歓待されたという。 4月20日近江坂本に到着し、三好、松永をはじめ多くの 公卿や僧侶の表敬を受けた。 4月27日上洛し将軍義輝に謁見、5月1日参内、正親町天皇 に拝謁した。 多くの金銀、貢物の献上は有名である。 寺院まわりも前と同様で、二回目のものは詳しく伝わっている。

azuki-7
質問者

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このQ&Aのポイント
  • PX1700Fでインクカートリッジが認識できません。セットしなおしてください。
  • 新しいインクカートリッジにセットしなおしても、PX1700Fはインクカートリッジを認識できません。
  • EPSON社製品であるPX1700Fのインクカートリッジが認識されず、問題が続いています。
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