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戦国時代の旅行について

上杉謙信は2度も上洛していますが、当時は各地に関所も多く経路を考えると敵地を通らねばならない筈です。 特に越前は一向宗徒の支配地で毘沙門天を信仰する謙信は敵視されたはづ、海路も考えられますが当時は海難も多発しておりとても危険を冒したとは思えません。 また朝廷や周辺への進物など荷物もあり途中の馬借、車借の費用も用意せねばなりません。  護衛を含めた人数を考えると相当な団体でしょうがどのようにして上洛を果たしたのでしょうか? また武田信玄は他国へ侵攻する場合大抵遠国の領主、城主に信書を送り、工作していますがこれも敵地になる地方を通過しなければならずどのようにして信書を送り届けたのでしょう。  武田忍びなどを使かったのでしょうか? 当時旅行はかなり困難であったはづです。 大変素朴な疑問ですがどなたかの解説をお願いします。

  • ss79
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回答No.3

当然密書を持っていることがばれれば、使者が斬られても文句は言えないでしょう。 それを防ぐために地元民や行商人であることを装う技量の高い専門の人が忍びと呼ばれていたと思います。 しかし現に交戦中ならともかく通常時にはさほど警戒も厳しくなかったと思われます。 うかつに使者を捕らえたり斬ったりすれば、それを口実に攻め込まれる危険があります。 ので、特別な理由無しに他国の武将に軽々しく手を出すことはできないでしょう。 また使者もその城の重臣の親戚など、ある程度受け入れられやすい人物を選ぶのが普通ですし、 調略するときにはある程度脈のある城を狙ってるでしょうから、いつもいつも命がけということではないと思います。 むしろ危険なのは山賊や、使者を捕らえて功績を売り込もうとしている野武士の存在だったのではないでしょうか

ss79
質問者

お礼

平時でも隣国の当主であれば誘惑を感じたでしょうがとは思いますがやはり自重しますか。 納得のいくご回答でした。 やはり忍びに類する者が必要なんでしょう。 有り難うございました。

ss79
質問者

補足

その後調べてみましたら越後越中にも忍者集団がいたようでおそらく彼らの中に独自の交流も想像されます。 よく使われた山伏の変装は武器も携行しますし集団も組んだようで、これらを組み入れた集団なら旅行するのも不思議に思われなかったでしょう。 越中の地方領主では動員数も多くないでしょうから謙信が数百の武装集団を率いて通過するのは見過ごすしかないと思われます。 足利将軍は越後路にはまだ威光があったでしょうし御教書を発行すればある程度保護の役になったでしょう。 ご教示で疑問が氷解しました。 

その他の回答 (2)

noname#113260
noname#113260
回答No.2

お忍びで上洛した有名人は若き日の織田信長もいますが、武田信玄の父親の信虎も親子喧嘩で甲斐を追放された後、今川義元を頼って駿河で生活し、その後京都に隠棲してます。 孫の武田勝頼とは交流があり、許されて信州高遠に帰って1574年に病没してます。 武田勝頼の時代の京都はご承知のように織田信長の支配地ですから、そこに住んでる武田家のご隠居と信長に敵対する甲斐の当主とが連絡を取り合ってるのですから、甲斐と京都の間も商人が往来して、手紙を託されたと考えるのが自然と思います。 今川氏真も今川家が滅亡した後、家康の紹介で上洛し、京都で織田信長と会ってますし、思わぬ有名人が京都にやってきたようです。

ss79
質問者

補足

質問が舌足らずだったようで補足します。 武田信玄は例えば駿河攻めの場合、美濃の織田領の反織田勢力に信書を送り攪乱を呼びかけて織田の家康への応援を牽制し、浅井朝倉延暦寺の連合軍には自らの上洛まで持ちこたえ織田軍を釘付けにするように要請するなど常に後方攪乱、相手の勢力分散に一方ならぬ配慮をするのが習いだったと理解しています。 この場合の信書のヤリトリはいずれも敵地を通過して行われており当然警戒は厳重だったと思うのですが?

noname#113260
noname#113260
回答No.1

上杉謙信は天文22年と永禄2年に上洛してますが、いずれも本願寺に参拝してます。 つまり上洛に際して一向宗とは話がついており、危険はないと考えてもよいかと思います。 また将軍の要請という根回しもしてるはずですから、権力のない足利将軍でも意外とこうした調停役には役に立ってます。 軍隊が移動するときは輜重隊といって、食料などを積んだ補給部隊も付いてくるので、自給自足も可能と思いますが、平和裏に他領を通過するのですから、大将格の武士はお金を支払って宿泊したりしたのでしょう。 因みに江戸期の宿屋も木賃宿と呼ばれるものは、旅人が米を持参し、薪代を払って自分で米を炊くかまたは炊いてもらいます。 木賃とはこのときの薪の代金の事ですから、戦国時代もある程度食料は持参してると考えたほうが自然でしょう。 戦国時代の旅はかなり大変で、商人が高額な商品を持って移動するときは屈強な浪人を雇って夜盗などを切り伏せながら旅をしたといわれてます。 また各街道には関所があり、お金を払って通過。 街道以外の脇道は何があってもおかしくないルートで、こうした世相ですからそこで暮らす農民も武装しており、旅はまさに命がけの行為です。 関所でも見咎められず通過できるのは商人(組合の手形を持ってる場合が多い)、芸人(芸を見せて証とした)、勧進坊主(お寺の身分証明書)などですから、恐らくこうした者に紛れて通過するのではないでしょうか。 因みに信長の領地は領内に入れば関所はなく、女性の一人旅も可能と言われるほど安全なため、物流が発達して商人が集まってきました。

ss79
質問者

お礼

早速のご回答有り難うございます。 本願寺や一向宗徒とは根回しがあったのですか。 越前の一向宗徒としたのはミスでした。 加賀でした。 越前は朝倉領で朝倉氏は将軍派ですから将軍のお墨付きがあれば問題なかったでしょうね。 ただ越中、能登はいわば敵地といってよく、部隊を率いて通過するのは平時といえども無理だったのでは? 戦国時代に旅をするのは命がけで、北陸道では納税の輸送隊くらいしかなかったのではないかと思ったのですが・・・ シルクロードのキャラバンのように武装して集団で通行するのが最良のように思うのですが、資料もありませんので・・・ 「勧進坊主」は「勧進帳」でも名高い地方ですからあり得る有力な説と考えます。 ただ貧乏坊主としては人数や武器などが問題ですが。

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