昔の九州と東北の人は言葉が通じていたのか?

このQ&Aのポイント
  • 昔の九州と東北の人は互いの言葉が通じていたのか?源平や戦国ではあまりありませんが、幕末のドラマでは薩摩弁、会津弁、土佐弁が縦横無尽に飛び交います。しかしドラマの中の人々は、国が違うのに何の不自由もなく、それぞれと言葉を交わしています。しかし、それでは一体どうやって言葉を伝え合っていたのでしょうか?通訳でもいたのでしょうか? それとも適当なニュアンスで通じていたのでしょうか? はたまた、京都弁あたりを標準語として、みんな京都弁を喋っていたのでしょうか?どれも、なんだかしっくり来ません。
  • 源平や戦国では九州と東北の人々が互いの言葉を理解できたかどうかは不明ですが、幕末のドラマでは薩摩弁、会津弁、土佐弁が頻繁に使われていました。ドラマの中では国が違うのに、何の不自由もなく言葉を交わしているように描かれています。しかし、実際はどうだったのでしょうか?通訳や適当なニュアンスでの伝え方、もしくは標準語としての使い方など、疑問があります。
  • 九州と東北の人々が昔、互いの言葉を理解できたかどうかについて疑問があります。幕末のドラマでは薩摩弁、会津弁、土佐弁などが頻繁に使用されていますが、実際はどうだったのでしょうか?通訳がいたのか、適当なニュアンスで伝えていたのか、または標準語としての使い方など、興味があります。
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昔、九州と東北の人は互いの言葉が通じたのか?

源平や戦国ではあまりありませんが、幕末のドラマでは薩摩弁、会津弁、土佐弁が縦横無尽に飛び交います。 しかしドラマの中の人々は、国が違うのに何の不自由もなく、それぞれと言葉を交わしています。 ただ、これら方言は、現代人の私達が聞いても理解できないところがけっこう多いので、実際はやっぱり不便していたんじゃないか、とふと疑問に思いました。 例えば、豊臣秀吉は天下統一をしたので、伊達政宗ら東北の大名に、島津義弘ら西国の大名も集まったでしょう。 しかし秀吉は尾張で、政宗は奥羽で、義弘は薩摩の出身です。 こうなると、とても言葉が通じるとは思えませんが、それでも言葉を伝え合わなくてはならないでしょう。 しかし、それでは一体どうやって言葉を伝え合っていたのでしょうか? 通訳でもいたのでしょうか? それとも適当なニュアンスで通じていたのでしょうか? はたまた、京都弁あたりを標準語として、みんな京都弁を喋っていたのでしょうか? どれも、なんだかしっくり来ません。 実際はどうなっていたのでしょうか?

  • tapa
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  • 回答数7
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質問者が選んだベストアンサー

  • ベストアンサー
  • tanuki4u
  • ベストアンサー率33% (2764/8360)
回答No.3

とても言葉が通じるとは思えませんが、それでも言葉を伝え合わなくてはならないでしょう。 ↓ 極論を言えば、伝え合わなくてもいい。 アメリカ人は「誰かいないのか?」という時に「HELLO」といいます。 犯人がいるかもしれない家に警察が入って行くとに拳銃を構えて「ハロー」というのです。日本語吹き替え版で「ハロー」なんてした日には、腰が抜けます。 ちゃんと 「誰かいないのか?」と吹き替えます。 トイレに誰かいないかノックする時も「ハロー」で、中の人は「It's me」と答えます。MEって誰やねん?という感じですが、それで通じます。 日常会話で心を伝えることは大変難しい。 けど、政治のやりとりは、彼らは漢文をやっていますので、漢文調で会話できます。 百姓の息子ということで、もっとも出身身分が低いと言われている秀吉も 江戸初期に成立した『太閤素性記』によると7歳で実父・弥右衛門と死別し、8歳で光明寺に入るがすぐに飛び出し ※ WIKIPEDIA 豊臣秀吉 より となっています。 他の守護代やら国人レベルの息子たちはみんな子供の頃に寺で学問、つまり漢文をやっています。 これは現代で言えば、中学校で英語をやるようなもので、出来の悪いやつでも。 I LIKE YOU くらいは通じます。 本当に気持ちを通じさせることは無理ですが、意志の表示には十分です。 細かいやりとりは、本格的に漢文をやっている寺僧がやります。 江戸時代は江戸家老は、ずっと江戸ですので問題ない 幕末は江戸を知らない志士がいたので、No1の方の指摘のように謡曲です。 志士の共通知識として、頼山陽の日本外史があったので、その例文を使っていたとも聞きます。

tapa
質問者

お礼

漢文もありますか。 それに謡曲も本当に使っていたんですね。 ご回答ありがとうございます。

その他の回答 (6)

  • kaitara1
  • ベストアンサー率12% (1119/8885)
回答No.7

幕末の話だったと思いますが、当時大名の間で共通の教養であった謡曲の中に出てくる言葉を用いたという意味だったと思います。いわば謡曲が方言に対する標準語の役目を果たしたということったと思います。これがたまたまのことだったのか、それなりに広く使われていた方法だったかもよくわかりません。しかし根も葉もない話ではないと思います。残念ながら出典をまったく忘れております。どなたかが具体的な資料を示して下さればと思います。  もう一つは漢文による筆談も随分役にたっていたのではないかと想像します。大名本人ともかく祐筆とか側近の中に能力を備えた人物がいて実際の交渉にあたっていたとか…

tapa
質問者

お礼

やはり幕末は謡曲で、漢文ですか。 ご回答ありがとうございます。

  • trytobe
  • ベストアンサー率36% (3457/9591)
回答No.6

まあ、武士は漢文などの素養もあるのが当然なので、通じるでしょうね。 商人も、街道沿いは山を越えた向こうの人間の言葉もわかる必要があるので、対応力が高かったでしょうね。 いずれにせよ、柳田國男が『蝸牛考』で、かたつむりの呼び名が京都を中心として変遷している、というのから提唱された「方言周圏論」から大きくは外れていないと思いますよ。 蝸牛考 - Google 検索 http://www.google.co.jp/search?q=%E8%9D%B8%E7%89%9B%E8%80%83

tapa
質問者

お礼

方言周圏論は初めて聞いた話です。 面白いですね。 ご回答ありがとうございます。

  • 0fool0
  • ベストアンサー率18% (134/738)
回答No.5

江戸期までは通常、会話は口語文で、書簡では文語文と使い分けて意思疎通を行っていました。 正直、文語体をどの様な意識で使用していたかが不明なので、何とも言えませんが、その気になれば喋れる筈ですので、感情的な部分は兎も角、意思の疎通には不自由はなかったろうかと推察します。 恐らくは其の為の武家言葉だろうと考えています。 とは言え、他国者同士が何処までの意思疎通を必要としていたのかは、サッパリと判りません。 究極の縦割り社会ですからね。

tapa
質問者

お礼

口語文に、文語文に、武家言葉ですか。 まあ、現代人も場面によって言葉を使い分けますしね。 それに縦割り社会とは、言われてみればそうですね。 ご回答ありがとうございます。

回答No.4

秀吉なんか名古屋弁が酷かったらしいですね 訛りが 寧々さんと秀吉が夫婦喧嘩してても周りの者は何言ってるのかさっぱり分からなかったとか ちなみに京都で参内(天皇に拝謁するとき)の場合は 特別な言葉を覚える必要があったようです 秀吉なんかは千利休に習ったりして色々苦労したんだとか ちなみに質問にあるように通訳は居ました

tapa
質問者

お礼

やっぱり通訳もいたんですか。 ご回答ありがとうございます。

  • titelist1
  • ベストアンサー率25% (712/2750)
回答No.2

戦国大名の手紙文書が残っていますが、方言がさほど見られません。手紙言語で大名同士は話をしていたのではないか。戦場での命令も手紙形式であるので命令伝達できたと思う。幕末でも手紙言語で十分会話できたと思う。

tapa
質問者

お礼

そういえば、昔は文章と話し言葉が別だったそうですね。 確かにそれならば、会話も可能ですね。 ご回答ありがとうございます。

  • kaitara1
  • ベストアンサー率12% (1119/8885)
回答No.1

当時、大名たちの会合で謡曲の言葉で会話したと聞いたことがあります。

tapa
質問者

お礼

謡曲、ですか。 それはオシャレなコミュニケーションですが、さすがに関ヶ原の戦いとかの最中に謡曲もできないでしょうし……。 まあ、何はともかく、早速のご回答ありがとうございました。

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