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秀吉は朝鮮半島から人をたくさん連れてきた?

文禄、慶長の役で秀吉は帰国時、朝鮮半島からたくさんの人を連れてきたでしょうか? 仮にそうだとしましと、その方々はどのような仕事に従事したのでしょうか? なかなか昨今の国際情勢上、センシティブな部分もあるかとは思いますが、あくまでもフラットかつ、プレーンな気持ちでお伺いしているつもりです。どうぞよろしくお願い致します。

質問者が選んだベストアンサー

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  • 0fool0
  • ベストアンサー率18% (134/738)
回答No.4

主に陶工や儒家が、日本に連れられて来たみたいですね。 江戸幕府が開かれると、朝鮮との国交を回復し、捕虜の帰還事業も始まります。 概要では儒家は帰国をし、陶工等の職人の多くは残ったと言われていますが、正確な資料は知りません。 ただ陶工等と発言はしましたが、実はちょっと陶工以外の職人は知りません。 朝鮮は貨幣経済も未発達であり、車も無く羊も無く針も無く・・・・。 木桶程度を作る技術も無く、其の為に重い陶器で水を運んでいたりしていたので、陶工はいたのですね。 そして帰還事業が実って、朝鮮との交易も再開します。 交易は対馬藩の独占を幕府は許していましたが、交易品は中国の絹や生糸、朝鮮人参等で、明との交易路の無かった時代には、重宝していたようです。 しかし其れ等の生産が日本国内でも行われるようになって、次第に規模は縮小したみたいですが、続いてはいったようです。 以上の情報を見る限りでは、主に陶工だけで、更には彼らが寄与したのは「磁器」だけのようですね・・・

violacello
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます、大変勉強になりました。

その他の回答 (4)

回答No.5

いわゆる強制連行ですね つれてきた人は技術者が多かったようです 陶器や磁器の職人ですね そういえばネットの人が言ってましたが 木下さんって朴と言う朝鮮人なんでしょ? って事は秀吉は朝鮮人 日本は朝鮮に支配されたって事ですね

violacello
質問者

お礼

ご回答ありがとうございました。 本質問の趣旨からは外れますが、秀吉がおっしゃるとおりのバックグラウンドだったとしましすと、問題は、渡来人がいつから日本人になるのか、というポイントに移るのではないでしょうか? 現在なら、気化して、日本人のパスポートを持っていれば、となるのかもしれませんが、そのようなルールが曖昧な当時、何をもってそう言い切るのか、私はまだまだ勉強不足ですので、掘り下げはこれからになりますが非常に興味深いです。

  • Key_A
  • ベストアンサー率9% (55/603)
回答No.3

補給物資も用意されぬまま、無意味な出兵をやらかしたんですから、 帰還兵の回収だけで精一杯だったのではないかな?  文禄慶長の役は、明らかなミスです。

violacello
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 他の皆さんのご指摘によりますと、陶工等を連れ帰ったとのことでした。 ご参考まで。

回答No.2

サルが連れてきたと云うより、武将のうち茶道に狂った連中が陶器、磁器の窯元を丸ごと移しちゃったと云う方が正確でしょう。 以前から朝鮮半島からの渡来者の数は莫大でした、特に我が国では「特殊技能者」は手厚い保護を受けられ、時には小大名より「格上」扱いになる。 朝鮮半島では両班(貴族階級、知識人)が頂点を独占し、いかにセンスの良い作品を作っても最下層から脱けられない、それに嫌気が差すととっとと我が国に来てしまう、もちろん一応入国審査はあるが、自分の「傑作」を見せれば大名も商人も争って(連中に雇われた奴らの血を見ることも少なくなかった)招き手厚く保護した。

violacello
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 大変勉強になりました!

noname#205615
noname#205615
回答No.1

長崎県の波佐見焼きはご存知でしょうか?? 全国的にも有名な焼き物ですが 文禄、慶長の役でつれて来られた朝鮮陶工により その技術を伝授してもらったのが始まりです。 他にも、多々 朝鮮の先進的な技術が日本に伝えられたのでしょうね。

violacello
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 波佐見焼の湯飲みはポピュラーですよね、某国営風放送局食堂の湯飲みもこれだった気がします!

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