秀吉の土下座についての真相とは?

このQ&Aのポイント
  • 秀吉が膝の怪我で土下座できなかった可能性があるが、正史ではないかもしれない。
  • 韓国や中国の正史では秀吉の土下座が伝えられているが、日本人の認識では疑問視されている。
  • 秀吉の土下座に関する情報は柳川一件による誤った情報が広まった可能性がある。
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秀吉の土下座

英語のwikiの"kowtow"(三跪九叩頭/高度に儀式化された土下座の意か)のnoteに、秀吉がいわゆる文禄慶長の役に関して、土下座して謝ったんだとかの話が読めます。曰く、秀吉は膝をけがしていて、痛みで跪くことはできなかっただろうとかどうとか(跪く三回と頭を地面に打ち付ける九回の数は違うようです)。さらにフランス語のwikiには本文にたぶん秀吉の土下座について書かれているようにも感じられます。 日本人である私の認識ではそんな事実はないだろう、とは思うのですが、韓国とか中国の正史ではそういうことになっているだけなのでしょうか。あるいは秀吉の土下座は事実なのでしょうか。 これに関していわゆる「柳川一件」が想起されます。朝鮮出兵当時の対馬藩が窮地に陥ったあげく無茶な和平工作をしたエピソードがテレビの番組でも放送され印象に深いのですが、ことによるとその和平工作の結果、誤った情報が双方にもたらされ、それが正史に刻まれたのが秀吉の土下座にまつわるwikiの表記として目にとまったとしたら、400年の時を経て当時の和平工作の結果を目にしていることになり大変興味深いと思いまして。ネットなどなくてもそれくらいのことなら普通の教養人なら知っているぞとのおしかりは甘んじて受けます。  さらに秀吉に謝らせるくらいなら、そんな生やさしい話で事を終わらせず、行軍のロジスティックスを整えた上で、明は懲罰軍を中国本土から日本に派遣していただろうに、とは思いますが。全くの嘘により明の衰退を隠した、とも。

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質問者が選んだベストアンサー

  • ベストアンサー
  • D-Gabacho
  • ベストアンサー率62% (950/1522)
回答No.4

情報ソースの『朝鮮王朝実録』の該当箇所は、原本の画像データがwebで公開されているので確認できました。ハングル表記の下記URLページをブラウザの翻訳機能で翻訳し、右上にある<ソースを表示>のボタンをクリックすれば、画像データが出てきます。 http://sillok.history.go.kr/search/inspectionDayList.do wikiのtalkで、秀吉の土下座をめぐる議論も確認できました。結局、朝鮮王朝実録に書かれてることは信憑性がない、という結論になって削除されたようですね。ただ、個人的には十分あり得る話だと思います。明の使節は皇帝に代わって秀吉を日本国王に任命する目的で来たわけで、秀吉は明の使節との会見で日本国王の金印などを受け取っています。秀吉は後で明の国書の内容に激怒してまた戦争をふっかけるわけですが、秀吉と明の使節との会見自体は、平和的にスムーズに執り行われています。この会見は明の皇帝が周辺国の国王を任命する際の儀礼に則って行われたと考えるのが自然でしょう。明の使節が叩頭礼の省略を容認するとは思えませんから。秀吉が使節にたいして明代の正式な儀礼である五拝三叩頭を行ったとする朝鮮王朝実録の記述は、十分信憑性があると思います。

poor_Quark
質問者

お礼

ことの経緯はわかりましたが、それでもやはり私には文禄の役と慶長の役のあいだに秀吉が中国にたいして土下座したとは思えません。朝鮮に対してだけではなく明に挑戦した秀吉がその明に対して自ら進んで臣下の礼をとるだろうか、と。ただ確かにご回答いただいたとおりの展開もないとはいいきれませんので、よく調べてみたいと思います。 その後秀吉は国内の権威を失い、その死後関ヶ原や大阪の夏冬の陣につながっていったことを考えると、おもしろいと言えるかもしれませんね。 ありがとうございました。

その他の回答 (5)

回答No.6

秀吉が土下座をした唯一の正式な記録は 徳川家康に「臣下の礼をとってくれ」と頭を下げたときの唯一度だけ とされています

poor_Quark
質問者

お礼

なるほど、了解しました。ご指摘に感謝します。

  • D-Gabacho
  • ベストアンサー率62% (950/1522)
回答No.5

すみません。回答No.4のURLのリンクはうまくいきませんでした。メインページから行かないとだめみたいです。http://sillok.history.go.kr/main/main.do

poor_Quark
質問者

お礼

探していた資料でした。ですが私の力量不足でか、「実録」には興味深い記述は発見できませんでした。ありがとうございました。

  • ithi
  • ベストアンサー率20% (1960/9578)
回答No.3

poor_Quark さん、こんにちは。 歴史的事実として秀吉が土下座したってえ話はわたしゃ聞いたことがありません。と他の回答者様がおっしゃっていましたが、信長の前ではいつも土下座していたはずです。 対馬藩はその挑戦と日本との関係からは同情しますが、国書の内容をほとんど改ざんしていたというようなことを聞いたことがあります。

poor_Quark
質問者

お礼

下克上とはいえ日常的には強固な身分制度は機能していたはずで、主君である信長にひれ伏していたとは思います。日本の土下座もまた儀式化された謝罪であることを考えると、臣下の礼としての着座したままのお辞儀と土下座は別物と認識されていた可能性はありそうですが。 対馬藩による無茶な和平工作の始終はwikiの「柳川一件」に詳しそうです。 ご回答ありがとうございました。

  • D-Gabacho
  • ベストアンサー率62% (950/1522)
回答No.2

英語のwikiの”kowtow”を見ましたけど、秀吉の話はどこにも出てませんでした。 朝鮮の仁祖が清のホンタイジに土下座した話は出てましたけど。

poor_Quark
質問者

お礼

コメント感謝です。英語wikiの記事の方には何年か前までは記述がありました。現在は記事からは削除されているようですが、talkには関連の議論があるようです。 朝鮮王朝實錄 宣祖 83卷, 29年( 1596 丙申 / 萬曆 24年) 12月 7日 " 倭將行長, 馳報秀吉, 擇於九月初二日, 奉迎冊命於大坂〔大阪〕地方受封。 職等初一日, 持節前往, 是日卽抵大坂〔大阪〕。 次日領受欽賜圭印、官服, 旋卽佩執頂被, 望闕行五拜三叩頭禮, 承奉誥命。" に対して、"We cannot examine the source."という理由で削除されたようです。ソースを当たってますが私にはハングルは読めないのでわかりません。割と日本語との間では機械翻訳が正確なので探しているところですが、時間がかかるようでしたら、そこまでの興味もないのであきらめます。)

  • eroero4649
  • ベストアンサー率31% (10467/32914)
回答No.1

歴史的事実として秀吉が土下座したってえ話はわたしゃ聞いたことがありません。ただ文禄の役での日中の停戦交渉は、双方の現場とも本国には「相手が降伏するといってます」ということでまとめていましたから、中国側の報告書には「秀吉が泣いて土下座をしてきたから許してやってもいいと思いますよ」というのがあっても不思議ではないかなとは思います。 >行軍のロジスティックスを整えた上で、明は懲罰軍を中国本土から日本に派遣していただろうに 明側にとって何のメリットもないですね。我々は戦争をゲーム感覚でとらえがちなのですが、戦争というのはお金がかかるものなのですよ。当たり前の話ですが。特に日本に侵攻するとなると大量の船が必要です。それだけ多くの船を用意するには資材も必要ですがそれだけお金がかかります。船大工に払う日当だけでもえらいことになりますでしょ? それを考えたら明が日本を征服するメリットなんて何もないです。我々日本人はどうしても自分たちを買いかぶってしまいますが、中国人から見ると日本なんていうのは何も資源がない岩だらけのちっぽけな島です。放っておくとその島民が時々こっちに攻めてくるのでウザいなーというのが中国人の対日観ですよ。 秀吉の朝鮮出兵も、明とすれば関わりたくなかったのですよ、本音は。だけど本人が「いずれ明も征服してやるぜ!」なんて息巻いているから自国の安全保障上兵を送ったに過ぎません。国内に侵攻されれば国が荒れますから、その緩衝地帯である朝鮮半島で止めておきたかったのです。

poor_Quark
質問者

お礼

私が考える当時の明が日本に派兵するメリットとは、権威の維持だと思います。秀吉は朝鮮半島の侵略を最終目的としたわけではなく、極東の中国を中心とする秩序への挑戦だったはずで、当然ながらその日本を明が罰するのは、国内統治上の理由からも必要がある話で、明の勢力が衰えていなければ実行されたものと想像しています。いただいた回答を念頭に置きながらいくらか調べてみたいと思います。 ありがとうございました。

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