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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:平安時代の天皇の役割は、権力者を認定する、だったの)

平安時代の天皇の役割は権力者を認定する

このQ&Aのポイント
  • 平安時代の天皇の役割は権力者を認定するシンボルであり、その存在によって権力機構が成立する。
  • 天皇の役割は権力者を認定することであり、その認定によって権力が行使される。
  • 平安時代の天皇は権力者の認定を行うことで社会の秩序を維持し、権力の正統性を確立する役割を果たしていた。

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回答No.1

的外れな回答ではありますが・・。 平安時代初期以降は、「摂関政治」が行われていた為。 ほぼ、歴代天皇は「政権」を事実上、「剥奪」されていたので。 著者の著述には、矛盾点は無いと想います。 文徳天皇が、藤原氏の娘を「中宮?・准后?」に迎え入れたので。 文徳天皇の子供の、清和天皇より、「藤原氏の血統」が入り。 摂関家になる「藤原氏一族」が、天皇家の外戚として政治を牛耳る様に。 そして、藤原道長の息子の時代が、事実上の「最盛期」となり。 天皇は、殆ど「象徴化」していたと想われます。 しかしながら、白河天皇が、実質的に「摂関家」の締め出しに成功した事により。 白河天皇の時代から、政権を取り戻し始め。 最終的には、白河天皇が譲位後に「院政」を確立しました。 白河上皇の時代になって、「摂関政治」は消滅したと考えて良いのではないでしょうか?。  ※Wikipediaより引用  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%91%82%E9%96%A2%E6%94%BF%E6%B2%BB

park123
質問者

お礼

早速のご回答ありがとうございました。 <ほぼ、歴代天皇は「政権」を事実上、「剥奪」されていた> のですね。これは、摂関政治が行われていた結果ですね。

その他の回答 (5)

回答No.6

何か勘違いなさっていませんか? 御質問への回答はこれで2回目、  『再三のご回答ありがとうございました。』と言われても、心当たりがありません。 それは兎も角、明治維新後皇室典範が作られ、皇位継承権と在位について明文化されたのは、無駄で危険な権力闘争をなくす上で効果的でした。明治憲法では国権と国軍の最高責任者と明記されました。戦後憲法で天皇制は維持されたものの、天皇の国民的地位と政治不関与が明記されたこと、ご存じないはずは無いでしょう。最高権威者では無くなっているんですよ! 古代と明治維新後と、戦後の現憲法時代とを、ごちゃ混ぜにしないで下さい。  『今日、太平洋戦争の開戦についても、昭和天皇は、伝統に背くことなく、実質的に承認や認証だったのですね。』 他の方へのお礼『天皇が、政治に直接には口を挟まない、ということにより、天皇制が現代まで温存されてきた、ということですね。』 いささか呆れています。  今少し、歴史の「流れ」と「変革」について、考え直して見て下さい。

park123
質問者

お礼

ご回答ありがとうございました。 1.勘違いをして、申訳ありませんでした。 2.<歴史の「流れ」と「変革」について、考え直して>   みます。

回答No.5

大筋で当を得ています。 天皇の役割は祭祀と宮中の年中行事の主催者。 実務と実権は左大臣、後に摂政、関白。「摂関政治」とも呼ばれます。 彼らは天皇の後見または補佐的地位を獲得するために、娘を天皇の元に嫁がせ、次期天皇の外祖父の立場を活用しました。 天皇が実権を得たいと望む時は、早めに退位して先皇または法皇の立場に立ちました。そうなっても、藤原氏は「摂関家」として、相当な権勢的立場にあり続けました。 朝廷内部の権力争いは常に激しく、藤原四家の対立抗争なども、数多く記録されています。 多くの天皇は若年で即位し、老いを待たずに退位する(させられる場合も)のが普通で、実質的裁量権を持たず、実力者の決定を承認し、人事を認証する程度の存在でした。 ヘタに政策など持ち出したりすると、地位が危うくなるかも知れない、ヘンテコリンな世界の成立土台が天皇だったのです。

park123
質問者

お礼

再三のご回答ありがとうございました。 <天皇の役割は祭祀と宮中の年中行事の主催者。> なのですね。今日、太平洋戦争の開戦についても、昭和天皇は、伝統に背くことなく、実質的に承認や認証だったのですね。

回答No.4

そうでも無いでしょう 醍醐天皇や村上天皇などは「延喜天暦の治」と呼ばれる親政(天皇による政治)を行いました 決して権力者を認定するためのお飾りではありませんでしたね

park123
質問者

お礼

早速のご回答ありがとうございました。 親政をした天皇がいたのですね。ただし、これは本筋なのでしょうか?、少数の例外なのでしょうか?

回答No.3

政治ではないのですが、 天皇と行政府のトップの関係を知るには、天徳内裏歌合が非常に参考になると思います。 ウィキペディアからこの模様を引用します。 ~~~~~~~ 20.恋 左:壬生忠見 こひすてふわがなはまだきたちにけりひとしれずこそおもひそめしか 右:平兼盛(勝) しのぶれどいろに出でにけりわがこひはものやおもふとひとのとふまで (中略) 二十番の勝負において判者の実頼は優劣を付けられず、持にしようとしたが、帝から勝敗を付けるようにとの仰せがあった。実頼は補佐の高明に決めてもらおうとしたが高明は平伏して何も言わない。実頼は窮したが、その時帝が「しのぶれど」と兼盛の歌を口ずさんでいるのを高明が聞きつけ、実頼に伝えた。それでようやく実頼も決心が付き、右方の勝ちと判定を下した。その間、左右の講師はずっと歌を読み上げ続けていた。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E5%BE%B3%E5%86%85%E8%A3%8F%E6%AD%8C%E5%90%88 ~~~~~~~ 実頼は、この時代の行政府のトップであった左大臣。(この時代には、摂政・関白には誰も任命されず、空席であった。) このように、《天気》をうかがうんですよ。 天皇が何を考えているか、どういう意向なのか、察しないといけない。 平安時代の貴族は、《KY》だと務まらないのであった!!

park123
質問者

お礼

再度のご回答ありがとうございます。 天皇は単なるお飾りでなく、実朝という <行政府のトップ> でさえ、顔色を窺わねばならなかった、のですね。

回答No.2

こんにちは。 ☆平安時代の天皇について、上記の、権力者を認定するという説明は、ほぼ妥当ですか? ◇これは、平安時代の摂関政治について述べたものだと思いますが、 まぁ、妥当なものですね。 天皇が国政の最高責任者である摂政・関白を選ぶ。そして、その摂政・関白を中心にして政治が行われる。天皇は、政治に直接関与しない。政治に口をはさまない。 また、 天皇は、摂関や朝議の決定に対する拒否権を有しているけれど、これを使用することはほとんどなかった。 摂政や関白は、天皇の祖父、おじさん、イトコが任命されるので、天皇の気性をよく心得ている。だから、天皇が気に入らないようなことはしない。 摂政や関白は、天皇のご機嫌、つまり、《天気》が読めないとダメなんですよ。 形式的なものですが、この政治慣習、政治的風土は現代でも生き残っていますよ。 日本国憲法 第六条 天皇は、国会の指名に基づいて、内閣総理大臣を《任命》する。 天皇は、内閣の指名に基づいて、最高裁判所の長たる裁判官を《任命》する。

park123
質問者

お礼

早速のご回答ありがとうございました。 <天皇が国政の最高責任者である摂政・関白を選ぶ。> そして、 <摂政や関白は、天皇の祖父、おじさん、イトコ> なのですね。うまい(日本流なのかな)政治形態ですね。 天皇が、政治に直接には口を挟まない、ということにより、天皇制が現代まで温存されてきた、ということですね。

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