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前九年・後三年の兵力について
- 前九年の戦いの終わりには、清原一族が味方したので源頼義が圧勝し、あっという間に安倍氏が滅んだ、というのは歴史の事実です。
- 戦国時代の換算だと1万石で250人、1万人の動員には40万石必要です。実際の動員の兵力は、必ずしも一致しませんが、仙北三郡の支配者、清原氏がこれだけの兵力を動員できるとは思えません。
- 兵力というのはいい加減な数字で自己宣伝によるものが多く、前九年や後三年の役は小説などに出てくるよりも小さな戦いだった可能性があると思います。また、前九年の清原一族の参戦についても疑問があります。
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> 前九年・後三年の兵力について 盛大に盛っているに決まっているではありませんか。 例えば同時代の太平記などでは、千寿王(足利家)が合流しただけで二十万人の武士が集まってきたり、足利尊氏が九州に入った直後に、菊池氏との戦いで、数百対数万で劣勢だったにもかかわらずあっさりと「奇跡の勝利」を二回行ったりと、兵士数はかなり誇張が大きいです。
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No.3です わざわざお礼を記入頂きありがとうございます。 お礼の中でのご指摘の点につきまして、僭越ですがゴタクを並べさせていただきます。 >清原氏の勢力範囲はどこかというと、出羽全体どころか、秋田県の支配もままならい、仙北3三郡の支配者、というイメージです。どうやっても出羽全体から動員できない気がします。 とありますが、清原光頼が率いていたのは、出羽一帯の豪族の連合軍ではありませんでしょうか。 総勢で七つの部隊から構成されていたのではありませんでしょうか。 荒川太郎義彦秀武は現在の秋田県大仙市協和荒川一帯の豪族ではありませんか。 清原武道は現在の羽後町一帯の豪族ではありませんでしょうか。 光頼の直轄地は仙北三群であったようですが、出羽の豪族連中を動員できるだけの政治力を持っていたのではないのでしょうか。 >大きな人口を支えるには農業は不可欠です。それもやはり稲作が重要でしょう。ヒエやソバ、広葉樹の実で生活ができて豊かだったら、稲作は広まらないでしょう。 とされておられますが、先に示しました人口推計では年々人口が増加していたと推定しておりますが、この点はいかがでしょうか。 食うや食わずで栄養不良の地域でも人口は増えるとお考えでしょうか。 >農業は不向きな土地だ、といっても他に方法がありません。 古来から五穀豊穣を祈願する、とされていますが、この五穀とは米の種類ですか? 麦とか粟とか稗とか黍とか豆とかはどうなりますでしょうか。 餅黍というのは御存知ありませんか。文字通り餅にします。 >どんぐりの実などで生活を支えられたかもしれませんが どんぐりというのは一般的な名称ですが、種類を御存知でしょうか 堅実類と呼ばれるものです。 クルミや栗、橡なども含まれます。 極めて栄養価が高いことで知られています。 橡餅というのを御存知ありませんでしょうか。 調理方法は多岐にわたります。 現在でも秋田県北西部の白神山地は世界有数のブナなどの堅実類の原生林としてユネスコニに登録されています。 当時は現代よりもはるかに広かったでしょう。 清原氏にせよ安倍氏にせ、当時の東北一帯の人達は京都朝廷に従わない服わぬ民とされていましたが、都からやってきた軍勢と互角以上に戦っています。 京都の連中よりも劣った社会を構成していたとお考えですか。 朝廷本位の蝦夷とか俘囚などという言葉に惑わされてはおられませんでしょうか。 食習慣が米依存の土地のと異なるから、貧困だったとするのは早計ではありませんでしょうか。 ローマ人やゲルマン人が米を喰っていたとお考えですか。 巨大な帝国を短期間に築いた蒙古軍は米を喰っていたからやれたのだとお考えでしょうか。 米崇拝神話に惑わされてはおられませんでしょうか 後三年の役の最後に義家が金沢柵を兵糧攻めにした際に多数の女子供のことが記述されていますが、どのようにお考えでしょうか。 今はやりの人間の楯にでもしたとお考えでしょうか。 当時は負ければ住民も蹂躙されてしまっていたのではないのでしょうか。 田畑も家財も相手の雑兵に取り上げられてしまっていたのではないのでしょうか。 住民にとっても勝敗は死活問題だったのではなかったのでしょうか。 後の源平合戦や戦国時代の戦とは様相が違っていたのではないのでしょうか。 戦は専門の武士の仕事だ、という時代ではなかったのではありませんでしょうか。 つまり相手に立ち向かうのは、頑健な武士だけではなかったのではないのでしょうか。 良くは分かりませんが、如何お考えでしょうか。
お礼
ご回答有難うございます。 荒川太郎義彦秀武=吉彦 秀武(武則の娘の婿)、武道=武則の息子はやっぱり仙北三郡ですよ。 光頼は、安倍攻略には参加していません。ただ、棟梁の光頼が参加しなかったが、決定はしていた、というなら弟の武則のみが従五位鎮守府将軍に任命され、光頼に官位なしというのも不思議です。おまけに清原の嫡流は武則、武衝、真衝と移り、光頼、頼遠はほそぼそとしていく。清原自体が一致団結していたとも思えません。もし、一致団結しているなら、光頼に手厚い恩賞があるべきとも思えるんですがね。それで、大量の動員ができるとは思えないんです。 縄文時代は、確かに木の実が重要で人口の中心は広葉樹の多い関東、東北に集中していました。しかし、やはり稲作は生産性が違います。アワやヒエは生産性も低い上に、脱穀や精白が大変で手間がかかります。橡餅だって、ものすごいアクが強くて、食べるまでの手間は大変です。冷害に強い、稲作ほど水を必要としないというメリットはありますが、コメが作れるなら、やっぱりコメになるんじゃないですかね。アワやヒエは、やっぱり小鳥の餌のイメージです。(私はあまり食べる気がしません。美味しいとは思えません) 兵を支えるには生産力が必要で、何もコメにかぎりませんが、生産力こそ兵力の源泉だとは思います。 モンゴルなどは、農耕社会じゃないから、まあ、ちょっと違いますが。 後三年の兵糧攻めは、基本通りのセオリーだと思います。近隣の住民をいじめて、城に逃げ込ませる。すると、住民も当然食料を食べますから、食料の消費が早くなり、兵糧攻めの効果が上がる。逃げ出す女子は見せしめに殺す。逃げられると食料消費が遅くなりますからね。吉彦秀武の発言が残っていますね。負ければ住民は蹂躙されるのではなく、それ以前からいたぶられるわけです。 もっとも守る側も事前に住まい、食料を焼いて焦土化作戦をします。厨川では時間がなかったから、周りを焼き払わないでしょうけれども。籠城するとなると、食料の在庫が攻める方も守る方もキーになります。住民を使って、食料消費・補給をどうするかは、勝負の分かれ目ですね。
- Pinhole-09
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昭和12年に陸軍参謀本部が過去の戦の研究を しております。 それによると、人口30人(=30石)当たり1人の 動員兵力と見ています。 当時の奥州の人口は約60万人と推定されので、 動員兵力は約2万です。 日本歴史新書「奥州平泉」も同じ数字です。 頼朝の奥州征伐では、頼朝軍9万と推定しています。 前九年、後三年の役で、1万というのはちょっと オーバーのようですが、5、6千の兵力が、動員された としてもおかしくないと思われます。 これに源家軍5千が加われば、万を超えるでしょう。
お礼
ご回答有難うございます。奥州=出羽・陸奥全体で動員兵力は2万しかないなら、安倍の奥六郡、清原の仙北三郡でどれほどの動員ができますかね?出羽や陸奥の全体を支配どころか、その十分の一程度の支配なんですからね。 これほどの兵力の動員は絶対に無理だとしか思えません。
- izuhara
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>戦国時代の換算だと1万石で250人、1万人の動員には40万石必要です。 どこの大名の軍役かわかりませんが、あくまでも戦国大名が家臣などに負担させた軍勢の目安です。精一杯の動員力ではありませんので注意してください。ちなみに石高も実際の生産量を厳密に反映したものではありません。 11世紀の東北は農業生産が主というわけでもないでしょうから、総動員すれば清原氏が7000程度の軍勢を率いることができても不思議ではないかと。 もちろん兵数が誇張されている可能性は大いにありますが。
お礼
>11世紀の東北は農業生産が主というわけでもないでしょうから、 当時は農業しかないのではないかと思います。商業や工業、漁業で支えられる人口は僅かなものだと思います。 この時代は、都市は発達していないし、商業も発達してない。税収をとり傭兵を雇うという戦国時代のようなこともない。となると、兵力の中心は農村から人を徴発する。 基本的には、兵力は農業の生産力に比例する。農業の生産力が人口につながり、人口があれば兵隊をだせる。 少ない農業生産力しかないのに、大きな兵力というのは、やはり合点がいきません。
>不思議なのですが、清原一族の参戦が1万人というのは数が多すぎませんか? この数値はどこからとられましたでしょうか。 総勢で1万として頼義は2千5百から3千は所有していたと考えると清原氏は7千前後ということかと思います。 まぁ~細かい話は別としまして、 当時出羽にはどれぐらい人間が住んでいたのか、と考えたほうがより近い推定ができるのではないのでしょうか。 下記のサイトに平安時代末期即ち前九年後三年の時代の出羽国の推定人口が掲載されています 図録地域別人口分布の超長期推移(縄文時代から1995年まで) www2.ttcn.ne.jp/honkawa/7240.html これによりますと、約28万人住んでいたと推定していますから、7千や8千の戦闘員を動員できただろうと考えても余り無理はないのではないのでしょうか。 そもそもが、頼義や義家云々ではなく、地元の清原、安部の支配地争いやら清原一族のゴタゴタですから、以外にスンナリ動員できたのではないのでしょうか。 歴史書に書かれたのは摂津を本拠地として京の都の人にもなじみのある源家の人間が関係していたのと、後の鎌倉幕府を開設した頼朝のご先祖様だったからという理由の方が大きいでしょう。 戦そのものがどっちにころんでも京の都のお公家さんには関係が無い戦でした。 現に凱旋した義家にはなん論功行賞もしていません。 戦国時代の石高だのそれに基づく動員数というのは、ほとんど当にはならないかと思います。 そもそも石高の基準がよく分かっていません。 太閤検地といっても、現在の国勢調査のようなことをやった訳ではありません。 石高なる数値も土地の良し悪しに応じて適当にきめた看做し数字です。 石高当たりの動員数も何か根拠があって発令していたわけでもありません。 小田原攻めの際には100石当たり5人つまり1万石当たり500人を用意するように発令されています。 平和な江戸時代になって軍役の拠出人数として1万石当たり200人~250人位に決めていただけの話です。 江戸時代には軍役などありませんからお手伝い普請などの割り当ての目安に使われていただけです。 このへんについては下記のサイトでも楽しそうに薀蓄を傾けています。 石高と兵備 www1.cts.ne.jp/fleet7/Museum/Muse158.html 江戸時代諸藩の家臣団について www.general-support.co.jp/column/columun21.html 元々東北地方は米作には不向きな風土です。 現在あきた小町だのなんだのと言われている米は明治以降に営々と品種改良を続けた結果生み出されたものです。 一方で三内丸山遺跡にみられますように決して貧しい土地ではありませんでした。 米を喰えなければ貧しいというのは江戸時代以来続く米信仰に基づく偏見の極みです。 出羽よりも北の十三湊一帯で鎌倉時代に繁栄していた安東氏の遺跡からは大量の器物が発見されています。 中国や朝鮮の陶磁器なども含まれたものです。 とゴタクを並べてみました。
お礼
ご回答有難うございます。出羽全体で。28万しかいない。では清原氏の勢力範囲はどこかというと、出羽全体どころか、秋田県の支配もままならい、仙北3三郡の支配者、というイメージです。どうやっても出羽全体から動員できない気がします。男女で半分、さらに兵隊に行ける男子となると、更に半分。7万人。仙北三郡の面積は、出羽全体の10分の1程度。となると、地域の男子全員を連れていて7千人。 農業は不向きな土地だ、といっても他に方法がありません。縄文時代ではどんぐりの実などで生活を支えられたかもしれませんが、大きな人口を支えるには農業は不可欠です。それもやはり稲作が重要でしょう。ヒエやソバ、広葉樹の実で生活ができて豊かだったら、稲作は広まらないでしょう。 十三湊が繁栄していたことは知っていますが、どうでしょう?大きな人口を支えるのは難しいですね。 また、この時代は、商業都市を抑えて税収により傭兵を雇う、というのは聞きません。 やはり、清原氏がある程度大きい兵力を持っていた・・・というのはちょっと信じがたいですね・・・。
- titelist1
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坂上田村麻呂によるエゾ攻略は今の水沢を陥落させたことで決着がついているいます。岩手、秋田、青森には倭人化した土着のエゾが住んでいたと思います。
- titelist1
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安倍も清原もエゾ(蝦夷)を支配下に治めており、エゾの兵力を動員できる。後の世の米の石高では兵力を語れないところがあると思います。しかし、一般的に昔の話は大げさに書くものです。川中島の合戦でも両軍で3万とは思えない。
お礼
ご回答ありがとうございます。ですが、ここでいう蝦夷というのは、どこのことでしょうか??? 清原は、青森まで勢力を伸ばしていたようには思えません。安倍は青森県まで勢力があったでしょうが、生産力はたかが知れています。多数の兵を動員できるとは思えません。
お礼
太平記は兵力の誇張が、凄く大きいので有名ですね。ただ、前九年・後三年の場合は、現実的な数字に近い言い伝えがなされています。 もし、太平記風なら清原軍10万・・とでも書きましょうか・・・。 兵力は盛大に盛っている・・というのは、そう感じますが、その割には1万という現実的な数字だというのが微妙ですね。おそらく、1万でさえも、驚く数字だったのかな・・という気がします。