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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:ブラフマニズムのアートマン(霊我≒仏性)は?)

ブラフマニズムのアートマン(霊我≒仏性)とは?

NemurinekoNyaの回答

回答No.9

こんにちは。 松本《dhatu》説ですか。 松本説は、 「如来蔵、仏性は、バラモン教などにある基体説に基づくものであり、無我を説く仏教から逸脱したものである。これは、仏説とは言えない」 というものですよね。 阿頼耶識は最終的に消えちゃうから、阿頼耶識説は《dhatu》説とはいえないけれど、《dhatu》説の一種だ、 とも言っていような。 以下のサイトに、この松本説に基づく如来蔵、仏性批判があるので、よろしかったら御覧になってください。 http://www.nagoya30.net/temple/kyosin/sin-iti/lekcio/seminar3.pdf そして、 「言葉を生かして、霊を殺している」 と言ってやってください(ニコニコ)。 「川を渡って向う岸に着いたら、渡るのに使った筏(オシエ)は捨てろ!!」と、 誰かさんはパーリ経典で言っていたような気が(笑い)。

bragelonne
質問者

お礼

 こんにちは。ご回答をありがとうございます。  ◇ 松本《dhatu》説ですか。  ☆ 《如来蔵思想は 仏教ではない》という内容をとなえる《批判仏教》という説のようです。袴谷憲昭氏とともに《一派を成す》? (袴谷氏とは 手紙のやり取りをしたことがあります)。    ▼ 「近代仏教学から真宗を問う」 -7:如来蔵・仏性思想の問題点  ☆ をめぐって 大胆にわたしの見解を推し出して 批評を加えてみます。  ▼ (§ 心性本浄説) ~~~~~~~~~~~~  ・・・  ( a ) 如来蔵・仏性思想は   中期大乗経典に表れ、   初期大乗経典(般若経、法華経、阿弥陀経、宝積経など)には見られない  ことは注意されねばならない。  ( b ) このことの意味は、やはり初期大乗から中期大乗に思想的変化があったということであり、  ( c ) 縁起・無我と如来蔵・仏性思想との間には連続性ではなく差異をみるべきであろう。  ( d ) すなわち、空から有へと軸足をずらしたのである。そしてこれは中観派と唯識派との差異でもある。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ ( d )の《中観派と唯識派との差異》をわたしはつまびらかにし得ませんが あとの指摘については すでにゴータマ・ブッダと後世のブディストとの違いとして 無神論と有神論との差であると見て来ています。  B. ゴータマ・ブッダ:無梵無我一如(無神論)    無梵:空(シューニャター・ゼロ)    無我:アン‐アートマン;ニルワーナ  C. ブディズム:仏仏一如(有神論)    仏:アミターバ (阿弥陀)/ マハーワイローチャナ(大日)    仏:如来蔵・ブッダター(仏性)  すなわち この B と C とのあいだにたとえば《一切衆生 悉有仏性》なる見解への《革命》が起きたという単純な見方です。  それでも 両者はまったく同じひとつの類型のもとにあるというのは その一般類型としての梵我一如なる信仰形態は あくまで《非思考の庭》にあって起きるものだという想定であるからです。  そもそも ブラフマン神も想定であり その神の霊として《霊我》と呼ぶべきアートマンも 想定です。   ゴータマ氏は アン‐アートマン説を打ち出したとき その意味をたぶん分かっていなかったものと考えられます。じっさいは 《想定》の中で 否定したに過ぎないのですから 《有るアートマン》と言おうと《無いアートマン》と定義しようと 両者は 《非知なるナゾ》として同一でしかありません。  よって B から C への革命は やはり非思考の庭にあって互いにとって変種への移行であり その C (仏仏一如)への変革は けっきょく A (梵我一如)への返り咲きでしかない。こう見られます。  したがって   ▼ ( c ) 縁起・無我と如来蔵・仏性思想との間には連続性ではなく差異をみるべきであろう。  ☆ というのは 《非思考の庭》にあっては 有ると無いとの差異はあるが 互いに信仰としては同一である。《連続性》などという問題ではない。なぜなら 経験世界における話ではないのだから。  すべては 想定だからです。本体――すなわち神の本体――は知り得るか知り得ないかが知り得ないのですから あくまでいろんな方法によるいくつかの補助線を引いて 何とか理解に供するというその想定としての説明であるに過ぎない。  これが ぶらじゅろんぬの神学定理として《神および信仰ならびに〔マチガイたる〕宗教にかんする一般理論》です。(デカイ口を利くようになりました)。  ▼ (§ 如来蔵・仏性思想は異端か) ~~~~~~  ( e ) 仏教は無我説〔である〕、すなわち、唯一の根源的実在を認めない。  ( f ) しかるに、"dhātu"なる語は、根源的実在・諸法の発生根拠という意味をもち、そのようなものを認めることは無我説に反する。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 《唯一の根源的実在》あるいは《諸法の発生根拠》というのは 非知なるナゾであり神のことを言おうとしたものです。  ところが 神は 非知であるからには そのような理解のための説明は 想定の上に成り立つ仮りの表現です。(《去る者は 去らない》)。言いかえると 《無我》も その場合には 《根源的実在》であり神のことだと捉えるしかないはずなのです。経験じょうの事象や事物のことを言っているわけではないからです。  ▼ ( f ) "dhātu"なる語  ☆ は 《界》とも訳される《基体》のことであるようですが 単純にいま《庭》として受け留めれば 容易にうなづけるのではないでしょうか。非思考の庭です。  ただし わたしが松本説について分からないというのは この《基体ないし 非思考の庭》が いっさいの法(つまり現象)の根源であり原因であると見ようとしていることにあります。  百歩ゆづりつつ辻褄をあわせるなら 《想定のうえで 基体=非思考の庭=如来蔵=仏性=アートマン》が 世界の《第一原因》としての神であるという解釈です。つまり 創造主なるひとつの説明です。  これは 解釈として捉えるということでしょうか。   すなわち 非知なる神の想定が 第一に来て さらにそのあと この神は 絶対であり絶対者であるなら 世界の創造主であるという属性が第二に派生するという見方です。  ▼ (§ 如来蔵・仏性思想は平等思想か) ~~~~~  ( g ) ・・・「一闡堤(いっせんだい、icchantika)」・・・と呼ばれるある種の人々は、永久に仏に成ることができない、という差別的な立場が明記されているからである。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ この問題の解決法は やはり《想定》という大前提にあると思います。  ▼ ( g ) 一闡堤の人々は、永久に仏に成ることができない  ☆ という・第一の想定から第二に派生する――人間による――説明が 付け加えられた。ということであって 何も・誰れも 神じたいが《一闡提》をすくいから排除しているとか・していないとかは 分かったものではないと言わねばならない。これが 答えだと思います。  神の心を勝手に忖度するなかれと。  つまり えらそうに言うとすれば ゴータマさんも後世のブディストたちも この《非知ないし 非思考の庭》なる信仰理論が想定であるという視点が分からなかった。よって 困惑をかさねて来ている。ということのはずなのです。  ▼ (「無常、苦、無我、不浄」か「常、楽、我、浄」か) ~~~  ( h ) ・・・現象の背後に真実在を想定するのは、仏教以外の諸々の宗教である。  ( i ) インドにおけるそれらの宗教(外道)を根本否定して仏教は成立したのだから、真実在を認めたら仏教の根底が崩れる(その極致が密教)。  ( j ) そもそも、釈尊が問題にしたのは「現象世界のみ」であって、それを超えた世界については全く判断停止(無記)したのである。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ これも《想定》論によって解決するものと思われます。  言いかえると 非知なるナゾの神は 有る神と無い神とのいづれの説明方法もがまったく対等にありうるということ。  《無神論》に立つならば 諸法無我・諸行無常を前面に推し出したいでしょうから 《有神論》に立つ《常、楽、我、浄》を否定しておきたい。よって 《「無常、苦、無我、不浄」》が 旗印に書かれた。けれどもそれは 《非思考の庭》をそのように解釈したに過ぎません。両者が やはり同等にあり得ます。概念化したところでは 相対的な考え方であるに過ぎないのですから。  いろいろと勝手に述べました。このことが 経文や文献から検証され得ればよいがと思います。どうなんですかねぇ。

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