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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:ブラフマニズムのアートマン(霊我≒仏性)は?)

ブラフマニズムのアートマン(霊我≒仏性)とは?

NemurinekoNyaの回答

回答No.2

こんばんはです。 ☆☆ これは 分けて考えるべき要素があると ほんとうに 見るべきなのでしょうか? ◇分けて考えることがインド的ではない、と思います。 インドの形而上学や哲学は、ヨーガ(実践)と車の両輪の関係にあって、どちらか一方のみに焦点を当てるのはおかしい、と思います。 もしキリスト教が「知らんがために信ず」という言葉で形容できるとするならば、 仏教やバラモン教をふくむインド教は、「知らんがためにヨーガす」です。 ウパニシャッドが如何に知識を重視するといっても、《梵我一如》という教えや言葉を聴いただけで、悟れるなんてことは言いませんよ。 bragelonneさんの言葉でいうならば、《梵我一如》も補助線であって、その先にはヨーガによる超経験的な領域、非思考・非経験の庭があります。その非思考・非経験の領域で超経験的に感得できる何かが《梵我一如》なんだと思います。 おそらく、これは宇宙とわたしが溶け合っている、状態なんでしょう。 このことを女性に抱擁されているような悦びと表現しているようですけれども。

bragelonne
質問者

お礼

 あっ すみません。ありがとうございます。  ◇ インドの形而上学や哲学は、ヨーガ(実践)と車の両輪の関係にあって、どちらか一方のみに焦点を当てるのはおかしい、と思います。  ☆ ということなのですね。  そこを ブディズムだけは 特別であると言おうとしているのでしょうか。やっかいですね そうだとしたら。  ◇ ~~~~~~~~~~~~~~~~  仏教やバラモン教をふくむインド教は、「知らんがためにヨーガす」です。  ウパニシャッドが如何に知識を重視するといっても、《梵我一如》という教えや言葉を聴いただけで、悟れるなんてことは言いませんよ。   ~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ ですよね。  だとすると いったいどこが違うと言おうとしていたのでしょうか。《神》を出すかどうか くらいでしょうか。《ブッダ》にこだわるクセでしょうか。  ◇ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  bragelonneさんの言葉でいうならば、《梵我一如》も補助線であって、その先にはヨーガによる超経験的な領域、非思考・非経験の庭があります。その非思考・非経験の領域で超経験的に感得できる何かが《梵我一如》なんだと思います。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ ということは またまた 《さとり》とは何か? になってしまいますね。法身のブッダを打ち出すことで 《神》とは言わない。というときの地上におけるブッダのさとりとは何か?  ブディズムは ややこしいですね。  ひょっとすると ゴータマ氏は ネクラだった? ですかね。あれとは違うんだ これとも別なんだと 独自性をどうしても出したかった。・・・  いやぁ ややこしいこと限りないです。《梵我一如》なる信仰のかたちを 一般類型とすることが出来る。このひとつの方程式で そうとう遠くまで行けると思うんですがね。  

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