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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:八方美人(または縁側の哲学)とぶっきらぼう)

八方美人とぶっきらぼうの哲学

noname#214841の回答

noname#214841
noname#214841
回答No.10

こんばんは。「お礼」ありがたうございます。先回またしても大量削除になりました。このたびは、サポート担当さんに迷惑にならないやうにしたいと思つてゐます。 >>通常、「哲学」とは役に立たないことをむづかしく考へ、 >>一般人からみれば、「変態」「ゴミ溜め」、 >>ある投稿者のことばをかりれば「自己陶酔による狂人の集団」です。 >>☆ これは 考え違いがあります。 文頭にありますやうに、あくまでも「通常」です。いざといふときに、本領を発揮するのが哲学だと考へます。 >>★ 結局は、自分にないものを、口に出してゐるだけではないかと思へてきます。 >>☆ と言われたら どう答えますか? 私は、「ウソ」は嫌ひです。自他ともに認めるヘタレ豚野郎です。ブヒブヒ。以前ある投稿者が私のことを書いてくれて、けつこうサイトぢゆうにひろまつてゐます。自分では気に入つてゐて、笑ひころげてゐます。文通ともだちの子供もすつかり喜んでくれてゐて、私としては感謝してゐる次第です。 >>わたしがののしったことに対して 後遺症はないですか? このたびも書きましたやうに、bragelonneさんは、哲学カテゴリに必要な人材です。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  ★ 文頭にありますやうに、あくまでも「通常」です。いざといふときに、本領を発揮するのが哲学だと考へます。  ☆ そうですか。  でも わたしは 違う考えを持ちます。  生きているときにその現実から持ち得た疑問に答えるのが 哲学だと考えています。  その結果は 生活日常の生き方が 哲学になるはずです。《本領》は発揮できなくても――つまり 現実のシガラミや壁に道をさえぎられ 発揮できない状態に甘んじなければならなくなっても―― その主観の基本的なあゆみとして生きているのが 哲学だと思います。  《通常》において 哲学は観念の世界に走り 愚にもつかないことを考えると言われるのは ひとえにブディズムの阿呆哲学の所為だと考えます。  あと この質問で大事なことは くりなるさんとのやり取りから出た次の問題です。  ☆☆ (No.6お礼欄) ~~~~~~~~~~~~~~~   ◆ 「ひとを傷付けながら(も)、じんるいの未来を拓く」 / ということですか。   ☆ これは No.2のこういちろうさんと同じご見解でしょうか。  ただし   ◆ ひとを傷付けながら(も)  ☆ のところでは 注意が要ると思います。決して じつは 人の心を傷つけてはいません。  わたしは 次のように表現しました。  ☆☆ (No.2お礼欄)~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~   ○ 《ぶっきらぼう理論は ひとを傷つけるものだろうか?》  ―― その当座は あるいは傷つけることがあるかも知れない。みづからの心にヤマシサ反応をおぼえた人にあっては そのウソ・イツワリを意志行為に移したというかぎりで 心が傷つくかも知れない。  けれども  ○ 《それともじんるいの未来を拓くあかつきか?》  ―― というふうに その《心における傷つき》を突き抜けて・ということはウソをつくときに伴ったヤマシサや恥ぢの思いを乗り越えて おのれの本心に突き当たりわれがわれであるようになるならば 世界は開かれるであろう。と。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  どういうことか?  ○ 《ぶっきらぼう理論は ひとを傷つけるものだろうか?》  ―― その当座は あるいは傷つけることがあるかも知れない。みづからの心にヤマシサ反応をおぼえた人にあっては そのウソ・イツワリを意志行為に移したというかぎりで 心が傷つくかも知れない。  すなわち 傷つけるように見えるそのことは じつは 次の内容となっているはずなのです。  すでにその人が みづからの心をいつわってウソをついたことがあり それとしてみづからの心に損傷を負わせている。ヤマシサ反応に逆らい 恥ぢの感覚をも無視して ウソを敢行したからには それなりに心に傷を負ったはずです。  つまり ぶっきらぼう理論が そのぶっきらぼうな姿勢にて相手の本心を言い当てたとき その相手の人が傷つくというのは じつは すでに負っている古傷が溶けるときのおどろきによって損傷だと感じるだけのことなのです。  すなわち 古傷が癒えるようになるとき 消毒剤によって痛みをおぼえるだけのことなのです。  損傷に対する損傷。損傷部分をすでに損傷させる傷つけ。傷を癒やす《はじめに傷つけだと錯覚する薬》です。  すでにアンチテーゼが成っているところへ アンチテーゼを与える。マイナスに対してマイナスを掛ける。つまりは ジンテーゼなる行為であると考えます。  そうでなければ 《じんるいの未来を拓く》こともかなわないでしょう。どうでしょう。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 自分に都合のよいように語っていると言われましょうが 大事な論点です。  わづらわしいでしょうから お答えはいいですが あらためてここにこの問題点をかかげておきたいと思います。

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