• 締切済み

法華神道のことを教えてくれませんか?

最近、法華神道に興味があって、ちょっと資料を調べた。でも、やはり、いろいろことが和分からない。 1、法華神道の起源は?創始人は誰か? 2、法華神道の教義はあるか?三十番神のほかは、また、どんな信仰がある? 3、法華神道の形成と発展はどのようにいくか?そして、その時代と現実にどんな影響があるか? 質問が多いですが、でも本当に知りたいんです。どうもありがとう~

  • necho
  • お礼率80% (4/5)

みんなの回答

noname#132403
noname#132403
回答No.2

神道の神々が変化して法華経を護法するという思想です。三十番神の神これを調べて下さい 神道研究科術者より

  • tomotaro
  • ベストアンサー率55% (50/90)
回答No.1

素人ですので自分のわかる範囲でお答えします。 1、法華神道の起源は?創始人は誰か? 簡単に言えば、法華宗(日蓮宗)自体です。 奈良時代以降、神仏習合はごくあたりまえの出来事ですから、日蓮宗の発展とともに法華神道が広がっていったと考えるのが普通でしょう。 日蓮宗は、当時の浄土宗、禅宗と異なり積極的に神祇の信仰を取り入れ教義的に位置づけたのが起源です。 2、法華神道の教義はあるか?三十番神のほかは、また、どんな信仰がある? 法華経を唯一の正法とし法華経守護の神として日本の神祇を認めました。 日蓮が創案した曼荼羅には勧請諸尊のなかに天照大神、八幡大神の2神があげられこの2神で全神祇を代表させていました。 神は正法によらなければ力を発揮することができず、もし法にしたがわなかったら罰せられるとしました。 つまり、すべての神々の上に法華経が存在するという信仰です。 三十番神については毎月の三十日間を30の神々が受け持ち、これを十二ヶ月繰り返すとして神々の選定は二十二社の神々に比叡山関係の地方神を加えて天台宗の番神思想を受け継いだと言われています。 3、法華神道の形成と発展はどのようにいくか?そして、その時代と現実にどんな影響があるか? 独立して宗教として存在したわけではなく、 日蓮宗の信仰形態の一種ですから、日蓮宗の歴史をお調べいただいとほうがわかりやすいかもしれません。 大きな出来事としては室町時代後期、室町幕府に支えられて神道界の支配者として実力を占めつつあった吉田兼倶は法華宗に宗論を挑んで日蓮が卜部兼益から三十番神の伝授を受けたと主張し、法華三十番神が吉田神道に発する事を法華宗側に承認させました。 法華宗側は神祇大副(次官)の吉田家と結ぶことによって法華神道に大きな権威を与え、吉田神道は法華神道の広大な地盤に進出することができるようになりました。 明治維新に始まった廃仏毀釈運動で1868年10月政府により法華三十番神は禁止されました。

necho
質問者

お礼

返事してくれて、本当にありがとうございました。そして、本当にいい答えと思います。

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  • 組織宗教を 弾劾する。

     たたき台を述べて 表題についてなお問います。     *  教祖と教義と教団とにもとづく組織は 教祖ないし教義を――そして時にはあろうことか 教団〔の存続〕を――《神》そのものとしてその会員に信奉するようにさせることがある。これは いかにその個人の自由意志によると言っても その結果も行為じたいも 無効である。  自由意志そのものを放棄する自由意志の発揮は 無効である。  すなわち 《信じる心 つまり心に神を受け容れている》に《考えるオシエ つまりオシエを考え実行する》を先行させることは 《信仰》ではなくなる。信仰としての意志自由ではなくなる。つまり宗教組織は 《信仰》という看板を取りはづしてから 宗教と名乗らなければならない。  そうしてこのおそれは そのような可能性がつねにあるという意味では 宗教組織そのものの持つ欠陥である。  よって 組織宗教は すべからくすみやかに解散せざるべからず。  信仰を取り除いて 宗教をかかげることは ありえず 出来ないことだと考えられるからには。    *  ▲ (K.マルクス:宗教批判) ~~~~  ( a ) 宗教的悲惨は現実的悲惨の表現でもあれば現実的悲惨にたいする抗議でもある。  ( b ) 宗教は追いつめられた者の溜息であり、非情な世界の情であるとともに、霊なき状態の霊でもある。  ( c ) それは人民の阿片(アヘン)である。  ( d ) 人民の幻想的幸福としての宗教を廃棄することは人民の現実的幸福を要求することである。  ( e ) 彼らの状態にかんするもろもろの幻想の廃棄を要求することは、それらの幻想を必要とするような状態の廃棄を要求することである。  ( f ) かくて宗教の批判は、宗教を後光にもつ憂き世の批判の萌しである。        (『ヘーゲル法哲学批判序論』)  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ ここでは総じて言って 個人にとっての信仰――わが心に《非思考の庭》が成るということおよびその生きる動態――が忘れ去られている。  個人が信仰をいだく前にも後にも 《現実的悲惨》は われわれの前にある。  それは われわれのものでさえある。  けれども 信仰であるなら――これはマルクス自身も言うように―― たとえ《阿片》であっても痛み止めはそれとして必要であり 持たれてもおかしくない。  そしてそこまでである。信仰をめぐる《超現実(想像の世界また想像物としての神》)》の必然性と必要性とは。  〔そのあとさらに積極的な信仰の保持は 一人ひとりの信教・良心の自由の問題である。そういう人が互いに語り合うのなら 組織宗教にはならない〕。    だから( b )で 《追い詰められた者のためいき》は 信仰に行き着いたとしても 組織宗教には到らない。ほんとうには 到り得ない。    ○ ( b )の修正: 超現実への想像は追いつめられた者の溜息であり、そこにともかく《信仰》を得たならその信仰とはたしかに 非情な世界の情であるとともに、霊なき状態の霊でもある。  そしてこのあと     ○ 《超現実への想像》が 《単なる想像の産物としての神( Y )》をいだくか それとも《非経験の場 としてのナゾなる神( X )》を無根拠として心に受け容れるかに分かれると思われる。  想像物としての神( Y )は けっきょく《考える》の対象である。そして一般に《オシエ》となっている。オシエが神としていだかれることになる。  それでも そのオシエをいだく信念も 《個人にとっての・わがたましいの》問題であるかも知れない。  ただし 信仰は 《思考に非ず》にて 《オシエや人間としての教祖そしてさらには教団》をむろん超えている。その意味でのたましいの問題である。思考や観念の神と分けて 霊なる神である。霊とは 非合理である。思考に非ずというからには。    《非思考の庭》にあってワタシは 人は人をころさないものだなぁという直感(ないし直観)を得る。そこから誰かが 《汝 ころすなかれ》というオシエをこしらえる。けれどもこのオシエは 信仰内容の固定観念化である。偶像である。  教義をこしらえたからと言って その教祖にしたところで えらいわけではない。オシエは 非思考に先行していない。  問題は 一人ひとりの内面における信仰としての心の伸びもしくは心の明けである。この明けがあれば どの神・どんな形態の信仰に対しても わが心は開かれている。閉じられていない。《信じる》は 人の心的現象として 何ものにも先行するところのものゆえである。  無思慮とも言うべき非思考の庭が・そして次に感性(直感)が 理性に先行している。  オシエは 混沌とした信仰内容に先行しない。まして組織ないし集団が 個人に先行するものではない。(それはただ 無効の行為として 権限関係などによってたまゆらの有力となるのみである)。  組織宗教は 自己解体を前提として みづからをへりくだらなければならない。  オシエよさようならと言わなければならない。  したがって     ▲ ( f ) かくて宗教の批判は、宗教を後光にもつ憂き世の批判の萌しである。    と言えたとしても 問題は実践としては すでに《教義ないし教祖を後光に持つ》という組織宗教じたいについての批判が先である。  あとは ふつう一般の人間論ないし存在論が来ると思われる。  (非思考なる信仰が 思考に先行するという命題を 人間の内面についてあるいは社会的側面に沿って問い求めておかねばならない)。  (社会政策といった側面は 社会哲学のさらに応用部門であるように思われる)。    個人の信仰の宗教化(教義化)およびそれにもとづく組織化 つまり組織宗教というものは すでにその存在じたいにおいて 信仰の自殺行為である。  信仰にかんする自由意志の放棄・従って人間の存在そのものの放棄 これらをおこなったところで成り立つ代物だからである。  つまり 非思考が思考に先行するという命題が 有効であるなら そういう結論になる。  仮りに信仰をも批判する人がいて      ▲ ( d ) 人民の幻想的幸福としての宗教  というくだりを 次のように言いかえたとしよう。      ○ ( d )の修正: 個人の幻想的幸福としての信仰  だからいけないという論法で信仰をも批判したとしてみる。どうなるか?  まづは 幻想ないし超現実を想像しない人間がいるか? このように反論する。  つまり想像物としての神( Y )も それとして 有益な場合がある。特には 小説などの虚構によって人間の真実を表現しようとする芸術の場合である。  つぎにもし《非思考の庭に無根拠にていだいた神( X )》にもとづく《信仰は 幻想的幸福》でしかないとした場合。  この場合 問題は 人びとどうしのかかわり(関係)とまじわり(交通)にある。共生の問題でもある。  すなわち 互いに言葉をとおして意思疎通を図っているのなら 問題はない。コミュニケーションが取れていれば 何も問題はない。蛸壺に閉じこもるのでなければ その信仰なる主観がたとえ幻想であったとしても 話し合いをつうじて思考および感性としての生活が 社会の現実に合ったものであれば 問題ない。  信仰は 教義化をせずその中身は わづかにヒラメキとして持たれることがらまでである。  そのヒラメキから得た内容を言葉にし思考の問題としてもし自己表現するとすれば これを他人に押しつけない。語り合うまでである。  言いかえると 信仰の無において生きている人びとも その思考内容つまり主観を他人につたえるということまではおこなうというのと まったく同じことである。  そこで互いに心から同意する思考内容があれば みづからの意志で摂取するだけである。信仰ゆえに対話する。開かれている。その《幻想的幸福》は 練られて行くはずである。  よって 組織宗教は要らない。要らないだけではなく そのオシエが信仰にとって信仰なる蝉の抜け殻のようなものであり 人びとの主観の自己表現つまり意志伝達にとって オシエ〔の固持〕が 自分のあるいは他者の自由意志を侵害する傾向に満ちている。ゆえに ここに弾劾する。

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