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南北朝時代について質問します

kkanreiの回答

  • kkanrei
  • ベストアンサー率23% (84/357)
回答No.1

ないでしょう。 後醍醐天皇が天皇を中心とした中央集権政治を目指し、公家たちもそれを支持していたから、軍事的な計略をいくらめぐらしても南朝に勝利の目はありません。 太平記にもあるように、君が君としての資質がなければ、臣も臣として振舞えない。 後醍醐天皇に君としての資質がなかったので、建武の親政失敗した。 だいたい、なにも努力せず、うわまえばかりはねていた朝廷に武士がついていくはずがない。 武士=土地の開拓者。武士が土地を支配する権利がある。 唯一、後醍醐天皇が足利尊氏と和睦して、尊氏を征夷大将軍にして幕府を認める。 そして朝廷は、北朝がのちにしたように、飾り物になって、政治に介入しない。 こんなことができたら、南朝の子孫が現在の天皇になっていたかもしれません。 後に、直義と尊氏が仲たがいして観応の擾乱が勃発しても、一時的に南朝に下る武士がいても、恒久的に南朝を支持する有力武士はついに現れなかった。真に南朝のために働く武士は少なかった。

noname#193409
質問者

お礼

お答え、ありがとうございます。ただ、序盤の、光明天皇推す前なら、賊軍扱いだったので、尊氏の首さえ、取れたら、なんとかなったかも、しれませんが、所詮、朝廷ですから、後の信長ですら、吐き捨てていますから、あなたの、言う通りかも、しれないですね。

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