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南北朝時代について質問します
南朝廷側が、勝利する方法は、なかったんでしょうか?考えたのは、1、朝廷及び公家達に、軍事に介入しないようにする。2、楠木存命中に、足利直義を、南朝廷側に、引き込む。3、北畠あたりにでも、征夷大将軍任命する。くらいしか、思いつかないです。アドバイスお願いします
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- TANUHACHI
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南朝が支配権を確立しうる可能性は皆無に等しいといっても過言ではありません。 南朝には財源基盤がありません。後醍醐が目論んだのは平安時代の「延喜・天暦の治」と呼ばれるスタイルでしたが、実際の「延喜・天暦の治」も経済基盤はガタガタです。律令が当初に意図した班田制も8世紀には既に崩壊過程に入り、9世紀には中世的経営でもある荘園に移行、それと共に在地領主層の成長もあり、律令制的地方行政システムも機能し得ない事態に至っています。 そうした状況を再現するということは、どうしても後醍醐の歴史認識が如何にアナクロニズム的であり、歴史の現実から乖離しているかを疑わざるを得ない以上、天皇親政などは意味すらありません。 そうした天皇親政を是とするのが南朝のスタンスですから、それは滅びる以外の選択肢はどこにもありません。 (1)の「朝廷及び公家達に、軍事に介入しないようにする」といっても、後醍醐側は軍事指揮権を発動できる勢力もなく、天皇親政であるならばそれは律令制的官職を司る公家でしかありません。その公家を排除したなら何もないに等しい状態ですから、敗北も必然です。 (2)の「楠木~」の問題も、物語としての個人と足利直義の政治家としてのスタンスを同列に並べて議論することそのものが誤解ともいえます。 尊氏と直義の二頭政治が機能し得たのは、軍事的カリスマとしての尊氏の資質と政治家としての直義による役割分担が適切にできていたからであり、地侍としての楠木正成の存在とは次元も異なります。 「二条河原落書」と呼ばれる有名な史料がありますが、その冒頭には「此頃都ニハヤル物 夜討 強盗 謀(にせ)綸旨」とあり、後醍醐による復古主義の象徴的存在である雑訴決断所による決済文書の発給が如何に朝令暮改敵でありインチキな紙切れにしか過ぎなかったことを雄弁に物語ってもいます。 これでは武家も南朝に付き随うことなどないことも明白です。 尊氏が当初は後醍醐を担いだのは源頼朝が以人王の令旨による平氏追討の大義名分を手に入れたことと同じ性質の事象です。権力が権威を必要とした象徴的な出来事ともいえます。
- DieMeute
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○回答・・・「建武の新政」を改める事。 「建武の新政」により後醍醐天皇は武士階級に不満を持たれました。 南朝側の北畠顕家でさえ「建武の新政」を批判する上奏を行っています。 北畠親房も批判しています。 公家の三条公忠なども批判しています。 「建武の新政」を改め、特に武士に対する配慮を改めて行えば、武士の不満もかなり和らぐでしょう。 そうすれば足利尊氏に味方した武士達を南朝に引き込む事もできたかもしれません。 そもそも足利尊氏が後醍醐天皇に背くようになっていった一因はこの「建武の新政」です。 後醍醐天皇がもっと武士階級に配慮し、最初から足利尊氏を政治に関わらせ、その意見を汲んでいたら、あのような事態にはならなかったかもしれません。 ○初期にという話になりますが…これまでの悪政全ての責任を取らせる形で、後醍醐天皇を幽閉し、後村上天皇を速やかに立てる。 後村上天皇の下、北朝側の武家を調略し味方に付ける。 後醍醐天皇は「建武の新政」だけでなく、その生活においても歌舞、蹴鞠が大好きで「痛ましきかな今の政道」と公家に批判されたり、実の息子である護良親王を陰謀からかどうかは不明ですか処分するような人物です。護良親王は武家よりも父を恨むという言葉を残したとか…そういう人物が南朝のトップでは、武士達を引き付けるのにも大変過ぎます。 新たな天皇の新たなご政道に期待し、できればその徳をもって武士達を引き込めたらと…それには後醍醐天皇とは政治のやり方を大幅にかえる事も必要かと。 ○公家に資金を出させ軍を増強する事。 後醍醐天皇は公家に過大な恩賞を与え、公家の中にはそれで毎晩酒宴を開いて居た者といたとか…そういう公家からは国の危機という事で臨時の徴収を行い軍費を吐き出させます。 ○戦いにおいて言えば、足利尊氏は新田、北畠、楠木らに1336年に敗北し、九州に逃げていきました。 その時、追撃をかけ尊氏の首をとらなかった事が最大の失敗だと思います。
- eroero4649
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あの時代にそんなに詳しくないですが、足利尊氏も優柔不断というか、ちょっとどうよって感じですよね。もっと腹を据えてかかれば後醍醐天皇を廃して自分に都合のいい天皇を押し立てて「尊氏完全勝利」で室町幕府が成立して何十年もの混乱は起きなかったと思います。尊氏はどうも後醍醐天皇が少なくとも嫌いではなかったようで、その妥協主義がいらん混乱を招いたともいえますよね。時と場合によっては力で敵を全滅させた方がかえって平和と安定が早く回復することがあります。 さて、とはいうものの結局南朝がなぜ敗北したのかというと、要は世間の支持を得られなかったということですよね。世間の支持というか、当時実際に実力を持っていた武士階級の支持です。 後醍醐天皇とその周囲の公家が望んだ「理想の後醍醐政権」というのは、「天皇と公家のための、公家にとって非常に都合がいい平安時代のような社会」だったわけです。そんなの、武士階級にとっては割に合わないから支持するわけがないですよね。だからみんな足利尊氏があんなに何度も負けても支持したわけですよ。 実際に、楠正成が策を献じても周囲の公家は「合戦に勝つのはすめらみことのご威光によるものであって、武士が頑張ったから合戦に勝つわけじゃねえんだよ、この土民が」なんて言い放っているわけですよ(本当)。質問者さんだって、勤めてる会社で「お前たちが給料が貰えるのも、社長が偉いからであって、お前たちが頑張ってるわけではない」なんていわれたら辞めたくなるでしょ?あたしゃよく楠正成は最後まであんなバカたちに忠誠を誓ったもんだなと思いますけどね。 「公家が雅に都の邸宅で和歌を詠んでいる間に武士や農民が汗水たらして働いて公家の生活を支える社会」が後醍醐天皇が夢見る政権だったんだから、世間知らずのお坊ちゃまもいいところですよね。 尊氏と妥協して、自分の血筋を残すことを勝利と考えていればそういう意味では南朝の勝利には充分なったでしょうが、しかし後醍醐天皇が夢見たのは「俺が権力を振るう政権」です。それで彼が何をやりたかったのかというと、「天皇と公家による、公家のための政治」なんですから、そりゃ時代錯誤も甚だしいのですよ。 現代でいうなら、トヨタの豊田社長が「これからは豊田一族が実権を握る。目指すのは豊田一族がウハウハで儲かってグループ企業の経営者もぜんぶ豊田一族が独占する会社だ」と言い出すようなものです。
- kusirosi
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ありますよ。 楠正成の進言どうり、 尊氏と和睦、室町幕府の統治を認め、 南北朝合一すれば、よかっただけです。 後醍醐天皇を尊敬していた尊氏ですから、 やがて、後醍醐天皇の子孫に皇位継承認めたでしょう。 後醍醐天皇が、もうすこしだけ広い視野で民草の幸福を考えれば、 何十年も日本が二つに割れることはなかったのですが\(^^;)... zzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzz
- kkanrei
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ないでしょう。 後醍醐天皇が天皇を中心とした中央集権政治を目指し、公家たちもそれを支持していたから、軍事的な計略をいくらめぐらしても南朝に勝利の目はありません。 太平記にもあるように、君が君としての資質がなければ、臣も臣として振舞えない。 後醍醐天皇に君としての資質がなかったので、建武の親政失敗した。 だいたい、なにも努力せず、うわまえばかりはねていた朝廷に武士がついていくはずがない。 武士=土地の開拓者。武士が土地を支配する権利がある。 唯一、後醍醐天皇が足利尊氏と和睦して、尊氏を征夷大将軍にして幕府を認める。 そして朝廷は、北朝がのちにしたように、飾り物になって、政治に介入しない。 こんなことができたら、南朝の子孫が現在の天皇になっていたかもしれません。 後に、直義と尊氏が仲たがいして観応の擾乱が勃発しても、一時的に南朝に下る武士がいても、恒久的に南朝を支持する有力武士はついに現れなかった。真に南朝のために働く武士は少なかった。
お礼
お答え、ありがとうございます。ただ、序盤の、光明天皇推す前なら、賊軍扱いだったので、尊氏の首さえ、取れたら、なんとかなったかも、しれませんが、所詮、朝廷ですから、後の信長ですら、吐き捨てていますから、あなたの、言う通りかも、しれないですね。
お礼
お答えありがとうございます。和睦も、確かに、ひとつ手段では、ありますね。その後の、対応しだいでは、後の関ケ原の徳川が、豊臣側を、15年かけて、戦力や財産を、失っていくような、戦略をすれば、足利幕府は、応仁の乱を、待たずに、弱体化に、成功したかも、しれませんね。