なぜ日本人はあほうとばかとが多いのか?

このQ&Aのポイント
  • なぜ日本人はあほうとばかと言われるのかについて、昔の日本人と現代の日本人の特徴を比較して考察します。
  • 日本人があほうとばかと言われる理由には、社会の連関制やマクロとミクロの問題が関係しています。
  • また、無常観としての《さとり》が世の中を飛び交っているのか、認識の瞬間に悪夢が消えていくのかについて考えます。
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日本人は なぜあほうとばかとが多いのか?

 ばか丸出しのわたくしから見てもそうであり 目立つ場合に極論したらということです。(ほかの国の人びととは特には比べていません)。  これを あらためて問います。  昔の日本人を思い描いてみるに こうだったのではないか:  1. きわめて話し下手である。  2. 知らない人とは容易に口を利くことをしないし できない。  3. そのくせ 人のことをよく見ている。見知らぬ人が困っているのを見たら むしろ何のためらいも無く声をかける。  4. 向こうから人が歩いてくれば道をゆづる。お年寄りには席をゆづる。  5. 報酬が決まりより多く支払われると 突き返す。決まりとは違うという意味らしかったが 怪訝な顔をして 突き返す。  6. こちらが勘違いしたりほんとうに間違えたりしたとき こちらがあやまると いいえこちらこそ気がつきませんでと応え返す。  7. (1)(2)より:外国人に話しかけられても 何も言えない。あほうとばかとを掛け合わせたように ただしにこにこ顔で だまっている。ただし困っている様子をみたら 自分がパニクったごとくその人のために何とかしてやろうと奔走する。  いまは  8. ぺらぺらべらべら しゃべり過ぎる。ところが中身にとぼしい。  9. 相手の粗さがしを考えている。  10. 道は相手がゆづるものと思っている。  11. かっこうをつければ人は 自分にしたがうものと思っている。  12. とにもかくにも あほうとばかとを掛け合わせたごとくに中身のないことをしゃべりまくって 人を手なづけようとする。  13. ・・・(みなさんのご意見を)・・・  原因について マクロとミクロとそのおまけとをたたき台に述べます。  14. 言わずと知れた《アマテラス公民主導 ‐ スサノヲ市民従属》なる連関制として社会が築かれてしまったから。  15. この《 A ‐ S 》連関制のもとで やっと本来の主役で主導するはずのスサノヲ市民圏に主権があるとうたわれるようになったけれど アマテラス公民圏による主導体制はいまだにつづいている。その昔は このアマテラス公民には 無謬性が付与されていたわけです。神聖にして侵すべからずに近い感覚で 公務員はあやまつわけがないというけっきょく神話が世の中を覆っていました。  16. 要するにスサノヲ市民は 阿呆だと思われていた。その長い歴史の影響で おんぶにだっこの甘え癖がついてしまった。これが マクロの観点から見たあほうとばかの製造過程である。  17. 人と人との関係においては それが特にすでに組織の中にあっては つねに何らかの上下の関係が 権威や権力や権限をともなってでもあるいは伴なわないかたちででも 出来て来る。  このようにまなざしを上からそそぐ側と下にあってそそがれる側とに ふたりの人間は分かれるのがふつうである。  18. ならばすでにそのまま人間と人間の関係は ときとしてガミガミ役とアース役とに分かれる。ガミガミ役はところ構わずアース役に対して 自分の意識を排泄するというのが ガミガミの中身を成す。  19. アース役がこのゴミを受けて処理せねばならない。このゴミ処理に失敗すると 精神衛生上よくないことが起こる。  20. けれども 感受性のするどくて懐の深い人間に限って このアース役をいつのまにか引き受けている。  21. ただしアース役になる人間も 別の人間に対しては ガミガミ役に回ることも考えられる。よって世界は意識の排泄なる社会廃棄物とその未処理によって ガミガミ電磁波による感染列島と化す。  22. この《ガミガミ役 ‐ アース役》連関は むろん言わずと知れた《 A - S 》連関制の擬似形態なのである。これが ミクロの問題である。  23. 引きこもり役までをわれわれの社会は製造してしまった。《アース役はつらいよ》という大合唱を始めてもよいくらいだ。  おまけ:  24. ところが ここまで来ても誰も――愚痴のほかは――何も言わないししない。あほうとばかばかりが目立つ。どうしたことか?  25. 世の中にこの《 A - S 連関制》のむなしさをちゃんと知っており それでも さらに世の中の無常をさとって この連関制は変わらないと決め込んだ存在が何人かいて その人びとのもとに このひと言で《死》というべきあほばか状態を保とうとする勢力がいるのではないか?  26. というのは 所謂る陰謀説で どうも実際はそうではなく そのような無常観としての《さとり》が 観念となって・つまりは幽霊のごとくに 世の中を飛び交いまた歩きまわっているのだろうか?  27. このインフルエンザに人びとは感染してしまっているのか? だとしても ただそれだけではないのか? この認識の瞬間に 悪夢は消えたのではないか。  とことん自由で建設的なご批判をお寄せください。賛成票をもどうぞ。

質問者が選んだベストアンサー

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回答No.14

> つまり言いかえると 《口数の少ない人》が 目立ってひとつの特徴的な社会現象だ(だった)と言えるのではないでしょうか。 それは無いと思います 井戸端会議も、油ばっかり売ってとかの言葉も 日常会話で情報交換してる事の根拠だと思います 記述に残ってないだけで、口数については人によりけりなのではないか?と思います > > 4. 向こうから人が歩いてくれば道をゆづる。お年寄りには席をゆづる。 > ☆ たとえば近所の人びとや 町のバス・地下鉄などの交通機関で 数十年のあいだ人びとの様子を見て来て かなりの程度でその違いがみとめられる。ということを言いたい気持ちがあります。 確かに最近ちょっと変だなとは思いますが お年寄りについては、核家族化によって相手の現状を知らないからだと思います 人が歩いてくるから道を譲るというは普通に行われてる事です もし、それが事実でないとすれば、渋谷のスクランブル交差点は人とぶつかりまくってるはずです ですから、それを事実とするには無理があると思います それとは別に、譲らなくても良い状態の時に譲る回数が少なくなってる という意味でなら多少合ってると思いますが (横断歩道に立ってる時に、車が譲るかどうか、というレベルです) 人が歩いてきた時、という、そのまま歩くとぶつかるという状況の場合は譲ってると思いますよ > > 5. 報酬が決まりより多く支払われると 突き返す。決まりとは違うという意味らしかったが 怪訝な顔をして 突き返す。 > ★ ~~~~~~~~~~~~~ > そのまま受け取る人も居ます > 律儀に守る人が多いという意味では合ってるとは思いますけどね > ~~~~~~~~~~~~~~ > ☆ これは 大事な事柄だと思うところで 意外(?)と 昔の人の気質が分かってもらえたのでしょうか。 これは他の国に比べてという意味で、今でも突き返すという事は多いと思います というか、私は返してます 返さない人の話を聞いた事もありますし 本当に人によるとしか言えないと思いますよ > 7. ・・・ただし困っている様子をみたら 自分がパニクったごとくその人のために何とかしてやろうと奔走する。 > ☆ たぶん (3)と同じだから 触れておられないのでしょう。 それは余裕がある場合の話で、余裕が無い場合はそういう事はしないと思います ですから、昔が、今が、ではなく余裕がある人はという事になると思います 今でも外国人相手にちょっと手を貸すという事はよくある話です > ★ 全体的に傾向を出すほどの内容は無い > ☆ というのと 有るというのとで 見解が違っているようではあります。 ここの差が問題だと思います > ★ さらに言えば、行動内容が個人的すぎて / 昔の人がどう行動したかの資料が出ないと思いますよ > ☆ わたしは 《道をゆづる》問題が いちばん 特徴となると思っています。けっきょく他人(ひと)の話を聴くかどうかですから。ひとの意志をとうとぶかどうかになりますから。人間性の重要部分にかかわると思われますから。 そこまでは行かないかと 人の話を聞くかどうかという意味では、昔と今が違うかと言われると変わらないと思います 個人的には弱者に対して余裕を持って行動出来るかどうか、という事なのではないでしょうか? そういう意味なら同意できますが、それ以上は行かないと思います > ★ ~~~~~~~~~~~~~~~ > 残ってるのは規範としてこう行動しましょうという内容だと思いますが > 実際に昔の人がどういう生活状態だったか、確認出来る資料をお持ちなんですか? > ~~~~~~~~~~~~~~~~  > ☆ これは いまこの問いにとっては 《資料》の問題ではなく 《規範としての行動》という問題には持って行きたくないと思っています。 何故そういう事を書いたかというと 昔の行動が規範をなぞった行動に見えて、比較対象として出してるのが現在のあまり良くない行動に見えるからです 規範なら規範同士で比較するのが正しいと思いますし 現在の行動傾向なら、実際の昔の行動傾向で比較するのが正しいと思います ただ、昔の人の行動傾向で残ってるのは規範として残ってる物が多いので 行動傾向を実際に比較するのは難しいのでは?と思います

bragelonne
質問者

お礼

 にっくねーむがないさん こんにちは。ご回答をありがとうございます。  個々に反応してまいります。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~   > つまり言いかえると 《口数の少ない人》が 目立ってひとつの特徴的な社会現象だ(だった)と言えるのではないでしょうか。  それは無いと思います  井戸端会議も、油ばっかり売ってとかの言葉も  日常会話で情報交換してる事の根拠だと思います  ~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ これは 趣旨説明が舌足らずだったようです。すなわち 次のごとく(1)(2)(3)は じつはその話の前提がつながっています。  ☆☆(趣旨説明欄) ~~~~~~~   1. きわめて話し下手である。   2. 知らない人とは容易に口を利くことをしないし できない。   3. そのくせ 人のことをよく見ている。見知らぬ人が困っているのを見たら むしろ何のためらいも無く声をかける。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ すなわち (1)話し下手な人が目立つのは たとえば (2)知らない人とは口を利かないところである。ところが (3)そのくせ見知らない人であっても困っていたら 声をかけたりする。  このことが 《特徴的な出来事》であると見たものです。  井戸端会議などでの日常的なナラワシについては 微妙に違っていても それとは両立すると見るものです。  4. 向こうから人が歩いてくれば道をゆづる。お年寄りには席をゆづる。  ★ 確かに最近ちょっと変だなとは思いますが  ☆ この程度の感想が出る事態で 満足です。  ★ お年寄りについては、核家族化によって相手の現状を知らないからだと思います  ☆ 昔も 《相手の現状》を知って席をゆづったわけではないと思います。よ。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~  人が歩いてくるから道を譲るというは普通に行われてる事です  もし、それが事実でないとすれば、渋谷のスクランブル交差点は人とぶつかりまくってるはずです  ~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ これについては 後出しジャンケンになったようですが だいたい狭い道を歩くときのことが 問題です。つまり  ☆☆(No.11お礼欄) たとえば狭い道を 向こうから二三人が横並びで歩いて来る。つまり道一杯である。こちらは 脇に寄って すれちがうようにする。というとき 相手の群れは いささかもその横列をくづさない。道をゆづる気配はない。  ☆ という問題です。そしてそういう場合に ぶつからなかっとすれば それは 一方の側がゆづったからです。――という場合が 多いのです。感触としてですが。  ★ 人が歩いてきた時、という、そのまま歩くとぶつかるという状況の場合は譲ってると思いますよ  ☆ ええ。場合としては こういう場合です。しかも 平気でゆづらない場合が多いと見ています。     だいたいの目安で言えば 一人で歩いている場合は そしてこちらとの二人ですでに道幅いっぱいだったならば ゆづることが見られます。  二三人連れだったり 要するに道が横にならんでその幅一杯になるときの場合には ゆづったことを見たことがないほどです。つまり とうぜんぶつかるという場合です。  すなわち わたしはヒマに任せて実験をすらやったことがあります。ぶつかる寸前まで歩いて来た位置をこちらもそのまま前へすすむ とどうなるか? 相手たちは どうするか?   無理ですね。せいぜい その寸前で脇へ寄ったわたしとすれ違う側の一人は 身をかわす姿勢をとりますが道をゆづるという考えは 皆無ですね。  ――というふうな事例が たとえすくないものだったとしても きわめて目立つ。と言えると考えます。  5.  ★ これは他の国に比べてという意味で、今でも突き返すという事は多いと思います / というか、私は返してます  ☆ これをお聞きして もうそれだけで満足です。  7.  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~  それは余裕がある場合の話で、余裕が無い場合はそういう事はしないと思います  ですから、昔が、今が、ではなく余裕がある人はという事になると思います  今でも外国人相手にちょっと手を貸すという事はよくある話です  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ これは そういうことでしたら 《〈余裕がある無い〉の度合いによる》というのが 正解ではないのでしょうか。  けれども よほど自分の用事が緊急を要する場合でないかぎり 昔の人は 困っている外国人のために奔走したという感じがつよいです。外国人がすくなかったという事情の違いはありますから 割り引いて捉えなければならないかも分かりません。  道をゆづるかどうかが 話し合いにおいて相手の話をよく聞くかにつながっており けっきょくは人間性の問題になるのではないか?  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~  そこまでは行かないかと  人の話を聞くかどうかという意味では、昔と今が違うかと言われると変わらないと思います  個人的には弱者に対して余裕を持って行動出来るかどうか、という事なのではないでしょうか?  そういう意味なら同意できますが、それ以上は行かないと思います  ~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 《弱者・強者 あるいは 身分地位などの上下関係》を持ち出すとなると 変わって来るでしょうね。    狭い道を 向こうから いかにも社会的地位があって身分の高い人間が歩いて来たなら 大昔の人なら そのまま脇に寄って立ち止まって 道をゆづったかも知れません。――つまり〔これは 大昔だけの話ではありますが その面影を残すような〕それに似た場合というのは 二三人で横並びをしたまま狭い道を歩くといった問題とは 違って来ます。  そして 道をゆづる問題が 人間性の問題につながるというのは 何も相手を(または 自分の側を)弱者だと見て どうするかといった事例とは 少し事態がちがう。とも考えます。  道を互いに対向してあるくといった事例は 何も相手との人間関係が《強弱・上下》にはかかわらず ぶつかるかそれを避けるかの問題です。  話し合いにおいて相手の話をよく聞くかどうか。これも 互いに誤解を避け なめらかに合意に達しようとする気遣いの問題です。  むろん 社会関係として 二者(ないし二組)のあいだには強弱の差がおよそつねにあるはずですが でもそれを一たん捨象して 話を聴くかどうか 話を合意にみちびくかどうかというひとつの問題にしぼることも出来るのではないか。  ですから そういうひとつの観点だけを取り上げるなら 《余裕》という問題も あまり出て来ないと思うのですが どうでしょう。  ★ 規範なら規範同士で比較するのが正しいと思いますし / 現在の行動傾向なら、実際の昔の行動傾向で比較するのが正しいと思います  ☆ そうでしょうね。    そしてその上で考えるのですが おそらく昔は 規範は 幅広い社会の範囲での教育というかたちであった・植えつけられていたと思われますが それも 少し違うと思っています。  なぜなら たとえ父親や家長が権威を持っていたというような情況にあっても 問題はけっきょくは いまも昔もいわゆる《クウキ》にあるかと考えるからです。クウキが 或る種の仕方で 《規範》であるからです。(それが 普遍性を追究した倫理規範のようではないとすれば・けっしてそういう意味でのよき規範ではないですから 《呼び水・誘い水》と言ったほうがよいかも知れませんが)。  すなわち このように或る程度明示的な規範を気にしていた昔(つまり クウキが 或る種のオシエにまでなっていた時代)と 決して明示的ではないにもかかわらず意識にはうったえてくるしそれに従うようにうったえているクウキを気にしている今とのあいだで どういうことが言えるか?  昔の人は おおまかに言って 一本の丸木橋を渡ろうとしたとき 向こうから人が来たなら 先をゆづることを心がけていた。(規範ないしクウキに関係なくです)。  いまの人びとは どうか?    感覚でいいですから この質問をとおしてうかがえたらよいという考えでいます。  ○ (規範ないしクウキに関係なくです)。

その他の回答 (17)

noname#197435
noname#197435
回答No.18

こいつはバカアホと言われても、誰かに声をかけてほしい根暗野郎なんです 精神疾患かどうか調べるといい。なにをいってもm(_ _)mなんでやっぱりおかしいぞ

bragelonne
質問者

お礼

 多少はおつむをつかっているようですね。  ご投稿をありがとうございます。

回答No.17

 こんばんは > ☆ えらい人たちは およそ政治家が汚いと見られるのと同じ程度に 信用ならないというふうに推移して来たと思っていましたが これが いまだに人びとのあたまや気持ちに残っているとしたら もうこびりついているんでしょうね。  はい。厳密にはお互い利用し合っている、という感もございます。 ・企業や大学側:公務員や官僚を神棚に祀っておき、(根回し等で画策し)公務員や官僚からお金が貰う。 ・公務員や官僚側:許可する権限を持っているため、当然、祀られるべき存在と考えている。  もっと、銀行に頑張ってもらいたいと思っています。これでは、国の借金が増えるだけですから・・・ > ☆☆ 27.・・・この認識の瞬間に 悪夢は消えたのではないか。  ☆ ここにのぞみをつないだのですが。・・・  「この認識」ができれば、おそらくこのウィルス感染から逃れられると思われます。ただ、それらを認めたくない輩が多いため、感染が増大していく一方だと思えました。  もっと素直になれば、いいだけの話なのですが・・・ --------------------------------------------------------------------------------------- > それにしても 《200回以上成功した》というのは どういう意味なんでしょう。  そこでまず、以下の2つを分類したいと思います。 1.小保方氏によるNature記載の方法により、STAP細胞が作成可能なのか? 2.STAP細胞自体存在するのか?  ざっくりとではありますが、Natureの論文を見てみました(ソースは下記に記載しております)。  まず、Natureに記載された作成方法は以下のようでした。つまり、pH=5.7という弱酸条件で作成しているようです。 Methods Tissue collection and low-pH treatment  1 × 10^6 CD45-positive cells(つまり、白血球細胞) were treated with 500 μl of low-pH HBSS solution (titrated to pH5.7 by HCl) for 25 min at 37 °C, and then centrifuged at 1,000 r.p.m. at room temperature for 5 min. ソース: http://www.nature.com/nature/journal/v505/n7485/full/nature12968.html  一方、以下のサイトでは、香港中文大学の李氏は定量的RT-PCRを用いて各タンパク質をコードするmRNAの発現量を調べています。結果は2ページ目の上段にございますが、Trituration(微細なガラス管に細胞と溶液の混合物を通すこと)により、Oct4などの発現が示唆されるのに対して、[Nature記載での]弱酸条件ではむしろ発現していないことを示しております。 ソース: 香港中文大学、STAP細胞作製の再現に成功か http://wired.jp/2014/04/02/stap-cell-theory-salvaged/  以上の結果から、さらには匿名の研究者10名による再現性試験から、”弱酸条件”、つまり、”Natureに記載の方法”では、成功しないと考えております。  換言しますと、以下の問いには、答は”No”と考えております。 1.小保方氏によるNature記載の方法により、STAP細胞が作成可能なのか?  では、2番目の問いにはどうでしょうか?  これつきましては、まだ答えが出ていない状況にございます。また、いわゆる”悪魔の証明”になりますので、「存在し”ない”ことを証明」は極めて困難であります。  なお、今回の会見の目的は”労働問題”であることから、小保方氏が研究者として再度やっていけるかどうか、についての問題であったかと思われます。  そこで思ったのですが、「STAP細胞の存在」に賭けているように思えました。つまり、論点をずらして、STAP細胞が存在するならば、後はどうにか言い訳をして(例えば、「当時は共同研究者と共に別途特許出願を計画していたため、詳細な作成方法は発表できなかった」、などと後になって発表するわけです)、逃げ切ろうとするというものです。  従いまして、 「《200回以上成功した》というのは」・・・とりあえずの方便だと思われました。

bragelonne
質問者

お礼

 こんばんは。ご回答をありがとうございます。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~  はい。厳密にはお互い利用し合っている、という感もございます。  ・企業や大学側:公務員や官僚を神棚に祀っておき、(根回し等で画策し)公務員や官僚からお金が貰う。  ・公務員や官僚側:許可する権限を持っているため、当然、祀られるべき存在と考えている。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ あぁ。これは その昔 《ゆすり・たかりの構造》とか言われていたと思います。民間が公務員に対して そういったハタラキカケをおこなうというそれです。       *  ★ なお、今回の会見の目的は”労働問題”であることから、小保方氏が研究者として再度やっていけるかどうか、についての問題であったかと思われます。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~  2番目の問いにはどうでしょうか?  これつきましては、まだ答えが出ていない状況にございます。また、いわゆる”悪魔の証明”になりますので、「存在し”ない”ことを証明」は極めて困難であります。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~    ☆ この二件について ありがとうございます 承知いたし得たと思います。  笹井氏も 《存在する》で明日にも会見するそうですが あまり期待できないということなのですね。  Natureの論文が 見られるのですね。かなりの量もありますね。

回答No.16

ぶらじゅろんぬさん、いつもご返事ありがとう。 おいらもときどき機械みたく動くだけ動いて オツムは引きこもってたりするんだけど、 友達としゃべってたら少し元気になったみたい。 ひとに期待したら己が絶望するだけだし、 期待されたほうも迷惑なのだろうけれど、 >けっして対等なかたちで話し合いを持つことは ない >官僚・公務員は全か無かのごとくはっきりと質が違う :司会者さん暗いです、みんな同じ「人間」でしょう? >《誇り》によってこそおこなう :誇りってのはそんなもんなんですか? そうぢゃない、誇りなんかぢゃない、 無料でエサをばら撒く、エビで鯛を釣る姿だろ。 この人たちは鏡を見たほうがよろしい、 鏡はにゅうとらるである、白雪姫の継母にも。 町内会は、面倒くさいけれど、 近所の人たちにおいらもお世話になってるし これから子どもも長らくお世話になるだろうから、 つまり、おいらのために!付き合ってもらってます。 会釈してくださる人がいるというのは ありがたいなあと思います、会釈にかかる時間1秒。 神社は祭りの手伝いなんかでツラを出しますが、 寺には行かなくなりました、ずいぶん前から。 おばあちゃんが101歳で亡くなったとき、 お墓にカラフルなお花がいっぱい咲いていた、 たくさんの子どもと孫と曾孫がお墓に集まった、 と聞いて、おばあちゃんよかったね、と思ってるだけです。 おいらも娘息子(曾孫)もおばあちゃんが生きてる間に たくさんしゃべったけれど、もっと話したかったなあ と思ってるだけです、 >信教の自由をやぶっている :ここは、おいらは別に怒りません、 おいらが奴隷にならなければ、おいら澄みますのんで。 司会者さん暗いですわ、 まんじゅうでも喰いませんか? ひとりで喰うよりひとの隣で喰うほうがうまい。 とか言いつつおいらはときどき引きこもる、 拒絶しちゃってごめんなさい…と思いつつ。 ああそうだ、 入れ物というのはモノを入れるためにあるらしい、 モノが入らないくらいいっぱいになったら、 一度カラっぽにしなくちゃいけないらしい、 お2階さんの入れ物は溢れてるんだろうか、 おいらみたいな庶民がカラっぽにするのを 手伝ったほうがよろしいか? 土曜の夜なので(?)しゃべりすぎてしまいました。 どうもお邪魔しました。                           

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  ★ :司会者さん暗いです、みんな同じ「人間」でしょう?  ☆ こりゃあ まいりました。  たぶんイメージとして 公務員の人たちは 夜が明ける少し前がいちばん暗いというごとく 徹底してそのお二階さん種族として生きているように思っています。夜が明けるということで ご容赦を。  ★ ~~~~~~~~~~~~~   >《誇り》によってこそおこなう  :誇りってのはそんなもんなんですか?  ~~~~~~~~~~~~~~  ☆ まぁ わたしもけっきょく推測の域を出ないと言えばそうなのです。  でもたぶん 骨の髄までお二階さんであり続けようとしていると思います。  ★ 会釈してくださる人がいるというのは / ありがたいなあと思います、会釈にかかる時間1秒。  ☆ あっ ほんとは 話もします。鯖だったかの郷土料理のような鮨を おすそ分けでもらったときには お返しに困ると思ったけれど もらって全部食べました。  ★ おばあちゃんが101歳  ☆ 百歳家系ですか。ひゃああっ。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~   >信教の自由をやぶっている  :ここは、おいらは別に怒りません、  おいらが奴隷にならなければ、おいら澄みますのんで。  ~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 初穂料の《寄付》は あくまで自由で自発的なものと言って説明したあと ことわったら 《いいですよ。わたしが立て替えておきますから》と言ったのですよ。出さざるを得ないぢゃないですか。そういう手口があったのですね。  自分が徴収するのだけは ごめんこうむりました。  ★ お2階さんの入れ物は溢れてるんだろうか、  ☆ たぶん この種の生物は 飽くなき追求の権化だと思いますよ。(あぁ くら!)。  むさぼりの終わりは ないと思います。湯が乗り出しても じゃぶじゃぶ湧き出させるようにすると思います。(あぁ ほんとに くら!)。

回答No.15

ぶらじゅろんぬさん、ご返事ありがとう。 おいらなんかの投稿を読んでくれてありがとう。 閉まってなくてよかった。 おいらが反応したいのはここ。 >《道をゆづる》問題が いちばん 特徴となると思っています。 >けっきょく他人(ひと)の話を聴くかどうかですから。 >ひとの意志をとうとぶかどうかになりますから。 >人間性の重要部分にかかわると思われますから。 :本当に(己をも)「知りたい」と思ったら まづひとの話を聴いて聞いたほうがよさそうだ、 そうでないとひとそれぞれが「生きている」とは言わない のぢゃないかなあって思ってた。 オレの意見をオレがオレがと どしゃべるのはよろしい、 他の人がオレがオレがと どしゃべるのを聴いてるなら。 それにしても どしゃべり合うだけの姿は、 おままごとのような、お2階さんごっこ(?)のようだ。 オレが先に!砂の城の2階に辿り着いたら崇められるみたく。 そういえば都会の人は隣の人の顔を知らないってマジ? 田舎に住んでるおいらの感想だとね、 温かい人が多くて助かってるんだけどね、 最近は「あいさつ」さえケチるドケチが増えたなあって。 みなさん忙しいのか(己の時間が貴重なのか?) 「こんにちは」と言った後5分もしゃべるのはイヤだ、 知ってる顔だけど見なかったことにしようって感じかしら、 「時間がもったいない」というけれど、 あいさつする時間もないくらい「もったいない」のか?時間。 人との交わりを避けて蛸壺にいる時間こそ もったいないんぢゃないのか? 今日は100円ショップでサンダルを1足買って レジで105円出して、袋いりませんと言って商品を持って 立ち去ろうとしたら、店員に呼び止められた、 「お客様、108円でございます!」。 申し訳なさそうな顔してたなあ、店員さん。 この国はそんなに貧乏なんだろーか。 国が貧乏ぢゃなくなったら、 国民はゆたかになるのだろーか。 例によって、たぶんしゃべりっぱなしです。 どうもお邪魔しました。 PS.お2階さん、たまにはステアウェイの真ん中まで 降りてきてくらさい、こっちが先に話を聴きますので。

bragelonne
質問者

お礼

 こんばんは。ご回答をありがとうございます。  土曜日の夕方からがいちばんくつろげます わたしは。  ★ ~~~~~~~~~~~~~  PS.お2階さん、たまにはステアウェイの真ん中まで  降りてきてくらさい、こっちが先に話を聴きますので。    ~~~~~~~~~~~~~  ☆ これは こたえははっきりしています。  心を入れ替えないかぎり けっして対等なかたちで話し合いを持つことは ないでしょうね。民間のお二階さん(?)は まだしも 官僚・公務員は 全か無かのごとくはっきりと質が違うと思われます。  すなわち 仮りに国会議員に立候補した場合に選挙では 土下座までしますが それもあくまで――お金はかからないのですから――自分がお二階さんであることの《誇り》によってこそおこなうのだと思います。徹底していると思います。  いつか或る日或る時 風が吹いて その心が・根性がすっかり入れ替わる日が来るとは思っています。(狂ったように 踊り出す者も出て来るのではないかと思っています)。  百均もそうですが スーパーなんかで レジの人というのは 人によると 徹底的に客をうたがっている場合があるようですね。そのために放出されている電磁場さえ わたしは感じます。そういうセンサーを どういうふうにか そなえたのではないかと見ています。(一つの店に一人か二人です)。    町内会は やめました。豊国神社と熱田神宮のための初穂料を徴収すると言うのです。  信教の自由をやぶっているから ことわると言ったら いいですよ 立て替えておきますからとその当番の徴収係りは言いました。  そして わたしが当番になるという年の手前で 脱会しました。  それで わたしと会釈をしてくれるひとは 隣の人と斜め前の人とふたりだけになりました。まだ つづけてくれるだけでも よいかなと思っています。  ★★★★★★ ~~~~~~~~~~~~  :本当に(己をも)「知りたい」と思ったら  まづひとの話を聴いて聞いたほうがよさそうだ、  そうでないとひとそれぞれが「生きている」とは言わない  のぢゃないかなあって思ってた。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~

回答No.13

こんにちは、ぶらじゅろんぬさん。 たとえば、なんだけど、 子どもが大人の感情を想像できないのは仕方がない、 人生を初めて5年や10年の人たちは、 40年生きる、という経験をしたことがないのだから、 親・教師の気持ちを分かれ!だなんて無茶な話。 けど、大人が子どもの気持ちを想像できないのは、 忘れていることを思い出そうとしないだけ、 大人も昔は子どもだったのだから。 親や教師が「育てるのは大変」と言うけれど 学校という小さな社会の中で人と交わり 「育つ」ことをしている人こそ大変だったりする、 人生を初めて9年や12年の人たちに、 しゃべるな、先達の言うことを聴いていればよろしい、 などと言ってはいけない。 親や教師はそんなに偉いのか?間違わないのか? 若者の話を聴かなくてもよいのか? 以前、お2階さんも、こちょこちょっとくすぐってやれば 目を覚ますんぢゃないの?と言ったような気がする。 けどやっぱ殴っていいかもしらん。 ところでお2階さんは、1階を通ったことがないのか? いつも階段を上らずにずっと2階に住んでいるのか? あまり元気がないので今回はこれでおしまい。 お邪魔しました。                                       PS. ずいぶんゴミが溜まっているようなので、 2階の人にゴミ係になってもらいましょうか…。                                            

bragelonne
質問者

お礼

 にゅうとらるさん こんにちは。ご回答をありがとうございます。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~  ところでお2階さんは、1階を通ったことがないのか?  いつも階段を上らずにずっと2階に住んでいるのか?  ~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ これは おもしろいと思いました。  世襲としてのお二階さんが 多いでしょうね。戦後に貴族(華族)がリセットされたみたいですが。    その昔その初めは アマアガリを果たした人間がいたのでしょうね。初代のお二階さんになった祖先。  さらにその昔は そもそも二階がなかった。    そのおまえたちの住んでいるアシハラの中つ国は 天子さまの土地である。すみやかに渡したまえと言って来たところから お二階騒動が始まった。  戦艦に近いものが《外交》としてやって来たのは 最後のことで その前までは 漁師たちの漁船が来たわけではないけれど ふつうの使いがやって来た。あまりにも居心地がいいので タカマノハラなる天子さまに 何の報告をもおこなわず 住みついた者もあったほどであった。  その結果としては 例の《くにゆづり》とあい成りました。主戦論と非戦論とがあったけれど 人殺しか屈辱かで結着をつけるのなら どちらも人間の弱さによっている。のだから 殺し合わないほうをえらんだ。  ここから 雲の上にお二階がまつられるようになった。  アマアガリするほどの人だから 学力優秀で品行方正だったらしい。とお世辞を言っておきます。  それからというもの  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~  PS. ずいぶんゴミが溜まっているようなので、  2階の人にゴミ係になってもらいましょうか…。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ と思っても 口に出すことがむつかしかったみたい。     ★ ~~~~~~~~~~~~~~~  親や教師が「育てるのは大変」と言うけれど  学校という小さな社会の中で人と交わり  「育つ」ことをしている人こそ大変だったりする、  ~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ けっきょく 生徒や学生であったころには 主体性も何もあったものぢゃなかった。いまは 知らないけれど。  社会へ出てから――あるいは 大学生のころから―― あらためて人間教育を みづからにおこなうというようなかたち。かな。  わがいもうとも 元気がないときがありますが お菓子は黙々とたくさん食べます。

回答No.12

こんばんは > 昔の日本人を思い描いてみるに こうだったのではないか: 「不言実行」が美徳とされ、“男のしゃべりはみっともない”とされていた時代は存在していたと思われます。  一方、 > いまは:  「不言実行」から「有言実行」の次代へと変化しました。しかし実のところは「有限不行」であった、といえるのかもしれません。  いわゆる“モラルハラスメント”が横行する時代でありますから。 ・相手の粗さがしを考えている。 ・人を手なづけようとする。  ではなぜ、このように変化してしまったのでしょうか? 【マクロの観点から】  いまだに、 ・「公務員はあやまつわけがない」、 ・「おんぶにだっこの甘え癖がついてしまった。」  このような傾向は見られると思っております。例えば、”NEDO”や”地域コンソーシアム”にみられる、お上からの資金援助等からもおわかりのように、今もなお、いや、以前にもまして、お上からお金[研究費]をもらおうとする企業、団体、大学等が増えているのも事実であります(昔は素直に銀行からお金を借りていたのですが)。もちろん、その前提には、お上は公正なる”レフリー”をしてくれるとの期待がありますし、また、正しく”おんぶにだっこ”状態そのものでもあります。  ただ、これのみでは、上述のような急激な変化が見られた原因としては、少々弱いと思えました。 【ミクロの観点から】  ある組織内には、もちろん、ライバルや派閥が存在します。これは今も昔もかわらないと思われます。  ただ、歪んだ”競争主義”が蔓延ってしまったのは事実と考えております。つまり、そこでは、強引なまでに「アース役(スケープゴートに近し)」を作り出し、さらに意識の排泄物なるものまでをもまき散らし、組織内においても、以前にはみられなかった”歪み”、”ギスギス状態”がみられるようになったと思われます(もちろん、そこでは大声でどなりちらす方が有利となります)。  このため、 「24.ところが ここまで来ても誰も――愚痴のほかは――何も言わないししない。あほうとばかばかりが目立つ。どうしたことか?」  ”何も言わない”のは、いわゆる「負組」意識が働くからだと推察しております。遺憾ではございますが。 >27. このインフルエンザに人びとは感染してしまっているのか? だとしても ただそれだけではないのか? この認識の瞬間に 悪夢は消えたのではないか。  わたくしには、インフルエンザどころか、エボラ出血熱のような感染率と致命的運命が待っているように思えてなりません。  暗い内容になってしまい、心苦しいのですが、一度筆をとろうと思った次第でございます。どうも失礼致しました。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~   ではなぜ、このように変化してしまったのでしょうか?  【マクロの観点から】  いまだに、  ・「公務員はあやまつわけがない」、  ・「おんぶにだっこの甘え癖がついてしまった。」  このような傾向は見られると思っております。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ あぁ そうなんですか。つまり いろいろこの公務員や官僚についての神話は ありましたし 広くそのような権威が崩壊するのも破壊されることも 聞いて来ております。白い巨塔やら 安田講堂の攻防やら 近くは警察の腐敗なり年金社会保障制度の崩壊なり何なりで えらい人たちは およそ政治家が汚いと見られるのと同じ程度に 信用ならないというふうに推移して来たと思っていましたが これが いまだに人びとのあたまや気持ちに残っているとしたら もうこびりついているんでしょうね。  ○ NEDO:独立行政法人新エネルギー・産業技術総合開発機構:日本のエネルギー・環境分野と産業技術の一端を担う独立行政法人である。(ネド、New Energy and Industrial Technology Development Organization)。  ○ 地域研究コンソーシアム ~~~~~~~~~~~~~  (Japan Consortium for Area Studies、以下JCAS):地域研究に携わる日本の研究・教育機関、学会、市民団体などによって構成される組織体。  2004年に学術の一分野である地域研究の発展を目的として、北海道大学スラブ研究センター、東京外国語大学アジア・アフリカ言語文化研究所、京都大学東南アジア研究所、国立民族学博物館地域研究企画交流センター(民博地域研)の4組織を中心に設立された。事務局は民博地域研に置かれた。  2006年には事務局が京都大学地域研究統合情報センター(CIAS)に移された。大学・学会やNGO/NPOを含む多様な地域研究関連組織が加盟しており、年次集会シンポジウムの実施、和文雑誌『地域研究』の編集、次世代研究者育成のための次世代支援ワークショップの公募などの活動を行っている。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ★ (もちろん、そこでは大声でどなりちらす方が有利となります)。  ☆ 声の大きいもん勝ちというのは 昔からよくあったのですが。  ★ ”何も言わない”のは、いわゆる「負組」意識が働くからだと推察しております。遺憾ではございますが。  ☆ ううーむ。  ★ わたくしには、インフルエンザどころか、エボラ出血熱のような感染率と致命的運命が待っているように思えてなりません。  ☆ エボラ熱 こわいですね。いまは アフリカですが。  ☆☆ 27.・・・この認識の瞬間に 悪夢は消えたのではないか。  ☆ ここにのぞみをつないだのですが。・・・  むつかしいですね。  それにしても 《200回以上成功した》というのは どういう意味なんでしょう。

  • a_hona
  • ベストアンサー率21% (95/444)
回答No.11

賢者になるのは難しいからではないか? 賢者になるには自らの過ちを省みて正さねばならない。 賢者になるには自らの愚を悟らなければならない。 賢者になるには、自ら以って自己を矯めなければならない。 如何にも難しそうなこれらを為す人が少ない故に、そうでない人が目立つのかもしれない。 また、群れると愚かになるという性質が人にはあるのかもしれない。一人一人はそれほど愚かでなくても。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  ★ 賢者になるのは難しいからではないか?  ☆ たとえば狭い道を 向こうから二三人が横並びで歩いて来る。つまり道一杯である。こちらは 脇に寄って すれちがうようにする。というとき 相手の群れは いささかもその横列をくづさない。道をゆづる気配はない。  これを阿呆と馬鹿と言ったのですが ここから ユヅリアイという振る舞いに到るのは 《賢者になる》ことだということでしょうか?  そんな大げさなことではないと考えます。  ★ 賢者になるには自らの過ちを省みて正さねばならない。  ☆ そういう場合もありますが それ以前の事態の場合もあります。    それに――なるほど《阿呆・馬鹿》と言ってはいますが だからと言って それに対して―― 《賢者》を持って来るまでのことではないと思うのですが。つまり ふつうに大人として生活するといったことだと理解しているのですが。・・・  ★ 賢者になるには自らの愚を悟らなければならない。  ☆ これは お互いさまと思えば わざわざ《愚をさとる》までもなく 人びとの交通はなめらかにすすめて行けるはずだと思っています。そんなにむつかしいことではないはずです。小学生が 横断歩道を旗を持って 安全にわたるといったことと同じことがらです。クルマを運転する側も 相手が小学生でなくても 歩道をわたることについて お互いさまと分かるはずです。      ★ 賢者になるには、自ら以って自己を矯めなければならない。  ☆ これは ほとんど別問題だと考えます。  ★ 如何にも難しそうなこれらを為す人が少ない故に、そうでない人が目立つのかもしれない。  ★ また、群れると愚かになるという性質が人にはあるのかもしれない。一人一人はそれほど愚かでなくても。  ☆ これは ありましょうね。あるいはつまり 旅の恥はかき捨てだという心理――集団心理――がはたらくことはあるのでしょうね。  でも それでもです。決して 出来ないことではありません。それが 出来なければ 人間をやめたほうが いいかも分かりません。  と考えます。

回答No.10

英語では同じ「知性」を厳密に別けて使う事がある。 1:「an intelligent student」のように単に能力(処理スピードなど)に使われ、IQ test は「intelligence test」である(intelligence派)。逆に、 2:「intellectual tastes」のような形容詞は「強い好奇心や優れた創造的思考で、クリエイティブな仕事に従事しているイメージ」がある(intellect派)。 ーーーーー 【頭のいい事】に大した意味はない。生命の進化で選択されるのは、【存続するための能力】であり【個体の頭の良さ=集団の生存能力】というイコールの式は成り立たない。

人類が分業や組織化によって、社会生命となった時点で、単純に個体を比較した能力の高さよりも、【組織になった時の能力の高さ=協調性や思いやり】の方が重要な要素となった。 
この点において、日本人は【古来、労働集約的(=皆で決まった年間スケジュールに合わせて作業する光景)な稲作農耕文化の協調性】だけでなく、【狭い島国ゆえの、いつも同じ顔ぶれで過ごす島国文化の日和見主義(=周囲を見定め、権力のある方に身方する、という傾向)】が加わり、【世界でも《稀な集団主義》文化】となった。 

それが、たまたま(明治時代頃から)工業化(=大量生産)に向いていたので【アジアでもいち早く近代化した】が、第二次大戦の戦後の【高度成長における核家族化や共働き、受験戦争における点取り競争、貨幣制の浸透による拝金主義化】が原因で、伝統的に続いていた【社会性の高い文化の世代間伝承が阻害】され(=日本的良い文化の崩壊)、 結果として現代で活躍しているようにみえる【自己チュー(=目先の利益に釣られるだけで社会性の欠如した全体を仲間であると意識できない、欲望レベルが低下した状態)な世代を量産=『人間の失敗作が多数派になった事を意味する』】した。 
その『人間の失敗作だらけ現象』は、【社会人として仕事の中でも、痛感する】し、こうしたネットの助け合いサイトにおける【無意味な(あるいはルールを守らない)自己顕示にも『人間の失敗作だらけ現象』が表れて】いる。 ーーーーー 英語では同じ「知性」を厳密に別けて使う事がある。 1:「an intelligent student」のように単に能力(処理スピードなど)に使われ、IQ test は「intelligence test」である(intelligence派)。逆に、 2:「intellectual tastes」のような形容詞は「強い好奇心や優れた創造的思考で、クリエイティブな仕事に従事しているイメージ」がある(intellect派)。 つまり【学校で劣等生ならば「2」の傾向が強く、社会に貢献できる人材である場合が多く】、実際の社会では【「1」のみを高める日本の学校教育の失敗作が社会で多数派】であり、偉そうにして、どこもかしこもウヨウヨいるのが現実である。 ーーーー なお、当サイトでは「議論目的と思われる、【議論を誘因する投稿は、お礼欄・補足欄に限らず、全面的に禁止】されており、もし、【議論もどき】のお礼文で思索に励む知的アクセサリー派(intelligence派)を見つけたら、直ちに通報しましょう。我々会員が全体として動かねば、当サイトの趣旨である、助け合いの情報交換の場、を維持できず、いずれ公的機関からの指導を受け、ニュースになることでしょう。」。私は既に関係当局と極秘に連携して行動計画を作成中ですので、当サイトのCEOは、かなりの信用を失うことになるでしょう。

bragelonne
質問者

お礼

 No.6のお礼欄に述べた内容については まったく触れておられません。  言いかえると また同じことを お応えとして 書き込まなくてはなりません。  この二重手間をはぶく省エネ質疑応答の仕方をおゆるしください。  ★ intelligence / intellect  ☆ どちらも 同じ語からの活用形ですよ。現在分詞と過去分詞と。分かりつつあることと分かったこと。  もっとも 実際の使用例における互いのニュアンスの違いは よく知りません。  なんとかしっかりとお礼をと思って 拾い上げ取り上げているのですが  ★ 人間の失敗作  ☆ この表現は 文学のものです。定義を決めずに主観的な意図とねらいのもとに表現したあと その反応をさぐり 結果が受けるならよいというかたちで 出して来る表現の仕方だと思います。つまり 哲学としては 意味が定まらないと思います。というより ただ感情的な意識の排泄として 言っているように思えます。  色よいご返事が出来ずに すみません。

bragelonne
質問者

補足

 ☆☆(お礼欄) No.6のお礼欄に述べた内容については まったく触れておられません。  ☆ このように相手の応答を無視する態度が すでにたぶん十数回つづいています。  こんど同じ態度で投稿を受けたときには もうそれは 人間であろうとしていないと見なします。  人間であろうとしていないのだから こちらも 無視しても構わない。こうなると判断します。

noname#221368
noname#221368
回答No.9

 自分は、ここをこうすれば良いなどという意見は出せないので、また感想(間奏)にとどめます。 >組織になった時の能力の高さ=協調性や思いやりの方が重要な要素となった。 には賛成できかねるんですよ。  円滑に動作する組織には2つのステレオタイプがある。一つは協調性や思いやりを全く排除したルール(行動指針)のみに、徹する組織。ルールは、その組織の目的を至上とする。言うなれば軍隊ですね。  もう一つは、協調性や思いやりを考慮しなくたって、周囲との摩擦が起こらないように周到なルール(行動指針)を定め、明文化した組織。組織の行動指針(マニュアル)に従えば結果として、協調性や思いやりを考慮したかのようになる・・・。これは恐らく、組織論的に理想的な官僚制です。  そしてどちらのタイプも、現場の個人には協調性や思いやりへの志向を求めない。例えば前者だったら、「生き残りたかったら、協調しろ!」となるが、その真の目的は「多勢で無勢を叩きのめせ!」という事だ。それが戦術的にベターな判断だからだが、どちらも協調性や思いやりという鬱陶しい判断から個人を解放する(のかも知れない)。だからこそ効率的に動作する。  中公新書のけっこう古い本に、日本人の精神構造みたいのがありました(正確な書名は忘れましたが)。そこで印象的だったのは、戦前の日本の軍隊は組織ではなかった、という意見です。つまり行動指針が不明確で場当たり的で、首尾一貫していない。ルールの明文化は玉虫色になっている(・・・我々はけっこう得意ですよね(^^;))。  では本質的な行動指針は何かというと、あなたの言う「空気」だったと。それがトップレベルでは、暗黙の合議制になる。だからそれが、やれば負けると知りながら太平洋戦争を始めた理由だと、著者は喝破します。その結果、戦後のGHQは戦争責任の明確な責任主体を見つけられなくて、A級戦犯を捏造(?)する必要に迫られた。  もちろん東条英機に、A級になるだけの理由はあった。でも当時のドイツの自殺した強烈なカリスマと比較すると、確かに雲泥の差だ。少なくともGHQは、戸惑いはしただろう。  日本の軍隊も、日本という国家も、組織論的観点からは円滑に動いていなかった。そのツケは全て、協調性や思いやりを強いる個人への負担となる。先の著者は、旧日本軍にはよく温情軍曹がいたから、戦前の軍隊は非人間的でなかったなどという意見があるが、大きな間違いだと喝破する。軍曹とは、現場および新兵に対する、組織の目的を体現した鬼指揮官です(通常の感覚では)。  「空気」によって動き、個々人へ協調性や思いやりを強いる組織だったからこそ、温情軍曹というアース役の出現が必要だった。そうでなければ、組織として機能不全に陥った。  個人的には、あながち嘘とは思えません。

bragelonne
質問者

お礼

 軍事や外交や現代史が苦手なわたしです。  でーでーてーx3さん こんばんは。ご回答をありがとうございます。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~   >組織になった時の能力の高さ=協調性や思いやりの方が重要な要素となった。  には賛成できかねるんですよ。  ~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ わたしとしては 《個人の能力》と《協調性》とが決して二律背反なのではないと書きましたが 組織によって・もしくは日本人の組織によれば 手放しでそうとは言えない。という論旨で話しておられると思います。    そもそも  ★ 日本の軍隊も、日本という国家も、組織論的観点からは円滑に動いていなかった。  ☆ という大問題を提起されました。  ムラの中で 稲作にあたってみんなに平等な水利の仕組みを敷き 人びともこれを守るといった協調性のほかに ムラどうしのあいだでは 上流と下流とで どうしても生活ないし命をかけた水争いが 水不足の折りには 起きたと言います。  まぁ これも ムラという集団を単位とすれば そういうかたちの集団主義だとも言えるかも知れませんが 協調性や民主的な話し合い主義の現実性にとっては まだまだ道遠しの感があります。  その上 軍隊も国家じたいも 協調性をめぐって その組織にはどうも複雑な問題がある。という趣旨になりましょうか。  集団か個人かなどといった論点にさえなり得ていないような・強引な組織の運営が見られるといったことでしょうか。  ★ そのツケは全て、協調性や思いやりを強いる個人への負担となる。  ☆ 権力ないし権威そして権限のチカラがものを言うかぎりで むしろ上から協調性がおしつけられる側面もあって 問題なのだと。  ★ 軍曹とは、現場および新兵に対する、組織の目的を体現した鬼指揮官です(通常の感覚では)。  ☆ というタテマエのもとに ただしそのタテマエをクウキと権限で守らせようとするとき それだけではなく  ★ 「空気」によって動き、個々人へ協調性や思いやりを強いる組織だったからこそ、温情軍曹というアース役の出現が必要だった。そうでなければ、組織として機能不全に陥った。  ☆ すなわち いわゆる集団主義的行動の特性によって 組織が一致団結して動いたというには 現場が分かっていないのではないか?  社会的組織内的な心のゴミを処理する係りがいたんだと。必然的に誰かがそのアース役を引き受けるようになっていくのだと。    あとは 《洗脳》によってでしょうね。  人びとは どこまで《信じた》か? これは いやいや人びとは ウソをお見通しであった。けれども そこを《信じた振りをした》のだという調査報告もあるようです。(加藤周一の本で読んだ記憶があります)。  となると やはりガミガミ役の下にあって アース役がいたという問題も うかびあがってくるようです。    ★ 組織論的に理想的な官僚制です。  ☆ これにつきましては わたしは 知識不足・ちから不足です。

回答No.8

具体的にと言われたので > 1. きわめて話し下手である。 人による 饒舌という言葉がある事からも、昔から口が達者な人が居る > 2. 知らない人とは容易に口を利くことをしないし できない。 1によって否定される > 3. そのくせ 人のことをよく見ている。見知らぬ人が困っているのを見たら むしろ何のためらいも無く声をかける。 人による > 4. 向こうから人が歩いてくれば道をゆづる。お年寄りには席をゆづる。 人による > 5. 報酬が決まりより多く支払われると 突き返す。決まりとは違うという意味らしかったが 怪訝な顔をして 突き返す。 そのまま受け取る人も居ます 律儀に守る人が多いという意味では合ってるとは思いますけどね > 6. こちらが勘違いしたりほんとうに間違えたりしたとき こちらがあやまると いいえこちらこそ気がつきませんでと応え返す。 人による > 7. (1)(2)より:外国人に話しかけられても 何も言えない。あほうとばかとを掛け合わせたように ただしにこにこ顔で だまっている。 日本人ではない場合は外見的に違う所が多いので どう対処していいか分からないだけかと > 8. ぺらぺらべらべら しゃべり過ぎる。ところが中身にとぼしい。 人による > 9. 相手の粗さがしを考えている。 人による、というか昔も居る > 10. 道は相手がゆづるものと思っている。 人による > 11. かっこうをつければ人は 自分にしたがうものと思っている。 ただのおかしな人だと思う そんな人はめったに居ない > 12. とにもかくにも あほうとばかとを掛け合わせたごとくに中身のないことをしゃべりまくって 人を手なづけようとする。 これは意味が分からない すべて人によって違う事で、昔もあったし今もある 個人主義的傾向はあるけど、それは昔もあった事で 全体的に傾向を出すほどの内容は無い さらに言えば、行動内容が個人的すぎて 昔の人がどう行動したかの資料が出ないと思いますよ 残ってるのは規範としてこう行動しましょうという内容だと思いますが 実際に昔の人がどういう生活状態だったか、確認出来る資料をお持ちなんですか?

bragelonne
質問者

お礼

 にっくねーむがないさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。  いちおう 反論風のお応えをしてまいります。  1.  ★ 饒舌という言葉がある事からも、昔から口が達者な人が居る  ☆ もちろん そうです。そして ただし この饒舌な日本人の場合は――これは 量として必ずしも多くはないと思いますが それは別として―― けっきょくあまり《目立つ場合》として取り上げるには及ばない。のではないでしょうか。  つまり言いかえると 《口数の少ない人》が 目立ってひとつの特徴的な社会現象だ(だった)と言えるのではないでしょうか。  > 3. そのくせ 人のことをよく見ている。見知らぬ人が困っているのを見たら むしろ何のためらいも無く声をかける。  ★ 人による  ☆ ですから ここでこのことを取り上げたのは 寡黙な人たちがそれでもそれぞれ 困っている人を助けようとするとき行動に素早く移る。このことは 特筆にあたいする。と考えるからです。どうでしょう。  > 4. 向こうから人が歩いてくれば道をゆづる。お年寄りには席をゆづる。  ★ 人による  ☆ たとえば近所の人びとや 町のバス・地下鉄などの交通機関で 数十年のあいだ人びとの様子を見て来て かなりの程度でその違いがみとめられる。ということを言いたい気持ちがあります。    ただ単に《人による》と言って 一般的な見方をして済ませるには 世相の変化は大きい。  ですから・ただし この認識は わたしの狭い範囲での観察にすぎませんから みなさんにも尋ねているというかたちになります。  > 5. 報酬が決まりより多く支払われると 突き返す。決まりとは違うという意味らしかったが 怪訝な顔をして 突き返す。  ★ ~~~~~~~~~~~~~  そのまま受け取る人も居ます  律儀に守る人が多いという意味では合ってるとは思いますけどね  ~~~~~~~~~~~~~~  ☆ これは 大事な事柄だと思うところで 意外(?)と 昔の人の気質が分かってもらえたのでしょうか。  > 7. (1)(2)より:外国人に話しかけられても 何も言えない。あほうとばかとを掛け合わせたように ただしにこにこ顔で だまっている。  ★ 日本人ではない場合は外見的に違う所が多いので / どう対処していいか分からないだけかと  ☆ これは そういう受け取りでよいかと思いますが そのあとの部分について 注目して欲しいところです。  7. ・・・ただし困っている様子をみたら 自分がパニクったごとくその人のために何とかしてやろうと奔走する。  ☆ たぶん (3)と同じだから 触れておられないのでしょう。  総じて言って  ★ 全体的に傾向を出すほどの内容は無い  ☆ というのと 有るというのとで 見解が違っているようではあります。  ★ さらに言えば、行動内容が個人的すぎて / 昔の人がどう行動したかの資料が出ないと思いますよ  ☆ わたしは 《道をゆづる》問題が いちばん 特徴となると思っています。けっきょく他人(ひと)の話を聴くかどうかですから。ひとの意志をとうとぶかどうかになりますから。人間性の重要部分にかかわると思われますから。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~  残ってるのは規範としてこう行動しましょうという内容だと思いますが  実際に昔の人がどういう生活状態だったか、確認出来る資料をお持ちなんですか?  ~~~~~~~~~~~~~~~~   ☆ これは いまこの問いにとっては 《資料》の問題ではなく 《規範としての行動》という問題には持って行きたくないと思っています。  ふつうの生活において自然にふるまった結果について比較対照したほうが 有意義ではないかと考えます。  規範にかかわるのなら ふつうに思想を取り上げて議論すればよいと思うゆえですが どうでしょう。  

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     ばか丸出しのわたくしから見てもそうであり 目立つ場合に極論したらということです。(ほかの国の人びととは特には比べていません)。  昔の日本人を思い描いてみるに こうだったのではないか:  1. きわめて話し下手である。  2. 知らない人とは容易に口を利くことをしないし できない。  3. そのくせ 人のことをよく見ている。見知らぬ人が困っているのを見たら むしろ何のためらいも無く声をかける。  4. 向こうから人が歩いてくれば道をゆづる。お年寄りには席をゆづる。  5. 報酬が決まりより多く支払われると 突き返す。決まりとは違うという意味らしかったが 怪訝な顔をして 突き返す。  6. こちらが勘違いしたりほんとうに間違えたりしたとき こちらがあやまると いいえこちらこそ気がつきませんでと応え返す。  7. (1)(2)より:外国人に話しかけられても 何も言えない。あほうとばかとを掛け合わせたように ただしにこにこ顔で だまっている。ただし困っている様子をみたら 自分がパニクったごとくその人のために何とかしてやろうと奔走する。  いまは  8. ぺらぺらべらべら しゃべり過ぎる。ところが中身にとぼしい。  9. 相手の粗さがしを考えている。  10. 道は相手がゆづるものと思っている。  11. かっこうをつければ人は 自分にしたがうものと思っている。  12. とにもかくにも あほうとばかとを掛け合わせたごとくに中身のないことをしゃべりまくって 人を手なづけようとする。  13. ・・・(みなさんのご意見を)・・・  原因について マクロとミクロとそのおまけとをたたき台に述べます。  14. 言わずと知れた《アマテラス公民主導 ‐ スサノヲ市民従属》なる連関制として社会が築かれてしまったから。  15. この《 A ‐ S 》連関制のもとで やっと本来の主役で主導するはずのスサノヲ市民圏に主権があるとうたわれるようになったけれど アマテラス公民圏による主導体制はいまだにつづいている。その昔は このアマテラス公民には 無謬性が付与されていたわけです。神聖にして侵すべからずに近い感覚で 公務員はあやまつわけがないというけっきょく神話が世の中を覆っていました。  16. 要するにスサノヲ市民は 阿呆だと思われていた。その長い歴史の影響で おんぶにだっこの甘え癖がついてしまった。これが マクロの観点から見たあほうとばかの製造過程である。  17. 人と人との関係においては それが特にすでに組織の中にあっては つねに何らかの上下の関係が 権威や権力や権限をともなってでもあるいは伴なわないかたちででも 出来て来る。  このようにまなざしを上からそそぐ側と下にあってそそがれる側とに ふたりの人間は分かれるのがふつうである。  18. ならばすでにそのまま人間と人間の関係は ときとしてガミガミ役とアース役とに分かれる。ガミガミ役はところ構わずアース役に対して 自分の意識を排泄するというのが ガミガミの中身を成す。  19. アース役がこのゴミを受けて処理せねばならない。このゴミ処理に失敗すると 精神衛生上よくないことが起こる。  20. けれども 感受性のするどくて懐の深い人間に限って このアース役をいつのまにか引き受けている。  21. ただしアース役になる人間も 別の人間に対しては ガミガミ役に回ることも考えられる。よって世界は意識の排泄なる社会廃棄物とその未処理によって ガミガミ電磁波による感染列島と化す。  22. この《ガミガミ役 ‐ アース役》連関は むろん言わずと知れた《 A - S 》連関制の擬似形態なのである。これが ミクロの問題である。  23. 引きこもり役までをわれわれの社会は製造してしまった。《アース役はつらいよ》という大合唱を始めてもよいくらいだ。  おまけ:  24. ところが ここまで来ても誰も――愚痴のほかは――何も言わないししない。あほうとばかばかりが目立つ。どうしたことか?  25. 世の中にこの《 A - S 連関制》のむなしさをちゃんと知っており それでも さらに世の中の無常をさとって この連関制は変わらないと決め込んだ存在が何人かいて その人びとのもとに このひと言で《死》というべきあほばか状態を保とうとする勢力がいるのではないか?  26. というのは 所謂る陰謀説で どうも実際はそうではなく そのような無常観としての《さとり》が 観念となって・つまりは幽霊のごとくに 世の中を飛び交いまた歩きまわっているのだろうか?  27. このインフルエンザに人びとは感染してしまっているのか? だとしても ただそれだけではないのか?  とことん自由で建設的なご批判をどうぞお寄せください。

  • 日本人はなぜあほとばかとが多いのでしょう?

     目立つ場合に極論したらということです。(ほかの国の人びととは特には比べていません)。  昔の日本人を思い描いてみるに こうだったのではないか:  1. きわめて話し下手である。  2. 知らない人とは容易に口を利くことをしないし できない。  3. そのくせ 人のことをよく見ている。見知らぬ人が困っているのを見たら むしろ何のためらいも無く声をかける。  4. 向こうから人が歩いてくれば道をゆづる。お年寄りには席をゆづる。  5. 報酬が決まりより多く支払われると 突き返す。決まりとは違うという意味らしかったが 怪訝な顔をして 突き返す。  6. こちらが勘違いしたりほんとうに間違えたりしたとき こちらがあやまると いいえこちらこそ気がつきませんでと応え返す。  7. (1)(2)より:外国人に話しかけられても 何も言えない。あほうとばかとを掛け合わせたように ただしにこにこ顔で だまっている。ただし困っている様子をみたら 自分がパニクったごとくその人のために何とかしてやろうと奔走する。  いまは  8. ぺらぺらべらべら しゃべり過ぎる。ところが中身にとぼしい。  9. 相手の粗さがしを考えている。  10. 道は相手がゆづるものと思っている。  11. かっこうをつければ人は 自分にしたがうものと思っている。  12. とにもかくにも あほうとばかとを掛け合わせたごとくに中身のないことをしゃべりまくって 人を手なづけようとする。  13. ・・・(みなさんのご意見を)・・・  原因について マクロとミクロとそのおまけとをたたき台に述べます。  14. 言わずと知れた《アマテラス公民主導 ‐ スサノヲ市民従属》なる連関制として社会が築かれてしまったから。  15. この《 A ‐ S 》連関制のもとで やっと本来の主役で主導するはずのスサノヲ市民圏に主権があるとうたわれるようになったけれど アマテラス公民圏による主導体制はいまだにつづいている。その昔は このアマテラス公民には 無謬性が付与されていたわけです。神聖にして侵すべからずに近い感覚で 公務員はあやまつわけがないというけっきょく神話が世の中を覆っていました。  16. 要するにスサノヲ市民は 阿呆だと思われていた。その長い歴史の影響で おんぶにだっこの甘え癖がついてしまった。これが マクロの観点から見たあほうとばかの製造過程である。  17. 人と人との関係においては それが特にすでに組織の中にあっては つねに何らかの上下の関係が 権威や権力や権限をともなってでもあるいは伴なわないかたちででも 出来て来る。  このようにまなざしを上からそそぐ側と下にあってそそがれる側とに ふたりの人間は分かれるのがふつうである。  18. ならばすでにそのまま人間と人間の関係は ときとしてガミガミ役とアース役とに分かれる。ガミガミ役はところ構わずアース役に対して 自分の意識を排泄するというのが ガミガミの中身を成す。  19. アース役がこのゴミを受けて処理せねばならない。このゴミ処理に失敗すると 精神衛生上よくないことが起こる。  20. けれども 感受性のするどくて懐の深い人間に限って このアース役をいつのまにか引き受けている。  21. ただしアース役になる人間も 別の人間に対しては ガミガミ役に回ることも考えられる。よって世界は意識の排泄なる社会廃棄物とその未処理によって ガミガミ電磁波による感染列島と化す。  22. この《ガミガミ役 ‐ アース役》連関は むろん言わずと知れた《 A - S 》連関制の擬似形態なのである。これが ミクロの問題である。  23. 引きこもり役までをわれわれの社会は製造してしまった。《アース役はつらいよ》という大合唱を始めてもよいくらいだ。  おまけ:  24. ところが ここまで来ても誰も何も言わないししない。あほうとばかばかりが目立つ。どうしたことか?  25. 世の中にこの《 A - S 連関制》のむなしさをちゃんと知っており それでも さらに世の中の無常をさとって この連関制は変わらないと決め込んだ存在が何人かいて その人びとのもとに このひと言で《死》というべきあほばか状態を保とうとする勢力がいるのではないか?  26. というのは 所謂る陰謀説で どうも実際はそうではなく そのような無常観としての《さとり》が 観念となって・つまりは幽霊のごとくに 世の中を飛び交いまた歩きまわっているのではないか?  27. このインフルエンザに人びとは感染してしまっているのではないか? ただそれだけなのではないか?  とことん自由なご批判をどうぞお寄せください。

  • 世界のどんでん返しは われらが日本から

     (あ)  昔むかしの話から始めます。  感性と理性を交えた或る知性が 或る日或るとき こころのいと高きところに純粋存在なるまぼろしを見ました。  イリ(世界への入りをおこなう)人は このマボロシをそのままナゾとして心にしまっておいた。  ヨセ(世界を束ね寄せる)人は マボロシに取り憑いた。その輝く光に身も心もつき従うとの誓いを立てた。  やがて修行の甲斐あって いよいよその《いと高き者》に似てきたとき――きわめて人間的な人間になったとき―― 周りを見てみれば このマボロシには誰も 関心がない。  ヨセ人は ここであきらめなかった。    このマボロシによって人びとを感化し     世の中を束ね寄せる。    そうしてみせる。    そうすれば 《いと高き存在》の光は あまねく行きわたり    世はますます常世(とこよ)の国として栄えるであろう。  と踏んだ。  (い)  このヨセ人なるアマテラス種族が 社会のあり方として平屋建てを嫌い その上に第二階を築きたいと言って スサノヲ市民らに冀ったとき スサノヲらはとうとうその根競べに負けて  《くにゆづり》をした。  イリ知性なるスサノヲ市民の村々におこなわれる《まつり》は 第二階によって束ねられ おまけに税を取られ全体としてその統治が《まつりごと》としておこなわれるようになった。  かくて 《アマテラス公民 ‐ スサノヲ市民》なる連関制の完成である。  《くにのいへ》と言う。家というからには 二階建てである。  二階のアマテラスなるアタマで立つなら その連関制は 逆立ちしている。  (う)  《ひかり もしくは まぼろし》と現実の大地とのあいだに隔たりがあるとすれば 人びとの発言(自己表現)にもつねに 本音と建前が出て来る。  あるいはさらに 二枚舌の問題が必然的に現われる。――そうでなくてもふつうのイリ人においても ウソでない心とウソの心との相克の問題が ごく一般的に ある。  (え)  広くマ(間・間合い)が 人びとそれぞれにおけるそういった心的および社会的な齟齬を容れた《関係ないし連関》のあり方として成り立って来ている。  すなわち むろん この問題が問題なのだ。ここでは     《 A (アマテラス公民)‐ S (スサノヲ市民)》逆立連関制  としてのマである。  第一階とお二階さんとのマの具合いであり 間合いの取り方でありそこに起こるマ‐チガヒとその正し方の問題です。  おそらく一階のマツリと二階からとりおこなうマツリゴトとが逆立ちしているのではないか? そこから マチガヒがつねに起こり得るのではないか? トヨス? モリトモ?  (お)  細かくは たしかに第一階においてスサノヲ市民どうしの間でも 仲間と仲間のあいだにマチガヒが生じるであろうし お二階さんどうしの間でも 同じような問題が起こるものと考えられます。  問題は そもそもは 《 S (主権)- A (従属)》の連関だったものが A 圏主導の《 A - S 》連関として逆立ちしているというところにあると見ます。  つまりは ヨセ人なるすぐれたアマテラス族の初めの人びとにおいて いくら光り輝くイデアを見たと言っても その《いと高きところ》なる理念の扱いにおいてすでに初めに逆立ちしてしまっていたのではないか。  イリ人は このイデアをとおして――《をとおして》――マツリをおこないカミにささげものをした。イデアは 何ものかを指し示すための指=シルシである。  ヨセ人は 指を・指そのものを見ている。このイデアじたいにカミを見た。あるいはさらにみづからがカミとなった。  こう見る限りで ヨセ人のヨセ知性は イリ人のイリ知性に対する反措定であると捉えます。テーゼは アンチテーゼに社会のイニシアティヴをゆづった。  つまりそれが アマテラス普遍語の恣意的な用法としてのアマテラス語お二階方言という言語類型でしょう。それは 普遍語として無謬性の神話に包まれているのですが その指先を見ようとしないとなれば 必然的にと言っていいと思われるごとく二枚舌現象が生じる。あやまつは 人のつねではあるのですが。・・・モリトモは どっちが方言なのか?  そう言いたいのですが これに対するイリ人=スサノヲ市民の打ち出す反措定は すでに有る或る反措定に対する反措定ですから 綜合であり 人間のふつうの存在の肯定であると考えてよいのではないでしょうか?   (か)  マチガヒからのマの回復。つまり 市民主権・住民自治の実現としての――二階から一階への――大政奉還。  これまでの歴史において アマテラス語方言が社会を覆っていたとしても つまりそれが《不当にも》社会において有力であったとしても 人びとはこれを どういうわけか 難なくこなして来ていた。    時代が変わり社会のあり方が変わり もう《こなす》ことがむしろ出来なくなった。こなす・こなさないの問題よりも アマテラス方言の誤謬が ただ街を歩くだけでそこら中に見えて来てしまった。また経 済的にも立ち行かない情況を背負っている状態となった。  アマテラス公務員の無謬性なる神話がくづれた。  マの問題。この A - S 連関というマの逆立ちをただすことがいまの課題であるのではないか?  じつは 広く大きく 国家のアウフヘーベンとして世界史的な課題であるのではないか? 国家ゆえに領土問題と戦争がある。ムスリムの中の一部に国家に対抗するような暴走が起きて来た。・・・うんぬん。うんぬん。  添削をどうぞ。

  • 国家のアウフヘーベンを!――いまでしょ。 

     1. 感性と理性を伴なった或る知性が 或る日或るとき こころのいと高きところに純粋存在なるまぼろしを見た。  2. イリなる歴史知性すなわち 《世界〔内存在〕への入りをおこなう知性人》 この種の人は このまぼろしをそのままなぞとして心にしまっておいた。  3. ヨセなる超歴史知性すなわち 《世界を押しなべてその知性によって束ね寄せるスーパー知性人≫ この種の人は まぼろしに取り憑いた。  3-1. その輝く光に身も心もつき従うとの誓いを立てた。いよいよ その《いと高き者》に似て来たとき――きわめて人間的な人間になったとき――周りを見てみれば このまぼろしには誰も 関心がない。それは 程度問題なのだと澄ました顔をしている。  3-2. ヨセ人は ここであきらめなかった。このまぼろしによって人びとを感化し 世の中を束ね寄せる。そうしてみせる。そうすれば《いと高き存在》の光は あまねく行きわたり世はますます常世(とこよ)の国として栄えるであろう。と踏んだ。  4. このアマテラス種族でもあるヨセなる超歴史知性が 世の中のあり方として平屋建てを嫌い その上に第二階を築きたいと言って スサノヲ市民らに冀ったときスサノヲらはとうとう根競べに負けて 《くにゆづり》をした。  4-1. ふつうのイリ歴史知性のスサノヲ市民らがムラムラでおこなう《まつり》は ことごとく第二階によって束ねられ おまけに税を取られ 全体としてその統治が《まつりごと》としておこなわれるようになった。  4-2. かくて 《アマテラス公民‐スサノヲ市民》連関制の完成である。くにのいへと言う。家というからには 構造があり 二階建てである。    5. 《ひかり あるいは まぼろし》は どうなったか?  5-1. 《ひかり ないし まぼろし》と現実とのあいだに隔たりがあるとすれば 人びとの発言にも・つまりそれぞれの自己表現である誰の発言にも 本音と建前とがある。  5-2. あるいはさらに 二枚舌の問題がある。人びとのあいだで利害の一致がむつかしいとすればその限りで 必然的に現われがちである。――そうでなくてもふつうのイリ人においても ウソでない心とウソの心との相克の問題が ごく一般的に ある。  5-3. それは 広くマ(間・間合い)の問題である。人びとのあいだのそういった心的および社会的な《関係ないし連関》のあり方を問題としうる。ここでは 《 A (アマテラス)‐ S (スサノヲ)》連関制としてのマである。  6. さて 大政奉還――国家のアウフヘーベン――のもんだい。  6-1. 大政奉還の問題は    《 A (アマテラス公民)‐ S (スサノヲ市民)》なる連関制  としてのマのあり方を問う。  6-2. 第一階とお二階さんとのマの具合いであり 間合いの取り方であり そこに起こるマチガヒをめぐるその正し方 こういった問題である。  6-3. 端的に言ってこのマの問題は おそらく一階のマツリと二階からとりおこなうマツリゴトとが逆立ちしている ということではないか? そしてそこから マチガヒがつねに起こり得るのではないか?  6-4. 細かくは たしかに第一階においてスサノヲ市民どうしの間でも 仲間と仲間のあいだにマチガヒが生じるであろうし お二階さんどうしの間でも 同じような問題が起こるものと考えられる。けれども問題は そもそもは    《 S (大政主権)- A (従属)》の連関  だったものが A圏主導の《 A主導 - S 従属》連関として逆立ちしているというところにあるのではないか。  6-5. つまりは すぐれたアマテラス族の初めの人びとにおいて いくら光り輝くイデアを見たと言っても その《いと高きところ》なる理念の扱いにおいてすでに初めに逆立ちしてしまっていたのではないか。  品行方正なるその人格は むしろただ理念に合わせただけのものではないか?  6-6. イリ人は このイデアをとおして――《をとおして》――マツリをおこないカミにささげものをした。ヨセ人は このイデアじたいにカミを見た。あるいはさらにみづからがカミとなった。  6-7. こう見る限りで ヨセ人のヨセ知性は イリ人のイリ知性に対する反措定であると捉えられる。超歴史知性として ふつうの歴史知性の上をアマガケル振る舞いに出た。お二階へのアマアガリをおこなった。  6-8. つまりそれが アマテラス普遍語(つまり科学語および人格語)であるが これは実際には アマテラス語方言とよぶべき言語類型である。神聖にして侵すべからずという無謬性の神話に包まれている。クウキである。つまりそのクウキとしての神話につつまれなければ チカラを発揮しえないからである。  6-9. つまりはその無謬性の神話から必然的に現われると言っていいところのダブル・スタンダード現象である。  6-10. ゆえに普遍語をよそおうところのアマテラス語方言であるに過ぎないと言いたい。訛っていなくても 舌が二枚 使い分けられている。アマテラス科学語は資料等において部分的にしか表に出さない。アマテラス人格語は ウラとオモテとを使い分ける。  6-11. これに対するイリ人=スサノヲ市民の打ち出す反措定は 無謬性を帯びさせようとするアマテラス神話なる反措定に対するための反措定であるから 肯定的な綜合であり 人間のふつうの存在(知性)の復権(ルネサンス)であると考えてよいのではないか?   6-12. これが 逆立ちする《 A (アマテラス)主導‐ S (スサノヲ)従属》連関制としてのマチガヒからのマの回復であり つまりは ムラムラの主権の実現としての大政奉還である。  7. これまでの歴史において アマテラス語方言が社会を覆っていたとしても つまりそれが《不当にも》社会において有力であったとしても 人びとはこれを どういうわけか 難なくこなして来ていた。のかも知れない。  7-1. 時代が変わり社会のあり方が変わり もう《こなす》ことがむしろ出来なくなった。こなす・こなさないの問題よりも アマテラス語方言の誤謬が ただ街を歩くだけでそこら中に見えて来てしまった。ウラで何をやっているか分からないばかりである。そして 経済・財政的にも立ち行かなくなった。  7-2. アマテラス公民の無謬性なる神話がくづれた。D.トランプ現象?  7-3. この A - S 連関というマの逆立ちをただすことがいまの課題であるのではないか?  7-4.  A - S 連関は 社会形態として国家のことであるのだから 現代においてこの逆立ちの逆立ちは じつは国家の止揚として世界史的な課題であるのではないか?  7-5. 国家ゆえに領土問題と戦争と経済戦争があるのだ。――かな?

  •  《自然に帰れ》!?

     《自然に帰れ》!?  とルウソは言ったとか言わなかったとか。自然に帰るあるいは人間的自然を取り戻す これは 必要で大事なことでしょうか?  《人間》の社会におけるすがたを次のように捉えて その《自然》の問題を考えます。  1. われわれ人間は 社会を成して共生するらしいが そもそもどういう存在であって どういう存在の関係をむすび かつその関係の錯綜して過程する総合としてどのようなあり方になっているのか?   2. 社会人を スサノヲ市民およびアマテラス公民に分けます。しかも この市民( S )と公民( A )のそれぞれ要素は ひとりの人間に――当然でしょう―― そなわると捉えます。  3. このような概念装置を持って マルクスを読みます。  ▲ ( K.マルクス:ユダヤ人問題によせて) ~~~~~~~~~~   結局のところ   ( S ) 市民社会の成員としての人間(* つまり生活者市民スサノヲ)が 本来の人間とみなされ   ( A ) 公民 citoyen (* 人格の全体でもっぱら公共の仕事に就くアマテラス公民)    とは区別された  ( S ) 人間 homme とみなされる。  なぜなら   ( A ) 政治的人間(* アマテラスのそういう側面)がただ抽象された人為的につくられた人間にすぎず 比喩的な精神的人格としての人間であるのに対し   ( S ) 市民社会の成員としての人間(* スサノヲ)は 感性的な 個体的な もっとも身近なあり方における人間だからである。  【 S‐A 連関】 《現実の人間》は  ( S )  利己的な個人の姿(* もしくは 感性を自由気ままに発揮しあやまちうるスサノヲ人間語)においてはじめて認められ   【 A‐S 連関】 《真の人間》は  ( A )  抽象的な公民の姿(* もしくは アマテラス人格語ないし学術概念語)においてはじめて認められるのである。                   (城塚登訳)  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ ここで S:スサノヲと A:アマテラスとの連関のあり方は 次のふたつの形態があり得ます。   《 S‐A 》連関のかたち=《現実の人間》:      あやまちうるスサノヲ人間語を基礎としてその土壌の中から――     あたかもその泥の中から―― アマテラス規範語を磨き上げ そこ     に花咲かせる人間のすがた。   《 A‐S 》連関のかたち=《真の人間》:      簡単に言えば 理性ないしコギトがすべての意志行為を引っ張る     かたちのアマテラス人格語かつアマテラス学問語にもとづく人間の     すがた。この人間は 《あやまたない》と言われるようになる。      つまり無謬性・不可侵の神話を帯びる。  ☆ たぶん《 〈 S‐A 〉連関のかたち》=《現実の人間》の描像のほうが のぞましいと思うのですが それには 《スサノヲ的自然》を取り戻す必要があると考えられます。どうすればよいでしょう? あるいはすでに回復していましょうか?

  • アマテラスお二階さんは 一階に大政奉還すべし。

     アマテラスお二階さんは 一階のスサノヲ市民社会に大政奉還すべし。  いわゆる地域主権について問うものです。  ムラ=市町村 の主体性を発揮する時代へと移行しましょうか?  なぜ大政(ムラムラのマツリをつうじての共同自治)をいまの二階にあるマツリゴトから元の一階スサノヲらのくにに奉還すべきか?  それは もともと平屋建ての市民社会が どうして二階建てになったか? を見てみると分かるはずだ。  すっ飛びの仮説によって考えてみます。       *  1. 感性と理性を伴なった或る知性が 或る日或るとき こころのいと高きところに純粋存在なるまぼろしを見た。  2. イリなる歴史知性すなわち 《世界〔内存在〕への入りをおこなう知性人》 この種の人は このまぼろしをそのままなぞとして心にしまっておいた。  3. ヨセなる超歴史知性すなわち 《世界を押しなべてその知性によって束ね寄せるスーパー知性人 この種の人は まぼろしに取り憑いた。  3-1. その輝く光に身も心もつき従うとの誓いを立てた。いよいよその《いと高き者》に似てきたとき――きわめて人間的な人間になったとき―― 周りを見てみれば このまぼろしには誰も 関心がない。それは 程度問題なのだと澄ました顔をしている。  3-2. ヨセ人は ここであきらめなかった。このまぼろしによって人びとを感化し 世の中を束ね寄せる。そうしてみせる。そうすれば《いと高き存在》の光は あまねく行きわたり世はますます常世(とこよ)の国として栄えるであろう。と踏んだ。  4. このアマテラス種族でもあるヨセなる超歴史知性が 世の中のあり方として平屋建てを嫌い その上に第二階を築きたいと言って スサノヲ市民らに冀ったとき――スサノヲらはとうとう根競べに負けて―― 《くにゆづり》をした。  4-1. ふつうのイリ歴史知性のスサノヲ市民らがおこなう《まつり》は ことごとく第二階によって束ねられ おまけに税を取られ 全体としてその統治が《まつりごと》としておこなわれるようになった。  4-2. かくて 《アマテラス‐スサノヲ》連関制の完成である。くにのいえと言う。家というからには 構造があり 二階建てである。    5. 《ひかり あるいは まぼろし》は どうなったか?  5-1. 《ひかり ないし まぼろし》と現実とのあいだに隔たりがあるとすれば 人びとの発言にも・つまりそれぞれの自己表現である誰の発言にも 本音と建前がある。  5-2. あるいはさらに 二枚舌の問題がある。人びとのあいだで利害の一致がむつかしいとすればその限りで 必然的に現われがちである。――そうでなくてもふつうのイリ人においても ウソでない心とウソの心との相克の問題が ごく一般的に ある。  5-3. それは 広くマ(間・間合い)の問題である。人びとのあいだのそういった心的および社会的な《関係ないし連関》のあり方を問題としうる。ここでは 《 A (アマテラス)‐ S (スサノヲ)》連関制としてのマである。  6. 大政奉還のもんだいは 《 A (アマテラス公民)‐ S (スサノヲ市民)》なる連関制としてのマのあり方を問う。  6-1. 第一階とお二階さんとのマの具合いであり 間合いの取り方であり そこに起こるマチガイをめぐる正し方 こういった問題である。  6-2. 端的に言ってこのマの問題は おそらく一階のマツリと二階からとりおこなうマツリゴトとが逆立ちしている ということではないか? そしてそこから マチガイがつねに起こり得るのではないか?  6-3. 細かくは たしかに第一階においてスサノヲ市民どうしの間でも 仲間と仲間のあいだにマチガイが生じるであろうし お二階さんどうしの間でも 同じような問題が起こるものと考えられる。けれども問題は そもそもは 《 S (大政主権)- A (従属)》の連関だったものが A圏主導の《 A - S 》連関として逆立ちしているというところにあるのではないか。  6-4. つまりは すぐれたアマテラス族の初めの人びとにおいて いくら光り輝くイデアを見たと言っても その《いと高きところ》なる理念の扱いにおいてすでに初めに逆立ちしてしまっていたのではないか。  品行方正なるその人格は むしろ理念に合わせたものなのではないか?  6-5. イリ人は このイデアをとおして――《をとおして》――マツリをおこないカミにささげものをした。ヨセ人は このイデアじたいにカミを見た。あるいはさらにみづからがカミとなった。  6-6. こう見る限りで ヨセ人のヨセ知性は イリ人のイリ知性に対する反措定であると捉えられる。超歴史知性として ふつうの歴史知性の上をアマガケル振る舞いに出た。  6-7. つまりそれが アマテラス科学語およびアマテラス人格語であるが これは アマテラス語方言とよぶべき言語類型である。神聖にして侵すべからずという無謬性の神話に包まれている。つまりその神話につつまれなければ チカラを発揮しえないからである。  6-8. つまりはその無謬性の神話から必然的に現われると言っていいところの二枚舌現象である。  6-9. ゆえにアマテラス語方言であるに過ぎないと言いたい。訛っていなくても 舌が二枚 使い分けられている。  6-10. これに対するイリ人=スサノヲ市民の打ち出す反措定は 無謬性を帯びさせようとする反措定に対する反措定であるから 綜合であり人間のふつうの存在(知性)の肯定であると考えてよいのではないか?   6-11. これが 逆立ちする《 A (アマテラス)‐ S (スサノヲ)》連関制としてのマチガイからのマの回復であり つまりは ムラムラの主権の実現としての大政奉還である。  7. これまでの歴史において アマテラス語方言が社会を覆っていたとしても つまりそれが《不当にも》社会において有力であったとしても 人びとはこれを どういうわけか 難なくこなして来ていた。のかも知れない。  7-1. 時代が変わり社会のあり方が変わり もう《こなす》ことがむしろ出来なくなった。こなす・こなさないの問題よりも アマテラス語方言の誤謬が ただ街を歩くだけでそこら中に見えて来てしまった。また 経済的にも立ち行かなくなった。  7-2. アマテラス公務員の無謬性なる神話がくづれた。  7-3. この A - S 連関というマの逆立ちをただすことがいまの課題であるのではないか?  7-4.  A - S 連関は 社会形態として国家のことであるのだから 現代においてこの逆立ちの逆立ちは じつは国家の止揚として世界史的な課題であるのではないか?  7-5. 国家ゆえに領土問題と戦争と経済戦争があるのだ。(かな?)

  • 天皇を哲学する

     1. 万世一系とは いま生まれて来ている人の誰についても例外なく言えることです。  1-1. 記録がないだけでしょう。    1-2. 男系は 家筋としては途絶えているかも知れないけれど 血筋は とうぜん辿れるわけです。  1-3. 一般の人びとの場合は 側室による男系一系が少ないだけでしょう。  2. 天皇家は 祖先を遡るとアマテラスオホミカミにたどり着くと言う。けれども アマテラスは アメノミナカヌシらの神々のあとに出て来た神である。  2-1. そして――出生の謂われは生殖のかたちが微妙だけれど――スサノヲのミコトの実の姉である。  2-2. つまり 一般の人びとは スサノヲの子孫となっているが 天皇家も スサノヲの子孫である。スサノヲも 天皇家の祖先である。  3. 象徴天皇という社会的役割りは 決してめづらしいことではない。  3-1. 《スサノヲ市民社会 - アマテラス公民圏》なる連関制としての社会形態は 二階建て構造を成す国家という状態にかんして 世界において一般性を持つ。  3-2. アマテラス公民は 《公務員一般(狭義のアマテラス)とアマテラシテ》とに分かれるが この・象徴を意味するアマテラシテが やはり世界において一般的な元首のことである。  3-3. 具体的に 国王・象徴天皇・大統領などがある。  3-4. 一党独裁の党総書記は ふつうの国家におけるふつうのアマテラシテであると言えるかどうか。  ☆ 具体例を三件挙げました。――人びとはなぜ 天皇について哲学しないままでいるのか?

  • ことばで権力を倒せるか?

     (あ)  昔むかしの話から始めます。  感性と理性を交えた或る知性が 或る日或るとき こころのいと高きところに純粋存在なるまぼろしを見ました。  イリ(世界への入りをおこなう)人は このマボロシをそのままなナゾとして心にしまっておいた。  ヨセ(世界を束ね寄せる)人は マボロシに取り憑いた。その輝く光に身も心もつき従うとの誓いを立てた。  やがて修行の甲斐あって いよいよその《いと高き者》に似てきたとき――きわめて人間的な人間になったとき―― 周りを見てみれば このマボロシには誰も 関心がない。  ヨセ人は ここであきらめなかった。    このマボロシによって人びとを感化し     世の中を束ね寄せる。    そうしてみせる。    そうすれば 《いと高き存在》の光は あまねく行きわたり    世はますます常世(とこよ)の国として栄えるであろう。  と踏んだ。  (い)  このヨセ人なるアマテラス種族が 社会のあり方として平屋建てを嫌い その上に第二階を築きたいと言って スサノヲ市民らに冀ったとき――スサノヲらはとうとうその根競べに負けて―― 《くにゆづり》をした。  イリ知性なるスサノヲ市民の村々におこなわれる《まつり》は 第二階によって束ねられ おまけに税を取られ 全体としてその統治が《まつりごと》としておこなわれるようになった。  かくて 《アマテラス‐スサノヲ》連関制の完成である。《くにのいえ》と言う。家というからには 二階建てである。  二階のアマテラスなるアタマで立つなら その連関制は 逆立ちしている。  (う)  《ひかり もしくは まぼろし》と現実の大地とのあいだに隔たりがあるとすれば 人にはその発言(自己表現)にもつねに 本音と建前がある。  あるいはさらに 二枚舌の問題が必然的に現われる。――そうでなくてもふつうのイリ人においても ウソでない心とウソの心との相克の問題が ごく一般的に ある。  (え)  広くマ(間・間合い)が 人びとそれぞれにおけるそういった心的および社会的な《関係ないし連関》のあり方として成り立って来ている。  すなわちむろんこの問題をあつかうのだ。ここでは 《 A (アマテラス)‐ S (スサノヲ)》逆立連関制としてのマである。  第一階とお二階さんとのマの具合いであり 間合いの取り方であり そこに起こるマチガイの正し方の問題です。  おそらく一階のマツリと二階からとりおこなうマツリゴトとが逆立ちしているのではないか? そこから マチガイがつねに起こり得るのではないか?  (お)  細かくは たしかに第一階においてスサノヲ市民どうしの間でも 仲間と仲間のあいだにマチガイが生じるでしょうし お二階さんどうしの間でも 同じような問題が起こるものと考えられます。  問題は そもそもは 《 S (主権)- A (従属)》の連関だったものが A 圏主導の《 A - S 》連関として逆立ちしているというところにあると見ます。  つまりは すぐれたアマテラス族の初めの人びとにおいて いくら光り輝くイデアを見たと言っても その《いと高きところ》なる理念の扱いにおいてすでに初めに逆立ちしてしまっていたのではないか。  イリ人は このイデアをとおして――《をとおして》――マツリをおこないカミにささげものをした。  ヨセ人は このイデアじたいにカミを見た。あるいはさらにみづからがカミとなった。  こう見る限りで ヨセ人のヨセ知性は イリ人のイリ知性に対する反措定であると捉えます。  つまりそれが アマテラス語方言という言語類型――無謬性の神話に包まれている――であり そこから必然的に現われると言っていいところの二枚舌現象だと言いたい。そう言いたいのですが これに対するイリ人=スサノヲ市民の打ち出す反措定は すでに或る反措定に対する反措定ですから 綜合であり人間のふつうの存在の肯定であると考えてよいのではないでしょうか?   (か)  マチガイからのマの回復。つまり 地域主権の実現としての――二階から一階への――大政奉還。  これまでの歴史において アマテラス語方言が社会を覆っていたとしても つまりそれが《不当にも》社会において有力であったとしても 人びとはこれを どういうわけか 難なくこなして来ていた。    時代が変わり社会のあり方が変わり もう《こなす》ことがむしろ出来なくなった。こなす・こなさないの問題よりも アマテラス方言の誤謬が ただ街を歩くだけでそこら中に見えて来てしまった。また 経済的にも立ち行かない情況を背負っている状態となった。  アマテラス公務員の無謬性なる神話がくずれた。  マの問題。この A - S 連関というマの逆立ちをただすことがいまの課題であるのではないか?  じつは国家の止揚として世界史的な課題であるのではないか? 国家ゆえに領土問題と戦争がある。  添削をどうぞ。

  • あなたは 何語をしゃべっていますか?

     1. ひとがしゃべる言葉には ふつうに市民として社会の中に生活しているときの《人間語》があります。  2. そのひとつの特徴としては――互いに主観をぶつけ合うようにして 自由に交通するゆえ―― 《あやまちうる》という性格を持ちます。  3. この・スサノヲ市民のあやまちうる人間語のほかには そうだとすると あやまち得ない科学的な普遍語があり得ます。  4. つまり スサノヲ人間語としての主観をなるべく控えるかたちでアマテラス公民の用いる普遍科学語。  5. そして 科学語のように中立――価値自由-――ではなく そこに主観的な価値判断をまじえたときにも なお普遍性を問い求める倫理のことばがあります。  6. これは アマテラス公民の普遍人格語とよべます。  7. 整理すれば:   あやまちうるスサノヲ( S )人間語   あやまち得ないアマテラス( A )普遍語(科学語および人格語)  8. ところが ひとは誰も 公民としてのみ生活しているわけではなく 市民であっても 選挙をつうじてなりとも公民としても生きている。    9. したがって おそらくわれわれのふつうにしゃべる言葉の範囲は広く けっきょく S 語と A 語とのすべてだと言えます。  《 S 人間語 - A 普遍語(人格語&科学語)》の構造的な複合語  10. このようにひとがしゃべる言葉として捉えた内容は 人間観にもつうじており 哲学・思想の現実的なあり方にもかかわって行くものと思われます。  11. 端的に言って 西欧の人びとは・そしてその哲学は しばしば《 S - A 連関》の全体を必ずしも扱わないクセがある。  12. 普遍 A 語の世界のみを――倫理にしても自然や社会についてにしても――理論的に体系的に描こうとするクセ。    13. あるいは 《 S 人間語の世界――スサノヲ市民社会――》について探究するにしても すべからく《 A 普遍人格語かつ科学語》をそのドロドロとしてもいる生きた人間社会に あたかもメスを入れるかのごとく 当てはめてしまい ときにはそれだけに終わろうとするクセ。  14. ちなみに その思潮に対する反動が起きて 《あやまち》でもよい・または あやまち得る S 語のほうがよいという風が吹くときがあるようだ。スサノヲ市民の中の《その場主義》に片向いた一般ピープル主義とも言えるポピュリズムでしょうか。  15. と かんたんに捉えたとき 構造的な連関のあり方がまことに按配がよいといった《 S - A 連関》語は われわれは しゃべられないものだろうか?   16. つまり S か A かのどちらか一方に片寄ることなく その全体にわたる言葉をしかるべき配合にして しゃべるようになれないか?  ☆ これが問いです。忌憚なきご見解をどうぞ。

  • 《人間を国家的に》から《国家を人間的に》へ

     1. われわれのしゃべる日常の言葉は あやまちうるスサノヲ人間語です。(あやまつは人のつね)。    2. そこから普遍的な要素を抽出し 抽象的になったかたちではあるが あやまたない内容を表わそうとするのが アマテラス科学語です。(主観内容を共有しうる普遍概念の抽出)。  3. 抽象した要素としての言葉は 概念となりますが この概念を用いてさらに良し悪しの価値判断をおこなうと 科学語はアマテラス人格語として――ということは 道徳や倫理規範の問題として――捉えられて来ます。  4. スサノヲ市民たる人間が これら科学語および人格語たるアマテラス普遍語を使いこなすようになること。これが 《人間化》だと考えられます。(口先だけではダメでしょうが そこは誰しもおんなじ)。    5. さてこの人間の人間化をめぐっては 社会として・その形態としては 《国家にあってこそ初めて成し遂げられる》といった見解が出されています。  6. それは A (アマテラス)語をもっぱら駆使することが出来るアマテラス公民を 言わば社会の第二階に住まわせてそこから いまの S (スサノヲ)語にアマテラス語を採り入れるようにさせるという人間化を政策的にも実現させようとするいとなみであるようです。  7. それは スサノヲ市民のアマテラス公民化 または 《 S 語 ‐ A 語 》の二層構造のしかるべき有効な使いこなし これを実現しようとする人間の志向性であるように考えられます。  8. 《ひとは国家において―― A 語公民性の幅と深さを持ってこそ――人間である。それが 人間の自由である》のだとか。  9. けれども 現代の課題は――昔からの志向性をさらに伸ばして行くかたちとしての歴史的な課題は―― この国家をこんどは人間化すること ではないでしょうか?  10. お二階のアマテラス公民をして その人間存在としていかに土臭きスサノヲ人間語をも回復せしめるか?  ではないだろうか。  11. なぜなら アマテラス普遍語は いかに社会秩序を保つという統治のためとは言え お二階さんたちが その《我が家》であるアマテラストゥーム( das Amaterasutum )の名誉や面子を重んじるあまり 《あやまちの無さ》だけを強く声高く言い張るようになっていると見られるから。あやまちをまぬかれる人間はいないのに。アマテラス的な あまりにもアマテラス的な姿を呈するようになってしまたのではないか?  12. 人間は しょせん スサノヲシャフト( die Susanowoschaft )なる大地の住民である。なぜここから飛翔し人びとを措いて単独にアマアガリして その抽象性の世界に閉じ籠るのか?  13. 二階建て構造のかたちは のこったとしても実質的に 国家をそして A 圏公民をしてスサノヲ人間語の回復を得さしめること。《国家を人間的に》 ではないか いまの課題は。インタムライズム。  14. それとも 究極のアマアガリとしての《アマテラス公民からさらに抽象化をおこなった象徴たるアマテラシテ( das Amaterasität; amatérasité; amaterasity )をになう人》のすがた これが 《人間化》のあり方であると言えましょうか どうでしょうか?  15. 天皇 安倍晋三 シーチンピン パククネ バラクオバマ ・・・が 究極の《スサノヲ市民 - アマテラス公民》のしかるべき秩序構造化した《にんげん》でしょうか?   17. 人間の人間化の道は まだ終わっていないでしょうか? お考えをお寄せください。