《空(シューニャター)》とは ひとの自由意志をも存在しないと見るのか?

このQ&Aのポイント
  • 《空(シューニャター)》とは、ひとの自由意志をも存在しないと見るの問いについての考察です。
  • 龍樹の空観によれば、存在する・存在しないというのは相対的なものであり、現象がある・ないという意味に用いられます。
  • また、龍樹は関係性によって現象が成り立っていると説き、人間の自由意志はその関係性の一部であると考えています。
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《空(シューニャター)》とは ひとの自由意志をも

 【α】 《空(シューニャター)》とは ひとの自由意志をも 存在しないと見るのか?  ・ これが 問いです。  【α-1】 《存在する・しない》というのは あくまで相対的なものごととして 現象がある・ないという意味に用いている。  【β】 色即是空のあとにただちに 空即是色と言えるのなら 空だけれど その《色受想行識》としての現象はある。と言っているはずだ。  【β-1】 すなわち 意志自由は 現象している。《行》のことだろうか。  【γ】 すなわち 世界のものごとは 関係性(縁起連関)によって成るだけではなく その網状の集まりを成すそれぞれの結び目(結節点)もがあって これは 言わば社会的な独立性をうったえるところの人間の自由意志である。そのハタラキである。  ・ 次のヰキぺの解説記事の中から 《龍樹の空観》を取り上げますので その理論とからませて 上の問いにこたえていただければ さいわいです。      ▼ (ヰキぺ:空(仏教)) ~~~~~~~~~~~~~   http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A9%BA_(%E4%BB%8F%E6%95%99)  § 2.2.2. 龍樹の空観  (あ) 龍樹は、   ( a ) 存在という現象も含めて、あらゆる現象はそれぞれの関係性の上に成り立っている  ことを論証している。   * 【質問者の問い・δ】 すなわち 網の目を織り成すネットワークの結節点は あると言っているのかどうか?  (い) この関係性を釈迦は「縁起」として説明しているが、龍樹は説一切有部に対する反論というスタンスを通して、より深く一般化して説き、   ( b ) 関係性に相互矛盾や相互否定も含みながらも、相互に依存しあっている  ことを明らかにした。これを空もしくは「空性」と呼んでいる。   * 【ε】 相互依存の関係において モノゴトが縁起していることに間違いない。自由意志に当たると見る結び目は 存在するか?  (う) さらに、   ( c ) 関係性によって現象が現れているのであるから、それ自身で存在するという「ユニークな実体」(=自性)はない  ことを明かしている。   * 【ζ】 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~     あぁ! 《自由意志》はないか? けれどもただし この《それ自身で存在するという「ユニークな実体」(=自性)はない》というのは どうも そうではなく 《この世に絶対的なものが存在しない》と言っているだけのようにも見受けられる。     つまり 絶対的な存在ではなく 有限で移ろいゆく相対的なものであるが それとして自由意志もしくは人間の主体性は 存在する。のかどうか?    ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~   ( d ) (最高の仏である如来だけがしかし、「自性輪身」〔三輪身の一つ〕)と呼ばれ、自性であるとされている)。   * 【η】 これは まさしく《絶対》のことである。法身仏のことである。したがって ひとの自由意志とは 別である。  (え) これを以て、   ( e ) 縁起により全ての存在は無自性であり、それによって空である  と論証しているのである。龍樹の空は、これにより「無自性空」とも呼ばれる。   * 【θ】 依然として 結び目は 存在するや否や? である。  (お) しかし、これらの関連性は、現象面を人間がどのように認識するかということとは無関係のものである。   * 【ι】 おお! 《現象面》では ひとの主体的な意志の選択が自由である。と言えるかも。・・・  (か) これを人間がどう認識し理解して考えるかについては、直接的に認識するということだけではなく、人間独自の概念化や言語を使用することが考えられる。   * 【κ】 むむ? 何のことだろう? 意志自由は あると思えば 勝手に あると規定すればよい!?!? 分からんなぁ。  (き) 龍樹は、人間が外界を認識する際に使う「言葉」に関しても、仮に施設したものであるとする。   * 【λ】 それは そうであろう。すべて 相対的なものごとだと言っているのだから。肝心の問いには 答えていない?  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~

質問者が選んだベストアンサー

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  • a_hona
  • ベストアンサー率21% (95/444)
回答No.11

なるほどそういうことでしたらば、と思い再回答します。ただし、私の理解するところの空観による説明であることを断っておきます。 まず、空観においては、一切を透徹したような知の閃きのような感覚を得ます。その時、世界の事物の一切は、生じることもなく滅することもないと知り、同時に二項対立の概念を克服し、全一なるものを知覚します。また、全一なるものもまた空であることを見て、無一物とも言うべき言葉を超えた識見を得ます。 さて、この時には、自由を獲得したという確かな感覚があって、束縛を脱するということを感覚すると同時に、空観もまた一つの見方に過ぎないことを知ります。こうして空から自由になった時に、自由を行使する私というものが現れます。従って、その私は空を行使しており、空にとらわれず、空を超えています。 空観において、自由を行使する私は確かにある、と言って良いでしょう。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  そうしますと その結局にあるわが存在の状態は    自由意志の最大限の自由を享受している  となりそうですね。それは 万々歳ですね。想像力の勝利ですね。  と受け取った上で 元も子もないようなことを言ってみましょうか。  《有無を超え 生死を突き抜け 善悪の彼岸に到り 全一なるものを知覚し さらにこれを突き抜け 無一物を捉え 空にとらわれず空を超えた》境地 これは ひと言で《非思考の庭》と言ってみては ダメですか?   シューニャター   ブッダター    一切衆生 悉有仏性   自性清浄心   梵我一如   神の霊のやどる身と心   煩悩即菩提   娑婆即寂光土   無住処涅槃   自未得度先度他 なる自由の実行  すなわち  ★ こうして空から自由になった時に、自由を行使する私というものが現れます。  ☆ という大航海の果てを ただちに――なぜなら 即身成仏ないし即得往生において―― 一瞬において成就する。と言ってみては 信号無視の交通違反になりますか?  というより すでにわれわれは皆がおのおおの成就しているからこそ こうやってさとりや空観をめぐり やり取りをしている。と言っちゃっちゃ フライイングでしょうか? 飛躍し過ぎでしょうか?  おしまいからものごとを始めては ダメですか? それが空観なのでは?

その他の回答 (12)

  • 0fool0
  • ベストアンサー率18% (134/738)
回答No.2

貴方の疑問は、“「悟り」と形容される何かしらの物を伝えて貰えない”と騒いでいる訳ですが、では、貴方の抱く『迷い』を伝えて下さい。 それが第一歩です。

bragelonne
質問者

お礼

 ☆☆ (趣旨説明欄) ~~~~~~~~~~~~~~~  【α】 《空(シューニャター)》とは ひとの自由意志をも 存在しないと見るのか?  ・ これが 問いです。   ・・・・・  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  この説明を読んで理解すること。  それが 第一歩です。

回答No.1

 「ブラジュロンヌ」に付いて不勉強なので、“自由意志”について説明がほしいです。

bragelonne
質問者

お礼

 こんばんは。ご回答をありがとうございます。  そのときその場で どうするか? 思考をつうじていくつかの選択肢を得ます。    それらの内のひとつを自由に――つまり 何ものにも妨げられず よいと思ったものを積極的に選ぶかたちで自由に――えらび しかもこれを実行するというその判断力ないし判断行為を 自由意志と言うと思います。  何ものかにその自由な選択を妨げられるというのは けっこうあります。あるいは社会ないし人間関係もしくは義理やシガラミから言って むしろそのほうが ふつうであるかも分かりません。ただし そのようにしてやむを得ず次善の策などを選ばざるを得ない場合にも そのことについておのれが自由にその力不足について認め受け容れ 何の憂いも不平もなくあまんじるという判断 これも 自由意志の為すわざです。  この自由意志が 世界を《空》として観るときには 果たしてあるということなのか。それとも ないというのか。これが知りたいことです。

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