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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:昔夢会筆記について)

昔夢会筆記とは?徳川慶喜の後日談が記された歴史的資料について

このQ&Aのポイント
  • 「昔夢会筆記」とは、歴史書や参考書、小説などで徳川慶喜の後日談が記されている資料の一つです。
  • この筆記には、鳥羽・伏見の戦いに関する記述が含まれており、討幕軍に「錦の御旗」が立てられたことにより、戦が断念されたという話もあります。
  • ただし、筆記の中には矛盾がある部分もあり、逃亡時の前後関係などについてもつじつまが合わないといわれています。

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回答No.1

昔夢会筆記 なるもの初めて知りましたし、読んだこともありませんが、、、。 慶喜公は、水戸出身ですが、水戸家には、公にしないで、 水戸家内だけに言い伝えられてることがあります。 それは、家康が「いずれ何百年先になるか分からないが、かならず 徳川幕府は潰れ、政権を朝廷にお返ししなければならない時が来る。 そのときは、潔く、朝廷に政権をお返しするように、、、」と 水戸家だけに言い伝えられてたそうです。 特に慶喜公は、幼い時から聡明であったので、父 斉昭は 慶喜公には、口が酸っぱくなるほど、言い聞かせておられたそうです。 ですから、将軍の地位に固執せずあっさり大政奉還もなされたのでしょう。 勿論、慶喜公にも、多少の色気はあったでしょうから、政権は握れる、、 と考えられたのでしょうが、、。 実際、朝廷にしても、突然、政権をあたえられても どうしようもなかったのもあるでしょうが、、。 でも、歴史って面白いですよね。 西郷、大久保が幕府をつぶすために、担ぎ上げた朝廷(明治天皇)の 孫である(昭和天皇の弟)秩父宮、高松宮の妃に、薩長が潰した 慶喜公の孫娘、会津の松平容保の孫娘が なられたのですから。 お二人は「私たち 薩長の敵なのにね、、、」と笑われてたとか。 また、お二人とも、夫婦仲はとても、睦まじかったそうです。 また、お二人とも、お子さんが出来なかったのも、歴史の 運命を感じますね。 西郷、大久保が、散々に戦い潰した 徳川慶喜、会津の松平容保の 孫娘が、西郷、大久保が担ぎ上げた明治天皇の孫に嫁ぐ。 そして、其々に子供が生まれなかったことで 慶喜、容保の血も途絶えた。 歴史って 凄いですよね。 自分たちが潰した徳川と会津の孫娘が皇室に嫁いだ、、、なんて、 泉下の西郷、大久保はどう思ったのでしょうかね? 苦笑い?

noname#205122
質問者

お礼

ご丁寧な回答、ありがとうございました。 「慶喜公は、水戸出身ですが、……言い聞かせておられたそうです。」というのは、私の記述の(1)のことだと思いますが、私は、そのことを否定できるほど歴史通ではありません。 しかし、水戸家の「尊皇思想」と、「固執せずあっさり大政奉還」や「鳥羽・伏見の戦い前後の慶喜の行動」とが、矛盾なく結び付くでしょうか?「情勢の読み違え」があったとしても、しっくりこないですよね。 「西郷、大久保が、散々に戦い潰した 徳川慶喜、会津の松平容保の……泉下の西郷、大久保はどう思ったのでしょうかね?苦笑い?」……西郷隆盛や大久保利通を勝者、徳川慶喜や松平容保を敗者とみると、このような表現になるのかも知れませんが、最近、私は「幕末・維新の本当の勝者は誰だろう」という疑問を抱くようになっています。 江藤新平は、大久保利通に斬首され、西郷隆盛は西南戦争で自刃しておりますし、ほどなく、大久保利通も暗殺されています。伊藤博文も多少事情は異なるにしても、暗殺されました。 それに比べて、徳川慶喜は、明治維新後に従一位勲一等公爵、貴族院議員となり、潤沢な隠居手当を元手に写真・狩猟・投網・囲碁・謡曲など趣味に没頭する生活を送り、大正2年まで生きています。 松平容保も朝敵にされたとはいいながら、会津藩士と庶民の犠牲の下に、結局は、明治13年には日光東照宮の宮司となり、正三位まで叙任し、明治26年まで生きています。

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