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天皇家の血筋
天皇家の相続では南朝、北朝が争ったとありますが、明治になって南朝側が天皇になり 元に戻ったなどという記述をみたことがありますが、南朝側が正統と考えられているのでしょうか? 血族的にはどちらの側も血縁親族で、どちらが後をついでも大差はないのではと思えてるのですが? 分かり易く解説していただければ有り難いです。
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- masa731
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朝鮮は皇室にゆかりはあると思いますよ。 染色体で説明すればXYの日本の天皇の間にxxの朝鮮の女性との間にXYのお世継ぎが生まれた場合 父のYは確実に引き継いでおり天皇陛下が常に男子を跡継ぎにしてるのはDNA鑑定が出来るずっと昔からこの意味を人類は解っていて跡継ぎは男子という流れになったのかもしてませんね。 旧石器時代の発掘品の中に日本国土で取れる「黒曜石」(石を割って刃物にするもの)が朝鮮半島で見つかったりもしてますから、歴史的にみて日本と朝鮮半島は「ゆかり」は有ると思います。 お隣さんなのでこんにちはと言われればこんにちはって返す程度の認識で良いと思いますよ。 又古代の歴史を語る時に旧約聖書・聖書・古事記等ありますが、これは歴史の「真実」で有って「事実」では無いって事も頭に入れ、真実と事実の使い分けをしていくと良いと思います。 我が家も800年以上前の家系図が有りいつ書かれたかも解らない代物ですが、書かれてる内容の地に行けば その地の歴史として残って存在してたと言う事もありますから、その事を調べて初めて真実が事実に変わると思います。
- reflector
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ちょっと勘違いされると困るので ニニギは、石長姫と離婚した主な理由は、下記の歌を読んでください。 この歌は石長姫が書き、和泉式部がヘブライ語から翻訳し、平安京で発表したものです。 ▼沢のほたる▽和泉式部集 霧鼠本(巻一)▼ http://www005.upp.so-net.ne.jp/kirihime/utayomi/izumi_uta01.html なお、ニニギは死後、石長姫の元に訪れ、死霊となった二人は、また口説き落としそれぞれ転生しましたとさ。
- reflector
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>南朝側が正統と考えられているのでしょうか? 違います。 本当の南北朝時代とは、紀元前での話であり室町時代と呼ばれたものは「ヤラセ」だったからです。 理由は、旧約聖書が現在進行形の日本史と説明しました。 南ユダ王国が大室王朝(南朝)であり、北イスラエル王国が富士高天原王朝(北朝)だからです。 つまり、南朝は、大室王朝を指します。 北朝の富士高天原王朝と無関係に当り、名乗った時点でニセ天皇と自負します。 また、ニニギと木花咲耶姫との間に産まれた唯一の子供の名が歴史上から消去されています。 本来、この家系こそが平家側の直系に当たります。 歴史上にニニギの子と記述されているのは、ニニギと石長姫との間に産まれた3人の子が記されています。 つまり、ニニギの子は4人であり、後妻の木花咲耶姫の子こそが富士高天原王朝の王族の子孫となります。 この子の名は、約千年前まで歴史に記されていたようですが、全ての記録が隠蔽されたようです。 なお、大室王朝(南朝)の当時の国王は、猿田彦であり推定年齢は60歳過ぎでした。 南と北では、国王を決める儀式が異なる為、南朝は体力だけあれば高齢になっても国王になれます。 まるで高崎山のベンツのようにね。(笑)
- rockterry
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「明治になって南朝側が天皇になり元に戻った・・・・」はまったく違いますよ。 北朝を担ぎあげた足利尊氏が勝って以来、現在に至るまで天皇家は北朝です。 明治時代に南北朝正閏論争(南朝と北朝のどちらが正統か?という論争)が歴史学界で起きますが、明治天皇の「南朝が正統である」という鶴のひと声で論争は終結します。 おかしいですよね?明治天皇自身は北朝なのですから。 明治天皇に向かって「じゃあ、お前はなんなんだ?」と言ったら死刑ですから、誰も文句を言わなかったのです。 南朝の天皇家はどこにいるのか?という問題がありますが、庶民の中に紛れ込んでしまっているので誰も調べることは出来ません。 日本が連合国の占領下にあるとき、GHQの本部に熊沢という男が「我こそは南朝の末裔なり」と訴えてきましたが、もちろんGHQは門前払い。熊沢天皇と揶揄されて呼ばれたそうです。
- oska
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>南朝側が正統と考えられているのでしょうか? その通りです。 明治政府としては、天皇制を確固たるものにする為に「天皇に弓を引いた足利一族」を徹底的にたたく必要がありました。 旧武家に爵位を授けても、足利一族には爵位を認めませんでした。 数年前まで、京都の時代祭りには「室町時代が無い」状態でしたよ。 徹底的に足利尊氏などを逆賊とし、繋がる北朝は「傀儡」と看做したのです。 >血族的にはどちらの側も血縁親族で、どちらが後をついでも大差はないのではと思えてるのですが? そもそも、南北朝に分かれた原因は「後醍醐天皇」なのです。 後嵯峨天皇(88代)の後は、長男の後深草天皇(89代)が即位。後深草天皇の後は、弟の亀山天皇(90代)が即位します。 万世一系の天皇という考えはありませんから、後深草天皇(持明院系)・亀山天皇(大覚寺系)ともに「次期天皇は、わが子を即位させたい!」と望みます。 ここで、皇室は分裂。 鎌倉幕府の仲裁で、1317年「文保の御和談」として「持明院系・大覚寺系が、相互に順番に皇位を継承」「系の在位は、10年とする(一人で10年でも、親子で10年でも可能)」事が決まったのです。 大覚寺系・後宇多天皇(91代)の後は、持明院系・伏見天皇(92代)。 (途中を省略)持明院系・花園天皇(95代)の後は、大覚寺系・後醍醐天皇(96代) 後醍醐天皇は考えました。「そうだ、この文保の御和談を無視して息子を即位させよう!」 文保の御和談の立役者である鎌倉幕府が邪魔になり、倒幕を計画・実行します。 ところが、倒幕は失敗。結局、足利尊氏の助成で鎌倉幕府が崩壊。建武の新政です。 が、足利尊氏は「文保の御和談を継承」して持明院系・光厳天皇(北朝1代目)を即位させます。 結局は、北朝も南朝も「後嵯峨天皇の血縁」ですから同じ血統です。^^; ただ、明治維新の国内統制を行う上で「北朝・南朝」「万世一系」など為政者の正しい歴史となったのです。 歴史というのは、政治家が自分の都合の良い様に解釈するのです。 某反日国家の、告げ口おばさんと同じです。^^; 日本は、教育の自由・信条思想の自由がありますよね。 こういう回答を書いても、(1945年以降)政治的批判・摘発を受ける事はありません。
- eroero1919
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2ちゃんねる風にするとこんな感じです。 南朝「足利尊氏のクソ野郎め、神器持って逃げたる」 「これじゃあ都に天皇がいなくなる。困ったなあ」 「困ったなあ」 足利尊氏「天皇家の血筋を引く人を連れてきたよ!」 「え?」 「え?」 「そんな人いたっけ?」 足利尊氏「なんだコラ。文句あんのかコラ(ギロリ)」 「い、いえっ、おっしゃるとおりです」 「あっ、あっ、わたくしが確かにその人が血筋を引いていることを証明します」 足利尊氏「よしよし」 北朝「天皇位は南北で交代にしような」 南朝「ちぇっ、しょうがない」 南朝「なんか北朝に負けそう。もうだめぽ」 北朝「あーれー?南朝さん、血筋を引いた人が足りなくなってきたよねえ」 北朝「じゃあそっちに人がいないから次の人もウチから出しますね。あと三種の神器はこちらでお借りしておきます」 南朝「ちょ、僕の神器・・・返して・・・」 北朝「うるせえ、の○太!返さないとはいわねえ。永遠に借りるだけだ!」 ま、こんな感じです。この問題は深くツッコむと不敬罪になるのでそっとしておくに限ります・笑。
- あずき なな(@azuki-7)
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まぁ後小亀山帝に後小松帝の娘が嫁いで実質南北は合体してますから 南朝は正当な王統(後醍醐天皇が神器を持っていたため)ですが血筋は途絶えています 北朝は神器を持っていませんでしたが天皇は都に居りその後の皇統も北朝から続いています 南北朝時代だけで見れば 正当な皇統は南朝です