• 締切済み

人間には「救済」が必要なのか

日比野 暉彦(@bragelonne)の回答

回答No.15

 ★ (No.4お礼欄) 〔同じDNA の型の人間は 自分の〕「ほかにいない」と断言できる根拠は何でしょうか。  ☆ たしかに次のように但し書きがつけられているようです。  ▲ (ヰキぺ:DNA型鑑定) ~~~~~~~~~  http://ja.wikipedia.org/wiki/DNA%E5%9E%8B%E9%91%91%E5%AE%9A  § 6 DNA型鑑定の課題  ・・・  現在の技術ではヒトゲノムの塩基配列のすべてを調べるわけではなく、「一卵性双生児以外すべて結果が異なる」という認識は誤りである。赤の他人であってもDNA型が一致することはある。    「極めて低い確率(数十兆分の一)ではあるため指紋認識のような識別手段としての信頼性がある」というのも誤りで、どの程度の確率で同じDNA型の人が出現するかはまだ明確ではない。  「すべての人間のDNAのパターン・データが登録されれば偶然の一致による誤判定は防げる」というのも誤り。  アメリカのメリーランド州では、2007年1月、データベースに3万人分程度が登録されているDNA型プールにおいて、理論値では1000兆分の1の確率とされるDNA型の「偶然の一致」があったことが裁判で明らかになっており、DNA型の理論上の一致確率に重大な疑念がもたれている。  ・・・  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 途中で引用をはぶいたかたちですが だからと言って 生命ある存在が つねに前世から現世へ・そして来世へと輪廻転生をおこなうというには あまりにもその《 DNA 型の一致》が少ないと言うべきではないでしょうか? ほかの動物としても あまりにも少なさすぎるのではないでしょうか?  よって 輪廻転生は 文学的な表現のあやとしてなら別としても じっさいのこととしては あり得ない。ということになるのでは?  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~   > 信仰には 《救済を必要とする》場合もあれば 質問者のように《必要としない》場合もある  ええ、それで、《救済を必要とする》場合、どのような理由があるのか? という質問です。  理由もなく《救済を必要とする》わけではないですよね。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ これは 質問趣旨が次のように記されているからです。  ★★(趣旨説明欄) 質問ですが、「救済」はなぜ必要なのですか? なぜ人間が惨めであってはいけないのですか?  ☆ たしかに字句どおりには   ★ 《救済を必要とする》場合、どのような理由があるのか? という質問です。  ☆ と読めますが その問いが持たれるようになる過程について捉えるならば そうはならない。のではないかという回答です。  すなわち  ★★(趣旨説明欄) ~~~~~~~~~~~~~~~  (あ) 例えば、パウロは、私は惨めな人間であり、誰が私を救ってくださるかといっていますね。  (い) しかし私は、なぜ人間が惨めであってはいけないのか分かりません。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ そして確かに(あ)は パウロが自分自身について《救い主が必要であるし じっさい存在する》と言っていて (い)では 或る種の仕方で それに反対の見解を提出している。というふうに読めますが 問題は そうではないと読みましたという回答を 寄せました。  すなわち 基本的に言って 信教と良心の自由という公理があります。パウロはそれにもとづいて自分の見解ないし立ち場を述べています。  すなわち そのことに何の問題もありません。  と同時に その見解や立ち場とは別の見解を発表するのも 自由です。その自由のもとに 質問者は(い)の見解を述べておられます。  そして それだけのことです。ほかに何の問題も出て来ていません。  ――こういう回答内容です。  ☆☆(回答No.4) ~~~~~~~~~~~~~~~  つまり 信仰には 《救済を必要とする》場合もあれば 質問者のように《必要としない》場合もある。という仕分けをおこなったまでです。  すくいを必要とする理由を述べてそれとしての議論をおこなう段階ではないという意味です。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  言いかえると  ★(う) (No.4お礼欄) 《救済を必要とする》場合、どのような理由があるのか? という質問です。  ☆ という問いは 上の段階をまづみとめあったそのあとでの話になる。のではないかという・この質問に沿った回答者としての問い求めです。一足飛びには すすむことは出来ません。  つまりは そういった《信仰をめぐる良心および信教の自由》をみとめる段階を互いにみとめあったなら ただちに上の(う)のような問いに飛ぶことはないと思うからです。  理由が何であれ すくいを必要とする人がいて そのための――組織宗教ではなく あくまでも個人にとってのですが――信仰があるということ。これについて 質問者は じゅうぶんに認めたことになるはずです。そのことの確認を経て初めて こんどは ではその理由とは何ぞや? という問う段階に入ります。  そういうことを明らかにする回答だったわけです。  もう少し説明します。  ★★(趣旨説明欄) ~~~~~~~~~~~~~~  (え) 例えば、パウロは、私は惨めな人間であり、誰が私を救ってくださるかといっていますね。  (お) しかし私は、なぜ人間が惨めであってはいけないのか分かりません。  人間は惨めなまま死ねばよいのであり、神による救済など不要ではないかと思うのです。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ このパウロの場合は 《自分がみじめな人間であると自覚している》ということを理由としています。  それは (お)で質問者が 《すくいを不要とする》理由を述べているその説明と 同じ程度に有効なのではないでしょうか?   片や 《みじめなままでは 死にたくない》と言っています。  互いにひとしく自由な主観とその表明なのではないですか。  もしパウロも質問者の見解と立ち場に同じく立てというご主張であるのならば それは 《無意味に意味を見い出す》という思想であることがはっきりします。そうなのですか?  つまり  ☆☆(回答No.2) ~~~~~~~~~~~~~   たぶん   ★ 無意味   ☆ であることに意味を見い出しておられるのかも知れません。   つまり 人それぞれであるということになると思います。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~    それとも パウロよ おまえは おれと同じようにすくいを必要とせず みじめなまま人生をおくれと言いたいのでしょうか。   

selfless
質問者

お礼

> あまりにもその《 DNA 型の一致》が少ない 確率が「少ない」ことと0であることは全く意味が違いますね。 確率が少ないといえば、絶対無の中からビッグバンが発生したことや、生物の進化が起きたことさえも、限りなく0に近い確率ですが、現に起きたわけですし。 > 信教と良心の自由という公理 つまり、救済が必要な人(例えばパウロ)もいれば、必要でない人(例えば私)もいるのであり、それは自由ではないかと? 私は全くそうは思いません。私は「皆違って皆いい」という立場をとりませんので。 もちろん、パウロがキリスト教の立場(私とは逆の立場)をとるのは結構ですが、それならそれで「なぜ救済が必要だと考えるのか?」と問う権利が私にあると考えます。 そう問うたとき、「信仰の自由だから、救済を信じてもよいではないか」と問いを回避する「自由」などありえません。 > それは (お)で質問者が 《すくいを不要とする》理由を述べているその説明と 同じ程度に有効なのではないでしょうか?  > 片や 《みじめなままでは 死にたくない》と言っています。 これは「有効」ではないのですね。 なぜなら、「なぜ惨めであってはいけないのか?」→「惨めなまま死にたくないから」という理由説明は、説明になっていないからです。これはただの同語反復にすぎません。 > パウロよ おまえは おれと同じようにすくいを必要とせず みじめなまま人生をおくれと言いたいのでしょうか。 「救済」を必要とする納得のゆく理由がないのだとすれば、パウロは「みじめなまま人生をおく」るべきであったと思いますね。

関連するQ&A

  • 宗教の必要性

    特に宗教に入っているわけでも、神様とかも信じていないですが、最近になって宗教は人間には必要なのかもと思う事があります。 日本人って自殺が多いですが、それって宗教が無いからなのかなあとかも思います。 宗教や神を信じている人は死ぬまで神が助けてくれると信じながら死ぬと思うんですが、宗教や神を信じていない人は基本的には自分が一番信じられる存在だと思うんです。 それで自分ではどうしようも出来ない事等に遭遇した時や状況に陥った時に絶望しておかしくなったらり、自殺を選んでしまうのかなと。 もちろん宗教に入っている人が自殺しないとは限らないですけど。 だから最近は宗教は死ぬまで希望や望みを持たせるためのものなのかなと思っています。 皆さんはどう思いますか?

  • 永遠に続く人生の再放送・・・

    映画『ハンナとその姉妹』の中で、生と死の問題に悩む主人公ウディ・アレンは、ニーチェの「永劫回帰」の思想を「なんだかテレビの再放送みたいでいただけない・・・」とこぼします。 ニーチェの永劫回帰の思想は、簡単に言えば、人は誰も永遠に同じ生を繰り返す、というものです。もちろんわたしたちにはその自覚はありません。けれどもそれを想像したとき、全く同じ人生を永遠に繰り返すことにあなたは堪えられるでしょうか? ニーチェは、それに堪え得るのは「超人」である。といいました。 寸分もたがわない人生の永遠の繰り返しに対し、ジョセフ・コンラッドの『闇の奥』の主人公の最期の言葉のように、「怖ろしい。怖ろしい」ということはあり得ないでしょうか? もし、「わたしは超人でも何でもないが、それでもこの人生を寸分たがわずに永遠に繰り返すことに怖れは微塵もない。」と言えるとしたら、それは何故でしょう? また、「あなたのように」答える人は多いと思いますか? ひょっとして、「ディレクターズ・カット」を入れられるなら、と思ったりはしませんか? 永遠に繰り返される全く同じ人生にあなたは「イエス」と云いますか?

  • ニーチェの「永遠回帰」とは?

    ニーチェはスイスの保養地、シルスマーリアの近郊の山々を散策している時、突然、人類と地上を遥か超える3000フィート!と叫んで「永遠回帰の思想」を懐胎した、と、「悦ばしき知識」の中で言っています。 「永遠回帰の思想」はニーチェにとって、キリスト教の「福音」に代わる、新しい「福音」でした。 どういう意味で、それが「福音」なのかといえば、古代ギリシャ以来の哲学と形而上学に代わって、自分の「力への意志」が、これからの哲学でなければならない、と言ったものでした。 ニーチェは言っています、存在に対して生成の優位を唱えること、それが「力への意志」であると。 存在に対して生成の優位を唱えることは、アリストテレスの目的論と、キリスト教の終末論に対して、古代ギリシャの円環的な時間の考えを対抗させること。 直線的な時間の考えに対して、円環的な時間の考えを対抗させること。 時間が直線的と言ったのは、キリスト教とその終末論です。 最後の審判に向かって、時間は直線的に進行する、という。 アリストテレスの目的論も、有機体をモデルに、歴史には、その目的がある、という。 ニーチェは、このアリストテレスとキリスト教の「目的論」を否定するために「永遠回帰」の思想を唱えました。 すでに、ニーチェの前のショーペンハウワーは、世界の根源は「生きんとする意志」で、「生きんとする意志」は目的を持たない、盲目である、と言っていました。 だから人間が救われるためには、この「生きんとする意志」を否定しなければならない、と言っていました。 ニーチェはショーペンハウワーの思想を受け継ぎましたが、ショーペンハウワーとは違い、逆に意志を肯定すべきだと言いました。 それはこれまでの、最高価値であったキリスト教の価値観、人類は終末に向かって、最後の審判で人々が天国に迎えられるために、人生は意味のあるものでなければならないと言ったことへの否定でもありました。 ニーチェはそのようなキリスト教の価値観を「ニヒリズム」と言って、断罪します。 それは存在を優位に考える思想であり、それは「ニヒリズム」である、と。 (この場合「ニヒリズム」とは日本で「虚無主義」と訳しているのとは逆の「存在主義」という意味で) ニーチェはキリスト教のみならず、古代ギリシャ以来の哲学と形而上学は「ニヒリズム」であり、西洋の哲学の歴史は「ニヒリズムの歴史」であり、キリスト教は「ニヒリズムの宗教」と言って断罪します。 彼らは、存在だけを論じ、無を無視してきた、それが西洋の哲学の歴史であり、キリスト教なのだ、と。 この「存在を無視する」というのが「ニヒリズム」です。 事実、西欧世界に仏教の「無の思想」が知られたのは、19世紀の半ばでした。 それを知って西欧の人々はびっくりし、そして畏怖しました。 「なんと、東洋には無を唱える宗教がある!」というわけです。 ニーチェは「神は死んだ」と宣言しましたが、それは文字通り、神、すなわち超越的な存在がいなくなったということと同時に、西欧の哲学と形而上学の歴史が終わったことを宣言するものでした。 天に超越的な存在としての神があり、地上に私たちの世界がある、そして天の世界こそ、ホンモノの世界であり、地上の世界はニセモノの世界とキリスト教は言ってきましたが、その「二元論」、有と無の対立を否定し、生成の世界を対抗させなければならない、とニーチェは言います。 ニーチェの「同一物の永遠回帰」を、無が回帰する、無意味が繰り返す、と解釈する人がいますが、それは誤解です。 「存在に対して生成へ!」を唱えるものです。 直線的な時間に、円環的な時間を対置することです。 直線的な時間はキリスト教の終末論と、アリストテレスの目的論につながり、歴史の「進歩発展」につながりますが、ニーチェの円環的な時間は生成ですから、目的を持ちません。 そして「力への意志」は目的を持たず、その強化と増大を目的とします。 目的よりも「力へ!」です。 それこそが、ニーチェにとって、「永遠回帰」の思想が、新しい「福音」であるゆえんです。 どうですか?

  • 「永劫回帰」について教えてください

    【永劫回帰】ニーチェの根本思想。あらゆる存在は意味も目標もなく,永劫に繰り返されるが,この円環運動をあえて生きる決意をする者は生の絶対的肯定に転じることになる。永遠回帰。 と辞書にあります。 「円環運動をあえて生きる決意をする者は生の絶対的肯定に転じることになる。」 とはどういう思想なのでしょうか? 円環運動=人生ということはわかりますが、「生の絶対的肯定に転じることになる」ということはどういうことを示し、またそれがなぜ「あえて生きる決意をする者」が前提になるのかがわかりません。「あえて」と強調されているところにポイントがあるように思うのですが…。 「永劫回帰」については心理学のある概念と関連があり、今非常に気になっておりますが、当方哲学はもとよりニーチェの思想については学問的に無知ですので、より具体的、より入門的にわかりやすく伝えてください。

  • 永劫回帰に衝撃を受けました

    今日、このサイトを見ていて、永劫回帰という言葉の意味を知りました。 以下引用です。 (1)時間は無限 (2)世界(物質?原子・素粒子の種類や数?)は有限 であれば、いつかは、世界が今と同じ状態になることがあるはず。 だから、今と同じことが、遠い未来にもまた繰り返される。 この永劫回帰という考え方に、驚き、衝撃を受けました。 これは事実と考えてよいのでしょうか? もう一つ質問です。 時間が無限ならば、いつか、世界が今と違った組み合わせの状態になる事もあり、その結果、俺が、総理大臣として生きるという組み合わせの世界が出来上がる事もあると考えて間違いはないでしょうか? つまり、「自分が平凡」な人生も永遠に繰り返され、そしてまた、「自分が総理大臣になった」という人生も永遠に繰り返されるのではないだろうか?ふとそんな疑問が湧きました。 哲学の初学者の自分に、なにか回答をお願いします。

  • ニーチェの永劫回帰は どこから見ても中途半端だ

     ご自分の見解を明らかにしたかたちの或る質問に対して 論点ごとに問い返すかたちで投稿したものです。どうでしょう。    ★ ニーチェの円環的な時間は生成ですから、目的を持ちません。 / そして「力への意志」は目的を持たず、その強化と増大を目的とします。  ☆ 1. 《目的》を持つのか 持たないのか?  2. 《力への意志》の《強化と増大》とは いったい何を言うのか?  3. 人間にとって猿を超えた人間にたとえられる《超人》は 或る種の《目的》ではないのか?  4. 超人への《生成》とは 《直線的な時間における目的論》ではないのか?  5. あるいは けっきょくむしろプラトンの《イデア》理論=かつ宗教――つまり それとして目的論――と同工異曲ではないのか?    ★ ニーチェはショーペンハウワーの思想を受け継ぎましたが、ショーペンハウワーとは違い、逆に意志を肯定すべきだと言いました。  ☆ 6. ショーペンハウアーの《世界の根源としての「生きんとする意志」》は 人間およびこの経験世界を超えているのではないか?   7. つまりこの《意志》は 人間が肯定する・否定するという《人間の理解およびその経験行為としての意志》にはなじまないはずだ。つまり ニーチェの捉え方は ショーペンハウアーを出すならそれはお門違いだ。  ★ ニーチェは「神は死んだ」と宣言しましたが、それは文字通り、神、すなわち超越的な存在がいなくなったということと同時に、西欧の哲学と形而上学の歴史が終わったことを宣言するものでした。  ☆ 8. 《神、すなわち超越的な存在》と言っても もしそれが《生きていた そして 死んだ(あるいは 人間が殺した)》と言うのなら やはりプラトン流の観念論における神(物自体や世界精神)のことでしかない。それでは 経験世界を超えたという《超越的な存在》でも何でもない。  9. あたまの中で観念としてこの世界を超えた存在をつくり それをいじくっているに過ぎない。  10. 多くの人間が――たとえば先ほどのショーペンハウアーとは違って―― 神をただの概念として しばしば持て余しつつ 弄んでいたに過ぎず ニーチェがその例に漏れるということはない。  11. 神はいやしくも神であるなら 人間に《死んだ》と言われようが《死ね》と言われようが 痛くも痒くもない。  12. その神と人間との関係は 終末論という物語をつうじても人間によって語られたが 問題は 《神は生きている人の神であり 死んだ人には関係ない》のだし 《未来でも過去でもなく しかもそれらをあたかも収めるところの〈永遠の現在〉》だということは アウグスティヌス以来 相場が決まっている。  13. 《永遠の現在》は神学っぽいから 言いかえれば 現実存在のことです。実存志向 これが《直線的な時間観と円環的な時間観》を包括し 《イデア説から自由で 生成説を包み入れるかたち》である。    ★ 永劫回帰  ☆ 14. というのは――その思想としての可能性を好意的に解釈するのならば―― 《観念の神と そして普遍神としての(非知なる)神とは違う》ということに人はつねに機会あるごとに 突き当たる。はずだ。そこでしかるべき道をえらべと言っている。  15. あるいは言いかえるなら 《あたまの中のオシヘとしての神(キリスト教)と 個人としてのわれにとって固有の時であり非思考の庭なる神(普遍神を指し示すキリスト信仰)とは 月とスッポンとの違いがある》という《なんならチカラへの意志》に遭遇する。何度でもその機会はやって来ると言っている。  こんな感じでしょうか。

  • 神が創造した【人間】は神を裏切った。

    ちょっと変わった質問内容になりますが、ちょっと考えたいことがあるので、ほかの方の意見が聞いてみたいです。 興味のない人や意味が分からない人はレスしないで、スルーして下さい。 人間は常に「悪」の部分と「善」の部分の両方が対立し合ってると思います(あくまで個人的思考です) しかし、人間は生まれたばかり(赤ん坊)の時は「悪」の部分は一切ないと思います。やはり育った環境や周りの影響によって生き方が変わっていくと思います。これは凄く興味深いと思います。 ここからは、とある「宗教」の教えを話します。 初め「人間」には「永遠の命」を神に約束されていました。初めは人間が死ぬことは一切ありませんでした。つまり現代の「死」というものは無かったのです。それが、当たり前だったのです。 初めに人間として作られたのは「アダム」でした。そして人間には、ほかの動物とは決定的に違う能力を授かってました。それは「考える能力」「物を作る能力」です。現代の人間が発達した力です。実は「動物」「植物」の名前も「アダム」が考えたものです。 その後、「神」は「アダム」の骨から「エバ」(女性)を作り出しました。初めは一種だった人間ですが、「エバ」が生まれた結果、人間には「男性」「女性」っという風に性別が生まれたのです。それと共に人間は「繁栄する力」を持てるようになりました。もちろん、「永遠の命」を授かってる人間ですから、このまま「繁栄」すれば素晴らしいことだったのです。 しかし、その頃「神の見使い」の中に悪事を働く「見使い」がいました。それが「サタン」です。今現在の世の中を悪化させてる本人です。 「永遠の命」を約束されていた人間にも、一つの守り事がありました。 それは、とある「木の実」を絶対に食べてはいけないっという約束でした。(これはエホバが人間を試していたのだと思う) しかし、「エバ」と「アダム」は蛇に化けた「サタン」の「嘘」を信じ、神の約束を破り食べてしまいました。 初めに「食べよう」と誘ったのは「エバ」でした。そこで「アダム」が留まれば、人間がこのようになることもなかったのに、二人は食べてしまい「楽園」から追放され、「永遠の命」を無くしてしまいました。 (この辺は過去の歴史にもありそうなことです。) そして、「神」を裏切った「サタン」は「地球(元は楽園だった)」に追放されました。 そして、歴史が流れ・・・今現在の世の中です。 「宗教」の話しをずっと話していきましたが、私はこの教えは正しいと思っています。信じる信じないと人それぞれです。 しかし、「神」の存在はどうしても信じてはいられないことがこの世の中には一杯あるのではないでしょうか? 宇宙、地球、人間、生物・・・。 これらが自然に出来たと到底思えません。色んな説が科学者達が話していますが、それは単に人間の「妄想」「逃げ」だと思います。 「神」の話や「アダム」「エバ」の話しも「人間の妄想の一つ」という風に思う人もいるでしょうが、人間の妄想では片付けられない真実も沢山目の前にあります。 それに、今の人間は物事を軽率に考えすぎだと私は思いました。世の中もドンドン悪くなる一方だし、人間は過去から全然学んでません。 戦争もなくならない。殺人もなくならない。差別もなくならない。 確かに人間には良い部分も沢山あります。しかし、愚かすぎます・・・。難しいと思いますが、皆さんはどうお考えでしょうか?「神」を信じる信じないだけではなく、色んな意見が聞きたいです。

  • 宗教について

    今付き合っている彼からギリシャ正教会で洗礼を受けるように言われています。 彼は結婚を考えているので、洗礼を受けるならギリシャ正教会で、とのことです。 私は宗教とはまったく無関係の家で育ち、倫理の授業以外は宗教との接点はありませんでした。 神様はいると思っていますが、自分が聖書にならってイエス・キリストの様に生きたいとか、救済されて永遠の命がほしいとは思いません。 神様の存在は認めても、特定の宗教に属したくないというのはおかしいですか?

  • 宗教と信仰心と人間の関係

    宗教って、人間のためにあるもので、 人間が宗教のためにあるわけじゃないですよね? 歴史的に海外でも日本でも殉教者っていますし、 宗教がらみの戦争は、今も(? )昔も数限りなく。 信心や宗教的理想のために、覚悟の上での殉教はともかく、、 わたしの思いですが、 本来、自然な信仰のあり方は、信じる人が幸せに 心穏やかに過ごせるよう、 ストイックに走らず、 他者(異教徒含め)も自分も平和に共存していける、 そんなものではないかと思うのです。 人間が、神様のために死んだり迫害されたりする、 それじゃあ、人間のために宗教があるのではなく、 宗教に、人間がお仕えしてるみたいです。 政治も国家も法律も、人間や他の生きものや、 環境等のためにあるのであって、 宗教も同じだと思います。 自然災害を神の怒りと思わざるを得なかった昔ならともかく、 今は、何かを生けにえにしたり、 人間が宗教の犠牲になる必要なんて、ないと思うのです。

  • 宗教の現在における存在理由は。

    科学の進んだ今日でも神の存在を信じる人々がいるのは何故でしょうか。 悠久の自然があるのに人間は有限の生活しか出来ないと言うジレンマに答えるのが宗教で、死という人間の長年の苦しみから救済する役目を宗教は負い、人類の何百万年と言う歴史の中で膨大な数の人間が幸福の中で消え去って行った事でしょう。 21世紀の現在では人類は自然科学を信頼していて、最早宗教は不要となっていて人類には、宗教を必要とはしていないのではないでしょうか。 それにも関わらず宗教は立派に存在しています。 今の世の中で人生に必要で、健全な宗教とは如何なるものなのでしょうか。 宗教は自然科学と共存できるのでしょうか。 それとも宗教は自然科学とは無関係で無学な人々の間でのみ存在しているのでしょうか。 お教え願います。