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江戸時代の春分点の観測方法
- 江戸時代において春分点の観測方法はどのように行われていたのか疑問です。
- 江戸時代、春分点の観測方法について知りたいです。
- 春分点の観測方法について、特に江戸時代の方法について詳しく知りたいです。
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>夏至や冬至は太陽の南中高度?を観測すればわかるように思えますが 航海で使っていた六分儀をつかわなくと判定できます。 Wikipediaの説明が下記のようになっていることから混乱されたのかと思います。 >黄道を春分点を起点とする15度ずつの24分点に分け、太陽がこの点を通過する時を二十四節気とすることにした。 暦の説明に、現代の天文学用語をそのまま流用するためにこのような説明になるのかと思います。 日が高くなった低くなったという実感は確かにありますが、太陽を肉眼では直視できません。 江戸時代に太陽の高度を直接測ることは難しかったでしょう。 「冬至から畳の目だけ陽がのびる」という言葉を御存知ありませんでしょうか。 軒先の影が冬至の時には部屋の奥に位置し、夏至の日には部屋の外に一番近づきます。 この軒先の影が少しづつ動いていくことを表した言葉です。 垂直に立てた板を太陽に対して直角になるようにしてやれば、その上端の影の位置を測れば間接的に太陽の高度を測ったことになります。 これを日時計と組み合わせて南中時に位置を記録して行けば良いだけです。 冬至と夏至の中間点である春分、秋分は自ずと判ります。 この冬至から冬至を一年として二十四に分ければ二十四節季となり、これが結果として現代の天文学でいう15℃に分割したのと等しくなっているだけです。 天保歴では立春から立春を一年として二十四節季を決めています。 古代中国では冬至をもって一年の初めとしていました。 漢の時代から、農耕が始まる春を一年の始まりと考えるようになました。 経験的に一年で一番寒い日を立春としました。 この日以降は徐々に暖かくなる。すなわち春が始まると考えました。 現代でも年賀状に新春とか初春とか一陽来復などが使われています。 今でも中国は立春の日がお正月です。(旧正月) これと二十四節季と組み合わせると春分の日は春の真ん中、春を前後に分ける日となりました。 暦は、経験の後追いのように決められ、尚且つ生活リズムに合致するように決めました。 これに陰陽道などという宗教哲学が加わりました。 結果として、おそろしく複雑怪奇なものとなりました。 さらにそれを現代の天文学用語で説明しますので、いよいよ判り難いです。
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- 安房 与太郎(@bilda)
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天文怪々 ~ 訊けば聴くほど話が逸れる ~ . 昼夜の長短比が始まる日を「四立=立春・立夏・立秋・立冬」と呼ぶ。 昼夜の長短比が逆転する中間は「二至二分=春分・夏至・秋分・冬至」。 一年十二ヶ月を「四季=十二節気+十二中気=二十四節気」に配する。 . 「正月」は「立春」を含み、「中気」を含まない月を「閏月」と称す。 一日の始まりを、江戸時代は「日の出≒不定時法+自然時」と始めた。 現代では天文現象の起らない頃「真夜中≒定時法+絶対時」に定める。 . …… 定時法とは1日を24時間に等分割し、時間の長さは季節に依ら ず一定な現代の時間法です。一方、不定時法とは、夜明けから日暮れま での時間を6等分する時間法で、江戸時代以前に使われてきた時間概念 です(注1)。 日出と共に起き日没と共に寝る昔の生活に根ざした時法ですが、季節 により昼夜の長さが変わるので時間の長さが変わってしまいます。 (略)掌が識別できる程度の薄明かりがある時点を昼夜の境としていま したので、現代の太陽が地平線に出る時刻より36分前後を夜明け、日暮 れと定義していました(1684年の貞享暦~)。 その後の寛政暦(1797年~)では、季節により薄明かりの時間が変わ る事を考慮して、太陽が地平線より7度21分40秒下にある時と改めれら れました。── 広瀬 秀雄《暦 (日本史小百科) 199309‥ 東京堂出版》 http://www.geocities.jp/afi_651/japantime2.html 江戸時代の時刻 . http://q.hatena.ne.jp/1387099663#a1220336 旧暦の法則(20131217) http://q.hatena.ne.jp/1387099663#a1220497 計算暦・定型暦・実測暦 https://twitter.com/awalibrary/status/413727487999225857 . http://d.hatena.ne.jp/adlib/20041227 教えてOK ~ 終りなき反論 ~ 暦の一月一日は何を基準に決められたのでしょうか。 http://oshiete1.goo.ne.jp/kotaeru.php3?q=1142970(20041227-1229)
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ご回答ありがとうございました。
答えがほぼ出ていますね 関係ないことですが、補足しておきます 日本の江戸時代は、中国から来た「太陰太陽暦」を使っていました 現在は日本では「太陽暦」ですが、中国との暦のずれはこのためですね さらに、イスラム圏などでは「太陰暦」ですから、暦の日付自体は世界共通ではありません (陰暦の9月は断食の月ですね) あさってはクリスマスですが、これは実は冬至と大きくかかわっており、イエスの 誕生日では無いことは知られていますが 原因となったローマでは、太陽神を祭っていました そして太陽がもっとも力を無くす日、言い換えればその日からは 太陽が力を徐々に復活する日でもあり、冬至は太陽の復活する日として 祭りが行われていました この名残が、ローマだけでなく世界各地にある「冬至」の行事です もともと輪廻の中での太陽の復活を祈り、祝う祭りでした というように、冬至はとても重要な日であり、権力者はその日を特定するように していましたから、天文学は4大文明の必須となったのです と...冬至がわかれば、1年の日数なども計算でき、季節や二十四節気へと つながるのですが... 冬至の日の出と日の入りの場所の真ん中を「南」と決めると、方位が決まります 正方形の一辺を南に向けるとその辺はそのまま東西を指し示します その場所から太陽の出や没がくるときが、秋分・春分ですね 陰陽でも、冬至後の最初にくる春分は、陰から陽への移り変わりで 物事の始まりと扱われるようにもなったと... 関係ない話になってしまいました
お礼
ご回答をありがとうございました。 暦のお話は、いろいろと興味深いですね。 そういえばイスラムのラマダン月が毎年10日程度ずつずれていくというのは何かで聞いた覚えがあります。 > 冬至の日の出と日の入りの場所の真ん中を「南」と決めると、方位が決まります > 正方形の一辺を南に向けるとその辺はそのまま東西を指し示します > その場所から太陽の出や没がくるときが、秋分・春分ですね なるほど、日の出、入りの方向を観測することで秋分・春分そのものを観測できるのですね、よく考えれば当たり前のことなのですが、目から鱗でした。
- nananotanu
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江戸時代とは関係ありませんが、せっかくなので、簡単にできる方法を。 棒の影の移動を観察しますと、 1)春分・秋分は影の先が一直線に移動します。 2)春分から夏至を挟んで秋分までは、棒の方から見て凸型のカーブになります。 3)秋分から冬至を挟んで春分までは、棒の方から見て凹型のカーブになります。
お礼
ご回答ありがとうございました。 1)についてよくわからないのですが、春分・秋分は真東から日が昇り、真西に日が沈みますよね? つまり日の出では真西に、日の入りでは真東に影ができると思います。 南中では北側に影ができるので、影の先の軌跡は凸型カーブになりませんでしょうか? 赤道上にある棒でしたら理解できるのですが…
- ORUKA1951
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古代から、天文学の知識は時の権力者に重視され、その技術の詳細は秘匿すべき物とされてきました。いつ種を撒くか、いつ収穫するかという暦の作成から、日食の予想まで・・ ⇒天文学史 - Wikipedia( http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E6%96%87%E5%AD%A6%E5%8F%B2 ) 日食の予想は、--日本では源平盛衰記の水島合戦を見るまでもなく-- 春分や秋分を含め暦の製作には天文観察は欠かすことが出来ない技術で、日本でも大和朝廷は平安時代にはすでに日食の予想まで出来ていました。望遠鏡もない時代に象限儀( https://www.google.com/images?hl=ja&q=%8F%DB%8C%C0%8BV )や紀限儀( https://www.google.com/images?hl=ja&q=%8BI%8C%C0%8BV )、渾天儀( https://www.google.com/images?hl=ja&q=%9F%D3%93V%8BV )を使って、太陽の軌道(黄道)や月の軌道(白道)と、刻々の太陽、月の位置は観察されてきましたから・・
お礼
申し訳ありません、質問のご回答を頂いていないように思えるのですが・・・ 江戸時代の人が、地球が春分点を通過した時期を判断するのに ・どのような原理(あるいは考え方)に基づいて ・具体的に何を観測することで 行っていたのか、なるべく具体的にご教示いただけると助かります。 よろしくお願いします。
お礼
詳細なご回答をいただきましてありがとうございました。 昨年でしたか?天地明察という映画が公開されたと思います。私は映画はみておりませんが原作の中で、主人公が日本各地で星の観測をおこなって暦を作っていた場面を覚えており、春分点の観測もその時期になにかしらの観測をして決めたのではないかと思い質問させていただいた次第です。 > 冬至と夏至の中間点である春分、秋分は自ずと判ります。 春分や秋分そのものを観測したのではなくて、夏至と冬至の間の日数?を数えてその中間を春分や秋分にしたということですね、そういうことでしたら納得できます。 余談になりますが、前述の作品の中では西洋の天文学の知識についてはあまり登場しなかった様に記憶しています。当時の暦作成者たちは太陽の周りを楕円軌道を描いて公転する地球という認識があったのかということも知ってみたい点ですね。