• ベストアンサー
※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:ゴータマ・ブッダは何をさとったのでしょう)

ゴータマ・ブッダのさとりとは?中身はあるのか?

hokekyou333の回答

回答No.56

ごめんなさい。私もまだま人間が出来てないですね。つい売り言葉に買い言葉みたいな感じで言葉を使ってしまうようです。 そのつもりでなくても、言葉のふしふしに出てしまうものですね。 でも当然でしょうが私もふつうの人間。ふつうの市民の一人にすぎません。 ご容赦ください。 ともかく、なんとか、 現在の私が、仏の《さとり》の中身に関してどのように推理しているのかについての内、その中身自体にしぼって、今なんとか書いてみますね。 がんばってみますので過去は過去のことしてください。 ジャイナ教については知らないのですが、 ご議論されている「アートマン」というのは、「究極の自我」とか「真我」というふうに訳されている言葉ですよね。 「ブラフマン」というのは「宇宙の根本真理」というふうに訳されていますよね。 まだそのへんのご議論のあたりは、読めないでいますが、明日午前中に少し時間が出来ますので、その時詳しく読んでみようと思います。 また、阿頼耶識論では7識において無意識として働く自我の世界が語られていますよね。 その自我の奥に阿頼耶識とも蔵識とも言われている無意識界があり、そのさらに奥に仏界があるとされているのが阿頼耶識論ですよね。 自我とは何なのか? その究極とは? そして真我とは? 自我の奥の阿頼耶識とは? 阿頼耶識が真我なのか? さらにその奥の仏界が真我なのか? さらにさらに、その問い自体どういう意味があるのか? どういう価値の論理なのか? そのへんを明らかにするためになので、私自身の考えなのですが、どうか独りよがりな自論というふうに最初から決めないで、私自身の「自我論」を読み進めて行ってみてください。 卵の殻を自我の殻として例えた「自我論」です。 けしてふざけているのではなくて、ことを解りやすく、シンプルにするために、 私はその私の「自我論」を、 《「◎書いてチョン・チョン矢印」論理》というふうにも、呼んでいます。 「◎」の外側の円が、自我の殻を現す卵の殻の部分、内側の円が、意味は後で書きますが黄身の部分です。 (本来は、これをすべて説明すれば、何冊もの本の量となってしまうと思われる内容を、仏教思想にからめて、簡略化してかいていってみます) そして、チョン・チョンとあと二つの正反対の方向の矢印を「エネルギー線」として加えれば、この自我図自体はほぼ出来上がり、シンプル・イズ・ベストを求めた図のつもりです。 最初の矢印は自我の殻と白身のあたりから発して内側に向かうエネルギー線、自我の中の「欲望」や「欲求」を意味します。 その逆に卵の中心と黄身のあたりかラ発して自我の殻を突き抜けて外側に向かうエネルギー線を、かりに「無心慈気線)とか「友慈気線」とか呼んでおきましょう。 この時、この「◎」なる卵の中は、これはたとえの部分になりますが、 中心に近づくにつれ、感性が深まってゆき、白身から黄身へとその感性が奥深まってゆく時、その分疑線にては、 すなわち内側の円にては、、その手前の白身と黄身の中に突入してゆく矢印で現した「欲望」や「欲求」も大きく質的に変化してしまう、というふうに考えておいてください。 では、ここからこの図の説明に入ります。 無心な赤ん坊の頭や小さな手をさすりながら、なんて静かで安らかなのだろう、なんていとおしいのだろう、この命のためなら、自分の命をなげだすこともできるのではないか!と思われる方は、親ならなおさらのこと大勢の方が体験しておられるかと思います。 普通の市民の中の尊い時間、尊いひとときの一姿です。 自我の卵の黄身の内側の命の発露は、時には一瞬であっても、そのような日常のあたりまえの庶民の心の中にこそあり、その奥に広がっている世界と考えてください。 あるいは、ふるさとの山、砂、風、小川のせせらぎ、夕日の輝きや、岡辺の静寂と星空などなどに触れる時も、同じです。 そんな当たり前の命の奥に「欲」自体質的に変化して、むしろ美の根源とすら成ってしまう世界があると考えておいてほしいのです。 セックスの世界ですらそうです。 赤ちゃんがやがて大きくなり「バッチい」という言葉を憶えた時には、もう大人の不浄観の世界のほんの片鱗のかけらかもしれないものであれ、私達の言葉脳がつくりだし、論理脳が作り出した「きたないこころ」の惑いの世界は生じ始めているでしょう。 でも、これは、素朴なアフリカの子供たちなどのこころには、大きくなり大人の言葉を憶えてもなかなか生じない惑いの世界であり、はるか昔の私達がまだ言葉もおぼろげなあかちゃんのように安らかに生きていた森の中の住人だった頃には、まるで皆無だったであろう惑いの世界と考えてください。 (大幅に略して書いているのでこんな書き方になっています) アダムとエバの神話に秘められた楽園のたとえ話しは、このことを物語っているのだと私はとらえています。 また人間の体を(もちろんその営みとしての性の世界はなおさら)野の百合のそれよりも美しく創られた神の技と語られたキリストの謎の言葉、、智慧の木の実を食べて急に恥ずかしくなって性器をイチジクの葉っぱで隠したことを示唆していると推理される「イチジクの葉よのろわれてあれ」という言葉も、そのあたりの性の真実とこそ符合するものであろうと考えています。 (ここも、話を超スピードで端折りながら進めています) (では、ブッダという実在の人物においてはそのへんどうだったのかという推理については、推理にすぎないのに論争の形になるだけでばかばかしいですし、やはり端折ります。《私自身が仏界をどうとらえているか》という論議をこのまますすめさせていただきます) まず、仏教でいう[煩悩」も、「渇愛」も、もちろん「六大煩悩」とかも、したがってそれを滅する方法とか、すべからくこの、自我の殻の中の卵の白身の部分のことにすぎないと、そこは喝破しておきましょう。(反論も出てくるところでしょうけれど、ここは一気に書くしかないのでこのままつづけます) 「八正道」という煩悩解脱の道も、それをもし一気に肚に落とし込めるならば、大きな力にはなるでしょう。しかし、その分類の仕方では、複雑思考を生むだけで、せめてそれは4つに分類しなおさなければならないはずのところと考えています。 「十二縁起」となるとさらにめちゃくちゃな分類となっていますが、ところが縁起自体の意味合いは、科学的思考の原点のようなものとも考えられるのです。 ここからブッダの思想は後に曲がってしまい東洋から科学が起こらかなった遠因の一つを後の仏教は作ってしまったという見解を私は持っているわけなのです。(私が「ブッダ思想創作説^^」にこだわるのはその辺に理由があったわけです。かなりはしょってますが、ことのなりゆきわかっていただけますでしょうか) 縁起思想自体はすべての事象は因果関係でつながっているということにつきますが、これ自体はいろいろな意味で深いですよね。 「あくまで科学的論理脳をブッダ自身は持っていた」と思えるところの一つです。 とすると、次に彼が分別智を当然大切にしていたことも理解できるところ、でありつつ、彼は、後々の法華経の流れの語るごとく、分別智のみでは、自我の殻も破れない、ことを語らんとしていたことも推理できるという論理展開を私は持っているということなのです。 つまり、「◎論^^」で言えば、感性が深まり、欲望に満足の質が加わる時以後の黄身の世界は、そこからのみ、苦の体験は同じ苦の体験を人にも味輪せてやりたい^^こころが混じらない、嘘偽りのない「同苦のまごころ」となり、楽しい快い体験は、たんなる大人のストレス発散の楽しみではなく深い豊かで新鮮な充実の世界となり、これも偉いとかの立派に思われたいとかいう自我を越えて、分かち合いのまごころそのものとなり、外側への「慈気線」が、いとも簡単に自我を突き抜けてしまう世界を意味だすこと、その線はは、やがて中心にゆくに従い強くなること、そのすべてを論理脳においても理解していただろうと推理は出来るということなのです。 けれども、同時に、論理脳や言葉の壁、言葉だけで黄身は語れないのですから、そのへんの限界も知っていて自我の殻の固さがいかに根深いかも論じたところそれが「元本の無明」とかいう言葉になったり「塵じゃ惑」などの思想へとつながったのでしょう。 分別も無分別も、難しい論理としてでは無くて、其の当たり前の庶民の心の奥に求めていたのであり、だからスリハンドクを大切にしたのであり、スリハンドクこそ悟ったのであり、それが平等思想の迫力を生んだのであり、がゆえに世界につたわったのであり、 いえ、それ自体は推理でしかなくても、 《仏界》の中身を、私という回答者がどう考えているのかの答えは、感性の究極のエネルギー(感性自体は無限ですが)としての卵の黄身のさらに中心、人間性の誇り、市民の魂の根っこ、理性だけではとどかない感性の奥底、慈気線だらけとなり「自我の殻」が無くなる地点、まっさらなただの人間、この自覚こそ、その中身と考えます。 おっと、ブッダは飛行機を作る計算どころか九九も知らなかったかもしれない、そんな論理脳であったでしょうね。その追随者たちもです。ですが、源泉にはその論理脳も大切にするエネルギーはあったと私は推理しているということなのです。 という結論はよけいなのですね^^。推論はいらないと。^^、本当は同感である点、そろそろ推理してください^^。 以上にて、簡単ですが意図等解っていただけたでしょうか。 すみませんでした

bragelonne
質問者

お礼

 さとりとは 元気になること・元気が出ることである。  ということのようです。これは これで おもしろいと考えます。  ただし 今回この質問への投稿にしても なぜ初めからこのような回答を――それまでのわたしの批判をふくんだ問いに何の答えも寄せず 逃げるだけの行動を取ったか これにきちんとこたえたうえで――寄せていれば よかった。  《人間が出来ていない》という理由は これからも 何度でもそういう逃げを打つが ゆるせと言っているにひとしい。――いやぢゃ。ことわる。  また 《元気が出る》という内容のほかの《演説》は 要らないでしょう。内容が意味を取りがたいと判断します。  そしてさらには さとりの内容としての《元気が出ること》説は 元気が出るというのなら 何もブッダのさとりや知恵に限らない ほかの人生訓などにおける元気づけとどう違うか といった問いに答えなければならないでしょう。  これらの理由により 放っておきます。  ご回答をありがとうございました。

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  • やっぱしゴータマ・ブッダは 阿呆である。

     『ブッダ最後の旅――大パリニッバーナ経――』(中村元訳 1980)から次の主題を取り上げ問います。  § 1 ブッダが実際の死より長生きできなかったのは アーナンダの不明の所為か?  ▲ (アーナンダにおける悪魔憑き) ~~~    ――・・・アーナンダよ修行を完成した人(如来)は・・・もし望むならば 寿命のある限りこの世に留まるであろうし あるいはそれよりも長いあいだでも留まり得るであろう。  と〔ブッダが言った〕。こういうわけであったけれども 若き人アーナンダは 尊師がこのようにあらわにほのめかされ あらわに明示されたのに 洞察することができなくて 尊師に対して《・・・寿命のある限り この世に留まってください。――多くの人びとの利益のために・・・幸福のために》といって尊師に懇請することをしなかった。  それは かれの心が悪魔にとりつかれていたからである。・・・  (中村訳 前掲書 第三章〔一〇、命を捨てる決意〕五)   ~~~~~~~~~~~  【Q‐1】 悪魔に取り憑かれていたゆえに アーナンダが悪いのか?  【Q‐2】 鍛冶工チュンダが差し出した毒キノコ(?)を食べて体調をくづしたとき ブッダはチュンダを咎めなかった。そういう気遣いをしているのに このアーナンダの悪魔憑きについては どう振る舞ったのか?  § 2 人生の四苦説は 最後まで取り消されることはなかったのか?  ▲(苦か楽か。涅槃?) ~~~~  ・・・尊師はこのように言われた。   ――アーナンダよ。ヱ゛ーサーリーは楽しい。ウデーナ霊樹の地は楽しい。ゴータマカ霊樹の地は楽しい。七つのマンゴーの霊樹の地は楽しい。・・・     修行を完成した人(如来)は 四つの不思議な霊力(四神足)を修し・・・かれは もし望むならば 一つの劫のあいだでも留まるであろうし あるいはそれよりも長いあいだでも留まることができるであろう。・・・  (中村訳 前掲書 第三章〔一〇、命を捨てる決意〕一)  ~~~~~~~~~~~  【Q‐3】 生老病死なる苦 とりわけ生なる苦――《根本的な生存欲》(?)なる苦――を言い続けたのではなかったか? けれども 死を前にして 《楽しい》と言っている。  (つぎの【Q‐4】をも合わせて捉えるなら おかしいと考えられる。つまり 苦は楽に変えることが出来ると明言しなければいけない。あるいは 楽が地であって 苦は図であるのだと。逆ではないのだと)。  【Q‐4】 輪廻からの解脱 つまり二度と再生しないことが ブッダのあり方ではなかったか? けれども 《一つの劫のあいだでも留まるであろう》と言っている。  § 3 《われ》としてのアートマンを否定したのではなかったか?  ▲(自灯明・法灯明) ~~~~    ――・・・この世で自らを島とし 自らをたよりとして 他人をたよりとせず 法を島とし 法をよりどころとして 他のものをよりどころとせずにあれ。  (中村訳 前掲書 第二章〔九、旅に病む〕二六)  ~~~~~~  【Q‐5】 《島》を 灯明として解される説を採らないにせよ ここで《たよりとする自ら》とは 《アートマン》とは別なのであろうか? 《無我(アン‐アートマン)》を説いているのだから その区別を明らかにすべきではないか?  【Q‐6】 けれども 《自灯明・法灯明》説にもとづいて問うとすれば 《自らを頼りとし 〈灯明〉とする》ことは その《わたし》なる自己をただそのときその場での《明かり あるいは 光》とするだけではないのか?  つまり 医学などの科学としての光明や思いやり・愛情としての温かみやは 何も《さとり》を得なくとも 人間の能力と心において得られるものである。  ゆえに 問題は 《みづからの心の燈心を灯す》ことなのではないか? そうでなければ《自己のチカラ》は かなり発揮され得るであろうが やはり程度問題であるにとどまる。こういう主題ないし問題意識が 欠けているのではあるまいか?   みづからが 泉のごとく水の湧き出るチカラとなるのが ブッダなのではないか?    《わが心の燈心をともす》ことと《人間の能力や愛情によって一隅を照らす》こととは 微妙に違うのではないか? 後者は 一時的・暫定的であり無常にしたがう。前者は あたかもこの無常から自由である夢(まぼろし)に臨んでいる。    これらの問いをくつがえし得ないとすれば ゴータマ・ブッダは 阿呆である。  以上について よろしくご教授ください。

  • ゴータマ・ア‐ブッダのいんちきについて問います。

     §1. 《無明》をすべてのものごとの下敷きにした。  (1) その無明(=煩悩=渇愛=無知)を みづからのトレードマークなるブッダとは 別の世界だとした。自分はシガラミから足を洗っているというわけである。  (2) あるいはつまり 世の中のものごとをすべて《苦》に還元する見方を――ブッダであるからこそそのように見るのだという言い方で――打ち出した。  (3) なぜ人びとは このイカサマにやられてしまったのか? 《人間の根本的生存欲》としての無明およびそれから自由になれないことの苦 これを押し出されて人びとは そのペテンについて行くまでに どうしてあたまがイカレてしまったのか?  §2. ブラフマニズムにおけるアートマンに対して 《アン‐アートマン》(アン‐は 語源として アン‐インストールのアン‐と同じ)と言って否定したが これの意味があいまいであり あいまいなままに終えてしまった。  (4) 好意的に解釈することはできる。ブラフマン神との一体性としてのアートマンつまり梵我一如を否定し 言わば《無梵無我一如》としてのけっきょく信仰を言ったのだとすれば それは 《無い神(無梵))》を信じる《非思考の庭》のことである。  (5) あるいはまた アートマンを他に拠らずみづからにのみ拠って存在する霊なる実体と捉えてこれを否定し アン‐アートマン(無我)と言ったとすれば これは――やはり前項の無神論に通じるとともに―― けっきょくのところモノゴトはみなその《実体》がないととなえた。すなわち 色即是空としての《空》観である。  (6) ところが §1の《無明》観がブッダでない人間(凡夫)には一生にも二生にもあてはまるというのであれば (4)の信仰は持ち得ないと見たし (5)の空観も きわめてあいまいであり あいまいのままに終わった。  (7) 空観についての誤解は 色即是空としてこの経験世界は 何一つ確かなものはないと見たそのあと 反転して空即是色というように それでも世界は仮象としては現象しているのだという見方を伴なわなくなっているそのことだ。  (8) だから 人びとは《煩悩を消す・無くす》とか《私利私欲を離れ 無私になるのだよ》だとか 《ただの精神論》に片向き そこにブディズム研究という《観念の大伽藍》をきづいて来ている。  §3. けれども 称号=商号なる《ブッダ》にけっきょく中身がなかった。   (9) 観念の大伽藍が築かれて行くのと 玉ねぎの皮むきが延々とつづけられるのとは 同じひとつのコトである。    【Q:ゴータマ・ブッダは何をさとったのでしょう】    http://okwave.jp/qa/q8314264.html  (10) 《無明》が下敷きになっているからには ものごとを善(広義のプラス)と悪とに分けて おおきくは善因善果か悪因悪果かのどちらか一本線でのみ 人びとの歴史的ないとなみを捉えることしか出来ない。  (11) そういう解釈をこそみちびいた。無明の一元論(または 明知との二元論)ゆえ。または 世界の《苦》視ゆえ。   【Q:《因果の道理》は 道理ではない。】    http://okwave.jp/qa/q8329251.html  (11) 無明・煩悩が インチキなのである。だから われわれの意志行為は つねに こうである。   ○ われらが因果論:     人間因(善悪・仏性煩悩をふくむ)⇒ 人間果(善と悪をふくむ)  ここに無明をも《わたし》が 活用するのだ。善用するにまで到れば 鬼に金棒 孫悟空に如意棒である。     (12) あるいは それとも    【Q:われわれ一人ひとりが ブッダであると何故言わないか】    http://okwave.jp/qa/q7526932.html

  • 仏教における小乗と大乗の違いとは?

    仏教における小乗と大乗の違いとはどのようなものでしょうかという質問です。 釈尊の背中を見ていると、菩提樹下でお悟りを開くまでが小乗で、梵天勧請を受けて、伝道を開始して、弟子を増やし教化する段階が大乗のように見えますが、経典主義の方々には違った見方もあると思います。 回答よろしくお願いします。

  • それでは ブッダのさとりとは何だったのか

     以前に次の質問を立てたとき おそわったことがあります。それについて問います。    【Q:《我れ》はある?ない? どちらですか(仏教)】     http://oshiete1.goo.ne.jp/qa3454478.html  わたしがおそわった内容の出だしは こうなると述べました。  ☆☆ (ブッディスム=常識論)~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ゴータマ・シッダルタなる人が 真理についての見方として 空観=縁起説に到達し 目覚めた(ブッダとなった)。  空の覚りは 世界を 四方サンガ(縁起共生体)と名づけて捉え 関係性(相依相即性)のもとに見る。この空の覚りは世界をつらぬいており ブッダはそのことを見通している。  みづからの存在が社会的に孤独であってその意味で独立していると捉えているが それでいて他者の存在と孤独関係をもかたちづくりその社会的な関係性としても存在するわれわれ人間――このような人は 空の覚りとともに 大悲の実践を はからずしておこなう。  慈悲は この世のあらゆる対立を超えているので その空観のもとに 人は互いにみな対等であると見えているからには 人それぞれの持ち前の能力や特徴を発揮することができるように ほんの少し他人に対しても 声をかけたりするのだ。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ すなわち ブッディスムとは 常識のことであり その判断力を言うと知りました。  そのようにおしえてくれた人は ただしそのほかに輪廻転生説もしくは不死永生説に立つというようでした。こちらの問題(課題)などがあるので ふたたび問います。  【Q1:《ブッディスム=常識論》にご見解をしめしてください。  ここで 無我とは この空観=縁起説に立つことだというものです。これを焦点にするかたちでおしえを乞います。】  【Q2: 次の議論においては さとりを妨げる無明とは 《根本的な生存欲》だとブッダは発見したと言います。では 生きるちからをそのままに現わしていくためには 《さとりを得ようという意欲をあきらめればよい》のだろうか?】  次です。この議論についても 最初にかかげた質問でおそわったものです。   ○ 宮元啓一:苦楽中道----ゴータマ・ブッダは何を発見したか   http://homepage1.nifty.com/manikana/m.p/articles/kuraku.html  ☆ さとりを得ようとするはからいから自由になれば 常識なる判断力としてのさとりに到る――こういうことなのでしょうか?

  • 乳粥

    牛乳歴史クイズの質問第4弾です。 http://www.zennyuren.or.jp/chisiki/kentei/rekisi_01.htm 上記サイトに、 「お釈迦さまが1杯の乳粥を飲んで悟りを開いたという「乳粥」とは? 」 といふクイズがあります。解説は、かうです。 「『 ヨーグルト 』仏教の開祖釈迦(ゴータマ・シッタルタ)にも、乳をめぐるエピソードが残されています。悟りを開くため出家して山奥で断食苦行をしていた釈迦は、悟りが開けぬまま衰弱したからだで山を下りていきました。その途中、出会ったひとりの乙女スジャータから1杯の乳粥(インドでダヒというヨーグルト)を捧げられます。あまりのおいしさに驚き、その瞬間に悟りを開いたというのです。 」 私は、インドで「キール」と呼ばれる食品だという話は、聞いたことがありますが、「ダヒ」といふヨーグルトだといふ説は初耳です。 「乳粥」は、ほんとうは、何なのですか。