• ベストアンサー
※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:ゴータマ・ブッダは何をさとったのでしょう)

ゴータマ・ブッダのさとりとは?中身はあるのか?

hokekyou333の回答

回答No.54

どうやら、私も仏教徒の一員ということで、魂までもふにゃふにゃになってしまった一人という規定の内におかれてしまったようですね^^。 この議論を見て皆さんが、思い出されてしまうのは、キリストの言われた「人の目やにを批判してみずからの目の中の梁にきがつかない」という例え話のあたりだと思います。 「人を馬鹿という人こそ馬鹿なのだ、」n?「という人は何なのだろう?」という笑い話を私なら、このへんにおいて思いつくのですが^^、 キリストの場合は、神からのメッセージの形で権威というよりまさに無心でそのように語られたということですよね。 bragelonneさんを、ここは応援もしておきたいのですが、 神という概念は、何も難しい論理無しにも、別に神は存在するかもしれないということを誰もおそらく意識の未来永劫において否定はできないと思いますよ。 それに、神が存在するとすればそれは超自然だろうということも同じくです。 時空を超えた存在であろうことは当然だということです。 そこを論理的に、厳密に言葉を重ねて語らんとすると、bragelonneさんのような文法と言葉の積み重なりとなってしまうのでしょうが、 それは、その神が同時にキリストでもあるというご自身の直感の世界を守らんとする営為にも思えてきています。 ですが、これとても、誰もキリストが神かもしれないという想定を否定できるような人はいないと思いますよ。 そこを否定する人はまだ新約聖書の中に、同時代にて記録されたキリストの言葉の意義の考察が甘いだけだと思います。 そちらのお考えによれば、想定するだけでクリスチャンとなってしまうようですので、ならば私は、そちらにとっては、ブッディストでありかつクリスチャンというへんな立場となってしまうことになりますね。^^ でも、私はたしかに「妙法蓮華経」の五文字を信じていますが、ブッディストだと別に思ってはいません。 ブッダが、とても後の人たちをブッディストにしたくて教えを説い他のだとはとても思えないです。 生きとし生ける命のすべてが幸せであってほしい悲願のみがそこにあったのだと信じているのです。 もちろんブッダという実在の人物に関しては推理でしかないので「信じている」という言葉を厳密な哲学の言葉として語ることは出来ないでしょうが、後に、これほどの心の宝塔を生み出した原点の実在の人物をまやかしとして推理することは不自然だと感じてしまうわけです。 それをふにゃふにゃと思うのは、かってですが^^。 でも私自身は、、そうすると私は私をむしろクリスチャンだと思っている人間なのでしょうね。 ほんとうに新約聖書のキリストの言葉は、どこまで考えても、あの短いたとえ話しのしかも数少ない事例が、人類の歴史をつらぬいている真実を物語っていとる受け取らざるを得ず、したがって、ほんとうにキリストは人間でありつつ、神という存在でもあったそういう人なのかもしれないということすら否定できないところとなってしまうのです。 あっ、このことの論理展開はここでのそちらの質問への回答とはかなりずれてしまいますね。 話を最初にもどしましょう。 教育の大道は、当然、誰人をも尊敬し、尊重した上で、時にその善導のために人の欠点を非難するべき時も無きにしも非ず、大筋は人を長所をこそ徹底して理解させてあげる力量を自身がみがくところにある というふうに私は思っているのですが、 時としてたしかに相手の欠点をはっきり指摘するべき時もあるわけです。 時には涙を流して生徒をひっぱたく先生もいるのは、長い間に先生の立場を生きているとその責任感から親以上の愛情を持つようになるからだと聞いています。 たしかにあえて自ら鬼となる必要があったりもするわけです。 この時に、キリストの言葉は、けだし重いはずです。 私は謙虚になること、こそが信仰だと思っていますから、想定であろうと私はやはり自分自身はその意味では自分をクリスチャンだと思っているのでしょうね。 そちらは認めないのでしょうけれど、私は、仲間として忠告します。 何も、すべての人が教育の大道を進む必要は無いと思います。 人それぞれ得意不得意もあり、性格にしても、自我にしても、一変には変わるものでは無いでしょうし、得意な分野で得意な方法で、宗教の歴史において最初は必然でもあっただろう「権威」の世界をもい筆余は無くなったと語ることは、論じ始めることはとても大事な事であり、 それがbragelonneさんの場合、「権威の悪」の前に鬼として立ちはだかるというお立場をとられているわけですから、私はそれを否定できません。 ここでの論議を読まれている方がたも参加されておられる方々にも言いたいのですが、、なりふりなどかまわない鬼の教師の姿勢を、これがキリスト教の信仰の力の一つとして評価していいのではないでしょうか。 はからいなく、そうされている無心なパワーとしてです。 キリストも模範として、教会の権力者に対してはなんと鉄の鎖をむちとして振るったとさへ書かれていますよね。 これも、当然無心の技です。 ですが、この時、信仰者としては、自身が神となりむちをふるうということではなくて、あくまで人間としての小ささの自覚にたって、其のうえで同じ人間としては、宗教の権力者に対してどう闘ってゆけばいいのかというふうにかんがえるべきところと思うのです。 人の批判による善導は簡単なことじゃないということです。特にまだ自我を越えていない場合は、ころっとあの「笑い話」の愚を犯しがちになってしまうとおもいます。 私は、自身を大道をいく役割の人間だと思っています。 ですので、常に賢人政治が行われた時には、どこまでも思想の自由を認めて、正しの道の教育はどこまでも権威で無なく理解を求める道を、大勢の教師がプロの時間と誇りをかけて行い続けるだろう、そうした未来の賢人たちに少しでも近い教師道を求め続けていますし、 その道に、私は私で誇りを持ってますし、 そちらはそちらの道筋と役割に応じて権威と闘う教師でありつづけてください。 時代は今それを必要としている私も思っているからです。 最後にここは、一点だけ私の方からの仏教思想へ批判を書いておいて、この質疑内でのこれ以上の論議は、そちらの道のじゃまとなるところ、一度終わりにしましょう。 「中道」というブッダのさとりを、語っている仏典がありますよね。それには意義がたくさんあると考えてはいるのですが、 その中に「善悪の中道」という解釈の人たちがいます。 善悪にどうして「中道」があるのでしょう? 自他ともに「悪」を神経症的に避けていたら、かえって爆発してしまうのが悪でもあるといった地点のそのレベルのお話しならば意味は通じますけど、どこまでいっても悪は悪ですし、善は善ですよ。 善悪はもともと無いというのもとても認められるお話ではありません。 ばかげています。 ただ、「悪人はいない、失敗者がいるだけだ」という表現なら大きなこころの視点からは成り立ちますが、その場合も「悪は悪として、善は善として」理解した上で、悪を犯してしまった人の過去についての深いあり方を語っているわけです。 あたりまえのことですけどね。 神はすべてを許すということは当然属性もなにも信じることが出来ます。 というより存在するとしたらそうとしか考えられないのが神という概念ですからね。 でも、このことをもって神の前には善悪は無いとする表現は、あまりにも荒削りな危なっかしい怖い思想につながります。 そのへんをきちっと整理して語らないと、 えっ、あなたほんとうにクリスチャンの教師なのと言われてしまうと思います。 書きたいことは山々ですが^^、あとは、別な場で論議を続けましょう。 あと半年ぐらいは、こちらの[Q&A」を覗いていられると思いますので、その間、お互い応援しあい、宗教の「権威」の世界とはおおいに闘ってゆきましょう。 今回は立場上、ちぐはぐな形になってしまいましたが、よろしくお願いいたします。

bragelonne
質問者

お礼

 ◆(回答No.45) ~~~~~~~~~~~~~  無限に修行こそが成仏というのは、  どうなんでしょうか。  この考えを採用すると、べつにゴータマ・ブッダの  覚りに内容が無くても、仏だといえてしまうでしょう。たぶん。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ このような何気ない内容は それでも 万人に当てはまる実存思想としてのごとく 《さとり=動態》説として質問者は受け取り じゅうぶんおつりが来る回答だと考えました。  ★ どうやら、私も仏教徒の一員ということで、魂までもふにゃふにゃになってしまった一人という規定の内におかれてしまったようですね^^。  ☆ 《ブディスト》であるから ものが見えなくなっているとは言っていません。  あるいはまた No.1のお礼欄では 質問者は親鸞の徒であるとも言えると言っています。  趣旨説明を理解されていないと言わざるを得ません。  ★ それは、その神が同時にキリストでもあるというご自身の直感の世界を守らんとする営為にも思えてきています。  ☆ そのように 短絡する思考が ゴータマ・マジックにひっかかってしまっているものと見られます。  【Q:キリストは勝手に人間イエスとなり 磔に遭ったのだ。】  【Q::イエスなる人間は 自分が神であると大嘘をついた。】  こういった主題でも 問い求めています。  ★ あっ、このことの論理展開はここでのそちらの質問への回答とはかなりずれてしまいますね。  ☆ すべてにわたって そうだと つとにご指摘もうしています。    ★ それがbragelonneさんの場合、「権威の悪」の前に鬼として立ちはだかるというお立場をとられているわけですから、私はそれを否定できません。  ☆ ゴータマ・ブッダが《権威》だという思い込みから そういう見方が出る。 その見方からこそ わたしの態度が 《〈権威の悪〉の前に鬼として立ちはだかる》と見えるということでしょう。なぜなら その《権威とこの権威を守ろうとする追随者》がすでにオニになっているからです。  わたしを鏡としてその中に自身のすがたを見ている。  ★ そちらは認めないのでしょうけれど、私は、仲間として忠告します。  ☆ この姿勢を わたしの中に見ることもかなわないのでしょう。だから すでに放っておいてあります。  ★ はからいなく、そうされている無心なパワーとしてです。  ☆ わたしの勝手なはからひで この質問をもうけ 回答者との情報交換としてのやり取りをおこなっています。ええ加減なことを書きなさんな。  こういう中傷をただす仕事が増えてかなわん。  ★ これも、当然無心の技です。  ☆ ばかもやすみやすみ言いたまえ。    《権威》をあがめ その支配体制にとってなじみのある言葉や思想は ふんだんに使うという手口が見えます。  《はからひがなければ・無心であれば》 ゆるされるし それは とうとい振る舞いだとでも思っているのでしょう。その印籠を出せば 人びとはおとなしくなって 権威体制にしたがうと踏んでいるのでしょう。    ★ どこまでいっても悪は悪ですし、善は善ですよ。  ☆ もう何百回とやり取りをおこない すでにわたしからの考えを そちらは無視して 何度も忘れた〔と自分が勝手に思った〕ころにやって来て またまた同じことを繰り返す。わたしから述べた見解に こたえられないときには 無視して逃げて行く。だけという振る舞いを 重ねて来ています。これは どう見ても《悪》ですよ。  時効が成立するとでも思っていますか。  ★ その場合も「悪は悪として、善は善として」理解した上で、悪を犯してしまった人の過去についての深いあり方を語っているわけです。  ☆☆ ゴータマ・ブッダは何をさとったのでしょう  ☆ 回答を寄せるべきです。  ただのアラシと見なします。    ご回答をありがとうございました。

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     あらためて問います。  資料を検討しつつ 表題の問いに 最終的に行き着きます。  ▲(ヰキぺ:仏陀) ~~~  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%8F%E9%99%80  § 2 仏陀の範囲  ( a ) 一般には、釈迦と同じ意識のレベルに達した者や存在を「ブッダ」と呼ぶようになったり、  ( b ) ヴェーダの宗教のアートマンのように、どんな存在にも内在する真我を「ブッダ」と呼んだり、「仏性」とよんだりする。  ( c ) 場合によれば宇宙の根本原理であるブラフマンもブッダの概念に含まれることもある。  ▲(ヰキぺ:過去七仏) ~~~  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%81%8E%E5%8E%BB%E4%B8%83%E4%BB%8F  § 1 概要  ( d ) 仏教では過去未来現在の三世に渡ってそれぞれ千人ずつ仏が出現すると説かれているが、前三仏は過去荘厳劫の千仏のうち最後の三仏、後四仏は現在賢劫の千仏のうち最初の四仏といわれる。  過去七仏(かこしちぶつ)とは釈迦仏までに(釈迦を含めて)登場した7人の仏陀をいう。  ~~~~~~~~~~  問いのかたちで考えてまいります。  【Q‐1】 ( d )のゴータマ・ブッダのほかに過去六人のブッダがいたということは 何を言おうとしているか?    (1) ひょっとしてゴータマのさとりは 師匠が無く証明のしようが無いことゆえ そのような単なる修辞学的言辞によって論証のしようのない根拠を示しただけのことか?  (2) 過去七人のブッダたちのあいだで その《さとり》に程度の差はあるのか? ( a )のゴータマの境地は 相対性の世界にしたがうか?  (3) ブッダに聞いてみないと分からないという逃げ道(理屈)が用意されているということなのか?  【Q‐2】 唯我独尊と言うなら 《ひとり満ち足りているもの》であるはずだ。ならば・・・  (4) ならば ( c )の《宇宙の根本原理であるブラフマンも ブッダの概念に含まれることもある》だけではなく まったく同じダルマであると言わなくては 不合理ではないか?  (5) ならば そのブラフマン(梵)のみならず ( b )のわれわれ人間なる存在における《アートマン(霊我)》も――けっきょく 梵我一如というごとく―― ひとしいと言わねばウソではないか?  (6) ただし 確かにその《ブラフマン=アートマン》のことを 《有る神》と呼んでもまた《無い神》と呼んでも――それは経験存在たるわれわれにはついぞ分からない《ひとり満ち足りているナゾの何ものか》であるからには―― 同じことであるから ブッダのさとりはそういう無神論〔なる信仰〕だと弁明することは出来る。そういう理解でよいか?  けれども  【Q‐3】 ( a ) 《一般には、釈迦と同じ意識のレベルに達した者や存在を「ブッダ」と呼ぶようになったり》という見方がただしいのなら その《ブッダなるさとり》には レベルの差がつねにあると見るべきなのか?  (7) けれども もしそうなら――ただの程度問題なのだから――余計に 《われわれ一人ひとりが それぞれブッダである》と言えるのであり それも中途半端に触れたりするのではなく すでに初めに大前提としてそう言っていなくては 話は始まらないのではないか?   (8) しかもおそらくは 《非思考の庭》にあって そういう前提ないし想定の理論が成り立っているのであろうか。 つまり そのようなナゾとそしてナゾではなく認識しうる経験世界との――ヒラメキなどをとおしての――切り結びの問題か?  (9) ブッダということは ダルマが絶対だと――想定して――言わないことには 千年二千年とつづくただの《おさとりごっこ》に過ぎないのではないか? (ここでは 《想定して》が ミソだと考えられるがどうか?)。  (10) 人びとは われわれ一人ひとりが ブッダであると何故言わないのか? なぜゴータマの代化城なるマボロシから卒業しないのか?

  • やっぱしゴータマ・ブッダは 阿呆である。

     『ブッダ最後の旅――大パリニッバーナ経――』(中村元訳 1980)から次の主題を取り上げ問います。  § 1 ブッダが実際の死より長生きできなかったのは アーナンダの不明の所為か?  ▲ (アーナンダにおける悪魔憑き) ~~~    ――・・・アーナンダよ修行を完成した人(如来)は・・・もし望むならば 寿命のある限りこの世に留まるであろうし あるいはそれよりも長いあいだでも留まり得るであろう。  と〔ブッダが言った〕。こういうわけであったけれども 若き人アーナンダは 尊師がこのようにあらわにほのめかされ あらわに明示されたのに 洞察することができなくて 尊師に対して《・・・寿命のある限り この世に留まってください。――多くの人びとの利益のために・・・幸福のために》といって尊師に懇請することをしなかった。  それは かれの心が悪魔にとりつかれていたからである。・・・  (中村訳 前掲書 第三章〔一〇、命を捨てる決意〕五)   ~~~~~~~~~~~  【Q‐1】 悪魔に取り憑かれていたゆえに アーナンダが悪いのか?  【Q‐2】 鍛冶工チュンダが差し出した毒キノコ(?)を食べて体調をくづしたとき ブッダはチュンダを咎めなかった。そういう気遣いをしているのに このアーナンダの悪魔憑きについては どう振る舞ったのか?  § 2 人生の四苦説は 最後まで取り消されることはなかったのか?  ▲(苦か楽か。涅槃?) ~~~~  ・・・尊師はこのように言われた。   ――アーナンダよ。ヱ゛ーサーリーは楽しい。ウデーナ霊樹の地は楽しい。ゴータマカ霊樹の地は楽しい。七つのマンゴーの霊樹の地は楽しい。・・・     修行を完成した人(如来)は 四つの不思議な霊力(四神足)を修し・・・かれは もし望むならば 一つの劫のあいだでも留まるであろうし あるいはそれよりも長いあいだでも留まることができるであろう。・・・  (中村訳 前掲書 第三章〔一〇、命を捨てる決意〕一)  ~~~~~~~~~~~  【Q‐3】 生老病死なる苦 とりわけ生なる苦――《根本的な生存欲》(?)なる苦――を言い続けたのではなかったか? けれども 死を前にして 《楽しい》と言っている。  (つぎの【Q‐4】をも合わせて捉えるなら おかしいと考えられる。つまり 苦は楽に変えることが出来ると明言しなければいけない。あるいは 楽が地であって 苦は図であるのだと。逆ではないのだと)。  【Q‐4】 輪廻からの解脱 つまり二度と再生しないことが ブッダのあり方ではなかったか? けれども 《一つの劫のあいだでも留まるであろう》と言っている。  § 3 《われ》としてのアートマンを否定したのではなかったか?  ▲(自灯明・法灯明) ~~~~    ――・・・この世で自らを島とし 自らをたよりとして 他人をたよりとせず 法を島とし 法をよりどころとして 他のものをよりどころとせずにあれ。  (中村訳 前掲書 第二章〔九、旅に病む〕二六)  ~~~~~~  【Q‐5】 《島》を 灯明として解される説を採らないにせよ ここで《たよりとする自ら》とは 《アートマン》とは別なのであろうか? 《無我(アン‐アートマン)》を説いているのだから その区別を明らかにすべきではないか?  【Q‐6】 けれども 《自灯明・法灯明》説にもとづいて問うとすれば 《自らを頼りとし 〈灯明〉とする》ことは その《わたし》なる自己をただそのときその場での《明かり あるいは 光》とするだけではないのか?  つまり 医学などの科学としての光明や思いやり・愛情としての温かみやは 何も《さとり》を得なくとも 人間の能力と心において得られるものである。  ゆえに 問題は 《みづからの心の燈心を灯す》ことなのではないか? そうでなければ《自己のチカラ》は かなり発揮され得るであろうが やはり程度問題であるにとどまる。こういう主題ないし問題意識が 欠けているのではあるまいか?   みづからが 泉のごとく水の湧き出るチカラとなるのが ブッダなのではないか?    《わが心の燈心をともす》ことと《人間の能力や愛情によって一隅を照らす》こととは 微妙に違うのではないか? 後者は 一時的・暫定的であり無常にしたがう。前者は あたかもこの無常から自由である夢(まぼろし)に臨んでいる。    これらの問いをくつがえし得ないとすれば ゴータマ・ブッダは 阿呆である。  以上について よろしくご教授ください。

  • ゴータマ・ア‐ブッダのいんちきについて問います。

     §1. 《無明》をすべてのものごとの下敷きにした。  (1) その無明(=煩悩=渇愛=無知)を みづからのトレードマークなるブッダとは 別の世界だとした。自分はシガラミから足を洗っているというわけである。  (2) あるいはつまり 世の中のものごとをすべて《苦》に還元する見方を――ブッダであるからこそそのように見るのだという言い方で――打ち出した。  (3) なぜ人びとは このイカサマにやられてしまったのか? 《人間の根本的生存欲》としての無明およびそれから自由になれないことの苦 これを押し出されて人びとは そのペテンについて行くまでに どうしてあたまがイカレてしまったのか?  §2. ブラフマニズムにおけるアートマンに対して 《アン‐アートマン》(アン‐は 語源として アン‐インストールのアン‐と同じ)と言って否定したが これの意味があいまいであり あいまいなままに終えてしまった。  (4) 好意的に解釈することはできる。ブラフマン神との一体性としてのアートマンつまり梵我一如を否定し 言わば《無梵無我一如》としてのけっきょく信仰を言ったのだとすれば それは 《無い神(無梵))》を信じる《非思考の庭》のことである。  (5) あるいはまた アートマンを他に拠らずみづからにのみ拠って存在する霊なる実体と捉えてこれを否定し アン‐アートマン(無我)と言ったとすれば これは――やはり前項の無神論に通じるとともに―― けっきょくのところモノゴトはみなその《実体》がないととなえた。すなわち 色即是空としての《空》観である。  (6) ところが §1の《無明》観がブッダでない人間(凡夫)には一生にも二生にもあてはまるというのであれば (4)の信仰は持ち得ないと見たし (5)の空観も きわめてあいまいであり あいまいのままに終わった。  (7) 空観についての誤解は 色即是空としてこの経験世界は 何一つ確かなものはないと見たそのあと 反転して空即是色というように それでも世界は仮象としては現象しているのだという見方を伴なわなくなっているそのことだ。  (8) だから 人びとは《煩悩を消す・無くす》とか《私利私欲を離れ 無私になるのだよ》だとか 《ただの精神論》に片向き そこにブディズム研究という《観念の大伽藍》をきづいて来ている。  §3. けれども 称号=商号なる《ブッダ》にけっきょく中身がなかった。   (9) 観念の大伽藍が築かれて行くのと 玉ねぎの皮むきが延々とつづけられるのとは 同じひとつのコトである。    【Q:ゴータマ・ブッダは何をさとったのでしょう】    http://okwave.jp/qa/q8314264.html  (10) 《無明》が下敷きになっているからには ものごとを善(広義のプラス)と悪とに分けて おおきくは善因善果か悪因悪果かのどちらか一本線でのみ 人びとの歴史的ないとなみを捉えることしか出来ない。  (11) そういう解釈をこそみちびいた。無明の一元論(または 明知との二元論)ゆえ。または 世界の《苦》視ゆえ。   【Q:《因果の道理》は 道理ではない。】    http://okwave.jp/qa/q8329251.html  (11) 無明・煩悩が インチキなのである。だから われわれの意志行為は つねに こうである。   ○ われらが因果論:     人間因(善悪・仏性煩悩をふくむ)⇒ 人間果(善と悪をふくむ)  ここに無明をも《わたし》が 活用するのだ。善用するにまで到れば 鬼に金棒 孫悟空に如意棒である。     (12) あるいは それとも    【Q:われわれ一人ひとりが ブッダであると何故言わないか】    http://okwave.jp/qa/q7526932.html

  • 仏教における小乗と大乗の違いとは?

    仏教における小乗と大乗の違いとはどのようなものでしょうかという質問です。 釈尊の背中を見ていると、菩提樹下でお悟りを開くまでが小乗で、梵天勧請を受けて、伝道を開始して、弟子を増やし教化する段階が大乗のように見えますが、経典主義の方々には違った見方もあると思います。 回答よろしくお願いします。

  • それでは ブッダのさとりとは何だったのか

     以前に次の質問を立てたとき おそわったことがあります。それについて問います。    【Q:《我れ》はある?ない? どちらですか(仏教)】     http://oshiete1.goo.ne.jp/qa3454478.html  わたしがおそわった内容の出だしは こうなると述べました。  ☆☆ (ブッディスム=常識論)~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ゴータマ・シッダルタなる人が 真理についての見方として 空観=縁起説に到達し 目覚めた(ブッダとなった)。  空の覚りは 世界を 四方サンガ(縁起共生体)と名づけて捉え 関係性(相依相即性)のもとに見る。この空の覚りは世界をつらぬいており ブッダはそのことを見通している。  みづからの存在が社会的に孤独であってその意味で独立していると捉えているが それでいて他者の存在と孤独関係をもかたちづくりその社会的な関係性としても存在するわれわれ人間――このような人は 空の覚りとともに 大悲の実践を はからずしておこなう。  慈悲は この世のあらゆる対立を超えているので その空観のもとに 人は互いにみな対等であると見えているからには 人それぞれの持ち前の能力や特徴を発揮することができるように ほんの少し他人に対しても 声をかけたりするのだ。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ すなわち ブッディスムとは 常識のことであり その判断力を言うと知りました。  そのようにおしえてくれた人は ただしそのほかに輪廻転生説もしくは不死永生説に立つというようでした。こちらの問題(課題)などがあるので ふたたび問います。  【Q1:《ブッディスム=常識論》にご見解をしめしてください。  ここで 無我とは この空観=縁起説に立つことだというものです。これを焦点にするかたちでおしえを乞います。】  【Q2: 次の議論においては さとりを妨げる無明とは 《根本的な生存欲》だとブッダは発見したと言います。では 生きるちからをそのままに現わしていくためには 《さとりを得ようという意欲をあきらめればよい》のだろうか?】  次です。この議論についても 最初にかかげた質問でおそわったものです。   ○ 宮元啓一:苦楽中道----ゴータマ・ブッダは何を発見したか   http://homepage1.nifty.com/manikana/m.p/articles/kuraku.html  ☆ さとりを得ようとするはからいから自由になれば 常識なる判断力としてのさとりに到る――こういうことなのでしょうか?

  • 乳粥

    牛乳歴史クイズの質問第4弾です。 http://www.zennyuren.or.jp/chisiki/kentei/rekisi_01.htm 上記サイトに、 「お釈迦さまが1杯の乳粥を飲んで悟りを開いたという「乳粥」とは? 」 といふクイズがあります。解説は、かうです。 「『 ヨーグルト 』仏教の開祖釈迦(ゴータマ・シッタルタ)にも、乳をめぐるエピソードが残されています。悟りを開くため出家して山奥で断食苦行をしていた釈迦は、悟りが開けぬまま衰弱したからだで山を下りていきました。その途中、出会ったひとりの乙女スジャータから1杯の乳粥(インドでダヒというヨーグルト)を捧げられます。あまりのおいしさに驚き、その瞬間に悟りを開いたというのです。 」 私は、インドで「キール」と呼ばれる食品だという話は、聞いたことがありますが、「ダヒ」といふヨーグルトだといふ説は初耳です。 「乳粥」は、ほんとうは、何なのですか。