神についての迷いと信仰

このQ&Aのポイント
  • 《神》は補助線である。時空間ないし世界という存在・なかんづく人間という存在に先行するものはあるか?
  • 《神》についての迷いと信仰の関係について考えてみましょう。人間には分からないことが分からないかもしれませんが、それを理解するために《神》という補助線を用いることがあります。
  • 《神》は存在のあり方を問う際に用いられる補助線であり、有神論や無神論などさまざまな考え方があります。しかし、すべては人間の言葉や信仰の一環であり、補っている役割を果たしています。
回答を見る
  • ベストアンサー

 《神》は 補助線である。

 1. 時空間ないし世界という存在・なかんづく人間という存在に先行するものは あるか?  2. ない。あるかどうか 人間には 分からない。分かるか分からないかが分からない。  3. そこで《かみ》という補助線を じんるいは考え出し これを引いた。  4. 《分かるか分からないかが分からないこと》は カミという言葉で交通整理して捉えあおうと。  5. 世界はそれを生み出すチカラがあったとしても それは いわゆる《自然》としてのあり方であるしかないと捉えるなら 自然が神となる。山・川・海などなどの霊としての神々は それぞれ分身であると。  6. 世界をつくったチカラがあるとする場合 これは 有神論のひとつでありその中でも 創造者としての神を立てている。  7. そのようなチカラは ないとすれば――すなわち《無い神》を立てるなら―― 無神論である。  8. このような《自然神 / 創造神 / 無神》に分かれたとしても すべては――分からないところを補っているのであるからには―― 補助線として用いられている。  9. つまり神は 有る神と無い神とに区分され 有る神についてはさらに人びとによって(その言語によって)いくつかの名がそれぞれつけられている。  10. このようにさまざまに種類分けされる《神》も すべては そのように一定の言葉で〔特には人間が〕引いた補助線であるしかない。  11. ただし人びとは この補助線の向こうの――特に有神論の場合における――神とそのおのれの内面において しばしば向き合うことを成す。このような《神とわれとの関係》は――ひとが生きているかぎり生きた動態として―― 信仰とよばれる。  12. 補助線としての神に向き合ったとき 世界ないし世の中の〔しばしばかなしい〕あり方に沿って むしろ対立しこの神を否定しようとする場合もある。この種の神との関係は むろん 無神論となる。これは・これも 《無い神とわれとの関係》を内容とする信仰である。  (無神論者は無神論も信仰であると言われたくなければ 《神は無い》と証明しなければならない)。  13. じんるいは 神によって(神の所為にして)互いに相いあらそう必要もなければ理由も必然性もない。風車に向かって突撃するようなものである。  14. 神は その呼び名としての多様性をふくみつつ・またおのおのわが心なる《非思考の庭(信仰)》における動態としての多様性を容れつつ すこやかに独り満ち足りている。(と推測される)。  これを問います。ご教授ください。

質問者が選んだベストアンサー

  • ベストアンサー
noname#221368
noname#221368
回答No.12

> 《非経験の場》は けっきょく 経験存在であるわたしたちが  それ自体を・つまり《非経験の場》の想定として規定される《神》そのものを  何とかして経験世界の言葉で差し示そうとする  そのための《補助線》である。  さきほど読みまして・・・(^^;)。遅くなりました。  また違うと言われそうですが、あなたも認識論として捉えていたのだな、と解釈します。そして了解できます。  バーガーは補助線を大仰に「聖なる天蓋」と呼んだ。浅田彰は「突出構造」と呼んだ(← バーガーのパクリっぽい(^^;))。  ウェーバーは、世界各地の補助線のありようと求めて、宗教社会学を始めた。そんな風に感じます。 > 12. 補助線としての神に向き合ったとき 世界ないし世の中の〔しばしばかなしい〕あり方に沿って むしろ対立しこの神を否定しようとする場合もある。この種の神との関係は むろん 無神論となる。これは・これも 《無い神とわれとの関係》を内容とする信仰である。  (無神論者は無神論も信仰であると言われたくなければ 《神は無い》と証明しなければならない)。  まったくその通りだと思います。ところが無神論者は、無神論も信仰だと自覚しつつ、《神は無い》という証明も不可能だと知りながら、時にムキになる。たぶん、普段の行いからです。例えば、   「神は妄想である,リチャード・ドーキンス」 などです。ずいぶん過激なタイトルですが、その内容は、 > 13. じんるいは 神によって(神の所為にして)互いに相いあらそう必要もなければ理由も必然性もない。風車に向かって突撃するようなものである。 に近いパッションを感じます。

bragelonne
質問者

お礼

 なるほど。無神論者も 《パッション》を持つのですね。しかも   ★ 無神論も信仰だと自覚しつつ、《神は無い》という証明も不可能だと知りながら、時にムキになる。  ddtddtddt さん こんにちは。ご回答をありがとうございます。  そうしますと どうなりますか。  ★ また違うと言われそうですが、あなたも認識論として捉えていたのだな、と解釈します。そして了解できます。  ☆ まぁ げんみつに言うなら ひととの交わりとしての自己表現は 経験合理性にもとづかねばならない。という意味で 《認識論》としての議論になるかと思うわけです。じっさいそうしています。  ★ ウェーバーは、世界各地の補助線のありようと求めて、宗教社会学を始めた。そんな風に感じます。  ☆ そうなんでしょうが そのとおりなのでしょうけれど ひとつしっくり来ないところをお伝えすれば それは 聖人や聖者の名をつらねて その存在に何か――《補助線》としてなのかどうなのか いささかうたがいたくなるようなかたちで――特別の意味をあたえている。それは 学問の目指すそのあり方としての意味をふくむような・要するに《理想》ということだと思うのですが これを《星》として名づけとらえている。  これは おそらく――かんたんに処理してしまいますが――貴族趣味のようなものだと見ます。同等・平等な人間たちの中に或る種の《貴種》をわざわざ聖別するという仕儀のことです。いただけません。  ★ バーガーは補助線を大仰に「聖なる天蓋」と呼んだ。浅田彰は「突出構造」と呼んだ(← バーガーのパクリっぽい(^^;))。  ☆ 聖なる天蓋について どなたかに――この質疑応答の場で――おそわった記憶があるのですが バーガーは覚えていませんでした。  ○ The Sacred Canopy: Elements of a Sociological Theory of Religion, (Doubleday, 1967).   薗田稔訳『聖なる天蓋――神聖世界の社会学』(新曜社, 1979年)  ですか。問題は 《聖なる》という用語が どれだけ経験合理性の言葉で説明しうるかにかかっていると思います。  そして 《天蓋》は 何とも適宜性にとぼしいのではないかとも考えます。それだと 神すなわち非経験の場と そして人間とのあいだに 先ほどのヱーバーの《星》を置いてみるかたちであったり あるいは むしろあたまの中に《神》なら神という観念を据えてその観念をめぐってああだこうだと――非思考であるはずのところを――思考にて追い求めるというようなわるいクセをみちびき勝ちではないか。こうも思います。  (読んでいませんので 憶測による物言いです)。  浅田の《突出構造》。覚えていませんでした。浅田は 或る種の保留を条件として持った無神論ではないかと思っています。保留というのは 言い切れないという意味です。そういう但し書きを条件とするという意味だと思います。  ところで これらの場合 《補助線》という言葉を使っていますか?  わたしは この場合は――ほとんどいつも アウグスティヌスからの請け売りのあとに得たヒラメキによるのですが この場合は――みづからのオリジナルかと思ったのですが 補助線説はすでにありましたか。あったなら 仕方ありません。  おおきな賛同をありがとうございます。  ところで・ちなみに 遺伝子は 《認識――DNA なる自己の読み取り――》のハタラキが主要なものなのですか? つまり《認識が存在に先行する》ほどなのですか? もしくは 認識と存在とが同時発生的なのでしょうか?  【Q:認識が存在に先行するか?】   http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa8254466.html  その回答No.10および11での ok9608 さんのご議論です。よろしかったら ご見解をおしえてください。

bragelonne
質問者

補足

 No.14の補足欄およびお礼欄を承けて ここにお応えを継ぎます。  ★ バーガー  ☆ を読んでみなくてはいけなくなったみたいです。       *  ★ とにかく彼は、世界各地で神々がそのように別々に理解される根拠(エートス)を知りたかった。そのフィールドワーク  ☆ この点 了解しました。《補助線》の仮説を組み立てるまでには行っていない段階であった。《世界各地のナラワシ》にそれぞれ即してまづは実態を捉えようと苦闘した。といったところでしょうか。  儒教なりブラフマニズムなりについて 何だかどこか相手を立てるような――媚を売るとは言いませんが 最初は好意的に扱うのが礼儀であるとでも言いたげに――やさしくおとなしい議論になっていると思います。  たとえば 因果応報説をともなった輪廻転生の理論 これをけっきょく 理屈抜きに持ち上げていますよね。合理的な弁神論であると。  その意味では 補助線を引くという仮説に到る前の段階であったかも分かりません。         *  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~  神を信じていない限り、もしくは神を科学によって評価できると思わない限り、神の問題は、それに対してどういう作業仮説を立てるかの問題になり、神をどう概念化するかの問題にはなりません。それは副産物です。なので自分は、常にあなたの意図が時々わからなくなる訳です。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ (あ) わたしは 聖書につたえられたキリスト・イエスの指し示す神を信じています。水による洗礼を受けたわけではありません。  (い) その神は ほかの宗教における別の名のそれぞれの神をつつみ容れており あるいはまた無神論の《無い神》をも含みます。(というふうにイエスが指し示したと受け取っています。と同時に キリストのキの字もすでに出さないようになる方向をあゆみます)。  (う) この神〔の信仰〕が 現実であるという思いを伝えようとする。その現実というのは 歴史事実および人間の――虚構をも容れた――真実とから成る時空間の世界です。  (え) 神の《概念化》は そう大したものではありません。全知全能だとか至高善だとかこの上なき愛であったり創造主だったりは 派生物です。《非思考の庭》からすでに《思考の緑野》に降りて来て想像したものです。  (お) ただし 神〔への信仰〕が現実だということを説明するために いろんな概念やその装置を活用するのは 一般にふつうにおこなってもよいと考えています。つまり 用います。  そんな感じでしょうか。          *  ○ 補助線なる仮説  ☆ では 一応わたしのオリジナルということで。(一週間か二週間か前に得たアイディアです)。(もっとも みなさんと向き合い そして特に自然科学系の人たちの考えと相い向き合ったところに得られたとすれば やはり《関係性》ははたらいている。のでしょうね)。          *  ○ DNA の自己認識  ☆ は ちょっと待てが出たということは おおきな主題であり問題であるということでしょうか。

その他の回答 (23)

noname#221368
noname#221368
回答No.14

 #12です。 >(前段も含めて)・・・これは おそらく――かんたんに処理してしまいますが――貴族趣味のようなものだと見ます。同等・平等な人間たちの中に或る種の《貴種》をわざわざ聖別するという仕儀のことです。いただけません。  ウェーバーの人柄にプロイセン貴族の面影が濃厚なのは事実です。ウェーバーの肖像画の髭は、どう見てもカイゼル髭だ(^^;)。  「星」に関してですが、伝統的・因習的支配の理念型モデルで導入されたアイテムだと記憶しています。伝統的・因習的支配はヨーロッパ中世のステレオタイプ化ですが、そこではどの時代よりも、政治と宗教が支配根拠を持っていた事になります。  ウェーバーは余りこういう場面で経済を語りませんが、中世の経済事情により、直接的な軍事独裁や宗教的統制は地方には及びませんでした。そういう場所にも支配権威を浸透させるための手段が、聖人たる「星」や「十字架」だったとみなされます。それらは権威の物象化です。日本で言えば、三種の神器ですかね?。まさに偶像効果だと思います。  現代の人はふつう偶像の力なんて鼻もひっかけないか、ファッション化しますが、そういうもので真面目に支配可能になっていた、という観察から逆に、ウェーバーは伝統的・因習的支配と言ったのだと思います。  でもウェーバー自身は、かなり中世的な人です(本人は否定するでしょうけど(^^;))。もしかするとウェーバーにとって、伝統的・因習的支配の理念型モデルは、一番了解しやすいものだったのではないだろうか?、と邪推します。その過程で思わず貴族趣味が出て、物象化に「星」という名前を与えてしまったという事態は、否定できません。  バーガーは1970年代の現代人(?)ですので、貴族趣味はありません。彼は理念型モデルを社会学における作業仮説と捉えていたはずです。でもこの人、ウェーバー・フリークなんですよ。なので自らの単なる作業仮説をウェーバーにならって大仰に、「聖なる・・・」と呼んだのかな?、という印象は持ちます(^^;)。 >浅田の《突出構造》。覚えていませんでした。浅田は 或る種の保留を条件として持った無神論ではないかと思っています。保留というのは 言い切れないという意味です。  そうです。浅田は典型的な現代人です。無神論者は、それすらも信仰である事を自覚しています(と思います)。なのでどこか歯切れが悪い。浅田さんのケースでは、今にして思えばポストモダンという、結論の出ないテーマを標榜していたので、さらに歯切れが悪かったと、今では思います。でも話は面白かった(^^)。 > ところで これらの場合 《補助線》という言葉を使っていますか?  わたしは この場合は――ほとんどいつも アウグスティヌスからの請け売りのあとに得たヒラメキによるのですが この場合は――みづからのオリジナルかと思ったのですが 補助線説はすでにありましたか。あったなら 仕方ありません。  ウェーバーなどは、少なくともドイツでは最初に「神の問題などは科学の扱える事案ではない」と言い切った人なので、彼の提出した理念型モデルなんかに、 > 《非経験の場》は けっきょく 経験存在であるわたしたちが  それ自体を・つまり《非経験の場》の想定として規定される《神》そのものを  何とかして経験世界の言葉で差し示そうとする  そのための《補助線》である。 といった意識は薄かったと思います。とにかく彼は、世界各地で神々がそのように別々に理解される根拠(エートス)を知りたかった。そのフィールドワークの源泉は、神をどう概念化するかではありません。異論はあるでしょうが、理念型モデルは実証研究の成果です。  後で評価すれば、補助線ような解釈も可能かも知れないし、ウェーバー自身は西欧の伝統の体現者のような人でもあったので、アウグスティヌスからの影響は当然あったとは思いますが、やはりそこを目指したとは思えません。  バーガーが神を信じていなかった可能性は十分にあります(確認はしてません)。浅田さんは現代の日本人らしく、神を信じていなかったのは、確実と思えます。  神を信じていない限り、もしくは神を科学によって評価できると思わない限り、神の問題は、それに対してどういう作業仮説を立てるかの問題になり、神をどう概念化するかの問題にはなりません。それは副産物です。なので自分は、常にあなたの意図が時々わからなくなる訳です。  ところで、 >ところで・ちなみに 遺伝子は 《認識――DNA なる自己の読み取り――》のハタラキが主要なものなのですか? つまり《認識が存在に先行する》ほどなのですか? もしくは 認識と存在とが同時発生的なのでしょうか?  【Q:認識が存在に先行するか?】 の話ですが、ちょっと待って下さい。   連投は本当は、禁止ですが(^^;)。

bragelonne
質問者

お礼

 (つづき)  精神をもった人間が生きるとき――知性をはたらかせ 意志をもってその成果を実現させようとして 生きるとき―― 価値判断を含めているはずではある。知性の成果は 思想である。だが いまは この価値判断をも 価値自由的に捉えて ただ 人間精神の自然を耕すという意味で 文化行為とよぶとしよう。こうだとするとき この文化的により良く生きるということが 持続的であるなら 人間は 《勤勉》であると言われる。こういう事態がある。  知解行為(つまり勉強)の持続も 意志によるその文化成果の実現への行為の持続も そして 政治的・経済的に《産業》の発展に到るまで それらの生きる過程が――持続的であるなら―― 勤勉だと言われる。  つまり 《精神》が先行し これが 歴史の推進力となっているはずである。殊更いう必要はないであろうが 大前提として そうである。文化は われわれがこの文化行為を 人間の自然本性にも 環界の自然にも あるいは 環境としての第二の自然と言われる社会関係の場にも はたらかせるわけであるから ここで 哲学思想とかあるいは自然科学やその技術 さらにあるいは萌芽的にしろ社会科学を この勤勉は 出発点として 含んでいる。  ただし ここでも 勤勉と精神とは 同時一体であるだろうが――すなわち ある種の仕方で 怠惰をも含めて それらは 経験行為として 同時一体であるだろうが―― それでも 勤勉が先行したのではなく 精神(もしくは わたしとその主観)が 勤勉や怠惰に先行していると見るべきである。  • 仮りに 勤勉という習慣を 他者から・外から 与えられた形で身につけたという場合を考えても その身につけた勤勉に関して それでよいと判断してさらに持続するのも あるいは 止めたいと言って棄ててしまうのも それは わたしである。存在あるいは主観としての精神が やはり先行していると言うべきである。  ここまでの段階で ただちに迂回を終えようと思えば じっさい資本主義の精神という一つの勤勉は 精神一般に 先行したのではないと言うことができる。  ただしこれは まだまったく 個体概念と一般(全体)概念との問題だし そして論理のみによる詭弁くさいしするから もう少し迂回路を掘り下げなければならない。詭弁くさいというのは あたかもヘーゲルのように 一般精神が 現象して 資本主義の精神という一つの具体的な形態を採ったというような抽象的な論理のものでしかないようになるからである。  また この資本主義の精神というものは ウェーバーも 学問独立の精神が 経験的に 有効であるのと同じようには 有効だとは見ていない。(つまり 少なくとも 資本主義の精神の結末については――価値自由的な見方を突き抜けて―― 軽蔑したように批判的である。)そういったものと対比させて 先行・後行を議論することも おかしい。そして じっさいわたしたちが 《ウェーバー学派の倫理と学問至上主義の精神》と皮肉って批判しようとするのは 単にこのように迂回しただけで明らかになる《精神の先行と勤勉の後行》の問題ではないと言わなければならない。  ウェーバーの方法は フランクリンのエートスを例示することによって 確かに実際のところ 勤勉(ないし倫理)を 初めの先行する精神の中に 見ている。さらに 勤勉を 精神の中に組み込んだとも言えるし 精神じたいが――その文化行為じたいが―― 勤勉のことだとも見ているはずである。つまり わたしたちが 勤勉というときには 文化行為の持続性をもって そう言っており このとき そうでない場合・つまり精神の怠惰を もし有効だと言わないとすれば きびしく無効のものとして捉え この無効のものとしては ありうるであろうと捉えていた。怠惰とは たとえば 過去の文化行為の結果への《伝統主義的》な態度を言うと極論しておくのがよいと考える。すなわち 有効な勤勉の中に この怠惰という無効への傾斜可能性を含めたかたちで 捉える。そうだとすれば わざわざ命題の形にしようというときには 《精神が 勤勉に先行するものとして存在する》となるはずである。  • この細かい定義のような作業は 次のようにも捉えられる。おそらく 精神と勤勉とは 同時一体であろうが それでも《わたしとは勤勉である》と言うのではなく 《わたしは勤勉という過程にある》と表現したいし それでなくてはいけないと考えているところがあるのだと思われる。その《わたし》とは ここでほぼ《精神》と同義である。  ところがウェーバーは――いま先走りして議論するなら―― 近代市民の資本主義の精神という歴史的な一段階では 少なくとも出発点として 精神イコール勤勉 勤勉イコール先行するもの という見方が実現したと言ったわけである。これが 推進力となって 資本主義の精神なるわたしを 社会的に普及させたのだと。そのままではなく 自己を屈折させ あるいは別のものへ転化させるといった段階を通ってだとしてもである。  • なおウェーバーは この推進力のことを 《心理的な起動力》と言っている。《心理》は 精神の内なるものだが 後行する倫理をかたちづくるものであって 先行する精神と 同じものではない。もしくは倫理と対応するものであって やはり先行する精神と 同じものではない。  • 精神とは 存在と同義である。存在に 心の動きが起こるのである。  • たとえば《殺すなかれ》という一つの倫理規範(また法律でもある)に 心理は 心の内でだが ただ対応し反応する動きであるにすぎない。精神は これに先行して その判断をおこなっている。(スミスの《同感》行為と言うのがよい。)そういう形で 先行する推進力である。  • そして誰もが経験しているように 心理の動きが 一時的にであれ 精神を凌駕してしまう場合が見られる。  • ウェーバーは この著書の全般にわたって 《心理的な起動力としてのプロテスタンティズムの倫理とその影響のあり方と やがて それが大きく資本主義の精神となっていく推移》を 研究して明らかにしたと言っているのだから 勤勉(倫理)イコール先行する精神とは言わなかったかも知れない。いまは そういう響きが聞かれるし 響きとしては その基調Leitmotivをも形作っているかに見えるとして このように先走りつつ 議論をすすめていく。  • すなわち もし すべてが 《後行する心理的な起動力》の問題であるとすれば われわれの議論は はじめの前提でおしまいである。そのときには ウェーバーのこの著作は ちょうど《資本主義の精神》を作り上げた犯人の心理的な犯行動機を 調査したものとなって かんたんに言えば 先行する精神の同感理論を説くスミスの議論(学問)の一従者となるはずである。まだ 熟さないけれども ここでは このように。  この先走った一議論とも関連して 迂回路の一端として言えることは 第一に おそらく 文化行為を含むところの人間の自然本性のあり方として 《精神の先行と勤勉の後行》は 一つの一般理論だとまず考えられる。第二に しかも《後行する勤勉が 先行する精神の中に組み込まれる》ことが起こるのではないかということ これをめぐってでなければならない。  実際には 起こりえない――起こるとすれば 無効として――なのだから もしこのウェーバー批判を なおも継ぐとすれば それは 表現の問題で争わないという一条件のもとにのみである。《心理的な起動力》は 同感の主体たる精神に後行する勤勉・またこれにまつわるものであるとわたしたちは 考えるが 定義と表現の問題で争うことだけでは らちが開かないゆえである。勤勉が自己目的となるなら それは いわゆるガリ勉である。これも 心理的な起動力の問題なのであって 精神は それらに先行して存在しており 勤勉やガリ勉について《わたし》自身の判断を下す主体である。むろん ガリ勉や勤勉べったりとなる精神の状態もありうるわけである。  言いかえると われわれのこの批判は これよりのちは ウェーバーがこの《心理的な起動力》ということを わたしたちの定義とまったく同じかたちで 用いたということを 証明して終えることになるというものである。ここでは むしろ批判者であるわれわれ自身のほうが こころぐるしいのであるが 手続きは踏まなければならない。        *     *      *  ☆ 尻切れトンボですが 言わんとするところは或る程度伝わるのではないかと考えます。ヱーバー流の貴族趣味が学問の方法の具体化として現われたところだと見ています。ただしここで扱った内容は むしろ貴族趣味からはづれた・言ってみれば《デーモン趣味》が現われた場合です。資本家市民のエートスにデモーニッシュに取り憑かれたかのようにまたすでに内在してしまったかのようにして その心理的な起動力のすがたを描いてみせるところです。  貴族趣味は その最後のしめくくりに現われます。    「精神のない専門人、心情のない享楽人。この無のものは、    人間性のかつて達したことのない段階にまですでに登りつめた、    と自惚れるだろう」と  と自己(ヱーバー)を言わばあたかも人びとの仰ぎ見る《星》であるかのような立ち場において 資本家市民の〔成れの果ての〕エートスを切って捨てたところに現われています。  あとは 回答No.12に対する補足欄にて お応えします。

bragelonne
質問者

補足

   ウェーバー学派の倫理と学問至上主義の精神について  §1 関係(かかわり)は交通(まじわり)に先行する  ここで 学問至上主義というのは 職業としての学問が いわゆる近代市民の歴史的な社会のなかで それなりに独立して存在するというほどの意味を持たせます。表題全体の意味は ウェーバーを批判しますというものです。  ただちに議論に入るとすれば 職業として学問に従事することは 社会生活の中でいくつかある職業の一つである。人間がつまりわたしたちが 職業を選び持つのであるから 学問至上主義ということの精神はといえば 当然 人間の精神一般に従属している。知性一般あるいは意志の一般が先行しているその中で持たれる。社会生活としての精神に従属しているであろうし その部分概念であるしかない。  社会生活をいとなむわたしたちの人間という存在を精神というとすれば この精神が 個々の職業としての精神に 先行する。ただし このあとさきは 時間的な先後のことではないはずです。  そうすると 実際には 倫理とか精神とかあるいはエートスなどについては それらを議論するときに 一種の原理的な順序やその位置づけを 捉えておかなければならない。つまり こうである。マックス・ウェーバーというひとりの人間が まづ存在する。固有の意味での精神が 第一に存在する。存在が存在するといった同義反復であるけれど ここが 出発点であろう。身体なるその人の存在という意味で精神が 経験的に言っても 何ごとにも先行する。  つぎに 人間存在たる精神が・つまりもう少し具体的には 個人の人格全体の知性あるいは意志が先行している と同時に かれは 社会生活をいとなんでおり 従ってのように 関係のうちにある。人間との関係として存在している。そうであれば 精神は 個体的なそして同時に関係的な存在として 先行する。  ゆえにそこでかれは 社会的な倫理を帯びている。仲間どうしのつきあいの決まりやその判断行為とともにある。倫理は――言いかえれば―― 精神の社会的な関係存在であることに発し しかもその関係の具体的な交わり・つきあいに関する決まりやおきてのことであるから きびしく言ってそれは 精神に後行する。  あるいは ひょっとして 関係存在としての精神と その社会的な倫理関係とは 同時であるかも知れない。ただ 存在は 社会的な個体存在と同時に社会的な関係存在である。もっと言えば 社会的な独立存在であると同時に社会的な関係存在である。その全体としての精神に おそらく関係存在どうしの交わりは 先行し難いであろう。もしくは その交わりの歴史的な試行錯誤の過程としての倫理は 存在に先行するとは言い難いであろう。人びとが 生活し思考しあって出来たものであるから 倫理は。すなわち ここでは 学問至上主義における倫理を取り上げるなら この倫理(その哲学思想)は 人間の存在に先行すると言うわけには行かない。  関係(かかわり)は 交通(まじわり)に先行する。と考える。  そのあと 第二段階として個別具体的に それぞれ分業する分野の職業のそれとしての精神 これが 経験的に付随して 現われてくる。  第一に ウェーバーの存在そのものという精神 第二に 社会一般におけるかれの交通経験と倫理 そして第三に 職業としての精神 つまりその場合には かれの学者としての精神 これが 順序だと考える。  だとすれば たとえば 一個の近代市民あるいは現代市民という精神が先行し つぎに一例として プロテスタンティズムの倫理が後行する。これらについての学問とその精神は プロテスタントらのその立ち場としての精神と いわば同列に位置し 市民一般の精神に後行するものである。  もし新しい職業とその精神が・もしくは社会の中での一部分をなす職業とその精神が 新しい社会と時代とを切り拓くことがあるとすれば それは 具体的にその個別の職業遂行の精神やそれにまつわる倫理やが 社会全体にとっての推進力になったと捉えられるであろうけれど その場合にも すべては一般に先行する精神が 先行して 熟考し それとしての判断をくだした結果であるだろう。そこに――つまり社会の一般意志(!?)には――間違いがないということではなく この場合には逆に 個別的な職業とその倫理とは 人間存在とその精神一般に対して 後行しているという実態を指し示していることになると思われる。新しい倫理を切り拓き得なかった分野の職業にかかわるその倫理は 古くて一般性を持ち得なかったことを物語るのだから。  むろん学問は 一般性・普遍性を求めて 思考するのであるゆえ その新しい倫理を提示する分野でありうるだろうけれど その志だけでものごとを決めつけてもらっては困るというものである。一般性を求めて 現実の事態を一部は捨象するわけであるし いくつもの議論のための条件づけをおこなうのも ふつうである。  ところが 資本主義の精神とかあるいは学問独立の精神という場合――すなわち 前者は 一定の時代の社会一般的な倫理というのとそれほど異ならないであろうし そしてまた後者も 経験科学の成立ということや それの社会生活における重要な役割ということを考えに入れるなら その意味では一つの部分概念ながら 全体概念を 表現として代理することができるほどである。(実際 近代市民なる精神というとき経験科学の有効性ということは その基本である)。こういった場合――それでも いままでの議論に基づく限りでは 両者とも 人間存在という精神に後行して出来上がったものである。しちめんどうだけれども 大前提として そうである。と言わなければならない。  のであるのに――ところが―― 先行する人間の精神が じっさい歴史経験的に言って 後行して成立し過程されていくところの・これら資本主義の精神や学問独立の精神に促されて いわば開花したとも言えるとしたなら 後者の二つの概念は あたかも ここで言う先行するものであるとさえ 考えられてくる。近代市民の時代になって初めて 人間精神は その自由な動きを取り戻したと言えるとしたなら 後行する倫理が先行する精神を 復活させたということになる。  つまり ここで エートスを持ち出すとするなら どうなるか。それは ふつうには 初めの一個の人間の存在たる《精神=知性=意志》に後行する倫理を言うとしたほうがよいと思われるが 逆に 上の資本主義の精神また学問独立の精神をも含めて言うとする場合も 起こるのであって しかもこのばあい じっさいもんだいとして 先行する精神のことをも回りまわって 含むことができる。そういう見方が 生じうる。形而上学的な表現においては この見方によって エートスが 世界のすべてを含み すべてがこのエートスによって 説明されうるとさえ考えられてくるはずである。  ここまでが 前提としての導入としての議論である。  §2 先行する精神とその推進力 および後行する心理とその起動力  (ここで《推進力》は 基本的・全人格的であり 《起動力》は 部分的・一時的なものを言う)。  次に問題となるのは 一方で《精神(存在)→倫理→職業精神》といった先行・後行の順序で捉えられるわたしたちの一連の社会行為の関係と 他方で それら全体を総括して捉えるときの《資本主義の精神 / 学問独立の精神(経験科学の有効性) / あるいは エートス》との これら両者の内実的なつながり具合いを 捉えることである。  ウェーバーが 著書『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』の中で明らかにしたところによると まづその導入部で例示的に主張したこととしては あのベンジャミン・フランクリンの《エートス》・つまりこの場合その《精神=倫理=職業観》 これは 《資本主義の精神》の出発点を物語りうるということであった。一つの歴史経験として――また 現代社会のその出発点として―― エートスが先行したのだという一つの見方を明らかにして 問うた。または 歴史の転轍機のはたらきをしてのような推進力として エートスが重要であったのだと。  もう一度 確認すれば したがって 一方でわたしたちが前提的に議論したところの《精神の先行性 および 倫理(その意味で エートス)の後行性》といった命題 これを 必ずしも排除するのではなく ちょうどそれと両立しうるというかのように 他方で 《エートスは すべてを含む。つまり 先行する精神――先行するというからには 一つの推進力である人間の精神――をも含みうる》といった内容の広がりを持たせて かれの歴史観の一端をあらわした。表現の問題で争うべきではないだろうから おそらく議論の基本的な出発点として こう要約して理解することができるものと思われる。そして問題が残るとすれば それは 《人間の精神一般》と《一つのエートスたる資本主義の精神》との異同あるいはつながり具合い如何 ここにあると考えられる。  ここでは 議論――本体としての議論――を迂回させなければならない。  なおウェーバーにおいても おそらく 《人間の精神一般》は 一般と言っても つねに個体としての概念であり 《エートス》は これを含み さらに外化して倫理や職業観に広がり また 社会一般的な概念としての《資本主義の精神》をも含むか もしくは その要素である。こういったつながり具合いは まづこうだとして すでに わかっていることがらである。はじめの前提からすればそのような話となる。  (つづく)

回答No.13

No4とNo11に回答文を書きましたホケキョウ333です。 丁寧な再びのお礼文有難うございます。 しかし、「神の定義」なのですが(同じことを私は繰り返し言っているということになるのでしょうが)まったくお手上げの思考の世界となってしまうのです。 そのことをどう書いたらいいのかさへ、迷います。 ともかく、私より絶対的なまでに上位の存在を私の考えで定義したら、その存在自体とは全く関係ないところの「わたしの定義した神」を私がかってに脳の概念の中に作ってしまうだけであるわけです。 ここまで解りますよね。 宗教論議に初めての方も読まれているかもしれないので、簡単にも書いておけば、 エルサレムは私の土地であると宣言されているキリスト教の神と、エルサレムは私の土地であると宣言されているイスラム教の神と、エルサレムは私の土地であると宣言されているユダヤ教の神って、 どれも、人間よりいやしいそして心の狭い^^神を人間の脳がかってに作って、争いの原因を増やしているだけだということ、誰も解りますよね。 このように説明されて解らない人はいませんよね。(いるかもしれませんが^^) たとえば、 全知全能という概念とはを定義することは出来るのかもしれません。 偏在という概念を定義することは出来るのかもしれません。 でも、それすら私の場合にはですが、お手上げ状態の思考だということになってしまうのです。 つまり「わからない」の一言になってしまうということなのです。 存在自体があまりにもすごい世界ですからね。 でも、その定義にかかわらずのっぴきならない抜苦与楽の切実さと関わる世界が目の前に、生きてる限り「「存在」」し続けています。 そして、その因果ならば、私の思考回路もどこまでも追いかけ続けてゆけるわけです。 そこで、その現実にちゃんと目を向けてくれ、しかも根本的に感性教育という鍵に謙虚さを促している信仰の対象として日蓮の「妙法蓮華経」の五文字があるならば、ということで、日蓮を問題として取り上げようという私の主張が、 そちらの仏教での仏の慈悲とはという昔の人の考えに絡めて、出てきてしまったわけです。 しかし、 どうやら、私の方は神についてはお手上げ状態なので(青年の時は、生意気にも何かわかったつもりになったこともありましたが^^)苦手分野、 日蓮についても、純粋な信仰こそ必要な世界でありつつ、純粋さが罰論と集団催眠的組織との合流によって偽物によって占拠される危険は、イスラム原理主義よりも可能性として大きいということも考えられる世界でもあり、、確かにそちらの言われるとおりに、私達のここでのコミュニケーションの文脈の流では、扱いきれない、その意味では別の文脈の論議となってしまうでしょう。 ここは、新しい哲学の根源を「神わからない論(敬虔な方には怒られそうなネーミングですが)」として創造することも私には出来かねますし、 そのへんの思考回路の交通整理は そちらにまかせて、 日蓮については、仏教の実践的確信についての、私の方からの、新しい質問を新たに立ち上げてみることにします。 もしよろしければ、そちらの認識や立場からのご回答を是非よろしくおねがいいたします。 時間の許す限り書けるところはこれからもそちらの質問に回答を書いて行ってみますし、過去の論議も詳しく読ませていただこうと思ってます。 宜しくお願いいたします。 ありがとうございます。

bragelonne
質問者

お礼

 ほけきょう333さん こんにちは。ご回答をありがとうございます。  ええっとですね。次の場合が わたしの定義とはちがっています。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~  ともかく、私より絶対的なまでに上位の存在を私の考えで定義したら、その存在自体とは全く関係ないところの「わたしの定義した神」を私がかってに脳の概念の中に作ってしまうだけであるわけです。  ここまで解りますよね。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ すなわちわたしの定義によりますと 次のようですので 《脳の中には 何もない》ということになります。  ☆☆(趣旨説明欄) ~~~~~~~~~~~~~~~  1. 時空間ないし世界という存在・なかんづく人間という存在に先行するものは あるか?  2. ない。あるかどうか 人間には 分からない。分かるか分からないかが分からない。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  あるいは   ☆☆(No.4お礼欄) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~   ○  (身と心とから成るわが自然本性の成り立ち)~~~~~~~       非思考の庭(クレド=しんじる。心の明け。直感・ヒラメキ)    ____________________    思考の緑野(コギト=かんがえる。⇒田園および都市)    感性の原野(センスス・コムニス。直感かつ直観)    ____________________   ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ この図式にしたがうならば 《脳の中の概念》というのは 《思考の緑野》にある概念です。  しかるに《非思考の庭――信仰の動態がここに展開される――》には 何もありません。ヒラメキが起きるのは そのときそのときの一瞬です。  《心の明け》というのは 《心の伸び》と言ってもよいと思いますが そうは言っても何も無い・思考に非ずであるからには 《伸び》があるというものの 実際に伸びているわけではなく 窓があってそれが開いているというものでもないと言わねばならないのではあります。  つまり 言うなれば この非思考の庭が《心の伸び・心の明け》だというのは 要するに心が《閉じられていない》ことを言うとすればよいと考えます。  ひとつの名の神によって閉じこもらないこと。あるいは同じことで ほかの名の神を排除しようとはしないこと。こういった心のあり方を言っています。  この《非思考の庭》においてワタシは わが神と向き合っている。その関係が――思考にあらず ゆえに 何もないのだけれども―― 信仰と言われる動態である。こうなると思います。        *  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~   エルサレムは私の土地であると宣言されているキリスト教の神と、エルサレムは私の土地であると宣言されているイスラム教の神と、エルサレムは私の土地であると宣言されているユダヤ教の神って、  どれも、人間よりいやしいそして心の狭い^^神を人間の脳がかってに作って、争いの原因を増やしているだけだということ、誰も解りますよね。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ これは 思考の緑野(および 感性の原野)における思考であり感情であり 言わゆるオシエとして そのように言っているというだけのことだと考えます。  つまり 思考や想像やあるいはそれとしてのオシエ またそこにおける神 これらは 神でもなければ 信仰でもない。こういう見方です。  一般にオシエというのは 神が何であるかや神とはどこにいるかの問いに対して わが心にいるであるとかあるいはどこにもいるという遍在であるとかの答えをもって《決まっている》という話をする場合を言います。決まっているなら それは 《思考》の問題になります。《わが心に神はいる》と表現してもマチガイではないとしても それは《非思考の庭》としてであるとことわらなければなりません。それが ほんとうの(ふつうの)神であり信仰です。  思考や想像の産物としての神をいだくのは 言うなれば《いやしいそして心の狭い》姿であると考えられます。  すなわち この《心の狭い状態》は じつに次のようにおっしゃる《のっぴきならない抜苦与楽の切実さに関わ》っているのではないか。こういう見方によって 特にこのような質疑応答の場では 認識論にかたむきつつ――しかも実践としての意志の大事さを添えつつ―― 定義などの議論を言わば優先して取り上げています。  ★ でも、その定義にかかわらずのっぴきならない抜苦与楽の切実さと関わる世界が目の前に、生きてる限り「「存在」」し続けています。  ☆ つまり 《心が狭く おのが神よりほかの神については 排除する・迫害する》ということにまでなるなら それは 《定義》としての認識論においてすでに のっぴきならない切実さを持っている。こういう見方です。            *  あとの日蓮論につきましては ではそのご質問にて お会いすることになるかと思います。    ちなみにですが 《集団催眠的組織》とおっしゃるその問題を取り上げた質問とそのやり取りがわたしにはあります。  時間を取らせるかも知れませんが 気軽にゆっくりと見てみてくださるのもよいかと思います。  【Q:創価学会への公開質問です。】   http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa8061851.html  【Q:《南無妙法蓮華経》は 真実の神ではないのか?】   http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa8066155.html

回答No.11

回答No4に回答文を書きましたホケキョウ333ですが、 お礼文の中に、気になるところがありましたので、再回答してみます。 過去のQ&Aの紹介など、たくさんの内容を紹介されていますが、今詳しく、その質疑内容まで検討する時間はないのですが、質問文はそれぞれ読ませていただきました。 今回の質問文については、やはり私は「わからないことはわからない」としておいても、信仰も信頼も成り立ちうる経験事象の世界を感性の経験の中に見つけていますので、そこをさらに厳密な言葉づかいに追い込まなくても哲学でありえると思えていますので、そこは個々自由でありつつ、私自身はそれ以上考える必要性を感じない、したがってわたしには時間の無駄であるとしか回答しようのないところです。 しかし、この感性の経験というのは重要なところです。 アフリカの子供たちの目の輝きに奥に、その感性の新鮮さや豊かさを想像できる人たちは、大地に生きる素朴な人たちの感性の大きさ深さにそこからも驚きの目を向けることとなるでしょう。 遠くから聞こえ始める太鼓の音に、体中で何かを感じ、その細かい音のすべてが胸の琴線をならし、それだけで命のすべてをつらぬくような感動の中、そっと踊り始める人たち、 ただの石ころに、ただの葉っぱに、どこまでも新鮮な安らぎと感動を覚える人たち、 太陽の木漏れ日、海の波、小川のせせらぎの様、それらすべてに視覚を奪われ、一日中ながめていても、いや永久にながめていてもその健康なままならば飽きることがないだろう感性の人たち、 そんな心であってこそ始めて、永遠の命に価値がありえることも、文はこちらのほうがきめ細かになっているかと思いますが、すでに書いています。 》Q復活とは?不死の境地とは?《 URL:http://okwave.jp/qa/q8230457.html 上記の補足回答は、この質問文だけを読ませていただいた限りでのわたしなりの回答になっているかと思います。 そこをさらに、少しだけそのあたりを補足すれば、私の場合こんな感じになります。 ↓ 存在の不思議さは、言葉で形容できるものでもないでしょうが、なんともあなりにも奥深く不思議ですよね。 まず地球と同じ環境があれば生命が生まれる可能性は高いのでしょうが、 さて、この広い宇宙の少なくとも観測出来る限りの星々は、そのほとんどがガスと火で、水が定着するような条件の無いところのようです。 水が定着する確率は、まずその中からどのように計算できるのでしょうか? 確率的に例えば、3京分の一の確率で、現在の星々の中からも生まれうることが考えられたとしましょう。 そんな程度の確率で水の定着の確率が計算できるとは、ほんとうは、とてもおもえないのですけどね^^。 ですが、水だけで、現在の生命の存在への道が開かれたわけではないわけです。 するとただのアメーバの存在すら、その存在が生まれた確率は、いったいどうなるのでしょう。 で、その確率が解ったとして、そこから人間が生まれるまでの可能性の確率は? と論理脳だけで考えても、これだけの現存在の不思議さは驚異的です。 しかも、論理的にも私は、この存在の不思議さは、それ自体確率を越えた存在だと思っています。 しかし、であって、 私は、それが病気かどうかは解らないのですが、都会生活をしていた時に五感のすべてを失ったような感覚になったことがありますが、そうした中では、すべてがむなしいのですよ。 その真逆に、アフリカの森の中の子供たちのような大地の感覚にあふれた人たちは、人間の存在をどれだけ不思議に感じているでしょうか? 彼らには言葉(ボキャブラリー)が少なく永遠とか不死という言葉はその脳に刻まれていないかもしれません。 がその概念を知る大人となってもその素朴な大地の感覚を失っていなければ、彼らはおそらく存在の不思議さから考えればこのあたりまえの大地の至福から、それが存在の不思議と同じ原理で死を越えて、何らかの形で永遠の命へと続くという、たぶんそちらの言葉で言えば「信仰の庭」にも遊んでいるのだろうと思うのです。 その時に、ほんとうに「わからないことは解らない」という地点を越える厳密な言葉が必要なのかどうか? 必要な人達もいるのでしょうから否定はしませんが、「私には」という限定つきで時間の無駄と思えているということです。 少し補足回答させていただきました。 もう一つのそちらの紹介Q&AのURLが、心に引っかかったところなのですが、  【Q:慈悲は 人間にとって行為しうる経験現実か?】    http://okwave.jp/qa/q5764972.html のところの、やはりそちらの質問文の中の、この部分です。 論理脳の場合、私達は上から見つめるようにして、俯瞰したり、地図や設計図を書いて物事を分析してきましたが、心に関しては、あるいは感性や感情に関しては、それだけで考えると、それにおぼれていないのなら感性でも感情でもないのだからそれそのものは哲学しえないというふうにお手上げの状態で、そうでありつつ分析分類をしようとしてきたのだろうと思います。 あくまで感性は、より深い感性によって見つめることが出来、五感すべての欲望も、その感性によって始めて容易にコントロールもできおぼれることもでき、楽しむこともでき、知ることも味わうこともできるようになるのだと思うのです。 というよりも、これは私自身の実感の世界の描写となります。 上位概念、上位感覚の必須性です。 この感性脳の感性自体による理解の進化が、感性の進化とともに大切になっているのが現代文明人の姿だと思うのです。 その苦悩も、その感性脳の成長法の中にその解決の答えがあるというのが私の考えだということです。 感性が、上記のごときに素朴であれば、うれしいことが何か経験されればそれを伝えずにはいられないのは自然です。 また、人が苦しんでいれば医学の故郷の地点で起こった思わず少しでも楽になって欲しい同苦の心が働くユトリを心が持つのは必然です。 感性がすべての脳の分離状態を克服する鍵であることはどうやら確かのようですよ。 そうした感性が深ければ、まずS語とA語は分離して考える必要は無くなるのではないでしょうか? Sから学んだことをAに移したり、その逆だったりをその進化の過程では繰り返したりもするでしょうが、やがて一つとなるのではないでしょうか?、 》「衆生縁」「法縁」「無縁」の三縁慈悲《 の3つに慈悲の心を分類するのも、同じように《感性さへ深まれば》不必要な分類になると思うのです。 この一つ一つについて書く紙数も時間もありませんが、 私の仏教の悟りの世界への疑問をここに書いておきましょう。 悟った人の思いやりの心は、一般衆生を越えたものなのでしょうか? 私は、へたするとその真逆に浅く危険ですらあ言文の源とすらなると思っています。 あまりにも幸せで、おだやかであるため、苦しみの深さが思い出せなくなっている人たちに見えるからです。 文献を分析したかぎり私にはそう見えて仕方ないのです。 無縁、平等と言っても、その内容では、実際の苦しみの世界を救う理念として私達の肚に座る何かとなりえるでしょうか? むしろ、そんなもの私達人類にとって御釈迦です。無駄です。貴重な時間の無駄です。違いましょうか? 実際に感性の成長と深く関わり、そこからの嘘偽りのない少しもごまかしのない慈悲の心と関わるのが「妙法蓮華経」のたったの五文字で表された言葉です。 だから私は、そのことへの謙虚さという意味での信仰を日蓮に対して抱いているのです。 あくまで法華経自体は、それを伝えたという意味では感謝すべきであっても寓話にすぎません。 罰とかいうのは、長い因果の説明の中で説かれようともやはり、そのおとぎ話の内だというのが真実でしょう。 ただし、元本の無明という中に文明人の脳(末法の人たちの気根)は支配されているという例えは、深く真実を突いているのだろうと思います。そこが罰と絡めてでも因果の奥の真実をとかんとした昔の人たちの知恵の帰結だったことを否定は出来ない者でもあるのです。 ですが、そのへん思い込みを越えた途端現実に気が付く現代人においてもそうなのか?、私はやはり疑問をもっているのです。 哲学が、そこをこを厳密に物語ってくれることを私は望みます。 おとぎ話やたとえ話しや方便を越えた哲学のみによる、そのへんの宗教改革を私は望んでいる者なのです。 また、がゆえの、そちらへの回答のつもりなのですが。

bragelonne
質問者

お礼

 ほけきょう333さん こんばんは。ご回答をありがとうございます。  総じて言って わたしはけっきょくものごとの定義についてきちんとおこなっておきたいと思っていて これは言わば骨組みの問題です。ところが ほけきょう333さんは むしろどちらかと言うと 肉付けの方面で文章をものしておられる。  まづ全体としての印象は このようです。どうでしょう。  そうですね。ですから 自然に親しむことのできているアフリカの子どもらのことや 生命存在が存在すること自体の不思議さや やはり感性が決め手になるということの妥当性などなどについて まさに肉付けをするという文章をものしておられる。  たとえば 《上位概念・上位感覚》の存在のもとに  ★ そうした感性が深ければ、まずS語とA語は分離して考える必要は無くなるのではないでしょうか?  ☆ おそらくおっしゃるとおりだと思います。ただそれは いわゆる理想だと見られてしまうということかも知れません。  そこで その理想か否か問題に取り組むには ふたつあると考えます。  つまりやはり 用語の定義をおこなうという骨格をととのえる行き方と そしてそうではなく 肉付けをおこなって行くという行き方。  ということは わたしのクセとしては S 語=人間語から A 語=人格語や科学語を切り離してその単独分立したような A 語によって ことを済ませようとする場合も無きにしも非ずだと見るからには こまかい配慮は二の次にして さらにさらに定義や規定をおこなっておこうとする。この行き方を わたしはクセとしているようです。片寄ってさえいるかも知れません。  たとえばこの場合のように端的に A 語と S 語との区別をしっかりとすることといったような骨格の問題としてです。  ★ 無縁、平等と言っても、その内容では、実際の苦しみの世界を救う理念として私達の肚に座る何かとなりえるでしょうか?  ☆ ですから 骨格としての定義を おもに・集中して おこなっている。こういう性質の問い求めです。むろん それに肉付けをしなければなりません。さらに具体的な場面場面でのこまかい問題もあると思います。ここでは それらはひとまづ棚に上げてあります。(個人としてそれをしないという意味ではありません。議論としては ひとまづ別としているという意味です)。  ですから おっしゃるように補わなければならない問い求めではあります。  あと 法華経・日蓮・宗教改革などのご主張については 以上にまとめた見方だけでは整理し切れない内容があると思いますが これは どうでしょう 一たんこの質問としては 保留とさせていただきたい。とは思います。  《宗教改革》なる主題をめぐってなら この質問で提出しているたたき台としての《神の定義》 これを 活用する道はあるのではないかと考えます。そういう出発点としての段階で 問い求めをおこなっているということでもあると思っています。徐々に肉付けです。  こういったようなお互いの同じところと違うところとがあると見たのですが どうでしょう。

回答No.10

>ならば 次の投稿内容は 意味がない。  同じ言葉が誹謗中傷になったり、意味がなくなたり大忙しだな。  意味が無くることで誹謗中傷にあたらないことになって大いに助かる。 >★ 私はあなたに罪があるとは指摘していない。 >☆ ならば つべこべ言わずに 回答を寄越したまえ。 >回答を寄せないなら 《あたまがとまってしまっている》。  自分の罪を悔い改めよ。さすれば分かる。  というのは、牧師の言葉であるとは、既に記載している。  あなたがこれまで何の罪も犯していないなら、決して罪を理解することはできない。なぜなら、経験がないからだ。赤を見たことの無い人間は、赤を知らないのと同じ。  罪などというものはあなたの中にある。他人の中に罪を見出しても、それは自己の罪の投影にすぎない。  もし、あなたに罪があるなら、それを自覚し、二度と罪を犯さない具体的方策を立案し、それに沿った行動しなければ、再び罪を犯すことになる。この具体的行動が悔い改めなのだ。  口先で反省しているといっても、二度と罪を犯しませんと言っても悔い改めにはならない。  その具体的行動を実践してこそ、罪を理解することができる。  そして、その理解とは、あなただけのものだ。  自分の罪を悔い改めよ。さすれば分かる。には、以上の意味が込められている。  しかし、あなたに罪がないなら、意味はないということで同意する。

bragelonne
質問者

お礼

 もうしわけないが もう飽きた。

回答No.9

>だれが キリスト教徒なのか? ばかも休み休み言いたまえ。  聖書の引用は、キリスト教徒の証ではなかったのか。  仏教をコケにしていたから、キリスト教徒だと思っていたよ。 >わたしの罪について 実証してから言わなければならない。事実無根であれば 誹謗中傷となる。  私はあなたに罪があるとは指摘していない。牧師の言葉だと記載済み。  もっと論理的に私の犯罪性を実証せよ。  自分に罪があるなら、その罪を悔い改めよということじゃないか。  キリスト教徒なら原罪があるだろう。キリスト教徒じゃなくて罪がないなら、罪など無いよと否定して話しは終わりだろ。  私はあなたが過去に何の罪を犯したかなんて知らんし興味もない。 >同じことを十回も二十回も言わねばならないとしたら それが向けられている相手は あたまがとまってしまっていると考えられる。  二十回以上言ったことは何のことだ。その二十回以上の過去の記載を示して、さらになにを言ったのか二十一回目も記載して、私のあたまがとまっていることを明確に実証してみせよ。また、頭がとまっているとはどういう状態のことか定義せよ。

bragelonne
質問者

お礼

 ローマ教会を初めとして 組織宗教はすべからく 解散すべし。宗教組織は 自己解体すべし。と言っている。  ★ 私はあなたが過去に何の罪を犯したかなんて知らんし興味もない。  ☆ ならば 次の投稿内容は 意味がない。  ○ 【Q:《罪》とは何か? 《赦される》とはどういうことか?】   ★★ (ANo.1 ukiyotonbo) ~~~~~~~~~~~~   まず、自らの罪を悔い改めよ。さすれば分かる。   投稿日時 - 2013-09-04 12:34:28   ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ★ 私はあなたに罪があるとは指摘していない。  ☆ ならば つべこべ言わずに 回答を寄越したまえ。  回答を寄せないなら 《あたまがとまってしまっている》。

回答No.8

>まず、自らの罪を悔い改めよ。さすれば分かる。 >☆ この誹謗中傷なる行為を撤回してから。  本当に解っていないな。  まず、自らの罪を悔い改めよ。さすれば分かる。  というのは、キリスト教徒であるあなたに対する直接の回答だ。  あなたに向けられている。  万人が見ることは出来るが、その万人に向けられたメッセージではない。  男女間、労使間でもなく対等な個人同士の公開対話なのだ。ハラスメントにさえならない。公共の場所で、みんなが聞こえるように話しをしているってこと。  回答者が他の回答者への干渉を禁止しているだろう。  質問者だけが万人に向けて直接情報発信しており、回答は直接万人には向いておらず、万人に対する責任も負っていない。つまり、回答が間違っていたとしても責任は負っていないということ。直接責任は無い。  しかしだ。bragelonne が http://okwave.jp/qa/q8250423.html で記載したことは、万人に向けて、ukiyotonnbo は 頭が止まっている と言い放った。しかも証明したと。  これは犯罪。しかも、自分は個人情報丸出しでさぁ。いやはや・・なんとも・・

bragelonne
質問者

お礼

 だれが キリスト教徒なのか? ばかも休み休み言いたまえ。  わたしの罪について 実証してから言わなければならない。事実無根であれば 誹謗中傷となる。  同じことを十回も二十回も言わねばならないとしたら それが向けられている相手は あたまがとまってしまっていると考えられる。

回答No.7

おじゃまします。bragelonne に http://okwave.jp/qa/q8250423.html で頭が止まっていると名指しで公に誹謗中傷され名誉を著しく毀損された ukiyotonnbo です。 >誹謗中傷というのは 根拠のないことを引き合いに出し 相手を批難することである。名誉棄損は その結果である。 >《あたまがとまってしまっている》ことは 証明されたのだから 根拠のあることを言ったまで。  盗っ人たけだけしいですね。  頭が動いている賢い御仁が、頭が止まっている知能薄弱者を相手に、公に誹謗したら、犯罪なんだよ。  ブログ記載事項や掲示板じゃ刑事でも民事でも色々な判例がでてるぞ。  それに個人情報さらけ出して犯罪を犯す勇気は、まさに猛々しい。  

bragelonne
質問者

お礼

 ☆☆(No.6お礼欄) ~~~~~~~~~~~~~~~~~  【Q:《罪》とは何か? 《赦される》とはどういうことか?】   ★★ (ANo.1 ukiyotonbo) ~~~~~~~~~~~~   まず、自らの罪を悔い改めよ。さすれば分かる。   投稿日時 - 2013-09-04 12:34:28   ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~   ☆ この誹謗中傷なる行為を撤回してから。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ★ 知能薄弱者  ☆ が先に誹謗中傷をおこなっている。それをどうする?  それにげんみつに言えば 《あたまがとまってしまっている》というのは いくつかある選択肢のひとつとして回答者に問うているもの。特定の者を前提にしつつも 断定したものではない。

回答No.6

おはようございます。bragelonne に http://okwave.jp/qa/q8250423.html で頭が止まっていると名指しで公に誹謗中傷され名誉を著しく毀損された ukiyotonnbo です。 リンク先を間違えました。すいません。あ、投稿先も間違えた。 寝ぼけてるなぁ。すいません。

bragelonne
質問者

お礼

 【Q:《罪》とは何か? 《赦される》とはどういうことか?】  ★★ (ANo.1 ukiyotonbo) ~~~~~~~~~~~~  まず、自らの罪を悔い改めよ。さすれば分かる。  投稿日時 - 2013-09-04 12:34:28  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ この誹謗中傷なる行為を撤回してから。

回答No.5

今晩は、bragelonne に http://c.oshiete.goo.ne.jp/kotaeru_reply.php3?q=8250423 で頭が止まっていると名指しで公に誹謗中傷され名誉を著しく毀損された ukiyotonnbo です。 >神は その呼び名としての多様性をふくみつつ・またおのおのわが心なる《非思考の庭(信仰)》における動態としての多様性を容れつつ すこやかに独り満ち足りている。(と推測される)。  神について、愛知、名古屋方面をくまなく調査してみて面白いことが分かってきました。また回答します。  

bragelonne
質問者

お礼

 こんばんは。でした。

bragelonne
質問者

補足

 誹謗中傷というのは 根拠のないことを引き合いに出し 相手を批難することである。名誉棄損は その結果である。  《あたまがとまってしまっている》ことは 証明されたのだから 根拠のあることを言ったまで。

回答No.4

「わかるかわからないかわからない」のではなくて「わからないにきまっている」ことって、この存在にはたくさんあるし、存在そのものも私達人間にとって「わからないにきまっている」であってはいけないのですか? 哲学ってそれでも「わかるかもしれない」と考えを練り続けずにはいられない、線をひきつづけずにはいられない思考の習慣にはまっている人たちの考えの世界なのですか? その視点からすれば私の意見は「みもふたもない」考えということになるのでしょうが、 私は「抜苦与楽の苦闘」、実際の体験の中でのその闘いについて考えることはいくらでもあるし、そこに価値ある哲学があり、それ以外にはどうしても無駄とかあるいは時間が惜しいという気持ちになってしまう者のなのです。 楽の奥、健康の奥、の至福の体験の世界を考えれば、たしかに永遠の命には意味があります。 しかし、でなければ、永遠の命にどんな価値があるのでしょう? 体験無しに、何が解り何が希望出来、どんな意味が生まれえるのでしょう? で、永遠の命を本当に信じたとして、ならば、今の苦しみなんて一ナノの意味すらないというものであるのかというと、苦しみも体験してみれば、そんなものでは無いことは解りますよね^^。 今の今の抜苦与楽の闘いに集中すること、そこに哲学をもたらしてゆくこと、医学と経済をどのように教育出来るのかということに革新をもたらしてゆくこと、その観点から過去の宗教を改革してゆくこと、私の場合はそれ以外の哲学に時間を使うのは惜しいのですが、、 あなたは、さらに項目を増やして幾何学線を引き続けたい希求がすごく強い人間なのでしょうか? 痛みは切実なものですし、至福は分かち合う使命とか情熱は火のようなものだと思ってますが、同時にすべての意識にはそれぞれ視点が長い因果で形成されていて、変化はし続けていても、私は他の人という存在に私の意見を押し付ける焦りはあまりありません。 でも、一番最後に 》 14. 神は その呼び名としての多様性をふくみつつ・またおのおのわが心なる《非思考の庭(信仰)》における動態としての多様性を容れつつ すこやかに独り満ち足りている。(と推測される)。《 と書いておられますよね。 たとえば、どうして神がそのような存在(と推測される)と「わかるかもしれない」のでしょうか? 「わからないものはわからない」ではダメなのですか? でも 体験が深ければ「わからない」ままでも、存在を信頼せざるを得ない感じになると思います。 これって「信仰」なのですか? それが自然であるだけであって、信じているという感じでは無いのですが? 私は、存在について、これ以上考えるよりも、その力をやはり「抜苦与楽」の闘いに向けて欲しい気がします。 また、あなたのような方は、どうしてもかんがえる必要があるという視点であり続ける場合も、これ以上考える必要がない地点を早く見つけて、実際の「抜苦与楽」を思索する入口をくぐってほしいなと思ってしまうのです。 私は法華経の信者です。(法華経自体は寓話ですけど^^) ですので、他の仏教徒よりも、やはりせっかちとなってしまうのでしょうね。 視点が違うのであれば私の回答は気にしないでください。

bragelonne
質問者

お礼

 ほけきょう333さん お早うございます。ご回答をありがとうございます。  ★ 存在そのものも私達人間にとって「わからないにきまっている」であってはいけないのですか?  ☆ これは 次の理由で いけないと考えます。  《分からないに決まっている》と規定すれば 分からないということが じつはわれわれに分かっている ことを意味するはずです。  ということは それが何であるかは分からないけれど その分からないこと自体は分かっているのならば そのように《経験合理性において知ることができている》という意味において そのものは《経験事象》であることになるからです。  ☆☆(趣旨説明欄) 1. 時空間ないし世界という存在・なかんづく人間という存在に先行するものは あるか?  この意味は 《経験世界に先行する》ということで 経験的な因果関係から自由であることを意味します。つまり 経験世界を超えているという意味です。経験事象ではないという意味です。つまり 神は です。      *    ★ 哲学ってそれでも「わかるかもしれない」と考えを練り続けずにはいられない、線をひきつづけずにはいられない思考の習慣にはまっている人たちの考えの世界なのですか?  ☆ このときの《線を引きつづける》には ふたつの意味があると考えます。  ひとつは いまそうしているように《経験世界を超えた何ものか》を 経験事象のひとつである言葉をとおしてというおかしな手段によって何とかして捉えてみておきたいというときの補助線引きです。  もうひとつは ふつうに幾何学でおこなわれているような補助線のことです。これは むろん 経験事象としての世界であり問題です。       *  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~   楽の奥、健康の奥、の至福の体験の世界を考えれば、たしかに永遠の命には意味があります。  しかし、でなければ、永遠の命にどんな価値があるのでしょう?  体験無しに、何が解り何が希望出来、どんな意味が生まれえるのでしょう?  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ この問題につきましては      【Q:復活とは? 不死の境地とは?】    http://okwave.jp/qa/q8230457.html  ここで問い求めました。まだ最近のことで ただし 必ずしも――その問い求めの性質からしても――うまく答えが得られずじまいであったかと思っています。  ちなみに 次もあります。   【Q:慈悲は 人間にとって行為しうる経験現実か?】    http://okwave.jp/qa/q5764972.html  ほけきょう333さんと同じ趣旨の主題ではないかと考えます。  要するに  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~  今の今の抜苦与楽の闘いに集中すること、そこに哲学をもたらしてゆくこと、医学と経済をどのように教育出来るのかということに革新をもたらしてゆくこと、その観点から過去の宗教を改革してゆくこと、私の場合はそれ以外の哲学に時間を使うのは惜しいのですが、、  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ という現実に立って考えるにですが もし《神》の定義が人びとに共通の内容のものとして共有することが出来るなら その《過去の宗教を改革する》ときにずいぶん役に立つものと考えるわけです。というようなねらいが あります。        *  ★ たとえば、どうして神がそのような〔* 趣旨説明欄の(14)に言うような〕存在(と推測される)と「わかるかもしれない」のでしょうか?  ☆ この世の因果関係からまったく影響を受けることのない存在として――つまり《分かるか分からないかが分からない》として――想定しているからです。  この経験世界を超えているなら おそらく《独り満ち足りている》でしょう。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  「わからないものはわからない」ではダメなのですか?  でも  体験が深ければ「わからない」ままでも、存在を信頼せざるを得ない感じになると思います。  これって「信仰」なのですか?  それが自然であるだけであって、信じているという感じでは無いのですが?  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ このくだりにつきましては 《信仰》とは《非思考》であるという前提を置くとよいのではないかと考えます。つまり 神は 《非経験の場》であると想定されます。この神とわれとの関係は 《信じる》というくらいですから それは《思考に非ず》となります。つまり わが心なる《非思考の庭》において持たれるのだと。  このことを図式に示せば 次のようになると考えます。  ○  (身と心とから成るわが自然本性の成り立ち) ~~~~~       非思考の庭(クレド=しんじる。心の明け。直感・ヒラメキ)    ____________________    思考の緑野(コギト=かんがえる。⇒田園および都市)    感性の原野(センスス・コムニス。直感かつ直観)    ____________________   ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~   cf. 【Q:《信じる》を哲学として定義せよ】    http://okwave.jp/qa/q8081389.html        *  やたらとリンクを張りましたが 抜苦与楽というのでしたら 人びとが神とは何か? や 信じるとはどういうことか? について考え ときには悩んでいるとすれば その問いについて少しでも答えを見つけることは まさにその慈悲の実践である。こう考えて そうおこなっています。よ。  法華経のよいところを 実践の中から 言葉にして語ることをもなさって行ってください。

関連するQ&A

  • 《神》は 補助線である。

     1. 時空間ないし世界という存在・なかんづく人間という存在に先行するものは あるか?  2. ない。あるかどうか 人間には 分からない。分かるか分からないかが分からない。  3. そこで《かみ》という補助線を じんるいは考え出し これを引いた。  4. 《分かるか分からないかが分からないこと》は カミという言葉で交通整理して捉えあおうと。  5. 世界はそれを生み出すチカラがあったとしても それは いわゆる《自然》としてのあり方であるしかないと捉えるなら 自然が神となる。山・川・海などなどの霊としての神々は それぞれ分身であると。  6. 世界をつくったチカラがあるとする場合 これは 有神論のひとつでありその中でも 創造者としての神を立てている。  7. そのようなチカラは ないとすれば――すなわち《無い神》を立てるなら―― 無神論である。  8. このような《自然神 / 創造神 / 無神》に分かれたとしても すべては――分からないところを補っているのであるからには―― 補助線として用いられている。  9. つまり神は 有る神と無い神とに区分され 有る神についてはさらに人びとによって(その言語によって)いくつかの名がそれぞれつけられている。  10. このようにさまざまに種類分けされる《神》も すべては そのように一定の言葉で〔特には人間が〕引いた補助線であるしかない。  11. ただし人びとは この補助線の向こうの――特に有神論の場合における――神とそのおのれの内面において しばしば向き合うことを成す。このような《神とわれとの関係》は――ひとが生きているかぎり生きた動態として―― 信仰とよばれる。  12. 補助線としての神に向き合ったとき 世界ないし世の中の〔しばしばかなしい〕あり方に沿って むしろ対立しこの神を否定しようとする場合もある。この種の神との関係は むろん 無神論となる。これは・これも 《無い神とわれとの関係》を内容とする信仰である。  (無神論者は無神論も信仰であると言われたくなければ 《神は無い》と証明しなければならない)。  13. じんるいは 神によって(神の所為にして)互いに相いあらそう必要もなければ理由も必然性もない。風車に向かって突撃するようなものである。  14. 神は その呼び名としての多様性をふくみつつ・またおのおのわが心なる《非思考の庭(信仰)》における動態としての多様性を容れつつ すこやかに独り満ち足りている。(と推測される)。  あらたに問う必要を感じました。ご教授ください。

  • 《神》は 補助線である。

     1. 時空間ないし世界という存在に――時間的にも考え方の上でも――先行するもの は あるか?  2. ない。つまり あるかどうか 人間には分からない。分かるか分からないかが分か らない。  3. そこで《かみ》という補助線を じんるいは考え出し これを引いた。  4. 《分かるか分からないかが分からないこと――これを〈非知〉とよぶ――》は カミ という言葉で交通整理して捉えあおうと。  5. 世界はそれを生み出すチカラがあったとしても それは いわゆる《自然》としての あり方であるしかないと捉えるなら 自然が神となる。  5-1. 山・川・海などなどの霊としての神々は それぞれ分身である。分身も神ので あると言っても それぞれ《神の依り代》と呼ばれる補助線である。  6. 世界をつくったチカラが別にあるとする場合 これは 有神論のひとつでありその 中でも 創造者としての神を立てている。  7. そのようなチカラは ないとすれば――すなわち《無い神》を立てるなら―― 無 神論である。  8. このような《自然神 / 創造主神 / 無神》に分かれたとしても すべては――分か らないところを補っているのであるからには―― 補助線として用いられている。  9. つまり神は 有る神と無い神とに区分され 有る神についてはさらに人びとによ って(その言語によって)いくつかの名がそれぞれつけられている。  10. このようにさまざまに種類分けされる《神》も すべては そのように一定の言葉 で――けっきょく人間が――引いた補助線であるしかない。  11. ただし人びとは この補助線の向こうの神を意識するときにはおのれの内面に おいて この神と(つまりは 神という補助線についての己れの意識と)しばしば向き合 うことを成す。このような《神とわれとの関係》は――ひとが生きているかぎり生きた動 態としてあり得て―― 信仰とよばれる。  11-1. 信仰は 神を意識している限りで 人間のただの思念である。と同時に そ の神は もともと《非知なるナゾ》であるなら 人間のコギトを超えている。《非思考の庭》 として ひとの自然本性の内にあると想定される。  11-2. ゆえにしばしば人びとは このナゾのことを《霊》とも呼び 《アートマン(霊 我)》や《ブッダター(仏性)》や《アニマ・ムンディ(世界霊魂)》などとして呼びならわして いる。  12. 補助線としての神に向き合ったとき 世界のあり方を見ればそれはむしろ 神と して立てているナゾの内容とは――人間の持つ《のぞみ》という考え方において――対 立していることが少なくない。よってこの種の神を否定しようとする場合がある。むろん  無神論となる。  12-1. これは・これも 《無い神〔としての非知なるナゾ〕とわれとの関係》を内容と する信仰である。無神論者は無神論も信仰であると言われたくなければ 《神は無い》 と証明しなければならない。  13. じんるいは 神によって(神の所為にして)互いに相いあらそう必要もなければ 理由も必然性もどこにもない。非知なのであるから。風車に向かって突撃するようなも のである。  14. 神は その呼び名としての多様性をふくみつつ・また人びとそれぞれわが心な る《非思考の庭(信仰)》における動態としての多様性を容れつつ すこやかに独り満ち 足りている。(と推測される)。  ご教授ください。

  • お馴染み神談義:《無い神》も 《有る神》と同じだ。

     神が神であるなら われわれ人間が神は有ると言っても神は無いと言っても神に変化はない。  変化する神なら それは AI としての神でしかない。  だから ひとは有神論か無神論か いづれか自分の好きなほうをえらんでおのれの神を持てばよい。

  • 《非在》なる神をどうして理解できないか

     § 1 不在と非在  たとえば ○○さんご在宅でしょうか? と尋ねて いえ あいにく○○は不在です。といった会話があります。  けれどもこのとき《不在》だと言っても ○○さんは どこか他のところにいるはずです。  すなわち 《存在(在宅)と不在(留守)》とは互いにこの同じ時空間――《宇宙》としましょうか――にある或る人の存在についてふたつのあり方を表わしています。また それだけのことです。  ところが もし《非在》と言ったらそれは何を表わすか? 《存在に非ず》とは どういうことか?  § 2 不在でありうる存在は 《感じる・考える》の対象となる  在宅と留守とのあり方を交互に変える○○さんなる存在については 見ることも触れることも声を聞くことも出来ます。つまり 《感じる》ことが出来て さらにその知覚を 概念で認識して《デカイ》とか《だが声は小さい》とか言葉で表現し得ます。  さらにあるいは その小さな声で言ったことが妙に気に成ってその内容について《考える》ことをもおこなう。  では 《非在》とは 何のことか?  感じることが出来るのか? 考えることができるものなのか?    § 3 《非在》とは 想定である  《非在》とは 存在・不在なるこの世界(宇宙)をこえたところに想定したものです。  世界の合理的な理解としての経験法則――たとえば これがあればあれが生じるといった因果関係――から自由な場(ないしチカラ)を想定して名づけたものです。  この経験法則としては ○○さんは 在宅であれば会社には不在であるということを示します。家と会社とに同時に存在することは出来ない。という世界です。  あるいは ○○さんであって 同時に別の人たる△△さんであることは出来ない。あり得ない。という世界です。  《非在》という想定は このような居たり居なかったりする経験存在を超えた場としてなのである。  § 4 《非在》という想定が 神のことである  《存在が有るでもなく無いでもない》。《この原因でその結果が生まれるといった因果律に支配されない》とは どういうことか?  ということは 《どこにも有るのではなく どこにも無いのでもない》とすれば 当然のごとく――このささやかな人間の知性で考えるに―― 《因果律に支配されない出来事が起きる》ことを 想定として表わそうとしている。  ここにもあれば 同時にあそこにもある。  という存在(つまり非存在という別個の場 つまりお化け)のことを 人間は想定することができる。想定して来た。《神》として。  § 5 神は 人間やモノについて言う《存在》とは 別個の場として想定されている。すなわち 《考えるや感じる》の対象ではない。  非在なる神は したがって あまねくそのチカラがはたらくという意味で《遍在》だと 人間の理性では推し測られた。あるいはしまいには 全知全能なる存在ではないかと。  この神は すでに存在の有るか無いかで推し測る宇宙の次元を超えているからには 《感じる》ことも《考える》ことも出来ません。  出来たと思っても それが合っているのかどうかが 人間には分からない。考えて分かったというのは この経験世界における思考や想像によって得た補助線――神を理解するための補助線のこと――を言っている。神本体ではあり得ない。  それゆえに・あるいはそれでも 分かったと宣言する人が出て来ても ほかの人においても納得することが出来るかどうかは分からない。(だから分からないながら ある程度の人数の《賛同者やさらには崇拝者》が出る余地はある)。  § 6 神を受け容れるかどうか。受け容れるというのは 《考える》でもなく《感じる》でもなく 《信じる》と言う。  この神は その想定として受け容れるかどうかは ひとの自由である。ひとの選択にまかせられている。  ただし《受け容れない》と選択した場合も 神という想定じたいは 消えることはない。《感じる・考える》を超えている非在を どうして人間が消すことができよう。  だから 神とわれとの関係は 受け容れたと受け容れないとに分かれるとき それらは《有神論と無神論》とに分かれたことを意味する。  一般に有神論は 神を信じると言い 無神論は 神を信じないと言う。  すなわち後者は 《無い神を信じる》と言うのにひとしい。  《信じる》というのは 《感じる・考える》を超えた《非在》とわれとの関係をあらわす言葉である。  § 7  信仰とシュウキョウ  《信じる――または わが心なる非思考の庭としての動態――》は 信仰としてありうるが この神をオシエとして《考えるや感じる》の対象にすることは――それが シュウキョウである―― いただけない。シュウキョウはその起こりからして 思考に非ざるものを思考したオシエを 信じるという自己矛盾である。  § 8 この神をどうして理解できないのか?

  • 聖書の示す神とその信仰は 無条件に成り立つもの

     ・・・でなくてはならない。ということを キリスト・イエスが指し示した。  そこから 《神および信仰ならびに〔信仰の成れの果てたる〕宗教にかんする一般理論》が成った。  世界における神とその信仰は 神の名が違うだけであって みな同じひとつの神であるということ そしてその神とわれとの関係たる信仰も基本としては 同じかたちである。こう成ります。  《すべての神》という言い方もヘンですが そのあらゆる《神は 無根拠であり 信仰は無根拠にて成り立つ》という意味にもなると考えますが その理由を地図のごとき説明にて示します。   ○ (神とは《非知》のことである) ~~~~~~~   経験事象      可知       既知       未知      不可知(知り得ないと人間が知り得た)   非経験の場(因果関係を超えていると想定)      非知(知り得るか知り得ないかが知り得ない)  ○ (非経験の場=非知 なる神を受け容れる《非思考の庭》)~~~   信じる:《非思考の庭》:ヒラメキ直観   ----------------------    考える:《思考の緑野》:理性←→オシエとしての宗教   感じる:《感性の原野》:知覚;直感  ○ (信仰は すべて《梵我一如》類型で捉えられる) ~~~~~   A. ブラフマニズム:梵我一如    梵:ブラフマン・・・・・マクロコスモス。神    我:アートマン・・・・・ミクロコスモス。霊我   B. ゴータマ・ブッダ:無梵無我一如(=無神論)(*)    無梵:空・シューニャター・ゼロ    無我:アン‐アートマン;ニルワーナ   C. ブディズム:仏仏一如(=有神論)(*)    仏:アミターバ・ブッダ(阿弥陀如来)       / マハーワイローチャナ(大日如来)    仏:如来蔵・ブッダター(仏性)   D. クリスチアニズム:霊霊一如    霊:神・聖霊    霊:《神の宮なるわれ》   E. (プラトン?):霊霊一如    霊:宇宙霊魂(プシュケー・コスムー) / 世界霊魂(アニマ・ムンディ)    霊:《われ》   F. 《もののあはれを知る》    霊:かみ(自然および超自然)    霊:われ(自然本性)   G. ユダヤイズム:霊霊一如    霊:ヤハヱ―;(エローホ=神)    霊:われ   H. イスラーム:霊霊一如    霊:アッラーフ(イラーハ=神)    霊:われ   * 無神論と有神論:《非知》を――なぜなら 因果関係を超えているゆえ それが有るとも無いとも人間には規定できないので 好きにどちらかをえらべばよいから――《無い神》としてえらんだ結果の信仰が 無神論である。《有る神》として非知を受け取る有神論と それはまったく対等で同じ信仰である。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 真理は シンプルです。シンプル・イズ・ベスト。  このたたき台を 言わばコミュニティーに対して かさねて問います。

  • 神とはなんでしょう?

    『自然』や『生命』に『神』を思う人あれば 現象に『運命』や『意志』を感じ『神』を見る人あり 『ラブラスの魔』のごとき『神』を幻想する人もあり 『集合的無意識』の中に『神』を見いだす人もあり 『神』といってもいろいろあります 『神』とはなんでしょう? 有神論の方は『神とは現象に対してどのような存在なのでしょう?』 無神論の方は『人間はなぜ神を幻想してしまうのでしょう?』 という質問として受け取ってください

  • 神 信仰ならびに宗教についての一般理論

     哲学カテが 劣化して来ていませんか。  神とは何かについて 十年一日のごとく ああでもないこうでもないと おままごとを繰り返していませんか。  神は人間がつくったんだとか 全知全能なら何でもできるのではないのかとか いったい全体 よくもそんな落書きを書きなぐって 哲学だと言えるのでしょうか。  人類史上もっとも新しいもっとも妥当な見解を示します。  あらゆる疑問と自由なご批判をフルボッコでどうぞお寄せください。  1. 神は 概念ではないのですが 人間の言葉で・つまり概念として何とか理解しようとひとはつとめます。  2. 概念ではなく経験事象ではないという意味は 次のように図示できるはずです。   (あ) 神は 《非知》である。 ~~~~~~     経験事象       可知         既知         未知       不可知(知り得ないと知ったものごと)     非経験の場(因果関係から自由な場を想定する)       非知 (知り得るか知り得ないかが知り得ないナゾ)       ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  3. この非知ないし非経験の場を・つまり神をひとが心に受け容れた――これが《信じる》ということなのですが――とき われわれ人間の存在のあり方として次のように図示出来るのではないか。   (い) 《信じる》のは 《非思考の庭〔なる動態〕》である ~~~     信じる:《非思考の庭》:信仰なる動態;⇒ヒラメキ直観     --------------------------     考える:《思考の緑野》:理性←→オシエとしての宗教     感じる:《感性の原野》:知覚;直感ヒラメキ     ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  3-1.  《オシエとしての宗教》という意味は まづ一般に成文化されていなくても何らかのオシエがあります。これが 教義となって教祖・教団をともなうなら まさに宗教です。      3-2. 言いかえると オシエは 概念であり想像の世界でもあります。つまり 宗教は 《信じる》とは別の問題であり領域です。宗教の説く《神》は 信じる神とは 別物です。  3-3. もともとは 《信じる》からオシエが得られたとも言えるでしょうが 言葉として教義として成ったなら それは言わば《信仰というセミの抜け殻》になってしまいます。宗教は じつは信仰の自殺行為です。  4. 《信仰》である《非思考の庭》は 実際に具体的に次のようなかたちを採っています。  《梵我一如》というかたちを 一般類型として捉えることが出来ると思います。   (う) 信仰は すべて《梵我一如》類型で捉えることができる ~~~~~   =《非思考の庭》が 次の二層構造を成すと考えられる。   A. ブラフマニズム:梵我一如    梵:ブラフマン・・・・・マクロコスモス。神    我:アートマン・・・・・ミクロコスモス。霊我   B. ゴータマ・ブッダ:無梵無我一如(=無神論)    無梵:空(シューニャター)・ゼロ    無我:アン‐アートマン;ニルワーナ   C. ブディズム:仏仏一如(=有神論)    仏:アミターバ・ブッダ(阿弥陀如来)       / マハーワイローチャナ(大日如来)    仏:タターガタ・ガルバ(如来蔵)・ブッダター(仏性)   D. クリスチアニズム:霊霊一如    霊:神・聖霊    霊:《神の宮なるわれ》   E. (プラトン?):霊霊一如    霊:宇宙霊魂(プシュケー・コスムー) / 世界霊魂(アニマ・ムンディ)    霊:《われ》   F. 《もののあはれを知る》    霊:かみ(自然および超自然)    霊:われ(自然本性)   G. ユダヤイズム:霊霊一如    霊:ヤハヱ―;(エローホ=神)    霊:われ   H. イスラーム:霊霊一如    霊:アッラーフ(イラーハ=神)    霊:われ   ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~   4-1. 神は 名がちがっても みな同じひとつの神である。つまり 《非知》である。  4-2. 非知は 経験事象を超えており因果関係から自由であり 経験的な有無をも超えている。     よって人間の言葉で表わそうとすれば 神は有るとも無いとも言いうる。非知は けっきょく絶対ということですから 絶対有とも絶対無とも言い得ます。  4-3. すなわち 有神論も無神論も まったく同じ《非思考の庭》なる信仰である。と帰結されます。     有神論の中で その神の名が いくつかに分かれるというかたちです。       4-4. なお 多神教だとか汎神論だとかというのは 神の《依り代》がいくつかあると見立てた結果持たれた信仰のかたちです。同じひとつの神が 具体的に山の神や海の神として依り代(または 補助線)になっていると見るとき やほよろづの神々が持たれます。  4-5. むろん 《非知》というのも・そして《神》というのもすべて神を理解しようとして持たれる人間の言葉なのであり それらは・それらもすべて 神の依り代です。《かみ》という言葉は 神そのものではなく 依り代のひとつです。神を知りたいというとき人が自由に引く補助線です。  4-6. 人びとは この補助線(依り代)として臨時に用いる神にかんしてその概念を問題にして 全知全能であるとか いやそのように人間がつくったんだとかと言っています。仮りの理論であると心得ないのなら ちゃんちゃらおかしいと哲学は言わなければなりません。  4-7. 神についてのお医者さんごっこは もうやめにしましょう。さもなければ 哲学の劣化は じつに人間の劣化そのものです。  4-8. なぜなら むかしの人びとは それでもまだ曲がりなりにも素直な心で ほんとうの神――非知なるナゾ――をそれぞれ信じていた〔と言える部分が大きい〕と考えられるからです。信じることはそっちのけであるわ かと言って思考能力はおままごとの状態にとどまるわでは いったい何のかんばせがあって みなさんは 生きているのか。

  • ニーチェは死んだと 神は言った?

    神は死んだとニーチェは言いましたが 今でも神はキリスト教徒の中に息づいています 人間は神じゃないですが、人間は宇宙の一部です。人間の意識は宇宙の意識でもあるのです 人と人の間 人間の繋がりの中に宗教があり神が性質として在る以上 無神論者の考えが尊重されるように有神論者の考えも尊重すべきではないでしょうか? 宗教と一緒に道徳も荒れています 今こそ哲学は神とは何か、そして神を信じる人達を弁護しなければ 思想信条の自由がおびやかされているのではないでしょうか? 私は無宗教の家に育ち、無神論者でしたが、今 神に興味があります。 人間の意識に神がいるのなら この宇宙に神はいるではないですか? 世界では1万という宗教が有り、それに近い神がいますが(多神教もあります) 仏というのも神と似ています。この宇宙の真理を会得したら 神の子 では?ないですか? この宇宙を変えることが出来るのですから。何かを創造することができるのですから。 どうでしょうか? 神をどう思いますか? 神ってどの様な存在でしょうか?

  • 神に意志はあるか

     1. まづ 神は無いという信仰をお持ちのみなさんには むしろ一般論として 神には《人間に対して意志を見せるつもりはない という意志》がある。とお伝えしましょう。  2. ふつうは われという一人の主観の内において〔のみ〕 神はわれにその意志を示すことがある・・・とわが主観が思ったとしても 誰からも後ろ指をさされるということはない。と考えられる。  3. 神とわれとは タテの関係であり われと他のわれとは ヨコの関係である。  4. タテの関係が 信仰とも呼ばれる《非思考の庭》なる動態である。   ヨコの関係は 《思考の緑野と感性の原野》とでマジハリ(交通)をおこなう社会的な人間関係である。  5. ちなみに ヨコの関係なる場に 信仰から脱皮した宗教が棲息している。   宗教は 非思考から思考に移っているので 言わば《信仰という蝉の抜け殻》である。オシヘとは そういうカスである。  6. で要するに 神に意志があると見るのは 非思考の庭なる信仰にあっての話であり その場合のみである。  7. もし 《われ ‐ われ》なるヨコの関係において 神には意志があると成ったとすると たとえそうだとしても 直接の意味は生じない。タテとヨコとは 直接のカカハリを持たない。タテは 非思考なのだから。  8. ヨコの関係において神について話をしてもよいでしょうが それは基本的に神についての感想やまた思想としての話に限られる。 神論や信仰論〔ましてや宗教〕といった搾りカスと 生きた神や生きた信仰とは 別です。  9. つまり 人間どうしのヨコの関係では 神に意志があるとたとえ主観が見ているとしても その神の意志は お呼びではない。   フクシマは 神罰だといった夢物語にしかなりません。  10. それでも――つまり いま述べた話の全部をもってしても それでも――わが主観なる非思考の庭にわが固有の時を憩いながら過ごすとき 神は この世界のすべてのものごとをつうじて われにつねにメールを送って来てくれていると思ったとしても 何の問題もないでしょうね。(読めるか どうかの問題がありますが)。  ご批判を歓迎します。(率直に考えるところにしたがって 応答します。つまり反批判をもおこないます)。

  • 神について

    神について 専門家の方でもどなたでも構いませんのでご意見お願い致します。 有神論者か無神論者かを明記の上、そのような結論に至った理由や考えを詳しくお教え願います。また、何か参考文献等もありましたら教えて下さい。 ちなみに私は、今は無神論者になりかけています。 少し話はそれますが、うつ状態にありまして、色々な悩みや不安など、多くのことを考えていたら樹形図のようにして悩みが増えていき、ついには神の存在にまでたどり着いてしまいました。 とりあえず、何でも良いので神の存在について結論と考察をお願い致します。