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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:《罪》とは何か? 《赦される》とはどういうことか?)

《罪》とは何か? 《赦される》とはどういうことか?

mas-georgeの回答

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回答No.8

これでひとつの完結した話だと思われます。  さて 問いです。  1. ここで何が起こったのでしょう?   A.イエスが女の罪を赦した。  2. 罪とは 何でしょう。   A.人間の思考の産物。決まりを造れば従えない者が出る。  3. 具体的にどんな罪なのでしょう。    ヰキぺによると 《性的不品行にむすびつけられ・・・姦通の女・姦淫の女》のことだ解かれています。  ⇒○ ヰキぺ:罪の女 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%BD%AA%E3%81%AE% …   A.不明。  4. 《姦淫》とは どういうマチガイでしょう?   A.一般的には結婚しない(するつもりのない)男女の性的交わり。邪淫。  5. もし罪だとしてそれが赦されたとしますと あらためて だれが・どのように・何を赦したのでしょう?   A.キリスト教的解釈では、罪は元々ない。なので正確には罪もないから赦すも赦さないもないんだけど、勝手に罪を犯したと思っているので、赦す、という表現にした。  6. ひょっとしてここでは この《罪深い女》は イエスに向き合い話こそひと言もしゃべらなかったようだが 旅人をもてなすようにその足を香油を塗ってきれいにしたりした。そのおこないをつうじて 心のわだかまりは 解けていくことが出来た。――という経過が 起こったことのすべてなのだろうか?   A.預言者であるイエスさんが来る、と聞いたので、自分の罪を赦してもらおうと思い、そういう行動をしたのではないか。愛のある行動を実際にしたので、イエスは「もういいんだよ」という意味でいったのだと思う。  7. あるいはつまり その女は すでにその自己のへそ曲がり具合いとの――おのが心における――和解をひととおり得ていて そのことが イエスとの出会いで 現実となった。のだろうか。   A.大筋その通りでしょう  8. そうだとしても けれども 罪とは何か? 何に対して・誰に対して どういう行為の中身がそうなのか?   それが赦されるとは どういうことか? 誰によって・どのように?      A.前出ですが、聖書では・・・アダムが深い眠りに入った・・・その後の記述で目覚めたと書かれていないので、すべて夢の中のお話。アダムが見た夢の中で起きた出来事は神様は知る芳もない。何が起ころうと夢である。だからどんなことをしてもある意味罪じゃない。(だからって何をしても良いってわけじゃない)赦すもなにもない。神は寝ているアダムの夢の中身を知らない。できるのは「ゆっくり起こすこと」だけ。     9. 何が問題なのか? つまり考えるに どうもすべては ひとりの人間のその心・その主観の内ですべてが起こっているかに見える。すべては 自作自演の物語なのであろうか。そう見てよいのか?   A.そういう見方もある。  10.  ひとは ほかの人とカカワリを持っているのか いないのか。マジワリなどは ないのか? この罪にしろすべては 主観の内なる自己完結することに終わる夢物語であるのか?   A.そういう見方もある。非常に的を突いた良いクエスチヨン。

bragelonne
質問者

お礼

 ます‐ぢょーぢさん こんにちは。ご回答をありがとうございます。  ★ A.イエスが女の罪を赦した。  ☆ だとすると イエスは〔人の罪を赦す〕神か? あるいはつまり逆に言えば 人が人の罪をゆるすことが出来るのか否か? が 差し詰め問われると思います。  ★ 〔罪とは?〕――A.人間の思考の産物。決まりを造れば従えない者が出る。  ☆ 人びとが――その一定の社会において――倫理的な規範を互いに取り決めるということですね。その取り決めに従わない・つまり破るということ これが 罪だというご見解でしょうか。  ★ 〔このルカのしるす罪深い女についての罪は〕――A.不明。  ☆ ごもっともです。具体的には書いてありませんから。  ★ 〔姦淫とは?〕――A.一般的には結婚しない(するつもりのない)男女の性的交わり。邪淫。  ☆ たぶん婚姻(婚約)の外でという条件を言っておられるものと思います。ふつう そのようです。  言いかえると――質問者がいくらか出しゃばりますが―― 連れ合いに対しても自分に対しても婚外の相手に対しても おのれの心をいつわること。特には連れ合いに対して裏切り行為となること。これが 人間のおこなう意志行為としてのマチガイではないかと考えます。    ヘソを曲げ さらにねじ曲げそのひん曲がった心で 元々のすなおな心にさからうなら 家庭はゆがみ延いては社会のすこやかさが失われて行きます。  ――たぶん《邪淫》という見方は 大したことはないものと考えます。そういう見方をすれば へそ曲がりが避けられるとでも思ったのか 社会としては そのように言い習わして来ているようです。《邪淫》と言ったって 誰しもに当てはまり 程度問題だと考えられますから。  あるいはつまり 性的マジワリにかんしては――そもそも人と人との交通(マジワリ)そのものについても 一期一会とも言ったりしてそれぞれの実存的な行為が問われると言わねばならないわけですが―― かんたんに複数の相手と一定の期間としての同時に関係を持つことは その相い対して接する心が分裂してしまうことになる。人どうしのマジワリは 一対一であって その《一》とは おのれの存在ないし人格の全体だということであるから その人格を脱がないことには 同時複数関係は おのれの心を荒んだものにしてしまう。こういったおそれの問題ではないかと考えます。  ★ 〔罪をだれが・どのように・その何を赦すのか?〕――A.キリスト教的解釈では、罪は元々ない。なので正確には罪もないから赦すも赦さないもないんだけど、勝手に罪を犯したと思っているので、赦す、という表現にした。  ☆ 《聖書》にのっとって《罪は 元々ない》にわたしも賛成します。(せいぜい アダムとエワのときに原罪を犯したのが のちにイエス・キリストの十字架上の死をもってする贖いによって 問われなくなったと見るのだと考えます)。  《勝手に罪を犯したと思っている》――これは そうしますと 先ほど考えて来たように もし個人だけの問題ではないとすれば社会として規範を取り決めたのだというその取り決め内容に違反した。というようなことであるかも知れません。他人もそうだと思うような事柄として その人が《勝手に罪を犯したと思う》ようになるのだと考えられますから。  だとしますと イエスは そういった社会の取り決めや個人における心理的なウゴキのあり方そのことを説明してやればよかった。とも考えられます。たぶん 《罪は赦された》という表現を使ったのは 世間のその取り決めやナラワシに従ったのだと見られます。  要するに  (あ) 罪といったコトはない。  (い) 心理的な(心のうわっつらの)ウゴキとして後ろめたい気持ちややましさを感じているところにもとづき 人びとは社会の決まりとして 禁止事項を話し合って決めた。それとしての《つみ》はある。  (う) この取り決めがやがてナラワシとして強固に持たれるようになると その社会秩序の関係からいわゆる上層の経営(政治)担当者たちは そのナラワシを自分たちの統治のための手段として利活用するようになる。  (え) タテマエとホンネ オモテとウラの使い分けによって お偉い方々はこの法律をうまく守ったかたちで生きていくようであるが 生き方の下手な人間は ホンネでもウラでも罪なる行為をおこなっていなくても そのような行為をオモテであたかも犯したというような羽目に落ち入らせられないとも限らない。  (お) そのような落とし穴にはめられると あとは 一たんとしてでも人間は心がねじれるようである。破れかぶれになりやすい。罪を犯してやれとまで考えてしまう。  (か) ルカのしるす《罪深い女》が こういった経緯を経たかどうか知りませんが 一例として考えるに その泥沼から わづかのきっかけを得て 這い上がって来た。とも考えられる。  (き) つまり問題は 常習犯のほうにあります。はっきり言ってそのようだと考えられます。常習犯であっても捕まらない人たちは 自分たちの秩序を保守するために いちど罪を犯した人間を世間の見せしめにして 法律という取り決め自体や取り締まりの強化に走る。  (く) そのことが さらにやがて広く行きわたったナラワシになると 人びとの遺伝子じたいに刷り込まれて来るのかも知れない。すなわち 《罪》などはもともとないのに それを犯す場合ということを取り上げて 人びとの心理をすくませることに成功する。かも知れない。  ・・・・  ★ A.預言者であるイエスさんが来る、と聞いたので、自分の罪を赦してもらおうと思い、そういう行動をしたのではないか。愛のある行動を実際にしたので、イエスは「もういいんだよ」という意味でいったのだと思う。  ☆ なるほど。考えられますね。  ○ 8.9.10.  ☆ 《アダムが深い眠りに入った・・・アダムが見た夢の中で起きた出来事》うんぬんについては 必ずしもよく理解し飲み込めていませんが これらについてのお答えは 留意してさらに問い求めて行きたい。とは思いました。  ★ 〔10.〕――非常に的を突いた良いクエスチヨン。  ☆ ありがとうございます。  ひとつに 聖書に忠実であろうとしつつ しかも哲学として問い求めたい。こういう狙いがありました。  ひとつに けっきょくクリスチャンの人たちからの回答がないということ。これを どう見るか。このあたりについても考える材料が増えたと思っています。

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