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絶対無=不確定性無限 か?

ok9608の回答

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  • ok9608
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回答No.11

スルーしようと思ったのですが P氏のことが引っかかり こちらに 回答しました。 参考になるようでしたら してください。 『人間は 物理学の捉えたモノなる存在に還元されるか』は 現在の物理学では全くできてないと思います。将来の物理学では できるかもしれませんが。理由は 現在の物理学の捉えるモノは抜けが非常に多い構造であり 人は複雑構造だからです。例えば 素粒子と素粒子の関係すら完全に解明できていない状態で 人の素粒子が どのように機能しているのかほとんど手付かずの状態と思います。それでも 何とか物理学の結果を導入し 細胞などの階層別の機能を考えて合理的に 人の機能を考えているのだ と思います。 一連のbさんの質問は p氏の物理学用語を適当に散りばめた主張が理解できらひたなく それでも理解したく 質問になったとものと思います。その代表的な『無限の闇に認識体の仮定断面の運動を想定すれば、相対的に無の風は光になり』あるいは『*全ての存在は、量子的な不確定性=確率波動性に基づいており 無限につめ込むと存在確率の山が平らになって、無と等しくなります。』は 私も理解できないのです。もちろん 理解できない無意味な文章として 放る という処理の仕方もあります。私は かつて P氏の主張を理解するべくP氏の意見を求めましたが 全く理解できるものではありませんでした。 ということで終われば話は進みません。あえて理解しようとすれば 『一個の粒子のシュレーディンガー方程式の波動解をある空間で考えます。するとこの空間内の任意点の粒子の存在確率は波動解の絶対値の二乗で与えられます。空間を十分大きくとれば 任意点の存在確率は限りなくゼロになります。万物は粒子から構成されており 十分大きい空間に多くの粒子を詰め込みます。すると 任意点の存在確率は一個一個の場合の確率の重ね合わせになりますが、ゼロのものを十分多く集めても 任意点の存在確率はゼロである。光子のようにボーズ・アインシュタイン粒子として十分に多数個のゼロを集めても体積はゼロである。これを無限の闇という。この空間のなかで人が認識出来るものを仮定すると それは光のパターンであって 結局認識であるから脳内の出来事であり、人の脳内で決められていることになる。脳内で決められということは 相対的であり適当にである。そのパターンはたとえれば あたかも無風状態から任意状態の風が生まれるようなものである。』と この説明は P氏が言っているものではなく こうでも考えないことには P氏主張は 聴くに耐えない妄想と私はおもうのです。P氏の思考しているところはこんなところと思うのです。光パターンを目より入力して脳内でパターンを認識することを 相対的に適当に決められている と説明したかったのではないか とおもうのです。 ただし、この説明は 物理学ではありませんデタラメもいいところです。一個の粒子のシュレーディンガー解は近似解かと思いますが あとの多数個を扱う以下はこんなことにはなりません。 ここでは出ていませんが P氏主張の前面に出ている粒子観測の基本式としてハイゼンベルグの不確定性原理を引用していますが、間違っており 正確には小沢正直氏の修正式になっております。P氏の主張は正しく物理学を反映していません(不確定性原理を正確に理解して論を進めるならですが)。

bragelonne
質問者

お礼

ok9608 さん こんにちは。ご回答をありがとうございます。  ひとつに追随者がいること それによって同じ議論が延々とつづけられること そして追随される人は やはり延々と同じ議論をつづけているということ。しかも 対話には応じないということ。  ひとつに 中で妥当性のうすい議論がかさねて繰り出されるということは それを見ているこの哲学カテの参加者は 消極的ににしろ その主張内容を認めていると 第三者には見られてしまうおそれがあり これを避けなければならないと思われること。  ちなみに そのような議論のうち社会科学や人文・哲学のこととしては 最近では次のようにわたしも問いかけをおこなって来ています。  ・Q:自己主張ってそんなにわるいことですか?  ・Q:《自己の精神的充足》は 《利己》ではないですか?  ・Q:《自己主張するな》は 自己主張ではないのか?  ・Q:《押し籠もり》についての批判です。  ・Q:日本人の強調性(協調性)は 稲作農耕という経験から来たか  同じ主題の繰り返しがあるのは ひとつの質問はひとつのスレッドにとどめるのがルールだ・だから別建てで問うべしという相手の《主張》に合わせて そうしているものです。  《オシコモリ》については 必ずしもいま話題にしている当人のことではなくても けっきょくおのれの文章や発言について問われたら・問われても答えるという責任を持たないという姿勢――それが オシコモリですが―― これがはびこると あたかも百回や千回繰り返されるウソはホントウのことだと見なされかねないという問題と連動するおそれがある。  そういう主観的な考えからのものです。  そうして 物理学関係のいくつかの《主張》――しかもその《キャンペーン》のごとき――にかんする問題があります。  素養がとぼしいながら 問題として挙げ みなさんに解決・解法を問うています。  かつてのわたしなら 相手が話をしないのなら それは人間以前の状態にある人間だと指摘して もう放っておくのですが たとえば【Q:《行け。淫行の女をめとり 淫行による子らを受け入れよ。》】(ホセア書1:2)といった命題をも受け取って いろいろ考えることがありました。  それよりも何よりも アマテラスお二階さんにまかせてはおかないと言い スサノヲ市民たちによる共同自治(地域主権)なのだと言っているなら 《オシコモリ》にも《半鎖国状態人間》にも声をかけ心をとどけ手を差し伸べざるを得ないとも考えました。  そういった 文脈での一連の質問になっています。  さて ddtddtddt さんが 《恣意的な解釈が入り過ぎだ》と言って批判し nyan_nyanko さんからもどうしても解せないという意味合いのことが述べられ ここに ok9608 さんからさらに詳細な批判が明らかにされました。  質問者のわたしは 素人が整理してみることはおろか 復唱することも いまは控えたほうがよいかと思います。さらにみなさんに問うのみです。その場をつくりました。  質問者のねがうところは この哲学カテがばかにされることのないようにであり ひいては そのような問い求めをつうじて・またその問い求めにおける市民のあいだの対話・話し合いの過程そのものが 日本のためにならんことをです。

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