• ベストアンサー

絶対無=不確定性無限 か?

NemurinekoNyaの回答

回答No.1

こんばんはです。 数学かぶれの人間からすると、 《絶対無》や《不確定性無限》という用語に強い不満を感じてしまいます。 《絶対無》はともかく、  「《不確定無限》とは何だ?!」 とツッコミをいれたくなってしまいます。 「ここでいう《確定》の意味は、そして、《不確定》の意味とは何だ?」 となってしまいます。 これは、ハイゼンベルグの《不確定性原理》に関係しているのでしょうか? 《不確定性原理》とは  Δp・Δx ≧ h みたいな奴です。 運動量の誤差Δpを正確にはかろうとすれば、つまり、Δp→0にすると、  Δx ≧ h/Δp だから、「Δx → ∞」になってしまうみたいなやつなのでしょうか。 だから、それが何。それが《無》とやらとどう関係するの? ただ、Δp→0だとΔxが無限大に発散するということでしかないでしょうに・・・ となってしまいます。 ミンコフスキー空間を使って説明を行っているようですが、 《自我仮説》を主張するのであれば、 そのためには《光速》以上で運動するタキオン粒子をまず見つけてください。 その存在を証明してください、 話はそこからです、 となってしまいます。 でなければ、 「存在しているはずの空間」の存在はあるとも言えませんし、 かりにあったとしても、私たちとはまったく交渉性のない、無関係な存在にすぎません。 私たちは光速度以下の領域にあるのであって、「存在しているはずの空間」から情報を得ることはできないのですから。 タキオン http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BF%E3%82%AD%E3%82%AA%E3%83%B3 ───────── タキオンは超光速で運動する。特殊相対性理論では、タキオンは空間的な (space-like) 四元運動量および虚数の固有時を持つ粒子である。タキオンはエネルギーー運動量グラフの空間的な領域に制限され、亜光速以下の速度で運動することができない。 タキオンに対して、静止質量0で真空中を光速で運動する粒子をルクソン[4]、正の実数の静止質量を持ち(マッシヴであり)どんなに加速しても真空中の光速には達しない粒子をターディオンと呼ぶ[4]。これらの語は、タキオンを議論する文脈においてのみ、タキオンとの対比として用いられる。 特殊相対性理論によれば、通常の物質(ターディオン)はどんなに加速しても光速に達することはない[4]。それに対し、特殊相対性理論に反しないように仮定された超光速粒子であるタキオンは、以下のようなターディオンとは正反対の性質を持つ。 ターディオンはどんなに加速しても光速を越えることはないが、タキオンはどんなに減速しても常に超光速であり光速以下になることはない。また、ターディオンがエネルギーを与えれば与えるほど加速していくのに対して、タキオンはエネルギーを失えば失うほど加速していく。 タキオンのエネルギーと運動量は測定可能な物理量なので実数であることが期待されるが、上の性質を持つならば、その静止質量および固有時は虚数となる。 ターディオンとタキオンが干渉するような現象については、特殊相対性理論の原理である「いかなる慣性系でも物理現象が同じになる」という前提が崩れてしまうため、特殊相対性理論ではタキオンの性質を記述することはできない。もしタキオンが光速より速い信号を送るために使われてきた従来の局所化可能な粒子であるなら、これは特殊相対論の因果律の破れを導く。しかし場の量子論の枠組みでは、タキオンは現実の超光速粒子としてよりもむしろ系の不安定性を意味するものとして理解され、タキオン凝縮を用いて扱われる。そして、そのような不安定性はタキオン場によって記述される。タキオン場は、ボゾン弦理論のような様々な理論内に現れる。現在の広く受け入れられている粒子の概念によると、タキオン粒子は実在するものとして扱うには不安定すぎる[5]。そのため、タキオンによる超光速通信や因果律の破れは場の量子論の枠組みにおいては不可能である。 ───────── なお、量子論でいう《相補性》は ───────── 相補性(そうほせい、英:Complementarity)は、量子力学の基本概念の一つ。1927年にボーアが提唱した。 ハイゼンベルクの不確定性原理により、粒子の位置と運動量は同時に正確に測定することができないことが示されたが、相補性はボーアが、この不確定性原理の解釈を補強するために哲学的に導入した概念である。 相補性によれば、一方を確定すると他方が不確定になるような2つの量は、互いに補い合いあうことにより対象の完全な記述が得られるものとする。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9B%B8%E8%A3%9C%E6%80%A7 ───────── の意味です。 そもそも、人と神とは、量子論でいう《相補性》の関係にはない。 神は物理学的な観測にかからないから、《神さま》!! ☆☆☆☆☆☆ それより、 《実無限》と《可能無限》に関するおもしろいホームページを見つけました。 http://park20.wakwak.com/~ichikawa-clinic/2-real.htm ───────── 「0.999…=1について言えば、0.999・・・と無限に9を増やして行く行為が完結し、9の無限の配列が出来上がったと仮定しているのが実無限だ」 「0.999・・・と9を無限に増やしていくと、最後は1に一致するのかどうか?」 ───────── とは、数学では考えない。 《0.999・・・》は、いわゆる《数》ではないから・・・ これは、 0.999・・・ = 0.9 + 0.09 + 0.009 +・・・ の意味であって、この足し算の収束する値、極限値を意味している。 そして、 この足し算は収束するし、収束した値は1以外ではありえない!! そして、これは、 アルキメデスの公理 ───────── 任意の正の実数a、bに対して、 na > bをみたす自然数nが存在する ───────── などを認めていただければ、証明できます。 これの言わんとするところは、難しくないです。  a = 2、 b = 5 ならば、n = 3とすればいい。(別にn = 4であっても、n = 100であっても構いません)  a = √2、 b = 2ならば、 n = 2とすればよい。 そして、これは常識の範囲内でしょう。 このアルキメデスの公理さえ認めていただければ、 「無限に増やす」なんて言葉は不要!! 有限の範囲内で扱えます。 数学を舐めてもらっては困ります。 ということで、 ε-δ論法 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%83%97%E3%82%B7%E3%83%AD%E3%83%B3-%E3%83%87%E3%83%AB%E3%82%BF%E8%AB%96%E6%B3%95 この歴史的背景だけを読んでください。あとは、純粋に数学の話なので、結構、難しいです。

bragelonne
質問者

お礼

 ねむりねこさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。  まづ数学から。  ◇ ~~~~~~~~~~~~  《0.999・・・》は、いわゆる《数》ではないから・・・  これは、  0.999・・・ = 0.9 + 0.09 + 0.009 +・・・  の意味であって、この足し算の収束する値、極限値を意味している。  そして、  この足し算は収束するし、収束した値は1以外ではありえない!!  ~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ この説明を聞いただけで反応するのですが ここでわたしが あれっ? って思うところは   ◇ 収束する・収束した  というふうに見ているし 扱っているところです。つまり   ○ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~    収束すると――おそらく仮定――しているからには とうぜん収束すると    いうことになる。よって 収束したという状態を得たと言うことが出来る。    それはそれで 話の過程として 納得が行く。    つまり そのおそらく仮定のもとでは 結論として    《0.999・・・》は 《 1以外ではありえない》となるのだと思います。    ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  つまり ほとんど素人が変だなと思うところは まったく単純です。  《 0.999・・・》と《 1 》とは 記号からして違うぢゃないか なのです。  つまりは もし等しいとしてよいとなるなら 《 1 》と書くところを《 0.999・・・》と書いてもよいか? となります。  あるいはつまり ヒトが11人いると言うところを ヒトが 10.999・・・人いますと言ってよいのか? という屁理屈です。  ただただ こういったしょうもない問いにもこたえて欲しいんだけれど・・・という思いを文系人間はいだくと思いますよ。  ◇ 《実無限》と《可能無限》  ☆ これは あさってからの視点を質問者としては持ち出します。  どういうことか?  すなわち 実無限は 可能無限の可能性をかなえてやったときに得られる値だと考えるのですが ただしいかんせん どちらも けっきょくは 経験されうる数なのだと考えられるという意味です。そういう視点です。  ですから 《非経験の場》ないしそれを人間がその心に受け留めたと想定するかたちの《非思考の庭》は 実無限をも可能無限をも超えている。その数論からいっさい自由である。そのどちらの無限にも従わない何ものかである。  つまり そういう絶対であり そういう別の意味での無限であるとなります。神は です。非経験の場としての無限です。    ◇ そもそも、人と神とは、量子論でいう《相補性》の関係にはない。  ☆ ええ。ですから もし仮りに人と神とのあいだに補完関係が成り立っているとしたらそれは 相補性ではありえず ひとつの側からの・つまりは神のほうからの 一方的な補完が成されることを意味する。こういうひとつの議論です。  ▲ タキオンは超光速で運動する。・・・  ☆ この議論についてわたしに分かることは もしこの《超高速で運動するタキオン粒子》が存在するとしたら それは・それも けっきょく経験世界における現象であり 経験世界に属するということです。つまり 想定としての《非経験の場》ではないということが 明らかだと思われることです。  というふうに捉えることが出来るとするならば 《不確定性無限》 これもけっきょく経験世界に属するであろうと見られます。見られますし 他方の《絶対無》は  ◇ 《絶対無》はともかく  ☆ と言われるように けっきょく経験世界には属していない。(精確には 属しているかいないかは人間には分からない となると思います)。  よって 表題に掲げた命題について等号を付しているのは マチガイである。と見てこれを 問うています。

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    問う人: 一つ訊いてもえーか。 「人の道」: 何でも訊いてみい。 ここは質問し答えを出す場所や、なんにも遠慮は要らんのや。 問う人: 無限とは何や。 「人の道」: 有限でないことや。 つまり無限とは限りの無いことや。 無限の対極にあるのが有限や。 つまり有限とは限りのあることや。 問う人: どこに無限はあるんや。 「人の道」: そこらじゅう至る所に無限は有る。 一滴の水の中にも無限はあるんや。 問う人: なぜ一滴の水が無限なんや。 「人の道」: 一滴の水の中に無限の宇宙があるからや。 つまりこれがミクロの宇宙や。 一滴の水の中に高度な文明があるかも知れんのや。 誰もこれを否定することなど出来ん。 問う人: 一滴の水の他にはどこに無限はある。 「人の道」: それは我々が今見ておるこの宇宙や。 わしが手を伸ばす方向にどこまでも進んで行くと考えてみい。 いづれ壁にぶち当たり行き止まるちゅー者もいる、また一周して元に戻るちゅー者もいる。 これらの者は宇宙は有限と思っておるんや。 問う人: 宇宙は有限なんか。 「人の道」: そんなことはない。 宇宙は無限や。 宇宙に限りは無い。 問う人: 宇宙を有限と考えるのはどうしてや。 「人の道」: あのなあ、えーか、 宇宙を有限と考えるのは宗教漬になったアホの考えることや。 問う人: 一滴の水とこの宇宙空間以外にも無限はあるんか。 「人の道」: もちろん有る。 それは我々が認識する時間や。 この宇宙は無限の過去から無限の未来に至るまで永遠なんや。 宇宙には始まりも終わりも無い。 どーや、これで無限が何か判ったか。 問う人: よー判りました。 一滴の水の中にも無限は有る、宇宙に限りは無く、宇宙は無限や。 「人の道」: 無限が理解できんとどーなるかも判ったか。 問う人: はい、判りました。 宗教漬になると宇宙は有限であり、何時いつ始まったとかアホなこと言い出すよーになる。 「人の道」: 宇宙は無限に満ちており、この世界には始まりも終わりも無い。 もしこの考えが何かおかしいと思うんやったら皆にも訊いてみるとえー。 問う人: 宇宙は無限に満ちており、この世界には始まりも終わりも無いちゅーこと、皆はどー思うか聞かしてくれ。    

  • 生前の絶対無と死後の相対無

    自己の誕生を他者達が認識した「後」には、【自己の生前の無】が認識され得ますが、その『無』は【誕生後の有】との比較に依存していますので、『相対無』に属しているのだろう、と思われます。 そして、自己の死後にも、自己の死を他者達が生存との比較によって認識していかざるを得ませんので、その【死】さえもが『相対無』として認識され続けさせられるのでしょう。 従いまして、他者達からの認識に囚われ続けていますと、『誕生によって比較され得ない頃の【絶対無】』へと還元され得ないだろう、と考えました。 でも、そうしますと、朱熹の考えとの齟齬を来たすのではないか、という疑問が浮かんできたものですから、教えて下さい。 「【無極(自己の絶対無)】と【太極(自己の相対無)】とは、『他者達による認識の前』から一体化されていたのでしょうか?」